絶望的な経験から何を学んだのか?

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最初に、、、
長くなります。
そして、闇深いです。
読まないことをおすすめします。

 

â‘ 
僕、小学生の頃、いや保育園児の頃からずーーーーーーーーーーーーーっと忘れ物、無くし物、落し物が絶えない。メモ帳に「持っていくもの」を箇条書きで書き出しても、その書き出す時点で忘れること多いから、やっても効果なし。
んで考えたのが、そもそも「どんな時に忘れ物、無くし物、落し物するのかな」って。

んで出た結論

「そもそも創造性が高くて、色々なことを瞬時に考えられるから」

常に色んなこと考えてるから、脳の引き出しが多い。しかし、その分「メガネ」とか「手袋」とか、日常の小さなことはどうしても取りこぼしやすくなってしまう。と言うかそもそも考えることに集中してて、小物は頭に入らなくなる、って事なのだと思う。

â‘¡
後、母親に散々足引っ張られてるような気がする。
これ僕の被害妄想なら、まだいいんだけどね。
今日、「着物の教室を月謝払って通ってる」ことを伝えたら、

「月謝を払う前に生活費を払え」

と言われた。
バイオリン教室通い始めたこと言ったら、更にギャーギャー言ってくるんだろうなと改めて感じた。
それにしても、自分の収入が低いのを、自分の息子で補おうとするのは、大問題であると僕は思う。
そのお金を僕は自分の勉強や習い事などの自己研鑽に使いたいのに。
そもそも、「実家暮らしなら生活費を払う」と言う前提がおかしい。毎月生活費を払っても、結局は受け取る側もその場しのぎになるから、双方の利にならない。いつまでたってもお金の問題は解決しない。つまり、収入が低いことが問題であって、収入を上げる工夫をしないと、このお金の問題は自分の生が終わるまで、永久的に続く。よって、生活費を納めないというのが根本的な問題なのではない。

以前母親が
「生活費を納めるのは、巡り巡ってともくん(僕)の得になる。独り立ちする第1歩になるから。」
と言っていた。
要はそれって、自分が生活費が欲しいだけだよねと思った。
僕のお金の使い方に口を出してくるので、「お母さんは収支の予算立ててるんだよね?それだけ言うということは。どういう予算立ててるの?」と聞いたら、「何であんたにそんなこと言わなきゃいけないんだよ!」と激怒してた。考えてみればおかしな話で、そうやって怒って話をはぐらかすってことは、自分が立ててないか、知られたくない使い方をしてるのか、お金の話は汚いからしては他人とお金の話をしてはならないと思い込んでるのか。

まぁこう言うことも、反面教師にできる、という点では利点である。僕に子供が出来たら、自分の親みたいな事はしたくないし、自分のお金の責任も自分で持つ。これは今もだけど。一度結婚して、クレカ過剰使用し、今返済してる。苦労したし、現時点でもしてる。けど、そこから学んだのは、最終的にお金の面で頼れるのは自分の資産だ。勿論、その資産というのは、お金であったり、今まで勉強して培ってきた知識だったり、身体能力だったりする。いざと言う時、本当にどん底に落ちても、知識と体力、自己を向上させる習慣が自分にあれば、それらが自分を守ってくれるし、救ってくれる。そういう意味では、自分を救うのは自分である。このような事を、僕は、深く刺さるほど学んだ。なので、僕は以前塾で5科目を勉強して、教えて良かったと、心の底から思っている。

ということから、僕は他人に期待を一切していない。他人に期待した時点で、泥沼に足を突っ込みかけてるから。それに、無駄に他人に絶望を感じて、ストレスをためることになる。

そんなこんなで、結構吐き出しました。
不快だった方は、非表示、ブロックしていただいて構いません。

 

 

https://m.youtube.com/watch?v=WyK2zoCpMtU

https://m.youtube.com/watch?v=74oPN0ViqKk&pp=ygUMRGFpR28g5qyg54K5

誰のための「民主主義」?

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最近、エマニュエル・トッド氏の『我々はどこから来て、今どこにいるのか』という本の朗読を、Audibleで聞いている。僕が今まであまり考えてこなかった「民主主義」について、改めて見てみるいい機会になった。

民主主義について、僕は限界が来ていると思っている。この本でも、みんなが「民主主義」と言っているのに、実際の中身は違う、みたいなことが色々な視点て書かれている。その中でも、今のところ、特に印象に残っているのが、「教育」「人種」「家族」である。

民主主義を、この人は少なくとも3つ以上の視点で迫っているのだ。皆さんは、どう思うだろうか?

僕の中だと、民主主義というのはもう既に崩壊している。一応、辞書で調べてみた。

 


民主主義とは、自由と平等を元に、国民一人一人に権力を持たせること、を言うのだそうだ。

 


これを見て、「え、ってことは、リーダー決まらんやん。」という思いに駆られた。みんなに権限を持たせるということは、平等になり、下手したら足を引っ張りあうことも考えられる。また、この定義とはちょっと逸れていることも起こっている。それが、間接民主制、と言うやつだ。国民によって国民の代表者が選ばれ、その人たちが国を動かす、というものだ。これは、民主主義から少しだけ逸脱するだろう。平等に選ぶ権利はあるが、国を動かす権利は、平等では無いのだ。勿論、この考察は専門家から見たら間違っている可能性もあると思う。

 


この民主主義、人口の年齢の比率が偏った時点で、崩壊すると、僕は考えている。同じ比率なら、成立するだろう。ところが、仮に全体の100人のうち、高齢者(70歳以上)3〜5割ほどになったとすると、高齢者の意見がどうしても多数派になってしまうため、それよりも下の代の人達の意見が反映されにくくなってしまう。つまり、民主主義というのは、あらゆる要素を等しい値になるように調整しないと、成立しない概念では無いだろうか。しかし、実際問題そんなことは有り得ないので、「回り続けている」この世界では、もはや無意味だろう。

大体考えてもみて欲しい。「みんな同じだよね」とか言いながら、就職で学歴を見たり、学校に特別学級なるものを作ったり。矛盾のオンパレードだ。塾では学力順にクラスが編成されていたり。

これに加えて、TESLAやBYD、Amazon、Google、Appleなど、民主主義とは疑わしい国の、ある1人ないしは2人が発端となって巨大な企業に成長した、なんてこともある。

もはや、民主主義なんて、言ってる場合ではないように思える。

 


しかし、何故民主主義ができたのだろう?

当時の人々は、何を考えていたのだろう?

これから僕たちは発展するために、とゆな方策を取るのだろう?

疑問は絶えない。

何が「友人関係」に影響を与えているのか?

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友人って本当に重要なのだが、ココ最近は、ポイントがあるのではないかと思っている。これは、今日友達と話したことで分かったことだ。今回はそれを書いていこう。

 


「友達と仲良くなろう。」

「友達いると人生幸せだよ。」

 


そりゃあ結構だ。

友人の存在は大切だ。とは言え、全ての人と仲良くなることができない。

ここまでなら、みなさん分かるだろう。

 


では、何故、全ての人と仲良くなることができないのだろうか?

人数が多すぎてそもそも、みたいな意見が出そうだが、ここである理論を紹介しよう。ダンバー数だ。これは、イギリスの進化人類学者であるロビン・ダンバー氏が提唱した概念だ。彼の理論によれば、我々人類の脳の構造により、処理できる人数は150人が限度なのだとか。勿論、個人差はあるだろうが、「人間関係の処理には限界があるよ!」ということだろう。あんまりしっくり来ないなら、マッチングアプリで、自分に次々と「いいね!」が来て、処理に追われている場面を想像してみよう。ゾッとすることだろう。また、複数人との会話に追われてるのも、背筋が凍るような思いがするかもしれない。

が、このダンバー数にも反証というのが出ていて、ある記事によると、ストックホルムの教授が、「人間1人が気づける人間関係は、2人〜520人」ということらしい。

 


とは言え、これはどのくらいの期間を指すのだろうか?どこからが「人間関係を築く」という定義に当てはまるのだろうか?逆に1人しか築けない場合はどのような場合なのだろうか?年齢層にはどのくらいの違いが現れるのだろうか?

 


次々と疑問が出てくる。

 


僕の見解はこうである。

どのくらい自分と同じテンポで話せるかどうか、だ。これは、今日友人とも話し合ったことだが、結局自分と同じレベルの人と付き合いたがるのが人間、ということだ。どのくらいの頭の回転で、相手とその回転の速さがいくつ近いのか、とかである。理由は言わなくても分かるだろう。チェスが趣味の人と、漫画を読むのが趣味の人とでは、話が合わないことが想像できる。1〜5のことを考える時、1▶︎2▶︎3▶︎4▶︎5と1つずつ考える人もいれば、1▶︎3▶︎5の人もいるし、1▶︎5と一気に考える人もいるだろう。そのスピードに齟齬が生じていると、人間関係は破綻する確率が高くなるのではないか。

 


上記を引っ括めて結論を出すとしたら、「友人は人数ではないよ!」ということであろう。

恋愛と結婚の位置付けは、何だろう?

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さて、結婚というのは不思議なもので、何故そこまで多くの人を魅了するのだろうか?僕は結婚して離婚して、今はパートナーはいないが、つくづく不思議に思う。結婚を一種の「有利な社会的身分」と思っているのだろうか?結婚はそもそも手続き、つまり契約であり、そこの手続き自体に感情はそこまで伴わない。

僕自身、結婚に対する意義というのを、今のところ見出せていない。昨日お風呂や寝る前に考えては見たものの、答えは未だに出ない。考えて見た結果として出てきたのは、「結婚は人生を共に過ごすパートナーと正式な契約を交わすもので、恋愛の最初の2〜3年ほどは、関係を深める準備期間である」という考えだった。とは言え、これは結婚の時間距離的な位置づけであり、結婚そのものの解釈ではない。結婚そのものには、どのような作用を、結婚前も含めて、人間に及ぼすのだろうか?一体全体、他の人は、どこまで結婚を掘り下げて考えているのだろうか?とても不思議である。

 


僕自身は、結婚したら、「2人でスポーツして、読書して、勉強したい」と思っている。では、恋愛となると、「2人で旅行やスポーツ、読書など、幅広い経験をしたい」と思っている。僕自身、そこに重きを置いているからだ。結婚にら、2人での旅行や新たな経験がない。どこに行ったのだろうか?そう考えると、結婚と恋愛は僕の中では違うものだ、と思ったのだ。結婚だと、もう少し実用的な面でも考えているのかもしれない。では、「長い人生のかけがえのないパートナーと共に2人で、新しい経験を積む」とは、僕にとってはどのような意味なのだろうか?礎は、恋愛時に築いているとすれば、旅行は結婚時において、どのようなことを意味するのだろうか?いやはや、分からないことが多い。だからこそ、「試したい」「知りたい」という知的好奇心が、奥にはあるのかもしれない。僕の中での愛情表現は、知的好奇心がその一つである、と仮定すると、しっくりくる。恋愛で築いたものを本格的にするのが、結婚なのかもしれない。

何が「学ぶこと」の意義なんだろう?

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今回は、僕がふだんやっている「テニス」から考察したことを述べていく。だが、スッキリしている文章では無いかもしれない。頭に浮かんだ思考をそのまま書いてるからだ。書いたものの全体を見渡して、共通点としては「学ぶこと」にあると思う。なので、このようなタイトルになった。

他にも、僕達には無縁と思われる、航空機事故から学べることを書いてみた。素人ではあるが、是非読んでもらいたい。

それではどうぞ。

 

○どうやってテニスを身につけるのか?

 

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僕はテニスでサーブを打つ時、色々な打ち方を試す。大半は人のを見て、自分なりに真似をする。例えば、鈴木貴男元プロテニス選手のサーブの打ち方だ。彼は、「ステップイン」という足の動かし方でサーブを打つ。これはどういう打ち方かと言うと、トスを上げると同時に、左足から1歩前に出る。そして、その前に行く力を利用して、サーブを打つ、というやり方だ。彼はそれを、ジュニア時代に身につけたらしい。僕も早速取り入れてみた。やってみた感想としては、ボールがネットを超えて入りやすい。左足から1歩歩きながら前に打つと、フォルトする確率がグッと下がるので、今でも使っている。

僕がこのようにする理由は、テニスのプレーについて、よく分からないからだ。知らないからだ。

知らないし、素人だからこそ、色んな打ち方やプレーの仕方を試していて、その感触を味わっている。

ところで、僕がテニスをしていて、ココ最近思うことがある。それは、

 

「マインドフルになること」

 

だ。

 


どういうことかと言うと、色々な形があるが、そのような型に囚われず、打つことに集中するのだ。これがかなり大切だ。何故かと言うと、「このようなやり方でこうやって、手の動きはこうで…」なんて考えていくと、動きがぎこちなくなり、普段通りに打てないのだ。なので、まずは目の前のボールを一球一球打つ、ということに重点を置くと良いと思う。

 

しかし、ここで疑問というか反論が生じる。

 

正しいフォームで打たないと、そもそも打ち合いにならないのでは無いか?

もっと突っ込むと、如何にして「正しい動作をしないと!」と焦らずに、正しい打ち方を身につけるのだろうか?

 

そもそも何故、「『正しい打ち方を身につけなきゃ』と焦ること」に対して、反論を唱えたいのだろうか?

頭で考えることは非常に多い。

僕が参考にしているのは、「スイス式勉強法」という方法だ。YouTubeにも出ているので是非見て欲しい。かいつまんで説明すると、最初に教わるより、まず独学で実践し、それから習う方が長期的に見て、遥かに身につく、というものだ。これは、どんなものにも当てはまるのだと言う。人間は、失敗することを強く記憶する仕組みを、脳に持っている。古代、「失敗」というのは、「死」を意味している。種族を生き残らせるためには、失敗から次の解決策を探り出すことだ。そのため、失敗に注目するように進化した。僕が主張したいのはこうだ。最初に敢えて自分から失敗し続けることで、脳が解決策を模索し続け、徐々に型が身についていく。なので、正しい形を最初から身につけるのではなく、失敗を繰り返し、そこから考えてまた実践する、この繰り返しでいつの間にか「できている」という状態を作る、というものだ。

実際の僕のテニスがそうだ。初めて2年半ほど経つが、最初は殆ど上手くいかず、ネットにかけたり、ラケットに当たらなかったり、線を越えてアウトしたり、と散々失敗してきた。今もそうなのだけど(笑)。失敗する環境は非常に大事で、それを受け入れて咎めないのも大切だ。心理というものは、みんなが想像している以上に、根を張っているのだ。

 


○航空機事故から何を学ぶのか?

 

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ここで、とある航空機事故を紹介したい。

アトラス航空3591便(写真と同型の機種)は、Amazonの貨物便だ。この便はマイアミからヒューストンに向かっていた。着陸に向けて順調に降下していたのだが、突如急降下して、目的地であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に程近い、トリニティ湾という湿地帯に墜落した。乗員は3名だったのだが、全員が死亡した。アメリカの国家運輸安全委員会(NTSB)の調査によると、

 

・ボーイング767(貨物の航空機に改造していた)の操縦席にある減速用のレバーと、着陸やり直し用のスイッチが近く、誤って副操縦士が押してしまったこと

・副操縦士の状況認識力が著しく低く、非常時での問題解決能力に欠けていたことによる、不適切な対応

 


が原因だったのだという。

 

これを見て思ったのだが、航空機事故の調査では、色々な視点から質問を次々として、仮説を作り、選択肢を一つ一つ潰しながら原因に辿り着く、ことって、非常に大事では無いだろうか?

僕は航空機の事故調査をやったことは無いのだが、実際には高度な知識というのが必要らしい。しかも、原因は1つではなく複数あり、それらがある形式で連動した時に、起こるものだと痛感する。調査員の中では、商業パイロット出身だったり、軍のパイロットをしていた人も見受けられる。

 


それにしても、

 


・何故副操縦士は航空機の操縦能力が低いにも関わらず、航空機を操縦することにこだわったのだろうか?

・人間の能力とはどうやって決まるものなのだろう?

・どのような状況によって、能力は変動するのだろう?

・そもそも、人間の能力とは何種類あるのだろう?

・「人間の能力」の定義とは、一体何なのだろう?

 


素人ながら、いくつも疑問が出てくる。

実際、航空機の操縦に求められるのは、英語、数学、航空力学、物理学、機械工学、会話力、聞き取る力、問題解決能力、強いメンタル(神経症的傾向)、心理バイアスの知識、では無いだろうか?

そのように考えると、僕は如何に物事を知らないか、というのが身に染みて分かる。疑問を沢山持つのだが、その答えはほとんど分からず、推測の域を出ないのだ。鈴木祐というサイエンスライターの本に「私たちはもっと自信を無くした方がいい」「知的謙虚さが大事」ということが書いてあった。確かに、井の中の蛙大海を知らず、葦の髄から天井を覗く、夜郎自大、夏の虫氷を笑う、みたいな状態の人はいるのかもしれない。僕はそんな人に会ったことは無いが、そんな人が仮に僕の目の前にいたとしたら、とんでもなく迷惑なのだろう。

 


このようなことから、僕はこの知的謙虚さをもっと高めたい。

「論理的」って何を意味するんだろう?

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最近、論理学の本を読んでいるが、パズルみたいで本当に奥深い。例えば、印象に残っているものが、推論と推測の違い。これも、同じような意味で使ってたけど、論理学だと実際は違うらしい。というのも、論理的に結論を出すのが推論。一方で、経験や自分の持っている知識、常識から恐らくこうだろうと結論を出すのが推測、なのだと言う。例をあげよう。

 


例①

店Aと店Bがあり、両方とも同じ商品Xを売ってるとする。同じ商品にもかかわらず、店Aではそんなに売れず、店Bではかなり売れていると言う。両者の違いは何かと言うと、店Aでは、商品Xを店の奥の棚に置いていて、店Bでは商品Xを店の入口の付近に置いているという。このことから、店Aで商品Xが売れない原因は、奥の棚に置いているからである。

 


例②

ある女の子は、店Qか店Zのどちらかにいつも買い物に行く。その時、必ず商品Wと共に商品Yを買うのだという。ある日、その女の子は商品Wを手に提げて帰ってきたが、店Qには行かなかったと言う。このことから、女の子は、店Zに行き、商品Wを買ったことが分かる。

 


この時、どちらが推論でどちらが推測なのだろうか。答えは、①が推測、②が推論だ。理由としては、①については、商品が売れないのは、必ずしも配置の場所とは言えないというのがポイント。一方で、②については、疑いの余地がない。つまり、その女の子が2つの店のどちらかに行き、商品Wを買ったが、片方の店に行かなかったのであれば、もう片方に行くしかない。

 


このような違いを見た時、僕はワクワクした。

 


「パズルやん!」

 


僕は、このようなパズルが大好きで、数学なんかやると、本当にテンションが上がる。

 


このようなのを、「演繹的推論」と呼ぶのだそうだ。名前は聞いたことあるが、改めて問われると、全然知らなかった。前提が正しい場合、出てくる結論も正しいものでなければならない、というのが、論理学の基本なのだとか。

 


では、改めて問うのだが、

「論理的」とはどんな人のことを言うのだろう?「論理的」たらしめる要素とは、何があるのだろう?

何故人々は、論理的か非論理的かで分けるのだろう?

演繹的推論が正しい前提から正しい結論を導き出すのであれば、帰納的推論は一体どのように思考するのだろう?

 


皆さんは、言葉で、説明できるだろうか?

 


ここからは僕の推測なのだが、演繹的思考では正しくて新しい知識を、習得し続けることが非常に大事なのではないだろうか?正しい知識なくして、正しい論証は出来ないからである。が故に、数学の演繹的な思考は非常に重要なものになる。数学は、正しいとされている公式を使って、答えを導き出すからだ。

 


まだ勉強を始めたばかりだが、集合の概念を使って小説を見ていくのは、実に面白い。その小説の要素が分かるし、誰が中心人物なのか、というのも分かる。さらに、後のページで要素が追加されていく楽しみもある。

 


これからも、もっとノートに書いて勉強していきたい。

【書評】僕らの時間は何によって奪われているのだろうか?『モモ』

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僕はかなり前に、この本の書評を書いたことがある。もしくは、動画でこの本の面白いところを紹介したことがあると記憶している。しかし、それは1〜2年ほど前の話。なので、今回、改めて書評を書こうと思う。本書は、今も人々の「話題」である、時間に関する本だ。と言っても、時間術の類ではなく、小説なのだ。他の本では、18世紀頃から産業革命が始まり、その頃から「時間」が管理されるようになった、と解説されている。それから200年近く経ち、この風刺小説が出てきたのだ。遅いというのか第1感覚だが、それは「今まで一方的に管理されたが故に時間に追われ、考えることすらしてこなかった」ということの裏返しなのだろう。そんな本書を見ていく。

 


何と言っても、今の時代を忠実に風刺している点が面白い。しかも切れ味抜群である。例えば、「『時間』を『貯金』しておけば、時間が増えるよ」とか、「時間を預けた結果、ファストフード店を営んでいる時で次々とお客が流れ込み、対応に追われている主人公モモの友人」とか、「子供たちの遊びを一方的に決め、今役に立たないと思ったものは容赦なく切り捨てる」とか、これでもかと言うくらい刺している。よく見てみると、のんびりカフェで一人でコーヒーを飲みゆっくりくつろいでいる人をあまり見かけない。どちらかと言うと、せかせかと仕事をしている。一種の予言書のようだとも思えるふしがある。

 


また、「時間どろぼう」を擬人化している点だ。それにより、一層物語性を引き立てている。実の所、この物語と現実の違いはここにある。現実の世界だと、「時間泥棒」は自分自身だ。それを選択しているのは自分で、切り捨てるのも最終的には自分だ。今はなくても5分でも考える時間を自分からとることで、落ち着くことも出来る。自分の時間は自分で確保することが、最も時間を増やすことなのだ。しかし、このように擬人化することで、「何か外部的なものせいにしたい」という人間の欲求が現れているようにも見える。つまり、正当化したい。確かに、「時間が無い」と言っている割には、ずーっとスマホで意味の無いことを調べていたり(本人は「意味がある」と思っていても、現実逃避のためにそれを外部に委ねている場合がある)、ニュースを見ながら家事をしたりと、自滅するような行動を取っているのだ。それを、見事に表している。

 


このように考えていくと、筆者であるミヒャエル・エンデは、どうやってこの物語を思いついたのだろう?「物語を練る」という過程に、何があったのだろうか?その筆者自身、どのくらい時間に追われていたのだろうか?「モモ」と言う名前の由来はどこにあるのだろう?疑問が尽きない。

 


今回の本から思うことは、「複数のことを同時にやっている人」の違いだ。長期的な見通しを持ってやっている人と、ただ単に複数のことを同時にやっていることの違い、である。

 


是非、哲学書の1つとして、読んで頂きたい。

 


参考文献

ミヒャエル・エンデ(1973)『モモ』 大島かおり(訳) 岩波書店(2005〜2025)