2025年1月17日(金)

世界の記述

2025年1月16日

 ここ数年入院するたびに、その死亡説が流れていたジャンマリー・ルペンが1月7日、心臓発作による合併症で96歳の寿命を全うした。その極端な差別的発言で人心をかく乱し、政争の的となり続けてきた、極右の大物政治家の大往生だった。

極右政治家として歴史に名を刻んだジャンマリー・ルペン(ロイター/アフロ)

 筆者がルペンを初めてみたのは1970年代末にパリのチュルリー公園での同党の集会の時だった。百人に満たない少人数の聴衆の前で、ルペンは「外国人排斥、有色人種の追放」を訴えていた。パラシュート部隊の格好をした青年たちが鋭い目つきで集会を警護するかのように取り巻き、疑似的な危機空間が演出されていた。

 演壇の最前列でカメラを構えていた筆者だったが、演説の声が耳に入るにつれて、無意識に後退していたのか、気が付いたら公園の出口付近にいた。撮った写真は講演会場の遠景になっていた。

 ルペンの周辺には「白人」しか見当たらなかった。筆者がルペンの攻撃する有色人種であることは一目瞭然だった。

 筆者が初めてルペンの集会に参加した時から50年近くが過ぎた。今日のルペン率いる極右勢力の躍進は、とても予想できなかった。その意味ではジャンマリー・ルペンの死は筆者にとってもきわめて感慨深く、複雑だ。

 筆者は1980年代半ばから大統領選挙をはじめ主要なすべての選挙や国民投票を(2022年大統領選挙以外の)現地で視察し、主だった政党の投票前の大集会にもすべて参加してきた。その間ルペンの排外主義を前面に出した政治的言動は多くのフランス国民の怨嗟の的となっていた。

 死亡の翌日早速反対派がルペン死亡の祝賀集会をバリで開催したが、それは父ルペンが反社会的な対抗勢力としての存在感を長い間誇示してきた証拠でもあった。「ナチスのガス室は歴史の些事」と述べたり、ユダヤ人の墓を掘り起こした事件の張本人とみられたり、その排外主義的言動には枚挙にいとまがない。

 しかしそれにもかかわらず、その人物が主導した政治勢力が今や大統領の椅子を狙おうとしている。公然と選挙を通してである。それは三女マリーヌ・ルペンが女性ながら党首を引き継ぎ党の印象が和らいだということだけで説明することができるであろうか。彼女が引き継いだ土台があったからこそだ。

 極右勢力の台頭はもはや欧州各国内政治問題に限定されない。欧州全体に拡大した大きなテーマだ。そこには欧州で極右ピュリズムが拡大するだけの共通の時代的背景と思想・論理がある。ルペンの死を契機に、極右勢力拡大の真実に迫ってみる。このジャンマリー・ルペンという人物はどんな政治家だったのか。今回のテーマだ。

寒村の漁師出身の野心的青年

 ルペンの死の翌日、マリーヌ・ルペン下院議員・国民連合(RN、2018年にFNから改称)前代表は、「長い時を経て、今ようやく父は私たちのもとに戻ってきました。……彼が愛した多くの人たちが天国であなたを待っています。そして彼を愛した多くの人はこの地上の世界であなたの死を悼み泣いています。さようなら、無事な航海を、パパ」と弔辞を述べた。最後の一節は、フランス語の直訳表現では「良い風よ。よい海よ」である。マリーヌは海に因む表現を意識的に使ったのだ。それは父ルペンの来歴によるものだった。

 ジャンマリー・ルペンはブルターニュ地方のラ・トリニテ・シュル・メール(モルビアン県)の寒村の漁師の息子として生まれた。瘦せた土地の漁業にだけ頼る寒村の質素な生活、それがルペンの少年期だ。

 そして第一次世界大戦に参戦した祖父と父の愛国心は貧しい漁師の家族の唯一の誇りだった。ドイツ占領時代、漁に出た父はドイツ軍の仕掛けた機雷にかかり、爆殺された。ドイツ兵殺害を意図して、復讐のために銃を持ちだした14歳の血気盛んな少年ルペンは本望を遂げることはなかったが、その無念はおそらくその生涯に強く影を落とした。そして血気にはやる行動派としての政治家としての片鱗がそこに見られた。


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