はじめに
昔きいたえらく気になるんだけどいまだ未消化みたいなお話を唐突に思い出したので、書きます。
友人から聞いたものですので、私自身は登場人物の誰とも面識をもちません。又聞きゆえの曖昧な部分もございますが、ご容赦ください。あと、いつものことながら脚色はしております。フィクションと思ってお読みください。
本文
ニエ(仮名)さんは長く付き合っていた恋人と結婚することとなりました。
まだ幼い頃に母親を亡くした息子を、彼のお父さんは男手ひとつで育てました。
ニエさんは独身時代に何度も彼の実家に遊びに行ったことがあり、気さくで優しいおとうさんに可愛がられていました。
ですから、
「これまで苦労をかけた親父をひとりにしたくない。少しでも恩返しをしたい」
彼がそう言った時、ニエさんは素直に賛同して同居を決めたのです。
舅となった彼のおとうさんは相変わらず気さくで親切、義実家とのありがちな軋轢も発生せず、新生活はきわめてスムーズに滑り出しました。
しばらくしてニエさんは妊娠しました。夫と舅に助けられながら順調に過ごし、妊娠七ヶ月に入ったところで、ニエさんは仕事をやめて家で過ごすようになりました。
掃除機をかけているとき、ニエさんは最初の違和感に気付きました。
ニエさんたちの住まいは昔ながらの日本家屋で、襖や障子で仕切られた各部屋が廊下と縁側によって繋がれています。
舅の居室は家の中央部にあって、三方の襖をあけると家全体が見渡せるようになっていました。
洗面所、廊下、若夫婦の居室、居間。順番に掃除機をかけていくあいだ、ニエさんはずっと見られているような気がしていました。部屋の真ん中に座って新聞を読んでいる舅は少しずつ角度を変えて、常にニエさんのいるほうを向いているように思えたのです。
今までおとうさんの視線が気になったことなんてなかったのに、妊娠してナーバスになってるのかな。
ニエさんはそう結論付けたのですが、舅の凝視はそれからも続きました。
舅はニエさんのいるほうの襖を開けて、じっとこちらを見ているのです。
「珍しいんだよ」
夫は簡単に片付けました。
「おふくろがいなくなってからずっと、家の中に女の人がいたことがないからな。ついつい見ちゃうんだろう」
ニエさんが気になっているのは視線だけではありませんでした。
「どうされました? なにか気になります?」
「お腹がすかれましたか? おひるにしましょうか?」
最初のうちニエさんは視線を感じるたびに、舅に話しかけていたのです。
ですが舅は人が変わったように黙り込み、返事もせずただじろじろと、ニエさんの全身を眺めまわすだけなのでした。
ニエさんが更に話しかけると舅はぴしゃりと襖を閉めます。
そして、しばらくするとまた襖をあけて、凝視が再開されるのでした。
どう説明すれば夫の気持ちを傷つけずに話ができるか、ニエさんはずいぶん悩みました。尊敬する父親を貶めるようなことを、夫に言いたくなかったのです。
夫が不在の間は必要最低限の用事を終えたら襖をきっちりと閉め、部屋ににこもって過ごそう。ニエさんはそう決めました。
数十分後、突然襖があけられました。振り返るとそこには舅が立っており、座っているニエさんを見下ろしています。
「どうされました?」
「なにかご用ですか?」
「お願いします、なにか喋ってください」
何を言っても黙ったままの舅に話しかけるうち、ついにニエさんは泣きだしてしまいました。すると舅は自分の居室に戻り、再びニエさんの方をじっと見つめるのでした。
それからというもの、ニエさんが部屋の襖をしめると、舅がやってきてその襖をあけることが続き、かえってストレスとなりましたので、ニエさんは諦めて襖をすべて開けはなって過ごすことにしました。
鍵のかかるドアが欲しいと訴えても、夫には理解してもらえません。
やがてニエさん自身、
「もしも鍵のかかったドアをがたがた揺さぶられたりしたらどうしよう」
「無理やりドアを開けられたらどうしよう」
と考えておそろしくなってしまいましたので、それ以上ドアを欲しがるのはやめました。
夫が帰宅して三人が揃うと、舅は以前と同様によく笑い、よく喋ります。ですからニエさんの不安は夫に伝わらないのでした。
転んだりしたらたいへんだから、心配して目を離せないだけだろう。
日中二人きりになるのがはじめてだから、緊張して話が出来ないのかもしれない。
妊婦が情緒不安定になるのはよくあることだからね。ニエは今、何でもないことが気になってしまう状態なんだよ。
静かに諭す夫の声を聞くうちに、ニエさんはだんだんおかしいのは自分だったのだ、自分こそが諸悪の根源なのだと、思うようになりました。
さらに数日が経つと、舅が部屋を出て廊下をうろうろ歩きまわり、ニエさんと頻繁にすれ違ったり、後ろから追い越して行ったりするようになりました。
狭い廊下でニエさんの体をかすめるようにして勢い良く歩くので、ニエさんはふらついててバランスを崩してしまったりします。何度もおそろしい思いをしましたが、転びそうになるたび舅が素早く手を伸ばして彼女の体を掴むので、大事には至らないのでした。
「なんかそれ、若い女に触りたくてわざとぶつかりそうになりながら歩いているみたいに聞こえるんだけど」
私の言葉に、友人はため息をつきました。
「まあかなり嫌な状況だよねえ。ニエちゃんの様子もちょっとおかしくてさ。この間会ったら、全然話をしなくなってて。顔色もすっごく悪いし。どうしたの、何があったのって聞いても『なんでもないの私が悪いの』ばっかりでさ。ニエちゃん、前は『お舅さんが怖い』って普通に言ってたのにさ。今の話もけっこう苦労して聞き出したんだよね」
「嫌な話だなあ。里帰り出産すればいいのにその人」
「私もそれすすめてみた。けど、旦那さんがいい顔しないんだって。それにニエちゃんの実家って今の家と同じ町内にあるからさ。わざわざ帰るような距離じゃないってのもあるよね」
「だったら、お母さんに日中来てもらったりはできないの?」
「それが駄目なの、ニエちゃんの実家は今ちょっと非常事態なの。いろいろ重なって、三人くらい入院しててさ。家族全員が駆り出されて交代であちこちの病院に行ってて。ニエちゃんは妊娠中だからそういうのは免除されてるんだけど、それが心苦しいんだって。だからこれ以上家族に迷惑かけるようなことはしたくないって、そればっかり」
「なんて間の悪い。でもさあ、そのニエさんて人も非常事態だと思うんだけど。旦那さんの対応も酷いよね、もっと真剣に対処してほしい」
「だけど、実際そのお舅さんがしてることって、実体がないんだよね。ひたすらじっと見てるだけでしょ。廊下でしょっちゅうすれ違うんですとか訴えても、一緒に住んでりゃそりゃそうだろって言われそうだし。転びそうになると体を掴むってのも、当たり前っちゃ当たり前だよね。妊婦転ばせるわけにいかないんだから。だから全部、言い訳できちゃうっていうか、正当な理由が向こうにはあるわけ」
「襖を勝手に開けるのはヘンだよ」
「それだって、ニエちゃんの様子がおかしかったから心配になって見に行ったとか、いくらでも理由つけられるじゃない」
「そりゃ一回一回はそうかもしれないけど、何回もあるのはおかしいって。あ、そうだ。録音とか録画とか、そういうのはダメなの? 一日何回も襖を開けに来る様子とか見せれば、旦那さんもわかってくれるんじゃない?」
「家中の襖があけ放たれた環境で常に見張られながら、どうやって隠しカメラをセットするの?」
「録画は無理か。でもレコーダーで会話を録音するくらいなら……」
「だから、お舅さんは喋らないんだって。録音できるのはニエちゃんの声だけだよ。誰も返事をしないのに、ひたすら話しかけてる独り言みたいなのが録れるだけ」
「あ、それはまずい。再生したら逆にニエさんがおかしい人っぽく見られるだけだ」
「そういうことです。とにかく、次に会ったらもう一回、里帰り出産を強くすすめてみる」
それからニエさんがどうなったのか、私は聞いていません。もうとっくに子供は生まれて、幼稚園の年長さんくらいにはなっているはずなのですが。
学生時代は毎日のように顔を合わせていた友人であっても、社会人になるとなかなか会えなくなるのが普通です。
二年ぶりとか三年ぶりとかに会うとかって、全然珍しくないです。
顔を合わせればお互いの近況確認に忙しくなっちゃうし、他に話したいこといっぱいあるし。
そういうときに昔の、私自身は縁もゆかりもない知らない女性の話をわざわざひっぱり出して聞くのはなんか変な気がしちゃうんですよね。大体とっくの昔になんらかの形で決着はついちゃっているんでしょうし。
こうなってしまうと、もう今更続きをきけないのです。
なのに、時々何かの拍子にふっと、板張りの廊下に掃除機を掛けている若い女性の姿が思い浮かんで、
「そういえばニエさんてどうなったんだろう……?」
って気になっちゃうんですよね。
これを読んで「ゾクっとした」などという感想は多いんですが、私もまた、ちょっと別な角度でゾクっとしまして。
あの質問に出てくる「弟」と、ニエさんの話の「舅」はなんとなく似ている気がするんです。
見られている気がするって、すごくポピュラーな被害妄想の一つだったりしますし。
そうすると、初めてこの話を聞いた時には
「自分の父親を悪く思いたくないのはわかるけど、妻の不安を一顧だにしない夫が頼りないなー」
などと感じたんですけど、その感想もちょっと変わってきまして、
「夫の言葉こそが正しくて、ほんとにニエさんが不安定になりつつあったのか?」
などと思ったりするときもあるんです。だとしても、妻が苦しんでいることに変わりはないのだから、ちゃんとそこに向き合おうよとは思いますけどね。
一方で。
ニエさんが不安定になりつつあるのだと、周囲にそう思わせてしまえば、お舅さんはやりたい放題なんですよね。そのための段階を踏んだ巧妙な手口に思えるときもあって、そうすると妄想かもと疑ったことが申し訳ないような気持ちになります。
妄想説と現実説、ニエさんにとっては一体どちらがマシなのでしょうね。いずれにせよ彼女は追いつめられ、辛い気持ちを味わっていた、そのことだけが確かです。
とりあえずニエさんが無事に出産を迎え、今現在は母子ともに健やかに過ごしていますように。