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【「虎に翼」主人公の義父】三淵忠彦最高裁長官はいかに誕生したか・補遺1(赤坂幸一)

*NHK朝ドラ『虎に翼』のヒロインのモデル、三淵嘉子の義父・三淵忠彦。小田原に隠棲していた彼がどのような経緯で初代最高裁判所長官に選ばれたのか。三淵邸に眠る貴重な資料をもとに、岩波書店『世界』2024年9月号に掲載された論考では書き切れなかった秘話を二回にわたって公開します。

 

1 はじめに

 筆者は先に、「三淵忠彦最高裁長官はいかに誕生したか――日本国憲法の制定と最高裁の始動」(岩波書店『世界』2024年9月号)と題する論考を公表する機会を得た。そこでは、新たに発掘された三淵忠彦関係文書(「三淵邸・甘柑荘(かんかんそう)保存会」所蔵、整理中)を活用しつつ、裁判官を辞して20年以上を経た「野の遺賢」(朝日新聞昭和22年8月2日)たる三淵忠彦が、突如として最高裁長官候補として浮上し、長官に就任した経緯を、その背景事情も含めて実証的に解明することを試みた。
 そこで見たように、社会党政務調査会や司法大臣の顧問としての三淵、江橋活郎・三淵忠彦・笠原寬美を巡る旧制二高のネットワーク、井上登・藤田八郎らを中心とする「三淵閥」の存在など、従来必ずしも明らかでなかった諸事情は、三淵忠彦が最高裁長官候補として浮上した経緯を、よく説明してくれるだろう。くわえて、上記論考では触れられなかったが、牧野英一・三淵忠彦・尾佐竹猛を中心とする中央法律会や、それとメンバーの多くが重複する二火会(尾佐竹・三淵・水野広徳を中心に、政治・社会・思想の問題を広く語り合うサロン的会合で、戦中期には一種の梁山泊として機能した)における、片山哲と三淵忠彦の交遊にも着目する必要があろう。このような三淵との交友関係があったからこそ、鈴木義男・司法大臣が最高裁長官候補に三淵忠彦の名を挙げたとき、片山は即座にこれに同意したのである(片山哲「三淵氏の思い出」法曹129号(1961年)21-22頁)。
 後者については、例えば、中央法律会や二火会の幹事を務めた軍政史家・松下芳男の関係文書や、片山哲首相その人の関係遺文書を用いた研究など、今後の実証的な研究の深化が期待されるが、三淵忠彦関係文書にも、最高裁長官任命の経緯に関する関連史資料が(上記論考で紹介したもの以外にも)残されており、そのうちのいくつかを、前記論考の補遺として紹介したい。

2 電報から

 まず、3本の至急電報である。時系列に沿って紹介すると、最初のものが1947(昭和22)年7月24日で、次のような内容である(写真1)。

写真1

サイコウサイバンシヨサイバンカンコウホヲジユダクサレルカ、モシジタイサレルナラバシキユウオシラセヲコウ。サイバンカンニンメイシモンイインチヨウ
(「最高裁判所裁判官候補を受諾されるか、もし辞退されるならば至急お知らせを乞う。裁判官任命諮問委員長」)

 上記論考でみたように、これは片山内閣期の第2次諮問委員会時のもので、各諮問委員が15〜30名の候補者名簿を提出(第2回委員会、7月22日)した結果、候補者は重複を除いて139名に及び、これらの最高裁判事候補者に対し27日を期限として辞退意思の確認が行われたものである。金森徳次郎、佐々木惣一、滝川幸辰、穂積重遠、宮沢俊義、牧野英一、我妻栄といった錚々たる学者を含め、辞退者の総数は48名に及び、三淵は旧友・江橋活郎に対し、「辞退致候人の多かりしに驚き申候」と書き送っている(【書簡2】江橋活郎宛三淵忠彦書簡(昭和22年7月29日))。
 この諮問委員会の動きと併行して、水面下では長官候補の人選が進んでおり、上記論考で示したように、鈴木義男司法大臣が顧問役の三淵に出廬(しゅつろ)を促しても容易に肯んじないことから、三淵と旧制二高同期(明治34年卒)で親交のある江橋を、長官就任の勧説のため小田原の三淵邸に送り込むとともに(7月21日)、裁判官時代の三淵の腹心中の腹心、井上登・元大審院部長をも説得に向かわせている(7月22日)。井上は間もなく三淵長官のもとで最高裁判所のオリジナルメンバーとなる人物であるが、このときは三淵宅に泊まり込んで説得に当たる気構えを見せ、結局、一晩熟考した三淵は、翌23日の朝食時に受諾の意思を伝えている(井上登「三淵さんの思出」法曹129号(1961年)6-9頁)。
 おそらく、この受諾の内意は一両日中に鈴木司法大臣に伝えられたと思われるが、この間、上記の候補者139名に対する辞退意思の確認が行われ、7月28日の第3回諮問委員会では、辞退しなかった91名から30名の候補者が決定された。この決定に際しては、各諮問委員による30名の完全連記という、多数派に極めて有利な仕組みが採用されたことから、大審院長・細野長良をはじめとする、司法権独立を旗印とした急進的・排他的な少数派は排除され、他方、法曹界全体に「元判事として令名の高かった」(朝日新聞昭和22年8月2日)三淵は、この30名の中に無事残ったのである。内閣はこの30名の中から長官1名・最高裁判事14名を自由に選ぶことができたから、この30名の中に三淵を残せた時点で、三淵を最高裁長官に想定していた鈴木義男司法大臣の戦略は奏功したことになる。
 そもそも、鈴木は第2次諮問委員会の規程の作成を司法省に委ねず、自ら内密に作成したが、それというのも、「三淵先生の外に適任者はいないと信じていた」鈴木にとって、「問題はどうして先生を三十人のうちに入れていただくかということと、発表できる段階までどうして秘密を維持するかということだけであった」からであった(鈴木義男「三淵先生と私」法曹129号(1961年)35頁)。片山首相・鈴木司法大臣の間で三淵最高裁長官は既定路線だったのであり、「この関係を具体的に民主的にまとめてゆく方法に鈴木総裁〔当時は司法大臣。司法省が廃止されて司法大臣が法務総裁となるのは昭和23年2月15日〕は苦心したようである」とは、当時、弁護士会の重鎮として三淵長官の出現を陰ながら応援していた小林俊三の言である(小林俊三『私の会った明治の名法曹物語』(日本評論社、1973年)298-299頁)。この点、諮問委員の中に内閣の指名する「学識経験者」枠を設け、この学識経験者として今村力三郎(鈴木義男の弁護士開業時代のボス。海野普吉・三淵忠彦と並び、鈴木司法大臣の私的顧問)を指名した時点で、三淵の名前を候補者第1次リストに載せられることは確定するわけで、あとは、各諮問委員が完全連記で30名の候補者を選出する仕組みにしたことで、法曹界全体に令名の高かった三淵が30名の中に残る公算が極めて高くなった。諮問委員15名中9名に互選制を導入することで「ガラス張り」の選定プロセスを強調した鈴木であったが、党派抗争から超然とした三淵忠彦の選出を確保するために、周到な用意と戦略をもって臨んでいたことが了解されよう。
 なお小林は、三淵長官のもとで東京高裁初代長官に抜擢され、法曹一元の理念を体現したほか(昭和22年10月)、1951(昭和26)年には穂積重遠の後任として最高裁判事にも就任している。東京高裁長官時代には、最高裁誤判事件の一方当事者ともなったが、この事件については、上記「三淵忠彦最高裁長官はいかに誕生したか」を御覧いただきたい。
 こうして、7月28日の第3回諮問委員会で30名の候補者が決定され、内閣に答申された。これにより内閣が三淵を長官に任命する前提がととのい、いよいよ長官就任の最終の意思確認が行われることになる。それが、7月29日の至急電報である(写真2)。


写真2

チカクユク」ゼヒヒキウケコフ」シホウダイジン
(「近く行く。是非〔最高裁長官の〕引受け乞う。司法大臣」)

 もちろん、三淵は正式の受諾の返事をしたはずである。なお、この7月29日まで、朝日新聞は霜山精一、草野豹一郎、有馬忠三郎など複数の長官候補を報じていたが、翌30日には、三淵長官が確実、と報じている(ただし読売新聞は、7月29日の時点で「最高裁判所初代長官 三淵忠彦氏が確実」と一面トップで報じていた)。こうして、8月1日の定例閣議で長官以下の人選に関する協議がととのい、翌2日の持ち回り閣議で正式発令されたが、それを受けて打たれた至急電報(昭和22年8月2日付け)がこちらである(写真3)。

写真3

キカハサイコウサイバンシヨチヨウカンニニンメイセラレルコトニケツテイシタ」ニンメイノギシキハキタル四ヒオコナハママルカラ四ヒゴゴ二ジナイカクソウリダイジンカンシヤニ オイデヲコフ」フクソウハモウニング」ナイカクジムカン

(「貴下は最高裁判所長官に任命せられることに決定した。任命の儀式は来る四日行われるから四日午後二時内閣総理大臣官舎に御出を乞う。服装はモーニング。内閣事務官」) 

 この「任命の儀式」とは、天皇による親任式を指す。最高裁判所長官が天皇による親任となり、内閣総理大臣と同等の地位を与えられたのが、憲法制定議会(第90回帝国議会)における鈴木義男の主張、またその主張に基づく社会党修正案によること(仁昌寺正一『平和憲法をつくった男 鈴木義男』(筑摩書房、2023年)218-222頁)を思う時、最高裁判所の創設、とりわけ最高裁長官及び最高裁判事の選定が「単に一内閣の仕事ではなくて、国家的大事業であり、国民の休戚に関すること国会における総理大臣の選定にまさるとも劣らない」(昭和22年6月5日片山首相談話。執筆者は鈴木義男司法大臣)と喝破した鈴木の、日本国憲法の制定と最高裁の始動にむけた静かなる情熱が感得されるであろう。

3 江橋書簡から

 前記「三淵忠彦最高裁長官はいかに誕生したか」では、三淵忠彦宛江橋活郎書簡(【書簡1】、昭和22年8月10日)と、その前提をなす江橋活郎宛三淵忠彦書簡(【書簡2】、昭和22年7月29日)とを対比する形で、江橋活郎・井上登の三淵邸訪問、すなわち裁判官任命諮問委員会と併行して水面下で行われていた長官人事の内実につき、その輪郭を描き出すとともに、鈴木義男が三淵に「傾倒」することとなった背景事情を示す三淵忠彦宛鈴木義男書簡(【書簡3】、昭和22年3月5日)をもとに、社会党政務調査会及び鈴木司法大臣の顧問としての三淵忠彦・今村力三郎・海野普吉について検討を加えた。ここでは、紙幅の関係で割愛せざるを得なかった、三淵忠彦宛江橋活郎書簡(【書簡4】、昭和22年8月1日)を取り上げたい。本書簡は、江橋訪問の2日後(7月23日)に最高裁長官を受諾する内意を井上登に示したことを伝えた、昭和22年7月29日付け三淵忠彦書簡(【書簡2】)に対する、江橋の返信である。

【書簡4】三淵忠彦宛江橋活郎書簡(昭和22年8月1日)

写真4

拝復 猛暑凌き難く候処愈々御清勝之段恭賀之至に存候、猶ほ今回ハ出廬御決意被遊候由、乍虞老兄の居常より草むしりや庭の掃除等御清悦を奪い候事ハ私情忍び難く感せられ候得ども、之れも司法部の面目刷新再建の為メの御奉公と思召され候事と拝察、男子ノ本懐之れに不過と深く御慶び申上候、充分御自重加餐御奮闘被下候様祈入候
昨日東京へ参り候折柄道聴塗聞に従へば十五名之推薦者中より尚ほ如何はしきもの脱落致候模様にてGHQの随意ニよる輿論調査なるもの相当有力視され候様に有之、益々厳選相加へ特に第一次の最高裁判所をして中外に権威等もたらしめ度きものに御座候
小生としてハ自選候補の如きハ自から其の欠陥短計を証明したるものに有之可く、将来永遠に自から求め、自から售るものゝ如きハ其の跡を絶ち候様、指命者か勇断を施し候事慥かニ祈居り候
[中略]先ハ右御一報旁々当用寸楮如此ニ御座候


                                  匆々頓首

 [昭和二二年]八月一日
     江橋活郎
        三淵老兄
          侍史 

 7月29日付け三淵書簡が届いたのは7月末から8月1日のことであろうから、江橋はほぼ即日、この返信を認(したた)めたことになる。三淵長官誕生の「火元」として三淵に「認定」された江橋は、隠棲中の三淵が出廬を決意したことに恐縮しながらも、戦後の荒廃から司法部を立て直す一大事業、「男子の本懐これに過ぎず」と、衷心からの祝意を捧げている(写真4)。
 上記のように、7月29日の諮問委員会答申(候補者30名の提示)を受け、8月1日の定例閣議で最高裁長官1名及び14名の最高裁判事が決定したが、江橋の情報によれば、この15名についてもなおGHQのチェックが行われ、「如何はしきもの」数名が脱落することが見込まれた。これは、オプラー(民政局司法・法律課長、Alfred Christian Oppler, 1893-1982)が、司法権独立派(細野長良及び細野派)が最高裁判事候補に残らなかったことに不満を抱き、15名の候補者の履歴と公職追放の関係を調査したことを指しているが(D.J. ダネルスキー「最高裁判所の生誕」『今日の最高裁判所 原点と現点』(法学セミナー増刊、1988年)213-214頁)、結局オプラーは、民政局次長ケーディスの意向もあり、公職追放基準に該当しない以上、不満な人選ではあったがこれを受け入れている。それにしても、江橋が政権中枢、及びGHQとの交渉の経緯につき、ほぼリアルタイムで比較的精度の高い情報を得ていたことに驚かされる。
 最後に、江橋が自薦候補者に対して、極めて厳しい見方(「自から其の欠陥短計を証明したるもの」)をしていたことが注目される。具体的には、岩松三郎、島保、藤田八郎、垂水克己といった裁判官出身者、及び、塚崎直義、長谷川太一郎の弁護士出身者を指している(西川伸一「最高裁のルーツを探る――裁判所法案起草から三淵コート成立まで」政経論叢78巻1・2号(2009)55頁【図表4】も参照。垂水以外は最高裁発足時のオリジナルメンバーとなったが、垂水も後に最高裁判事となっている)。諮問委員会内部でも、諮問委員中から候補者を出すことや、少なくとも各諮問委員が自らを自薦することは避けるべきとの意見が出されたが(内藤頼博『終戦後の司法制度改革の経過(第5分冊)』(司法研修所、1961年)57頁)、結局、道義上の問題として扱われるにとどまった。江橋は、将来において自薦候補者を根絶すべく最高裁長官の「勇断」を求めたが、任命諮問委員会自体がGHQの指示により廃止されたことから(泉徳治『私の最高裁判所論――憲法の求める司法の役割』(日本評論社、2013年)99-100頁)、以後、この問題が生じることはなくなった。
 以上、本稿では、初代最高裁判所長官の任命をめぐる背景事情につき、若干の史資料を補足して『世界』2024年9月号に掲載した論考の肉付けを行った。初代の三淵長官時代は、さらに、違憲審査権の行使方法や、司法行政機構の整備、裁判官の欠員補充問題、裁判所庁舎の整備など、戦後の司法制度改革を実地運用に移すための基礎作業が行われた時期に当たる。このうち、最高裁判所事務総局を中心とする司法行政機構の整備については、本「WEB世界」にて、別途検討する予定である。

赤坂幸一(九州大学大学院法学研究院教授)


※書簡の発掘及び翻刻に際しては、三淵忠彦関係文書研究会の皆様、とりわけ雲然祥子氏(岩手県立大学)、及び中澤俊輔氏(秋田大学)から極めて有益なご教示を受けた。また翻刻面では九州大学の同僚の山口道弘氏の詳細なご教示に与った。改めて厚く御礼申し上げたい。もちろん、ありうべき翻刻の過誤等は、すべて筆者の責任である。
※本稿で用いた三淵忠彦関係文書(整理中)は、「三淵邸・甘柑荘保存会」の所蔵である。
※本稿で紹介した電報のうち、第1のものと第3のものは、内藤・前掲書『終戦後の司法制度改革の経過(第5分冊)』141-142, 147頁にも掲載されている。

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