「脳神経権」と内心という最後の秘境:水野祐が考える新しい社会契約〔あるいはそれに代わる何か〕Vol.13

法律や契約とは一見、何の関係もないように思える個別の事象から「社会契約」あるいはそのオルタナティブを思索する、法律家・水野祐による連載。神経科学を応用したニューロテック/ブレインテックが急速に進化するなかで、「脳神経権」と「内心の自由」という観点から、その影響をひもとく。
「脳神経権」と内心という最後の秘境:水野祐が考える新しい社会契約〔あるいはそれに代わる何か〕Vol.13
ILLUSTRATION: HARUNA KAWAI

近年、ニューロサイエンス(神経科学)を応用し、脳・神経系から情報を読み出し・解読し、介入する、あるいはこれらを組み合わせるニューロテック/ブレインテックと呼ばれる技術・サービス群が台頭している。イーロン・マスクらが設立したニューラリンクが開発しているようなブレイン・マシーン(コンピューター)・インターフェース(BMI/BCI)が典型的であるが、手術を伴う侵襲性が高いものから、脳の外側に装着する侵襲性の低いものまで、脳・神経系を計測・刺激・操作等するさまざまなモダリティの技術が開発されている。従来は、神経・精神疾患の診断、治療といった医療応用が中心だったが、現在ではヘルスケアのみならず、教育、ウェルビーイング、ゲーム・スポーツ等のエンターテインメントまでの非医療領域での応用も視野に入ってきている。

一方、ニューロテクノロジーの発達は、固有の倫理的・法的・社会的課題(ELSI)をもたらす可能性が指摘されており、OECD、IEEE、欧州評議会、FDA等においてガバナンスに関する議論も急速に進んでいる。脳神経倫理学者マルセロ・イェンカと法学者ロベルト・アドルノは、2017年に、急成長するニューロテクノロジーの応用が既存の人権では対応しきれない可能性を示唆し、「neuro-rights(脳神経権)」を提唱した。その後、神経科学者ラファエル・ユステらがコロンビア大学内に「The Neuro Rights Foundation」を設立し、脳神経権を意識した世界初の憲法となった2021年のチリ憲法の改正を主導したといわれる。ユステらのチームは、国連が採択する世界人権宣言にも脳神経権を盛り込むべきだと提言している。

脳神経権は、複数の要素を有する権利群として主張されているが、なかでも注目される概念が「認知の自由(cognitive liberty)」である。「認知の自由」とは、個人が自らの脳や神経系における認知を含む精神的プロセスについて自己決定する基本的な人権とされる。「認知の自由」は、伝統的には思想の自由、より厳密には内心の自由が扱ってきた権利領域だ。内心の自由、すなわち個人の内面的精神活動の自由は、内心の活動である限り他の人権や利益との衝突はなく、国家権力も立ち入ることを許されないため、絶対的に保障されるとされてきた。さらに、内心の自由は、思想・良心の自由のほか、表現の自由、信教の自由、学問の自由など外面的な精神活動の自由の基礎をなす。AIプロファイリングやゲノム編集を含む合成生物技術等の他の技術分野においても個人のプライバシーや自己決定権への影響や差別・不平等の問題が指摘されるが、ニューロテクノロジーは脳・神経系がつかさどる認知機能を直接監視・操作しうる技術であり、個人の認知領域での自律性やプライバシー等を確保する必要性が格段に高いため、その対応として「認知の自由」の概念が構想された。「認知の自由」は、プライバシー、自己決定権、そして思想の自由という既存の権利の拡張または更新と見ることができる。

実は、日本国憲法のように信教の自由や表現の自由とは別に、思想の自由をあえて保障している憲法は珍しいとされ、世界人権宣言等においても明記されてこなかった。これは、内心の自由が絶対的かつ当然の前提とされてきたこと、また信教の自由や表現の自由等の外面的な精神活動の自由を保障すれば充分と考えられてきたことに加え、認知領域に直接干渉する技術が相対的に欠如していたためだと考えられる。一方で思想の自由、そしてその前提となる内心の自由については、近代法において人間の存在や尊厳を支える根源的な自由・条件であり、民主主義の大前提と理解されてきた。「認知の自由」の概念がとりわけ注目されるのは、ニューロテクノロジーに特有の問題だからというだけではなく、内心の自由の絶対性を揺るがすものであり、これが揺るがされてしまうと、自由意思や責任といった近代法や民主主義の枠組みを瓦解させてしまうパラダイムを含むからであろう。

(雑誌『WIRED』日本版VOL.48より転載)

水野 祐|TASUKU MIZUNO
法律家。弁護士(シティライツ法律事務所)。Creative Commons Japan理事。Arts and Law理事。九州大学グローバルイノベーションセンター(GIC)客員教授。慶應義塾大学SFC非常勤講師。著作に『法のデザイン −創造性とイノベーションは法によって加速する』など。Twitter:@TasukuMizuno なお、本連載の補遺については https://note.com/tasukumizuno をご参照されたい。


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