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1982年、SF映画が世界を変えた夏

『ブレードランナー』『遊星からの物体X』『コナン・ザ・グレート』『トロン』『マッドマックス2』『スタートレックⅡ』『ポルターガイスト』そして『E.T.』。この8本の映画が公開された82年は、映画産業とSFの歴史を永遠に変えた瞬間でもあった。
クリス・ナシャワティ著『The Future Was Now』は1982年の数本の映画がブロックバスター時代への道を切り開いたと主張している。
クリス・ナシャワティ著『The Future Was Now』は1982年の数本の映画がブロックバスター時代への道を切り開いたと主張している。Illustration: La Boca

帰り道の目印とするために落としたピーナツバター・キャンディ。頭の切断された巨大なヘビ。ミスター・スポックの高貴な顔と木の樹皮のように剥がれ落ちるその皮。道路上空をホバリングするパトロールカー。スイミングプールに浮かぶ骸骨。熱線で触れると音を上げて跳ねるシャーレ内の血。レーザーを浴びて仮想世界へと送り込まれた男。缶詰のドッグフードを食べる男。「1982年」と聞くと、わたしはそうしたばかばかしいことを思い出す。

高尚な精神をもち合わせるほかの人々は、この年に起こった重大な出来事として、イスラエルによるレバノン侵攻を思い出すだろう。また、アルゼンチンがフォークランド諸島を侵略し、ユーリ・アンドロポフがレオニード・ブレジネフに代わってソビエト連邦共産党書記長に就任したのも82年だ。もう笑うしかない。だがなぜか、作家で編集者のクリス・ナシャワティは新著『The Future Was Now』[未邦訳]で1982年をテーマにしているにもかかわらず、そうした重大事件には目もくれない。『TIME』誌がその年の「マン・オブ・ザ・イヤー」にコンピューターを選んだことにも触れない。このあたりの変化は彼が扱ってもおかしくないはずなのに、ナシャワティの関心は映画だけに向けられる。それも、82年の夏に公開された8本の映画と、そこで用いられたモノだ。

実際、それはすごいモノばかりだった! ナシャワティによると、ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』では特殊効果をスムーズにするために「5ガロン容量のバケツ何杯分もの潤滑ローション」が必要だったそうだ。俳優のルトガー・ハウアーは『ブレードランナー』の監督リドリー・スコットに会いに行ったとき、ピンク色のシルクのパンツと「肩にかけたキツネの毛皮」を見せびらかした。権力争いだけが歴史ではないのである。各自が関心を寄せる些事もまた歴史なのだ。

『ブレードランナー』と『遊星からの物体X』はどちらも82年6月25日に公開され、興行成績は思わしくなかったが、ナシャワティは影響力の最も長続きする8本の映画に選んだ。それは、ジョン・ミリアスが監督、ジョン・ミリアスとオリヴァー・ストーンが脚本、アーノルド・シュワルツェネッガーが主演の『コナン・ザ・グレート』、スティーブン・リズバーガー監督作で、ディズニーにとって輝かしい成功の道となった『トロン』、ジョージ・ミラー監督の『マッドマックス2』、『スタートレック』第1作目の衝撃的な低調さを挽回することを使命としていたニコラス・メイヤー監督作『スタートレックⅡ カーンの逆襲』、スティーヴン・スピルバーグが製作および脚本に深く関わっていたが、名目上はトビー・フーパーが監督を務めた『ポルターガイスト』、そして全世界でおよそ8億ドルの興行収入を記録した素敵な映画『E.T.』だ。『E.T.』を監督したのは、名実ともにスピルバーグである。

では、この8本の何が特別なのだろうか? ナシャワティはいたって真剣に、次のように主張している。

5月16日から7月9日までの8週間、ハリウッドの大手スタジオは、その後40年以上にわたりポップカルチャーの要石となるだけでなく、映画業界のビジネスのやり方そのものを根本的に変革し、現在の大ブロックバスター時代への道を切り開いた8本のSF・ファンタジー映画を公開することになる。

かなり強気な主張だ。ナシャワティは、その結果には満足していないようで、「黄金時代を迎えるはずだったSFとファンタジー映画はポップカルチャーの獣となって自らを食らいつくし、観客を幼稚化させた」と述べているが、同時に、わたしたちのほとんどにとって、映画館に行くことは「終わりのない夏」となり、これはその言葉の響きほど明るい話ではないと示唆した。好きか嫌いかに関係なく、わたしたちはコナン・ザ・グレート的な世界に生きているのである。

82年が特別な年であるという主張を受け入れるかどうかに関わりなく、その特別さの兆しが現れ始めたのがいつだったのかを問うことには意味があるだろう。ナシャワティは予言能力を駆使して、本当に適切な年代を特定したのだろうか? 注目すべきは、彼がスピルバーグの『ジョーズ』(75年5月公開)とジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(77年6月公開)だけでなく、もうひとつの夏のヒット作、79年のリドリー・スコットの『エイリアン』にも詳しく言及している点だろう。『スター・ウォーズ』が消毒剤なら、『エイリアン』は解毒剤のような作品だ(わたしにはいまだにこの2作品の両方を同じ程度に好きになれる理由がわからない。わたしに言わせれば、どちらか一方を選び、それだけに固執するような組み合わせだ)。この3作に、ルーカスとスピルバーグ両名の特徴を併せもつ『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81年)を加えた4本の映画のほうが、その後のスクリーン上で炎に包まれ、地面を這いつくばってきた数多くの作品のテンプレートだとわたしには思える。

そう考えると、ナシャワティが『The Future Was Now』で挙げた8作品をつくった人々がやったことは、壁を突き破ったり、新たなトレンドを生んだりすることではなかったと言える。彼らは金儲けをした。これは卑しい才能でもなければ、簡単なことでもない。ある意味、映画業界の存在意義ですらある。しかし、フーパー、リスバーガー、メイヤーといった監督たちが結託して因習を破壊しようとしていたなどとは考えないほうがいい。82年の監督たちは、前の10年の監督たちに比べれば何者でもなかった。さらに言えば、ピーター・ビスキンドが70年代について詳しく調査した著書『Easy Riders, Raging Bulls』[未邦訳]で挙げている、マーティン・スコセッシ、ポール・シュレイダー、ウォーレン・ベイティ、ボブ・ラフェルソン、ピーター・ボグダノヴィッチらより優れていたわけでもない。

同様に、モネが「誰もがこれを評価しているがマネだけはしていない」と伝えるために1873年4月にピサロに接触したのと同じような意味で、『トロン』の監督が『カーンの逆襲』の監督に接触したという説も、わたしには疑わしく思える。モネの場合、「誰もが」はルノワール、スザンヌ、シスレー、ドガ、モリゾのことであり、「これ」は、当初軽蔑され、のちに印象派として知られることになる作品群の最初の展覧会のことを指していた。彼ら画家にとっては、未来はいまだった。彼らは「オンプレネール(戸外制作)」でそのことを察知し、そしてキャッチした。

あやわ大失敗の映画タイトル

『The Future Was Now』には、演出可能な脚本を完成させるまでの興味深くて実用的でもある苦悩の記録や、その脚本に実際に命を吹き込む際の苦労など、具体的な情報が詰まっている。例えば、映画のタイトルの変遷は、あわや大失敗の実例に事欠かない。

スコットは「アンドロイド」、「メカニズモ」、あるいは恐ろしく退屈な「デンジャラス・デイズ」などの過程をへて、最後に印象深い『ブレードランナー』にたどり着いた。『E.T.』は、「E.T.」になる前が「E.T.・アンド・ミー」、その前が「ナイト・スカイ」、その前は「ウォッチ・ザ・スカイ」だったことは、わたしも知っていた。ちなみに、『未知との遭遇』(77年)も、はじめは「ウォッチ・ザ・スカイ」と呼ばれていた。だが『The Future Was Now』を読むまで、『E.T.』の最初の脚本を書いたのがジョン・セイルズで、そこには5体のエイリアンが登場し、そのうちの1体であるスカーが牛に危害を加えることは知らなかった。ナシャワティによると、スカーは「長くて骨張った指で触れるだけで動物を殺せた」そうだ。だがスピルバーグの指揮下で、クライマックスのシーンにおいて伸ばしたその長い指が、本作の主人公であるエリオット少年の額に触れることになったのである。

同じように、あとあと振り返ってみると、キャスティングも一斉に放たれた弾丸のすべてをかわすかのように、厄介な問題だった。たいていは、空き状況、出演料、運などのミックスを克服して、適した俳優が適した役割を演じたのだが、どんな障害があったかを知ると、驚きを隠せない。例えば、『ブレードランナー』の主人公であるデッカード(ハリソン・フォード)はレプリカントと呼ばれる、人間とほぼ見分けがつかない人造人間を見つけることが仕事だ。ナシャワティは、その役にトミー・リー・ジョーンズ、ニック・ノルテ、マーティン・シーン、ピーター・フォークだけでなく──彼らなら役柄に必要とされたぶっきらぼうさでフォードと互角だったかもしれない──、アル・パチーノ、バート・レイノルズ、それどころかダスティン・ホフマンまで検討されていたと報告している。映画の公開から40年以上が経ついまも、本当はデッカードもレプリカントではないのか、という議論が続けられているが、もしホフマンが演じていたら、答えはレプリカントで間違いなかっただろう(ホフマンが「わたしなら最高のレプリカントになれる。わたしほどヒューマノイドっぽい俳優はほかにいない」と主張するオーディション風景が目に浮かぶ)。公平に言えば、逆に同じく82年のクリスマス時期に公開された『トッツィー』でホフマンが着た深紅のきらびやかなロングドレスを身にまとうフォードなど、想像すらできない。

『トッツィー』は重要な作品だ。なぜなら同作は、別れの挨拶のように感じられるからだ。60年代初期から成熟してきた発声映画で全盛となっていた精巧に演出されたコメディに、ハリウッドは満足気に拍手を送りながら別れを告げている。現在の視聴者はそのような楽しみを得られずに、深刻な欠乏症に苦しんでいる。『トッツィー』は『E.T.』を除くすべての82年の映画よりも多く稼ぎ、1億8,000万ドルの興行収入を記録したにもかかわらず、『The Future Was Now』では2カ所でさらっと触れられているだけだ。なぜなら、この映画は愛に満ちた視線を過去に向けているからだ。そのため、本書の趣旨にとって『トッツィー』は役に立たない。82年の興行収入を調べてみれば、『ポーキーズ』(『トッツィー』よりもはるかに粗悪だが、笑える映画)が『カーンの逆襲』と『ポルターガイスト』を足したよりも多くの収益を挙げたことに気づくだろうが、ファンタジー重視のナシャワティは、コメディである同作を単純に無視している。彼に笑いのセンスが欠けているからではない。それどころか、以前『ボールズ・ボールズ』(80年)というばかげたゴルフ映画について、本を1冊書いたことがあるほどだ。それでも、いまの彼のアンテナは予言に敏感に反応している。

そのため、ナシャワティはスピルバーグに注目する。スピルバーグこそが、ハリウッドでも最高の予言者であり、自分の思いどおりに運命を操る能力をもつ人物だからだ。スピルバーグはわたしたち大衆が見たがる作品を予見していた。映画界の人々が、知恵と勤勉さを武器に、作品から作品へと次々に制作していく様子を眺めていると、感心するばかりだ。

スピルバーグの感情の在り方

ナシャワティの説明によると、『E.T』の大部分は、スピルバーグが「『レイダース』のセット脇にいたときのダウンタイム」に生まれたそうだ(ダウンタイムって何だ?)。『レイダース』のセット脇で、スピルバーグは『E.T.』の脚本をメリッサ・マシスンに引き継いだ。次に、スピルバーグは分裂した。ナシャワティがこう描写している。「当時、スピルバーグは『E.T.』を制作していたにもかかわらず、『ポルターガイスト』の制作にも、12週間の撮影期間のうちの3日だけを除いて、いつも立ち会っていた」。この2本の映画は、スピルバーグの感情の在り方に対応している。「『ポルターガイスト』はわたしが恐れているもので、『E.T.』はわたしが愛するもの」と、かつてスピルバーグは語った。「片方は郊外の悪で、もう片方は郊外の善だ」

どちらが悪で、どちらが善なのだろう? その答えは明白だと思われるが、両作品の冒頭部分を見ると、『E.T.』は離婚の悲惨さを描いている一方で、『ポルターガイスト』では幸せな家族が映し出されているのだ。とてもリラックスした主人公夫婦がベッドルームにいるシーンで、母親はくすくす笑いながら大麻タバコを巻き、父親は『レーガン大統領』という本を読んでいる。これよりも80年代を正確に反映するスナップショットが存在するだろうか? 簡単に言えば、『ポルターガイスト』も『E.T.』と同じで、ごく普通の日常に根ざしているのである。その後、目に見えない霊がテレビのスクリーン(米国のへその緒)を通って部屋に入り込み、住人をからかうかのように、椅子をキッチンテーブルの上に積み上げる。取り憑かれた本が蝶のように表紙を羽ばたかせながら、部屋を飛び回る。これらすべてを、ナシャワティがしたように、SFとファンタジーに数えてもいいのだろうか?

『ポルターガイスト』はホラーに属し、『E.T.』はおとぎ話として花を咲かせる。どちらも、『カーンの逆襲』や『トロン』とは、ほとんど共通点がない。スピルバーグはどこをどう見ても地上の民だ。自身が手がけるファンタジー作品において、その点が特に顕著になる。『E.T.』でエリオットが、故郷に帰りたい宇宙人を友人に紹介するシーンを思い出してみよう。「転送できないの?」と友人のひとりが尋ねた。エリオットは、それが映画の1シーンだという意味では正しくないのだが、それでも物語の核心にとっては真実である言葉を返す。「ここは現実なんだ、グレッグ」

「転送」は言うまでもなく『スタートレック』の得意技だ。そしてエリオットの言葉は、対立するSF流派間の絶え間ない論争を象徴している。フェイザー、レーザー、ライトセーバーなどで戦う非の打ち所のない戦士たちのSFと、『エイリアン』のように宇宙空間を漂っているときでさえ、日常生活の呪いに縛られている普通の人間たちのSFだ(だからこそ、ヴィンセント・キャンビーは『The New York Times』で『エイリアン』のことを、まあまあのできばえの、とても小さくて質素な映画と評したのかもしれない。キャンビーの評価は、クイーンズにある狭いアパートの話をする不動産屋が発したかのように聞こえる)。

82年の『カーンの逆襲』は、『スタートレック』シリーズに対する圧倒的な信任投票として、高く評価された。しかしいまでは、ヴィランとしてのリカルド・モンタルバンのずうずうしい演技によって活気づけられているが、愚かしくてこぢんまりとした映画だと感じられる。モンタルバンは、長らく行方不明だと考えられていた反逆者の一団を率いている。「わたしは遺伝子操作され、知性を得たからこそ、生き延びることができた」と語り、超高齢のロックスター風カツラの下で威厳に満ちた真顔を貫く。

『The Future Was Now』で、わたしがいちばん気に入っているのは、パラマウントのボスであるバリー・ディラーが同映画のタイトルを激しく嫌ったという場面だ。「誰も“wrath”(憤怒:原題)などという言葉を知らない」と彼は、憤怒して叫んだそうだ。ジョン・スタインベックが聞いたら、どう思っただろう。もし、ディラーの言うことが正しいのなら、わたしたちは『怒りの葡萄(The Grapes of Wrath)』ではなく、『すごく怒っている葡萄』を読むことになっていたかもしれない。

当時、映画をどう消費していた?

判断、好み、商業的な才能などに関して人々が犯す間違いを聞くのが大好きな人に、ナシャワティはたくさんの歴史的な逸話を紹介してくれる。わたしはコロンビア・ピクチャーズのマーケティング部門に感銘を受けた。同部門は、熟考のすえに、『E.T.』が「観客に受け入れられる可能性は限られている」と結論づけた(だからスピルバーグはその映画をユニバーサルにもち込んだ)。『The Future Was Now』の表現スタイルに関して言うと、わたしならそれを「極めて印象派的」と表現するだろう。普通あるいは中庸だとみなされていいのは、不本意な例外だけ。可能な限り、物語のあらゆる側面が最上級で表現されなければならない。

1ページ目で、『ブレードランナー』と『遊星からの物体X』について、ナシャワティはこう書いている。「ひとつは、このジャンルがこれまでに生み出した最も多作で、最も著名な精神のひとりが書いた濃密かつ知的な小説に基づいており、もうひとつは、白黒時代の最もゾクッとするメタファー映画のひとつを再解釈した作品である」。また、『コナン・ザ・グレート』のことを、「ミリアスがつくったなかで、最もミリアスな映画」とも書いている。ナシャワティよりも多く「最も」を使うのは不可能だろう。

最上級を多用するナシャワティには、彼自身を主人公にしたSF作品があってもおかしくない。たとえば『オプティマイザー』とか。あるいは『ハイフンの魔術師』なんてどうだろう。彼に言わせれば、『スター・ウォーズ』は「まさにポップカルチャー界において一世代で一度きりの大作」として称賛されるべきであり、『カーンの逆襲』は「資金稼ぎのためにつくった続編が、フランチャイズを蘇生させる古典作になった」のだ。そうした興奮の言葉を軽蔑しているのではない。それどころかわたしはそれらを賢明で、しかも感染性があると思った。この本が映画『ハロウィン』を「危機に陥ったベビーシッターのスラッシュホラーの傑作」と位置づけることに異論を唱えるのは難しいし、このように的を射た「言い換え」は、ほかのメディアの模範生も手本にできるとさえ思える。イングマール・ベルイマンの『叫びとささやき』を言い換えると? 真っ赤に染まった、情け容赦ないスカンジナビアのがん撲滅キャンペーン。カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』は? おしゃべりなし、一か八かの焼き少女。一度言い換える癖がついてしまうと、やめられなくなってしまう。

加えて指摘しておくと、ナシャワティはアート系の映画を観に行く気もなければ、そうする時間もない。ヴェネツィア国際映画祭にも、何の魅力も感じない。82年はヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』が金獅子賞に選ばれたというのに。この映画は、資金不足のせいでポルトガルに置き去りにされた映画撮影チームの顛末を語る悲哀に満ちた物語だ。で、その撮影チームは何を撮ろうとしていた? SF映画だ。おかしな話だ。もしかすると、誰にも気づかれないうちに、空気のなかに、つまり文化という広範な空気中に、SFが入り込んでアートとしてポピュラーな存在になっていたのかもしれない。

もし、『The Future Was Now』とセットで読むべき本があるとすれば、それはフランシス・フィッツジェラルドが00年に発表した『Way Out There in the Blue: Reagan, Star Wars and the End of the Cold War』[未邦訳]だろう。ナシャワティが軽快であるとすれば、フィッツジェラルドは緻密で包括的だ。冒頭では、成功する見込みがまったくなく、そのため失敗することもありえない戦略防衛構想(スター・ウォーズ計画)をロナルド・レーガンが支持するきっかけとなった天空への展望を解説している。興味深いことに、レーガン大統領はこの構想の通称のもととなった映画『スター・ウォーズ』には興味がなかったのだが、彼の国防次官補だったリチャード・パールが『スター・ウォーズ』好きだったようだ。「拒否する理由がありますか」。パールは尋ねた。「おもしろい映画ですよ。それに、善人が勝つのです」

しかし、政治から距離を置くのは恥ずべきことではないし、ナシャワティの名誉のために指摘しておくと、彼の本は個人に対する挑発であり、読者に自分自身に正直になることを強いる。読者に映画を見に行っていた若かりしころ──1962年、1982年、2022年、いつでもいい──を思い出させ、次のように自問することを促す。当時、自分は映画をどう消費していた? 土曜日が来るたびに次々と新しい映画を観ただろうか? それとも、1本の映画を何度も観て、その世界にどっぷりと浸かっていた? ファンタジーやコメディなど、特定のジャンルが続くことがあったとき、それに気づいていただろうか?そんな疑問は、会計士や評論家やほかのバカどもに任せておけばいいのだろうか?

本質的に、映画評論家は映画を観るときの感覚環境(スナック、気分、バルコニーでキスしながら)にはほとんど注意を払わないが、そうした要素は間違いなく、当時のわたしたちの感性をゆがめ、記憶にも浸透する。若いころのわたしたちは、特定の映画、青春が過ぎ去ったあとも永遠に記憶に残るような映画を受け入れる態勢が整っている。86年、『フェリスはある朝突然に』の冒頭の20分が過ぎた時点で友人がわたしに、「これは史上最高の映画だ」と静かに言ったとき、わたしにはそれに異を唱える理由などなかった。

おそらく多くの人は、82年の映画と言えば『初体験/リッジモント・ハイ』を思い浮かべるだろう。当時この映画の登場人物たちと同じ年ごろで、同じようにホルモンの軍隊の攻撃を受けていた人なら、なおさらだ。わたしはむしろ、バリー・レヴィンソンの『ダイナー』が気に入っていた。とてもよく書かれていて、書かれたものだとはほとんど気づけないほどだった(それにあのキャスティング! 誰もが、ミッキー・ロークの言葉を聞き取るために、まるで秘密を共有するかのようにスクリーンに向けて前屈みになったものだ)。わたしが何度も観たもうひとつの映画は、ウォルター・ヒル監督の『48時間』だ。この作品で映画デビューを果たしたエディ・マーフィが仮釈放された囚人を演じ、そのパートナーの刑事役をニック・ノルテが務めた。ジョーカーと腹黒、猟犬と番犬、黒と白、すごい組み合わせだ。この組み合わせは、その後『リーサル・ウェポン』シリーズなど刑事バディもので何度もコピーされたが、オリジナルを超えるものは現れなかった。高価なスーツを着たマーフィが地下鉄駅構内の追跡シーンで柵を跳び越える場面は、彼の早口とともに、身体的なしなやかさを表現していた。マーフィは、その後すぐに『ビバリーヒルズ・コップ』、『星の王子ニューヨークへ行く』とヒットを重ね、スターへの道を歩んだ。

SF作品に関して言うと、『トロン』では、わたしは熱くなれず、退屈した。確かに、かつてロイヤル・シェイクスピア・カンパニーでハムレットを演じた大物俳優のデビッド・ワーナーが、ネオン色に輝くヘルメットとアーマーを身につけて、「ここで考えるのはわたしだ」と苦虫をかみつぶしたような顔で言うシーンは見物だったが、未来を予見する、ナシャワティのすばらしい表現を借りるなら、「ツァイトガイスト(時代精神)の茶葉を読む」にはわたしはあまりにも愚かで、この映画が示すようなデジタルな策略がどこへ向かうのか、そして、どうしてあらゆる障害を克服して、行き止まりではなく、生き生きとした感情の調和へとつながるのか、理解できなかった。ピクサー社でかつて最高クリエイティブ責任者を務めていたジョン・ラセターは「『トロン』がなければ『トイ・ストーリー』も存在しなかっただろう」と語った。『トイ・ストーリー』で目が開いた子どもたちは幸せだ。『トロン』のおかげで誕生したのかもしれないが、『トイ・ストーリー』のほうが『トロン』の1,000倍暖かい。

SFに求めてきた謎

ある程度ではあるが、『The Future Was Now』は「映画監督は映画作品を通じて自分の思想を表現する」という説を支持している。ナシャワティが検証した8本の映画のうち、この意味で最も堅牢だったのは、スピルバーグ、カーペンター、ミラー、そしてスコットの息がかかった作品だ。奇妙で説明不能なパラドックスの作用により、彼らのつくるアクションシーンは、それが肉体的な運動であっても、どことなく熟考の痕跡が垣間見える。

いまだに残念だと悔やんでいるのだが、わたしは82年6月25日に『ブレードランナー』と『遊星からの物体X』を2本立てとして観ることができなかった。だが、短い間隔で立て続けに観たので、わたしの頭のなかで両作品が絡み合い、人ではない何かが人に入り込み、人が人ではない何かに入り込むという、不可解な浸透現象として記憶された。スコットはレプリカントを世に送り出した。そのなかでも、ルトガー・ハウアー演じるロイ・バッティほど恐るべき存在はほかにいない。人を超える存在のロイ・バッティは力尽き、わたしたち観客の同情と畏敬の念を誘った。彼が映画の終わりに発する有名なセリフ「おまえたち人間には信じられないようなものをわたしは見てきた」は、ハウアー本人が書き直したもので、これはイメージの力に対する、これまでで最も痛烈な反論だと言える。時には、何も見せずに、ただ語るほうがいい。

カーペンターは逆方向へ進んだ。『遊星からの物体X』では、南極にいた仲の悪い科学者たちがエイリアンに脅かされる。そのエイリアンには決まった形がなく、究極の憑依型俳優のように、寄生する人やモノの形を借りるのだ。当時、このモンスターの行動が不快だと非難され、そのような評価がこの映画の運命を決定づけた。遠くから眺めると、カーペンターが示した過激な変態(巨大な赤い爪と赤ひげを生やした男、生えた脚で蜘蛛のように逃げていく切断された頭)は、未来ではなく過去、ヒエロニムス・ボスの時代へとさかのぼっている。俳優たちが、そうした変態の意味について互いに問いかけ合っているという噂もあった。最後の毛穴まできみと同じであるのなら、きみはあの「物体」だということだろ? 「物体」は賢くて、きみはいまだにきみだときみに思い込ませているのでは?

これこそ、わたしたちがまさにSFに求める、そして1927年のフリッツ・ラングの『メトロポリス』でロボットが女性に変身して以来、実際に求めてきたタイプの謎だ。では、どのような意味において、『遊星からの物体X』と、ナシャワティが挙げたほかの7本の映画は、「時代遅れになっていたハリウッドのパラダイムを完全に変えた」のだろうか? その答えは、アイデンティティ哲学ではなく、PRのミステリーやシリーズ作品の中毒性にあると、わたしには思える。『カーンの逆襲』と『マッドマックス2』はそれ自体がすでに続編だった。そして『マッドマックス2』のディストピア的な描写──さび付いた改造車の集団を見ていると、頭のおかしくなった鍛冶屋の無意識内をさまよっているような感覚になる──は、シリーズが続くにつれてどんどんワイルドになっていった。

最新作、『マッドマックス:フュリオサ』は5月に公開された。わたしたちが望んだかどうかに関係なく、『ブレードランナー』と『トロン』も続編がつくられた。誰か(ナシャワティかもしれない)がシリーズ作品の歴史を書き、「同じものをもっと」と願う人間の渇望について論じるべきだろう。それは資本主義的満足よりも深い渇望だ(フロイト主義者なら、乳房にしがみつく赤ん坊にまでさかのぼる渇望と主張するかもしれない)。この夏、わたしたちはうぬぼれた自己意識は暴力的な教えにどうしようもなく引かれ、さらなる冒険を求める情けないほど冒険心のない嗜好に突き動かされて、『デッドプール&ウルヴァリン』に群がるのだろう。過激な何かの繰り返しを求めること以上に保守的なことがあるだろうか?

『The Future Was Now』では、ほかの誰よりも(スピルバーグよりも)存在感を放っている人物がいて、その人物の支配が続くことが、疑いの余地なく予言されている。数々の屈辱を味わったにもかかわらず、アーノルド・シュワルツェネッガーは『コナン・ザ・グレート』のセットで一度たりとも問題を起こしたことがないと書かれているのだ。シュワルツェネッガーは「嘆きの木」と呼ばれるものに横向きにはりつけにされ、ハゲワシの首にかみつくことが求められた。小道具として用意されたハゲワシには、本物の内臓が詰まっていた。まあ、おいしそう。シュワルツェネッガー本人の話によると、岩の多い低木地帯で彼を追い立てている犬はどれも空腹で、彼の服に隠し入れていた肉を欲しがっていた。いったいどれほど空腹だったのだろうか? そうした撮影方法に動じることもなく、学習能力の高さで有名なシュワルツェネッガーは、まさに狼のような貪欲さで演技を学び、共演者だった有名なジェームズ・アールに、ウェイトリフティングのアドバイスと引き換えに、演技に関する助言を求めた。

学習したかいはあったようだ。わたしが思うに、シュワルツェネッガーは、『コナン・ザ・グレート』で適度なスピードでジョギングしている自分を見て、そのスピードだととても平凡で人畜無害に見えることに気づいたに違いない。だから、わずか2年後の『ターミネーター』では、もっとゆっくりとした歩き方──ボリス・カーロフ以来、最も無慈悲な足取り──に切り替えたのだろう。相手を確実に破滅させる自信があるのなら、走る必要はないのだ。もっと象徴的なのは、クローズアップになったコナンの視線が、何かを問いかけるように左右に動き、状況を把握し次の動きを考える短いシーンだ。本能的に、彼はすでにこの時点でターミネーターを演じていた。82年の映画にはたくさんの現金が費やされ、たくさんの利益がもたらされた。『E.T.』は多くの涙を誘ったが、この年は俳優も演技を通じて自分の思想を表現できることを実証した年でもあった。シュワルツェネッガーは未来を手に入れた。彼は戻ってきた。

アンソニー・レーン|ANTHONY LANE
『The New Yorker』のスタッフ・ライターで、1993年から2024年まで映画評論家として活動してきた。雑誌記者になる前は、ロンドンの『The Independent』紙に所属し、89年には文芸部副編集長に、翌年には、『The Independent on Sunday』の映画評論家に任命された。01年には「全国雑誌レビュー&批評賞」を受賞。『The New Yorker』への寄稿記事は書籍『Nobody’s Perfect』にまとめられている。

(Originally published on The New Yorker, translated by Kei Hasegawa/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)

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