グーグルが〈国家〉となった未来世界は、何を教えてくれるのか?:『透明性』池田純一書評

フランス人作家のマルク・デュガンによる小説『透明性』。50年後の未来の地球を舞台にしながらも、SFではなく「社会風刺小説」として、「データの透明性」を盾に国家化へと突き進むテック企業と現代社会を痛切に批判している。読者の神経を“逆撫で”しながらも小説全体の構造をもって風刺を可能にした本作を、デザインシンカーの池田純一がレヴューする。
グーグルが〈国家〉となった未来世界は、何を教えてくれるのか?:『透明性』池田純一書評
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[編注:本記事には物語の核心に触れる部分があります。十分にご注意ください]


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『透明性』 ](https://amzn.to/33ZcNus)
マルク・デュガン・著、中島 さおり・訳〈早川書房〉
2060年代後期。個人情報を企業に提供することにより収入を得られる世界で人々が「個」を失いかけていたさなか、データを管理するトランスパランス(透明性)社の元社長が、殺人の罪に問われる。 温暖化で存亡の危機が迫る人類に、彼女が用意した壮大な計画とは。

マルク・デュガン|DUGAIN MARC
1957年、アフリカ・セネガル生まれのフランス人小説家/ジャーナリスト/映画監督。エールフランス航空で要職を務め、プロテウス航空責任者に就任したのち、作家に転身。98年に『仕官の部屋』でドゥ・マゴ賞を含む18の文学賞を受賞。国内30万部のベストセラーとなり、12ヵ国で翻訳され、映画化される。その後、『英国の田舎』『フランスの神のように幸せ』『FBI フーバー長官の呪い』『沈黙するロシア:原子力潜水艦沈没事故の真相』『ビッグデータという独裁者:「便利」とひきかえに「自由」を奪う』などを発表。


「2068年。自由意志を巧みに操作するグーグルは、新人類を生み出す計画に乗り出し、トランプを発端とする自国第一主義は、気候変動を加速させ、人類の生存域は北へ北へと限られていった。」

これは、本書の帯に記された紹介文だが、実に簡潔に、50年後の未来の地球を舞台にした物語の導入部分を要約している。

それだけでなく、この紹介文には、「自由意志」、「新人類」、「トランプ」、「自国第一主義」、「気候変動」、「人類の生存域」といった、今の時代を賑わす惹句、というか、未来の地球を不安にさせる要因が溢れている。少しでもテックに関心のある人なら、ここから、監視社会やトランスヒューマン、あるいは、ナショナリズムや人新世といった、総じて未来のディストピアを予感させる言葉を思い浮かべる人も多いのではないか。

実際、この本を手にとったときの印象は、きっと50年後の不穏な未来を描いた小説なのだろうというものだった。タイトルの『透明性』も、そのきっかけとなる「個々人のデータの公開」を意味しているのだろうと。

そうした予感はおおむね間違ってはいなかったのだが、その一方で、期待は見事なまでに、というよりも、悔しいほどに裏切られた。

というのも、この小説は、実のところ、未来小説でもなければ、SFでもない。強いていえばフランス人らしい社会風刺小説。しかも、極めてそのことに小説そのものが自覚的である、というおまけ付きなのだ。

意図して「いけず」にされた小説

2020年現在、グーグルというグローバルIT企業が存在する世界で暮らす私たちが抱える、今と未来に対する不安や不信、懐疑、等々を表すために、もって回った語り口で構築された小説世界。その意味では、本書を手にする読者自身が、すでにグーグルに代表されるシリコンバレーのBig-Techに囲まれて生活していることまでも織り込み済みにした小説といえる。

SFや未来小説によらずとも、未来に対するスペキュレーションが、それこそ報道やノンフィクション、あるいはビジネス書などの形で、十分すぎるほど語られている現代を前提にした小説世界だ。

要するに、一言で言えば、面倒くさい小説だったのだ。

フランス人の作家らしい洒脱だが同時に人の神経を逆なでする物語。単純に、読了後、イライラさせられた。だが、そうしてイラつかせること自体もまた小説の目的として予め組み込まれているのだから、より一層たちが悪い。

というわけで、この小説のレビューについては、その構成上の特徴から、結末について触れないわけにはいかない。そのため、以下をご覧になるにあたっては、その点を予め承知した上で進んで欲しい。

ただ、小説の中には、逆にそうした構造を知った上で読む方が混乱が少ないものも時にはある。本書はどちらかというと、そちら側に属するもののようにも思える。

裏返すと、プロットの凄さで手に汗握る類の「物語」ではない。そうではなく、今それを目にした読者に与える効果まで加味して書かれたテキストによる芸術、すなわち「小説」なのだ。

しかも、フランス人が書いたものである。真顔でサラリと鋭利な冗談を口にされた時、どう対処すればいいか困ってしまう類の、エスプリに富んだ書きものである。

「ぶぶ漬けでもどうどす?」と問われるような類のものだ。どこまでも、いけず、なのである。

米・カリフォルニア州マウンテンビューに位置するグーグル社のヘッドクウォーター。本作では、グーグルをはじめとした巨大テック企業が個人データの完全な可視化を実現し、世界を支配する2060年代が舞台となる。STEVE PROEHI/GETTY IMAGES

舞台は「企業体=国家」となった2060年代

先ほど触れた「帯の紹介文」にあったように、本書の主題は「新人類を生み出す計画」であり、いわゆるトランスヒューマニズムの未来である。だが同時に、地球温暖化の結果、北へ北へと人類の生存域がジリジリと限られていく50年後の未来だ。そこで人類生存の鍵を握るのが「透明性」を手にしたグーグルなのだ。

だが、本書の主人公である女性の起業家&エンジニアは、そのグーグルを出し抜いてしまう。超人類への進化を、自分自身を被験体として世界に示してみせ、その事実に基づき、国際金融市場をクラッシュさせた上で、予め空売りを仕掛けていたことで得た利益を使って、グーグルの買収に成功する。グーグルには、彼女の「超人類」計画に必要な個々人の膨大なデータを、「透明性」のドグマの下で長年収集し続けてきた実績があるからだ。

そうした個々人のデータ群、ならびにその解析から得られた特性を使って、彼女が創業者である「エンドレス=無限」という名の企業で開発されたアルゴリズムにより、一人の人間が、代謝機能の必要のない鉱物人として再構成される。つまり、ある人物の思考や行動を跡づけるデータ群に基づいて、オリジナルの人物の人格がデジタル的に復元される。これはトランスヒューマニズムが注目を集めた2014年前後に公開された映画『トランセンデンス』や『her/世界でひとつの彼女』で見られた類の新人類であり、そうして、人類は死を克服する。『her』の中では、カウンターカルチャー時代のグルのひとりのアラン・ワッツが、彼の書いた著作をもとにAIとして再構成されていたが、おそらくは、あれと似た感じの「復活」である。

こう書いてくると、未来小説やSFに親しんだ人からすると、なんだかあまり変わり映えのしない話だな、と思われるかもしれない。実際、本書を読み始めて感じたのは、そのような印象だった。どれもこれもどこかで見たことのある話で、取り立ててなにか新しいアイデアが書かれているわけでもない。

この小説の中でグーグルは、事実上、一つの国家である。2030年頃を境に、グーグルだけでなくグローバルIT企業の多くは、自前の領土をもち、治外法権の立場を得ている。商業を牛耳ったメディチ家が治めた中世のフィレンツェのようだが、当時と異なるのは、メディチ家とフィレンツェのように経済ユニットと政治ユニットを峻別することにもはや価値をおいていないことだ。企業体そのものが国家。だから、主人公がグーグルを手に入れたのは、もちろん膨大な個人データの入手のためもあったが、それだけでなく、国際政治上の交渉力を得るためでもあった。グーグルは、アメリカと並ぶ2大勢力の一翼なのだ。いや、正確にはグーグルのほうが上である。なぜならグーグルのデータ解析の力がなければ、政治家は選挙で勝てないからだ。大統領も例外ではない。

超人化への条件は「地球に優しいこと」

この未来世界のグーグルは、常時接続するユーザーに対しては、事実上のデータの対価・報酬としてベーシックインカムを配っており、ユーザーは自らの意志で自らの情報を提供し続けている。その上で、グーグルが提案する行動を自らの意志で選択したかのような気分にさせて実行させている。そうして誰もが平和裏に管理された生を享受する世界だ。

いうまでもなく、このようなテクノロジーはパワー(権力)である。その点で、ギークは「偶然の権力者」。実際には、権力については何の深淵な知恵も理解ももちえていないにもかかわらずにだ。

もっとも、こうした“Google State”の誕生の可能性は、すでに随所で議論されてきたことだ。むしろ、国家主権に準じた力を手にするという点では、一年ほど前にあったFacebookのデジタル通貨「Libra(リブラ)」の方がわかりやすいかもしれない。事実上の通貨主権を得ようとする動きとしてアメリカを始め多くの国家政府から警戒されていた。要は、そうした思弁が軒並み実現した未来が想定されている。だが、これもまた取り立てて新しいことでもない。

そうして、物語の核心は、徐々に「超人化計画」の文化社会的解釈の方に移っていく。超人化計画は「不死」よりも「復活」の色彩が強くなる。しかも、その「復活」は、個人データの長期に渡る無条件の公開を要件にしながら、その上で「復活」に足る人物であるかどうかを、エンドレスが開発したアルゴリズムによって客観的=機械的に判断される。それは、基本的に「地球に優しい」人物かどうかという基準だ。

要するに、気候変動の結果、人類が滅びの危機にある事実に向き合い、人類のみならず地球の保全に意を尽くせる人物だけが「復活」できる。

そして主人公の目的は、ここにこそあった。このような「復活」の要件を予め示すことで、人びとに「復活したい」のなら、生前から地球に優しい人間として振る舞うことを要請し、社会の流れを「親・気候変動重視」の方向に動かすことにあった。つまり、本当の目的は、人びとを、現在の経済中心で世界を回す滅びのルートから外れさせることにあった。そのためにも、復活に足るだけの個人情報を蓄えこんだグーグルを傘下に収めることが、主人公の目的には不可欠だった。金融市場のクラッシュすらその計画の一環に過ぎなかったのだ。

ところで、意外なことに、この「復活」を希求する想いは、どうやらギークに顕著なものであるようだ。常時接続の時代となった結果、ギークは常人から「一抜け」したがるようになる。

主人公のかつての同僚だった「グーグラー(=グーグル人=グーグル社員)」たちは、とりわけプログラムを設計する人たちは、一種のゲームマスターとして、未来の大衆の人生ゲームの楽屋裏を知ってしまっている。その結果、一般人が夢中になっているアルゴリズムによる人生ゲームについて、彼らと同じように素直に受け止めたり、ましてや情熱を傾けたりすることなどできない。全てに白けてしまい、そこから抜け出すために、一段階上を目指したくなる。金持ちになりたいのと同じように、超人になりたい、すなわち人間をやめたい、というのがトランスヒューマニズムの裏にあるギークの欲望だ。端的に退屈なのだ。その心理は確かに権力者に近い。権力者は、永遠=不死=至高を求める。求めないことにはやってられないからだ。上昇志向を続けるにもガソリンは必要で、脳内麻薬は欠かせない。だから、ハイになる目標が不可欠で、それが過剰なまでの「上昇」だ。それは脳内では「昇天」に向かう上昇浮遊感と変わらない。そこから宗教的な恍惚感まではあと一歩だ。

地球の北半球ではカリフォルニアで、南半球ではオーストラリアで気候変動による大規模な森林火災が続いている。本作では、気候変動を意識した地球に優しい振る舞いをした人間のみが死後の「復活」が許されるのだ。LEA SCADDAN/GETTY IMAGES

「メタフィクション」が可能にする現代社会への風刺

とまぁ、こんな感じで、主人公の女性を含めてギークなメンタリティに適宜メスを入れつつ、しかし、事件としてはとりたててサプライズがあるようには見えない淡々としたトーンで、ぶつ切りのシーンをつないでいくように小説は進んでいく。どこに向かっているのかわからず霧の中にいるように感じ、だんだんイライラさせられていく。

だが、驚くことにそのイライラは最後まで解消されることはなく、いわば宙吊りのような形で、ひとまず小説としては終結する。しかも、この『透明性』という小説のほとんどは、主人公と思っていた女性が書いた「小説内小説」だったというオチが最後に明かされる。

ということで、小説内小説の主人公が実現させたという「トランスヒューマン化技術」は、ただのハッタリだった。鉱物人間への変身は嘘だった。小説内小説の中で、主人公女性の夫が追及していたように、美容整形手術で若返りを図っただけのことだった。彼女自身を殺害したシーンも、ホログラフによる演出であり、わざわざ目撃者を用意させるところなど、BBCの『シャーロック』のような仕込みじゃないかと思ってしまうくらいだ。

要するに、全くのウソで全世界の株式市場を暴落させ、その暴落に賭けて獲得した資金でグーグルを買収した、という詐欺師の話なのだ。

もっとも、一応、小説内小説の作者にも、そんな詐欺で世界を騙してごめんなさい、という気持ちもあったのか、小説内小説の主人公に対して一種の罰を与えることも忘れてはいない。

つまり、主人公が「すみません、嘘をついていました」とは言えない状況を無理やり作りだし、嘘を突き通したまま、つまり「私はトランスヒューマンな不死者です!」という立場を貫いたまま、人類を代表して移民先となる第2の地球を求めて宇宙に旅立つほかない状況が作り出される。

もともと、この主人公が「不死者になった」というウソを使ってまで、株式市場を崩壊させ、現行経済を破綻させようと思ったのは、人類の浪費が原因で気候変動が止まらず、人類が加速度的に滅亡に向かっているのを止めたいと思ったからだった。

だが、皮肉にも、人類滅亡は、そんな人為的なエネルギー浪費行為からではなく、地球そのものの激怒、すなわち火山活動の活発化によって、まさに「自然の猛威」として到来する。

そのような運命に翻弄されることで、自然から罰が与えられる。

主人公女性は、火山活動の活発化によって地球の滅亡が早まったため、「不死人」という特性から人類の希望を賭けて宇宙に送り出された。ノアの方舟をやらされたのだが、当然、不死ではないので、宇宙航行中に死去、という結末だ。

これもまた、テック産業はウソ・ハッタリばかり。金融操作でしこたま儲けることができることの風刺である。実際、セラノスのCEOだったエリザベス・ホームズという詐欺師の実例もあることだし。ただ、そのような詐欺でも世界を動かせるというのは、金融市場が「価値の認識」からでしか成り立っていないことをよく表している。

世界の病巣は深い。

このように、最後まで読むと、二重の仕掛けによって、ベタにもメタにも、おいおい、さすがにそれはないんじゃないか?という気にさせられる。

なぜなら、本文の98%くらいを占める、エンドレス社による人類超人化計画の話は、第1に、すべてがハッタリであったからだ。すなわち「超人化」技術の開発はすべてウソであった。

第2に、だがその内容は、小説内の主人公が自ら書き記した空想小説であったことが、エピローグで明らかにされることだ。つまり、『透明性』という小説のほとんどが、小説内小説からなり、したがって『透明性』という小説自体は、一種のメタフィクションであったのだ。

したがって、本文を読み進める過程で感じていた、どうやってこんな代謝を不要にするトランスヒューマン技術を可能にしたのだろう?という素朴な疑問は最後で完璧に無視されてしまう。

また、なんでこんなに簡単に世界中の人びとが、そのトランスヒューマン技術を信じたのだろう?という、粗雑なプロットに対する疑問については、だって、作者は、もともと一介の技術者にすぎなくて、小説家としては素人だから、というエクスキューズでごまかされてしまう。小説の素人の粗書きなのだから、描写の不足や、展開上の飛躍があってもしかたないでしょ?というわけだ。

裏返すと、読者は、わざわざ意図的に拙くされたプロットにつきあわされたことになる。

もっとも、そんな「拙さ」をわざわざ正当化するための結講=物語構造を用意したことをいいことに、小説内小説の主人公による衒いのない「青年の主張」のような数々の社会批判が繰り広げられる。

すなわち、グーグル批判、監視社会批判、気候変動問題を無視する人びとの批判、ドナルド・トランプ批判、アメリカ批判、等々、を延々と読まされることになる。

もっとも、ドナルド・トランプの頭の中には綿が詰まっていたなどという戯言が書かれているのを見た時点で、あ、この物語は、すべて「ホラ話」なのだ、と気がつくべきだったのだが。

2019年にフランスのテレビ番組「La grande librairie」で、本作について語る著者のマルク・デュガン。

内包される文化帝国主義への批判

底意地が悪いのは、そうした数々のあからさまな批判を並べ立ててしまわれると「小説として出版するにはさすがに無理があるのだけれど……」という正当な評価まで、エピローグの部分で、この素人によって書かれた拙い「(小説内)小説」の出版を持ちかけられた出版社たちの書籍編集者たちに言わせるところにある。

つまり、従来からあるジャンル小説の枠組みや、読者の好みや出版にあたっての大人の事情に即していたら、ここまで読んできた「小説内小説」なんて出版の日の目を浴びることなんてないんだよ、ということまで、読者は想像させられてしまうのだ。

特に、出版社のもつ「大人の事情」として、あからさまなアングロサクソン批判を記すと英訳される機会を逃すことにつながり、それは出版物としては多大な機会損失になってしまうことを意味することまで、伝えてしまう。

裏返すと、これは出版市場のアングロサクソン支配に対する批判であり、英語のリンガ・フランカとしての文化的影響力への言及でもある。要するに、英語による文化帝国主義の問題の指摘、ということだ。

それはつまり、いまどき出版されるところまで進みたいのなら、アングロサクソン批判を避けるべきだということになる。その結果、出版市場には、アングロサクソン批判、つまり、アメリカやイギリスを批判する内容を含む小説は販売されなくなってしまう、ということを含意している。

アングロサクソン諸国の事情に引き寄せて似たような状況を考えると、たとえば、黒人作家のようなマイノリティ作家が、小説家としてペイラインを越えようと思うなら、また職業作家として継続して作品を出版する立場を維持しようとするなら、読者市場の大半を占める白人読者の嗜好にある程度まで沿った作品を用意しないと、実際は難しいということに近い。

もっとも、そのような状態こそが、小説内小説の中でも批判されている「世界全体が「経済」中心の論理で回ってしまっていること」の証左である、ということになる。

読後感で伝える、社会に蔓延る不安

ともあれ、最後はこんな感じなのだ。

読み終えた直後に、途中、出来の悪いダン・ブラウンみたい、と思いながら読まさられていた俺の時間を返せ!という気分になってもおかしくはないだろう。

全くたちが悪い。

もっとも、そうやってひとしきり憤った後、振り返ると、こういう書き方でしか伝えられないものもあるのか?とも思ってしまったりして、二重に悔しい、と思わされる。

でも、それも確かなのだ。こうした「造り」でしか伝えられないものもある。

それは、エピローグに書かれた出版上の各種の制約に対する批判であり、Big-Techに囲まれた生活が自ずから人びとに与える実存の不安であり、とはいえ、そうしたテックの開発を進める側にも別種の不安、というか倫理上の悩みはあり、その点でBig-Techという企業=組織も、内部を見れば、決して一枚岩ではなく、単純には語ることのできないひとつの「社会」であることだ、等々。

もともと不安とは、これこそが不安です!というような形で明瞭に書き記すことが困難ものだ。得体のしれない、時折怖気の走る、不穏な気分を伝えることが大事になる。それは、まさに小説全体の読後感によって伝えるほかない。

だから、そのためにも、あの「素人の書いた告発めいた、粗書きの小説内小説」と「その短い解説としてのエピローグ」が必要だったことになる。

逆に、これもまたいかにもフランス小説、というかテクノロジーを扱ったときのウエルベックのようだなと思わせる夫婦愛やセックスに関するおざなりの言及も、単に話を進めるための牽引役でしかない。であれば、そのメロドラマ的で書割的な言及も納得できるというもの。

とはいえ、そうでもしないと伝わらないこともある。あえて露悪的に書かなければ通じないこともあるのだ。それは、人びとを襲う形のない不安なのである。

一般の人びとのインターネットに対する関心は、市場独占や競争滅殺よりも、ユーザーに直接不利益をもたらす「データ・プライバシー」のほうに移っている。それはインターネットの特性としてもてはやされた「透明性」の裏の姿なのである。

そもそも『透明性』の小説内小説は、グーグルのペンタゴンとの契約に対して不満をもった社員が退職して書いた小説、という設定であった。その彼女が、トランスヒューマン技術にまつわるハッタリでグーグルを出し抜くことで、地球のために人間を変えようと夢想する。

データを全部集めて、そこからデータ的な本人の複製体を作る、という発想は、むしろ、キリスト教における復活の物語をなぞっている。作者たる女性は、トランスヒューマニズムの根っこにあるものがそうした宗教性/スピリチュアリティであると見ぬいており、だから途中で、主人公はマホメットに次ぐ女性の預言者と呼ばれるような状況を描く。バチカンで教皇や枢機卿と対話する場面も出てくる。

復活のために一度死ぬ。しかる後に鉱物体として生き返る、という手順は、永遠を手に入れるために一度死ぬ=天国に行く、という、聖書に由来する西洋人の長きに亘る願いと平行的だ。

だからこそ、人類に盛大な嘘をついた彼女は、本来受けるべき「死」を、まるで天罰のように、宇宙空間=天国へと追い出されることで迎えることになる。まさに報いである。

だが、その終幕もまた、グーグルの元エンジニアだった女性が書いたものだったことを踏まえれば、それは心あるエンジニアの、プログラマの、ギークの、自責の念が書かせたものとも受け止められる。

本当に、この小説は複雑で一筋縄ではいかない。

フランス人の書く小説は面倒なのだ。

池田純一|JUNICHI IKEDA
コンサルタント、Design Thinker。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA)、早稲田大学大学院理工学研究科修了(情報数理工学)。電通総研、電通を経て、メディアコミュニケーション分野を専門とするFERMAT Inc.を設立。『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』『デザインするテクノロジー』『〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神』など著作多数。「WIRED.jp」では現在、2020年11月の米国大統領戦までを追う「ザ・大統領選2020 アメリカ/テック/ソサイエティ」を連載中。


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TEXT BY JUNICHI IKEDA@FERMAT