本日3月17日に『むしろウツなので結婚かと』の第8話が更新されました。
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セキゼキさんの症状が落ち着き始め、ウォッカも勝ち、私たちは喜びで自信を深めていくことになりました。
ああよかった、もう大丈夫、これから病気はどんどんよくなっていくだろう、未来に希望はあるもんね!
という気持ちになってしまったのです二人とも。
とはいえ、セキゼキさんが復職を決めたときには、私は大いに焦りました。
「まだ働くとかそういう段階ではないよね?」
私が言うと、
「なんとかなるよ。なんとかする」
とセキゼキさんは答えるのでした。
だけど「なんとか」ってなんでしょうね? 何をすればなんとかなるんでしょうね?
ウツは休息が大事と言うし、睡眠時間をもっと増やしてごろごろする時間を増やせば、そのぶん早く治るのかな?
薬を二倍のめば、加速度的によくなる?
鍼やお灸でウツがきれいに治るかも?
ウツを一気に治す手術を受ければ、お金はかかるけどあっという間に元通り?
どれも全部、ありえません。なんとかする方法なんてどこにもないのです。
それなのにセキゼキさんは「なんとかする」と言った。
結局それは、「がんばる」ということです。今までのように仕事はできないかもしれないけれど、そのぶんの穴は「がんばって」工夫して埋める。そうすればきっと働ける。
そういうつもりで言っているのです。
辛いかもしれない、苦しいかもしれない、それもなんとか「がんばって」耐えてみる。
そういう気持ちも含まれています。
よくウツに「がんばれ」は禁句って言いますよね?
それは何故なのか私なりに考えてみると、ウツになった人はもう「がんばれない」からだと思うのです。
なのに本人はそれを「自覚していない」あるいは「自覚することを拒む」、もしくは「自覚した上で自責する」からだと。
がんばれる人にとっては、「がんばれない」というのがどういうことか理解するのは、とても難しいことです。
私も自分がそうなったわけではないですから、本当に分かっているわけではないと思います。
ですが、がんばれない人ががんばろうとするのがいかに危険であるかは、想像できます。
「ペンギンは泳いでいる。君も鳥だろう?」
と言ってスズメを氷の海に投げ込んだら?
「鳥というのは空を飛ぶ生き物だよ本来」
と諭して高い窓辺からペンギンを追い立てたら?
がんばれない人間ががんばろうとしたときに目にするのは、そういう風景だと思うのです。
安田記念後のセキゼキさんは、規則正しく過ごそうと努めるようになりました。一日一回は外に出て近所のスーパーなどに行き、ごはんを作って洗濯機を回して、掃除をしました。
私は驚きました。
「意外だわー、セキゼキさんて掃除とか嫌いだと思ってた。遊びに来ると部屋の中やたら散らかるし、片付けもマメじゃないよなあって。違ったんだね」
と私が言うとセキゼキさんは、
「違わないよ。家事は別に好きじゃない。でも家の中でただじっとしてても、働けるようにはならないだろ。何かできることをしないと」
と答えました。
この人こんなに真面目だったんかい、と私はまたしても驚きました。
いや、セキゼキさんにはいろいろ美点があるのは知っていましたが、こういう健気とも言えるような生真面目さを持った人ではないと思っていたんですよね。
(信じられん。私ならこの段階で復職とか絶対しないなー。ていうかそんなに仕事が好きだったんだっけ?)
と私は疑問を抱いていたのですが、たぶんそういうことじゃないんですよね。
真面目とか仕事が好きとか、そういう問題ではなくて。
えーと。
世の中には運動が嫌い、体を動かすのが億劫、ジョギングなんて悪夢で、歩くのだってできるだけ避けたい、みたいなこと言う人いっぱいいますよね。
彼らの発言はは嘘でも何でもなく、心からの本音で。
でもだからといってその人たちは、両足骨折しても気にしないということはないはずです。
足なんかあったって使いやしないよ、歩けなくなったって問題ない。などとは思わないはず。
あんなに嫌って避けていたはずなのに、歩いたり走ったりがまたできるようになりたいと、そう願うんじゃないでしょうか。
真面目とか仕事が好きとか、そういうのは関係ないのです。セキゼキさんは働ける自分に戻りたかったのでしょう。
だけどそれは両足が折れた人が、その状態で歩きまわろうとするようなものでした。 あの時の私は、セキゼキさんの復職を喧嘩してでも止めるべきだったと思います。それが正解でした。
けれどその一方で、セキゼキさんはどこかで自分の足が砕けてしまったことを実感する必要があったのだろうとも思うのです。
もう自分には「がんばる」という機能はないこと、その状態で働くなんて無謀であること。セキゼキさんはそう理解することを拒んでいました。
周りが何を言っても、頑固に「がんばれる自分」なのだと信じていた。
だとするとああいう形で自分の限界を確認しなければどのみちどこにも進めなかったのかもしれないと、今ではそう思っています。