津次郎

映画の感想+ブログ

対照的な姉妹 宗方姉妹 (1950年製作の映画)

3.7

宗方姉妹は当時人気を博した大佛次郎の新聞小説を映画化したもので古風な姉節子(田中絹代)とモダンな妹満里子(高峰秀子)を取り巻く話です。

節子は無職で酒癖のわるい夫三村(山村聰)の献身的な妻です。働かない夫のかわりに自らバーを運営しながら甲斐甲斐しく夫の面倒をみています。その様子は封建的、大時代的で隷属している感じがあります。ここでの山村聰は痩せこけて、なんというか太宰治風です。デカダンスな感じの屁理屈をこねながら、良妻をないがしろにして、猫をなでているような男です。それでも節子は夫を信じて、彼を養っています。

一方満里子は奔放で現代的な未婚女性で、奴隷のように三村に仕える節子を不憫に思いながら、姉の古風な考え方に反駁しています。姉をいじめる義兄三村を憎んでおり再三姉に別れるよう薦めています。かつて姉と懇意があった優しく理知的な田代(上原謙)がフランスから帰ってきて、密かに姉と田代が結ばれたらいいと考えています。

いよいよ退廃的になっていく三村は節子を中傷するだけにとどまらず張り手をくらわすシーンもありました。ホラーやサスペンスとして、男が女を加虐したりもっと酷いことをしたりはありますが、ドラマ映画で男が女を殴るということは今の映画ではないので山村聰が田中絹代を三発ひっぱたくシーンは衝撃的でした。

節子が貞淑であればあるほど三村は堕落の度合いを強めていきます。これは世の物語にでてくる与太男のひな形を踏襲しています。自堕落な人間は真面目で正しい人間に対峙したときに、内懐に卑下祭をひきおこし、罪もない対象によけい辛くあたります。この衝動的性向は日本映画で頻繁に描かれるちんぴらそのものです。

これらの山村聰と田中絹代の暗さ・重苦しさに対して高峰秀子は明るさ・快活さとして存在しています。この映画の高峰秀子はとてもかわいいのです。
映画レビューブログを始めるときじぶんは「かわいい」という日本文化に偏在する陳套語を使わないでレビューを書こうと決意したのですが高峰秀子だけはかわいいを使ってみました。この映画をご覧になればそれをお解りいただけると思いますが、そう思ったとき、小津安二郎監督はかわいさが映画に不要だと考えているのではないか──と思い至りました。
高峰秀子が出ている小津映画は彼女の子役時代の「東京の合唱」(1931)を除くと宗方姉妹だけだそうです。おそらく小津安二郎は高峰秀子のかわいさを引き出しながら、高峰秀子のかわいさに観衆の感興が根こそぎもっていかれてしまうことを危惧したにちがいないのです。リマスターされていない粗い画像のなかにいる高峰秀子さえわたしたちの魂をもっていってしまうのですから、小津監督が彼女を小津調にそぐわないと判断したのは有り得る話です。

結果的に高峰秀子が魅力をもっていってしまうという点において宗方姉妹は小津映画のなかで異質だと思います。
また、この映画は、松竹の小津安二郎が新東宝に招聘され、人気小説を当時最高の予算を与えてつくらせた肝いりの映画だったそうです。そのため、撮影時の緊迫した雰囲気が今に伝わっていて、ネットで以下の文献を見つけました。
ひとつ目は誰がやっているのか知りませんが高峰秀子を冠したXです。引退後はエッセイストだった彼女の著作からの引用が投稿されているXです。

『『宗方姉妹』の撮影現場は、聞きしにまさる厳しさで、スタッフや俳優の肝っ玉は終始硬直状態、シンと静まりかえったステージの中で、セリフにダメが出、動作にダメが出、十回、二十回とテストがくりかえされ、息づまるような緊張感の中で、撮影はワンカット、またワンカットと進行した。』

ふたつ目は誰かのブログにあったものです。緊張から酒盃を持った笠智衆の指が震えているのを小津監督が笠さんあんたの役は中気じゃないよとからかって緊張をほぐした──という様子が三者の著作(撮影の目撃者・撮影スタッフ・高峰秀子の「わたしの渡世日記」)から引用されていました。

この宗方姉妹のただならぬ緊張をひきおこした理由の一つはおそらくこのトリビアによるものだと思います。

『この映画は、スター女優の田中絹代が、数ヶ月にわたるアメリカ凱旋後に初めて製作した映画である。最新のハリウッドの俳優たちと接した田中は、演技に関する新しいアイデアを持ち帰ってきており、それを監督の小津に恥ずかしげもなく話したと言われている。監督である小津は、自分の演技に対する非常に強い(そしてハリウッド的でない)考えを持っていたため、これを快く思わず、撮影中の2人の関係はいささか緊迫していたと伝えられている。』
(IMDBにあったトリビアより)

このトリビアを見たとき、山村聰がやった田中絹代への痛烈な張り手が、小津監督の特別な演出に思えてきました。田中絹代にしたって小津安二郎に進言するなんてあまりにも無邪気ではありませんか。でも小津安二郎は田中絹代の監督第二作目「月は上りぬ」(1955)の制作を全面的にバックアップしたため東京物語から三年間自分の映画をつくりませんでした。これは戦後、年一本でつくってきた小津安二郎にとって長い間隔だったようです。

『『東京物語』公開後、小津は友人で女優の田中絹代の監督2作目『月が上りぬ』の完成を手伝うよう依頼された。 『早春』の製作が始まるころには、小津は監督を3年も離れていた。第二次世界大戦後、平均して1年に1本のペースで映画を撮ってきた小津にとっては、かなりのブランクだった。』
(wikipedia、Early Spring (1956 film)より)

高峰秀子は子役時代から人気絶頂期にいたるまで養母から虐待・搾取された苦労人でした。松山善三と結婚後は安寧を得ましたがスクリーン上のかわいい様子とは裏腹に仕事に厳しい人でヘビースモーカーでもあり最期は肺癌だったそうです。ひるがえって、われわれ観衆がスクリーンやモニターに映る誰かを見て「かわいい」とか「いい人そう」とか「やさしそう」とか思ってしまうことの無責任さとばかっぽさを知ることも重要なリテラシーだと思うのです。もちろん何をどう見るかは各人の勝手ですが個人的には「かわいい」が溢れる日本文化に忌々しさを感じます。

英題The Munekata Sisters、IMDB7.3、RottenTomatoesトマトメーターなし、オーディエンスメーター89%。



京都の造り酒屋 小早川家の秋 (1961年製作の映画)

3.8

ウィキペディアの概要を要約すると映画のポイントは、関西が舞台、松竹の小津安二郎が唯一東宝でつくった映画であること、濃厚な死生観の三つだと思います。

京都の造り酒屋小早川家。経営は斜陽にあります。その大旦那である万兵衛(中村鴈治郎)と義姉を含む三姉妹(原節子・新珠三千代・司葉子)を中心とする話です。小早川の読みには濁点がつきません。東宝が小津を招聘し、いつもの小津組ではない役者をつかうことで変化を引き出そうとしており、冒頭から小津安二郎らしくない俳優と言える森繁久彌が出てきます。確かに小津映画の中にいる森繁久彌に強烈な呉越をおぼえました。

冒頭のシーンはカウンターのあるバーで、加東大介が森繁久彌に原節子を引き会わそうとしています。原節子は後家で、森繁久彌も寡男、双方連れ子をもっています。
森繁久彌は一計を案じ、たまたまバーで会ったようなふりをして、もし原節子が気に入ったら鼻をさすってサインすると言いました。そこへ着物姿の淑やかな原節子がやってきてふたりは「やあどうも」みたいな猿芝居をし、大いに気に入った森繁久彌は大げさに鼻をさすって「大オーケーや大オーケー」とすっかりのぼせますが、森繁久彌と原節子なんて想像できない夫婦ですし、その後も二人の話は進展せず、本編にも絡まない枝話で、いわばこれはコミカルに盛った映画の「つかみ」と言えるでしょう。
原節子が席を外したとき、森繁久彌と加東大介が、バーナーのような火加減のライターでたばこに火をつけるシーンがありますが、そこは本気で笑いました。

本編は東京物語(1953)に浮草(1959)を足したような話です。原節子は長男の未亡人なので東京物語と同じ立脚点です。万兵衛の妹役の杉村春子が死に対してさばさばしているところも東京物語と同じでした。万兵衛は浮草のように老いらくの恋をやって娘らをやきもきさせますが「ああもうこれで終いか、もう終いか」と言い残して頓死します。死生観と言いましたが、生のほうはまったくない話でした。

目を引く映画の特徴は暑くない夏であることです。ほとんどのシーンで、ほとんどの出演者が、扇子または団扇で「暑い暑い」と言いながら、じぶんか人をあおいでいます。しかし画から暑さは伝わってきません。登場人物のひたいにも汗滴はありませんし、だれの着衣にも汗染みはありません。
また人物の性根が純粋すぎます。ほかの小津映画にも言えますが、登場人物が全員まったくひねくれておらず、不可解な考え方というものが存在しません。同僚(宝田明)のお別れ会では清純そのものに歌を歌って壮行し、秋子(原節子)と紀子(司葉子)はまるで何も知らない少女のように結婚観について語り合い、父親が亡くなったら悲しくて涙を流します。一般に、世の中には、小津安二郎の映画に出てくるような単純な人間はいません。いや、いないこともないでしょうが、世の中には単純に見える事象はあまりありません。
さらに他の小津映画同様、人々は作為的に揃えたり並ばせたり動きを合わせたり配置を考慮された絵の中にいます。テーブルにはコカコーラやバヤリースオレンジのリターナブル瓶が林立しています。現実と比べてそれらを不自然だとするならこれほど不自然な絵もありません。
加えて他の小津映画同様、映画内で登場人物たちはこぞって小津が指導する能面演技を繰り広げているわけです。

しかし現実との違いがあるからといって小津安二郎の映画はリアルではない──とはならないわけです。映画のリアリティとは単純に現実的であることとイコールではありません。このことは大概の日本の映画監督が知らないことです。

映画小早川家の秋の核心をついているのは万兵衛の義弟役の加東大介が言う台詞です。葬儀でぼつりと言いました。

『人間というものは死ぬ間際までなかなか悟れんもんらしいですなあ。兄さんのようにしたい放題した人でもなあ。太閤さんでも死ぬときには「なにわのことはゆめのまたゆめ」って言いはったんですもんなあ』

題名の小早川家の秋は、小早川家の死という意味だと言えるでしょう。それを関西人の気質で語っています。謂わば東京物語の関西編です。英題はThe End of Summerで、話の本質をつかんだ英題だと思います。畢竟、秀吉の辞世の句はこの映画の副題のようにしっくりくるのです。

ただし映画はラスト10分以上が葬送シーンですが個人的には大仰に感じました。カラスや墓石によって死が強調され、コミカルなはじまりから落差がありすぎだと思いました。

また原節子が痛々しいのです。かつてじぶんは晩春のレビューにこう書いています。

『よく思うのだが外国人にsunny smileと評される原節子の笑顔は、個人的な見地だが、とても無理笑いであると、かんじる。
こんだけ無理な笑いもないだろう──ってくらいな無理笑いなひとだと思う。
なんか見ていて痛々しいのである。このひとが笑っているだけで、哀しくなる。
原節子が引退した理由は、演技をすこしも楽しんでおらず──ただわたしは家族をサポートするために、ながなが我慢して銀幕のスターをやってきたんだ──もうやめさしてください。というものだったそうだ。
1960年代に40代なかばでやめ、そこから半世紀経った2015年に95歳で亡くなるまでインタビューも写真も拒否し世界から永久に背をむけつづけた。
そして、そんな隠遁生活をおくるであろうっていう気配は、晩春にも麦秋にも東京物語にもある。なにしろ笑っているだけで痛々しいんだから、無理強いしている気がするんだから。』

個人的にこの映画でもっとも目を引いたのは若い藤木悠です。昭和世代ならよく見た俳優ではないでしょうか。この頃はすこし新井浩文に似ていました。

imdb7.7、RottenTomatoes100%と86%。

やっぱ悪いのは日本人 破墓/パミョ (2022年製作の映画)

4.3

サバハ(2019)を見たとき「雰囲気がレベち」というタイトルでレビューした。レビューは『巧いなあと思います。冒頭からリアリティの佇まいが違います。』と書き出していた。

おなじ監督がつくった本作も始めからそれを感じた。上質な恐怖映画の雰囲気づくりと役者の作り込み。風水師役のイミンシク、シャーマン役のキムゴウンとその助手役のイドヒョン、葬儀屋役のユヘジン。みんなその道のプロパーにしか見えなかった。

しかし韓国映画には日本をディスる描写がつきもの。それが本作にもあった。

主人公らは日本の陰陽師が墓に封印した怨霊によって窮地に立たされる。
韓国映画では善良な韓国民に災いをもたらす悪い人は日本人と相場が決まっている。その設定は忌々しいが映画のクオリティは常に日本より高い。この現象に対する日本人の態度はそれぞれ。じぶんはポリティカルではないから韓国は嫌いだが韓国映画は好きという感じ。日本男児にあるまじきことだが女優も日本より韓国のほうがいいと思ったりする。ちょっと前まで韓国は整形大国と言われていたがいまの日本の芸能界を見ると整形の比率が逆転している。先般、40歳以上のおっさんがパーカー着るのはヘンだとのたまって炎商した女がいたがインフルエンサー界隈の女はほぼ全員あれと同じ整形顔をしている気がするんだが。Kpopがニュース記事にあがると、なんで韓国アイドルを紅白に出すんだ(怒)というヤフコメが殺到するが、個人的にはそれもどっちでもいい。日本人として保守的スタンスをもっているが、芸能などに関しては自由な態度をとる。

韓国ではドラマ・映画もKpopもプロパガンダ・外交のひとつである。高品質が反日描写をスポイルするから、韓ドラやKpopに夢中な若者は韓国が日本を罵倒しても彼らに敵愾心をもたない。それを戦略というのだが、ただし日本のホラー巨匠とされている中田秀夫だの清水崇だのの○○つまんない映画と、これを比べるのは酷な話である。プロパガンダだろうが何だろうが庶民は韓国コンテンツのほうがずっとおもしれえと思いながらネトフリ見てますよ──という話にすぎない。

ミンシク演じる風水師は、墓所に明堂を斡旋して遺族から金をもらう。明堂とは埋葬に適した立地のこと。ご先祖をいい場所に葬ると家が繁栄する。儒教の韓国ではそういう吉凶をすごく気にする。だが狭い韓国、いままで何百何千万と埋葬してきたんだから明堂なんてそうそう残ってはいない。ときには適当なところを紹介しながら葬儀屋役のユヘジンと組んでそれなりにやってきた。そんな時、シャーマンの友人が持ってきた儲け話。4人は破墓の禁忌にはまっていく・・・。

小泉八雲の耳なし芳一みたいだなと思ったところもあったが、将軍の霊は関ヶ原でやられたと言ったりもする。雰囲気をもっていて、役者もそろっているがストーリーは粗雑でごたまぜ感があった。言えるのは何が何でも悪いのは日本人だというところ。わら。

キムゴウンがカッコよかった。据わった目と、むいた卵みたいな肌質感。祈祷での狂乱ぶり。堂々たる演技力だった。
またユヘジンが上手。葬儀屋だが聖書を引用してアーメンと結ぶキリスト教徒でもあった。おっさん臭さを醸しながら、ふとしたとき笑いをとったりもする。
韓ドラ・映画でおそらくもっとも頻出のおばさん俳優キムソニョンも相変わらずうまかった。

すこし長い気もしたが、しっかり魅せた。ハッピーエンドも好ましく感じた。映画は大成功し、韓国内で2024年の最高収入をあげた。世界的にもヒットし、ベトナムおよびインドネシアで最も興行収入をあげた韓国映画になったそうだ。日本人が悪になっているので日本ではそれほどではなかった。たとえば映画コムは3.1で、保守で抑えた点になっていた。
Imdb6.9、RottenTomatoes95%と87%。



孤独な葛藤 陪審員2番 (2024年製作の映画)

4.0

荒唐無稽とまではいきませんが、かなり突飛な話だと思います。陪審員に召集されたジャスティン(ニコラスホルト)は事件の概要を聞きながら回想している間に、じぶんが車ではねて鹿だと思っていたのが人だったかもしれないと思い当たります。日時も場所も同じでそれが確信に変わるとJuror No. 2の孤独な葛藤がはじまります。映画のはじめからおわりまで真相を知っているのはジャスティンただひとりです。断酒会のスポンサーであるラリー(キーファーサザーランド)に打ち明ける場面はありますが、基本的にだれも真相を知りません。そりゃそうです。まさか陪審員が轢き殺した犯人だなんて想像もつきません。わりと勘の鋭いマーカス(Cedric Yarbrough)も、刑事なのに陪審員任命されていたハロルド(JKシモンズ)も解らず、車両から足がついてラストで検事補フェイス(トニコレット)がジャスティンの家のドアをノックする、ところで映画は終わっています。

映画「陪審員2番」が言いたいのは良心の呵責です。
検事補は地方検事選挙で勝つために楽勝案件をピックアップしたつもりでした。素行の悪いマイケル(Gabriel Basso)がやったにちがいないという確信をもって望み、大きな反証もなく陪審員の心象もつかんで即日結審する気がしていました。が、審議に入るとジャスティンただひとりが十二人の怒れる男のヘンリーフォンダのごとく有罪に反発します。ジャスティンにしてもそこで有罪にしておけば永遠に逃げにげおおせる話でした。でもかれは茨の道を選ぶのです。なぜか。良心の呵責というやつです。

かといって、ジャスティンは真相を暴露したいとか、じぶんが捕まればいいとは思っていません。妻アリソン(ゾーイドゥイッチ)は臨月だし、もし自白したならアルコール依存の過去をもつ彼には仮釈放なしの終身刑が下りラリーが言うように人生が終わるでしょう。
どうなるべきか、どうしたらいいか解らないまま、ひたすら良心がとがめて「もっと話し合うべきだ」と主張するのです。
他の陪審員らは十二人の怒れる男に出てくるような生活感ある人たちです。とっとと終わらせて子供らの世話をしなきゃならない主婦や、ドラッグディーラーでもある容疑者マイケルに敵意をもっている者もいます。ちなみにテラスハウス出演者の福山智可子が医学生という設定で単独セリフもあるけっこういい役でした。

熱心なジャスティンに触発され、ひとりまたひとりと無罪に与するものがふえていき、結果的にジャスティンはじぶんでじぶんの首を締めていくのです。良心の呵責がそうさせるのです。
おそらくジャスティンの願望は、気持ちが納得するところへたどり着きたい、ということでしょう。しかし、それは真相の解明=人生の終わりと同義なわけです。サスペンスフルな娯楽性を維持しながら、落ち着いたタッチで人間の深層心理を描いています。安定したクオリティに感嘆しました。

脆弱さと人の良さが同時にあらわれるニコラスホルトが上手でした。トニコレットとはAbout a Boy(2002)以来22年ぶりの共演だったそうです。
界隈ではこれが引退作になる可能性が示唆されていますがイーストウッドは明言していません。つくれるかぎりつくりつづけるのではないかと思いますしそうであってほしいと思います。

しっかしイーストウッドの作品群の高クオリティたるや・・・ペイルライダー、ミリオンダラー~、ミスティックリバー、硫黄島~、チェンジリング、グラントリノ、サリー、許されざる者、運び屋、リチャードジュエル。

いつもながら牽強付会かもしれませんが、日本の映画監督って一様に何をつくっても何本つくってもダメじゃないですか。上達もしなけりゃまぐれ当たりもない。基本的にみんな駄作製造機。黒沢清とか、あんだけ駄作連発している人が、巨匠とか持ち上げられている始末。

それに比べて、イーストウッドだけではなくあっちの監督は名前ある人ならそれなりにしっかりクオリティともなってきますよね。素朴なギモンですが、安定したクオリティで映画をつくるという日本の体制のなさに、どうなっているのか、と思うのです。これも牽強付会ですが、政治系のユーチューブで聞きかじった話ですが、NPO団体の映像産業振興機構(VIPO)というところに一年で750億円の補助金(税金)が支払われたという話を聞いて金がないってこともないのではないかと思いました。いいですか。7,500万円でも7.5億円でも75億円でもなく750億円です。なんなんですか。想像できますか、そんなお金。この映画Juror #2の制作費は推定で3,000万ドル(2024年時の換算で47億円)と言われています。300万円でつくったカメ止めなら、いったい何本できるんですか?
基本的にアニメ系に比べて映画をやる人の能力が低すぎる、ということをいつも思います。ほんとにばかは映画つくんないで、と思います。(ぜひ映像産業振興機構のHPをご覧になってください。日本語ですが何が書いてあるのかも何をしているのかも解りませんでした。)



なんか男はつらいよに似ている 浮草 (1959年製作の映画)

4.0

旅芝居一座を率いる親方、嵐駒十郎(中村鴈治郎)は老齢にもかかわらず、私生児がいて若い内縁の妻を(京マチ子)をつくるほど甲斐性もちですが、浮草は男はつらいよのように見える話でした。

船でやってきた海辺の町は、駒十郎にとってたんなる巡業先ではなく、古い連れ合いのお芳(杉村春子)とその間に生まれた息子の清(川口浩)がいる特別な場所でした。

一座の若い衆はビラをもって興行の宣伝をしながら町の女を物色します。かれらにとって芝居のことを触れ回るよりも女を漁るほうが本義です。飲み屋と売春宿が合わさったようなところで、だぶついている女郎にちょっかいをだしたり散髪屋の娘に言い寄ったりします。

おそらく駒十郎も18年ほど前そのように物色してつかまえたお芳を孕ませたのでしょう。その町へ来るのが12年ぶりというセリフがあり、清は立派な青年に成長して郵便局につとめていました。

駒十郎親方は一座の芝居にいっさいプライドをもっていません。前段で内縁のすみ子がドサ回り臭がぷんぷんする国定忠治を演じます。息子清との会話もこうでした。

清「今夜叔父さんの芝居見に行こうかな」
駒十郎「来たらあかん、おまえらの見るもんやない」
清「じゃあ、だれが見るんや」
駒十郎「お客さんやがな」
清「俺かてお客やないか」
駒十郎「そらそやけど見んでもええ、しょうもないもんや、見たらあかん」
清「じゃあそんな芝居なぜやるんや、もっとええ芝居したらええやないか」
駒十郎「そらそうもいかんのや」
清「なんでや」
駒十郎「どんなええ芝居したかてこのごろの客にはわからへんわい、ま、やめとき、来たらあかん」

駒十郎には一座を統べるリーダーシップがありますが、底意には「ろくでもないことをして生きている」という自嘲があります。一方で「どんなええ芝居したかてこのごろの客にはわからへんわい」という一般人への軽蔑があります。
これは右脳系・芸術肌の人がおちいりやすいアイデンティティだと思います。
冒頭、船着場で客たちが、旅芝居一座のかつての興行について話しています。それによると駒十郎も人を感動させる芝居をしていた時があったようですが、今はすっかり芸道への情熱が冷め、目下の愉しみは息子の成長ですが、認知しないで叔父だと偽っています。

駒十郎の意識と似て、寅次郎もよくじぶんのテキヤ業をヤクザな稼業と卑下して言う一方、たこ社長の印刷会社で働く博や職員を愚弄した物言いをします。寅次郎が旅先の空を見上げて、さくらやおいちゃんやおばちゃんのことを思い出すように、駒十郎は一人息子清のことを思い出し、久しぶりに会いにきたというわけです。
駒十郎は大切な一人息子である清を、根をはらずあっちへこっちへ浮草のように動く旅芝居一座に引き込みたくありません。

逆に言うとすみ子の攻撃は的確でした。古い連れ合いへの嫉妬心に燃えるすみ子は若手女優の加代(若尾文子)に清を誘惑するよう依頼します。スれた町娘の加代にとって田舎の青年である清を落とすのは赤子の手をひねるようなものでした。将来を捨てるほど夢中になってしまった清に加代はもう会わないといいます。
このように世間知らずの男子にたいして開通女が拒絶をするのは世に数多く偏在する構文です。

『「あんたはまじめな人だもの。そう思うもの。深入りせんと、まじめに商売に精出したほうがいいと思うわ。来てほしいことはほしいけど、私がこう言う気持、わかってもらえるわねえ。あんたが弟みたような気持ちがするんだもの」』
(三島由紀夫「金閣寺」より)

すみ子が駒十郎の急所を的確に突いて、清が加代に夢中になった結果、駒十郎が怒ったのなんの、烈火のごとく憤慨して、大雨の軒下で小径をはさんで罵倒合戦をします。このシーンにおける宮川一夫の位置取りと撮影は名場面と言われています。

わたしは関西も関西人もよく知りませんがこの映画をみると関西の最上級の罵倒語が「ドアホ」だとわかります。ドとアがまじって「ダホ」という感じの聞こえになるときがいちばん怒っています。

そんなとき、若い衆の一人(三井弘次)が売り上げや貴重品をぜんぶ持ち逃げし、結果、旅芝居一座は解散を余儀なくされてしまうのです。
もう駒十郎には、清も一座もお金もありません。途方に暮れながら町を出ていく駅ですみ子と会います。まだすみ子を許していなかった駒十郎でしたが「のるかそるかや、もう一旗あげてみようか」と意気投合して再び旅の途につきます。

こうした流れと駒十郎のキャラクターが男はつらいよと寅次郎を思わせたのでそれを書いてみました。

ちなみに駒十郎の芝居シーンが全くないのは人間国宝の二代目中村鴈治郎が「下手な芝居をする演技」を拒んだからだそうです。

imdbで見つけた印象的なトリビアを紹介します。

『撮影監督の宮川一夫は、小津安二郎監督についてこう語っている。
「忘れられないのは、彼が初日から撮影現場の全員の名前を知っていたことです。後で知ったのですが、彼は全員の名前をメモしていました。そのことで誰もが感銘を受け彼に敬服しました。この映画で働く毎日はとても楽しく充実したものでした。小津のどの作品からも、彼の人柄を嗅ぎ取ることができます。彼は純粋で穏やかで心が軽く素晴らしい人物でした。」』

英題Floating Weeds、imdb7.9、RottenTomatoes96%と91%。

芸大合格への道 ブルーピリオド (2024年製作の映画)

実写映画「ブルーピリオド」“情熱は、武器だ”熱い本予告&本ポスター公開!追加キャスト&主題歌情報も | 超!アニメディア

3.3

漫画とアニメは見ていません。
この実写映画だけを見ました。

劇的に盛った話を想像していましたが、過剰さのない公平な話だと思いました。現実的でもあり、原作やアニメを見て芸大を目指す人がふえたというのも頷けました。
東京美術学院で石膏デッサンを描いてならべる場面がありましたが、八虎の屈辱感がわかる残酷なシーンでした。しかし彼を奮起させるシーンでもありました。「情熱は、武器だ」とのキャッチコピーでしたが情熱より劣等意識が八虎の武器となり、かれが芸大という魔物に立ち向かっていく過程が、情緒豊かに描かれていて感心しました。
悪友もことさら不良に描かれておらず、出来事にも大仰なものがなく、高橋世田介もほどほどな嫌味度で、ぜんたいに過剰さがないのが作者の賢さのあらわれだと思いました。

ただこの話の根本的な成立要件は八虎には才能があった、ということだと思います。

ところで芸大受験についてはわかりませんが芸大を出たあとのことについて、思うところを書いてみようと思います。

絵で食べていく──とはそのままの解釈でいくと描いた絵を売って生きることかと思います。

しかし肩書きだけでは絵は売れません。またじっさいに売り絵画家になりますと、同じ絵を何枚も描いたり、絵を同時に何枚も描くようなことをするのだと思います。それはおそらく楽しいことではなく、また芸大へ行こうと決意した初心とも別のことであろうかと思います。

そのように作品を売って生きるのでなければ、学校・予備校の先生や大学の教授になるのが一般的だと思います。デザイン科や建築科などとちがい、職業と親和性のない油絵・彫刻・工芸出身の芸大生の多くは、じっさいに先生になるのが常道でしょう。ここにでてくる薬師丸ひろ子や江口のりこは芸大卒かもしれません。

しかし、芸大を目指した多くの人は、先生になりたかったのではないと思います。
結局、卒業後の在学時の何倍もある長い人生についての考察が欠落しているのが芸大油絵科の課題だと思います。

音楽──声楽や楽器などはそれで生きることができるでしょう。デザインや建築なら食いぶちもあるでしょう。でも絵は、主観に委ねられるところもあり、多数決をとらなければわからないものです。この多数決というところに着目したとき、芸大卒の絵描きが絵をつづけていく方法は、公募展や団体で受賞することだと思います。受賞できなかったり同人より上にすすめないと、芸大出は絵を描かなくなります。なぜなら芸大出だからです。芸大出でありながら絵を描いても高卒やノンキャリよりも下のポジションになってしまうのが困るからです。芸大出とはそういうことです。

油彩画日本画彫刻工芸など個人作品をベースとした芸術を、芸大卒業後も続けていきたいのであれば、公募展や団体の審査に適うものをつくる必要があります。そこでダメなら作品をつくらずにずっと先生をやっていくことになります。芸大出なのに、同人のままあるいは落選しつづけてもいいというなら話は別ですが、そんな芸大出はいませんし、作品がなくても芸大出なら一定の職が得られる可能性もあります。

素人が公募展で受賞しながら階梯を登っていくとやがて芸大出の絵を審査する側に立つこともあります。矢口八虎は天才の高橋世田介を超えますが、下界へ降りた芸大出は歯牙にもかけていなかった田舎者に追い抜かれてしまうことがある、ということです。プライドや落選の恐怖から、芸大出は県展のようなところへ出そうとしませんが、芸大出こそやるべきなのは県展のような公募展で多数の受賞をすることです。地方で絵を描いている人なら解りますが、芸大出で受賞実績なしなのに自治体に重用され大職に就いている人がいます。かならずいます。

絵描きで生きるには現実世界との親和性をもつことが大事だと思います。肖像画を描くけっこう美男な男がコメンテーターをやっていますが、テレビに出てしゃべっているからこそ退屈な肖像画に価値が生じているのであり、彼自身が画家というものの生き方がないことの証左にもなっています。だいたいこの映画の原作も芸大出の漫画家が描いた漫画です。
しかし、画家としてテレビへ出て面白いコメントを言うのも漫画原作がアニメになり実写映画になるのも輝かしい成功者であることは言うまでもありません。

一般的に将来はどうなるかわからないので、芸大を出たからといって芸術に関わらなければいけないわけではありません。にもかかわらず芸大を出ると将来の像が狭窄するのです。
たとえばわたしは簿記学校を出ましたが、簿記を生かす職に就いたことがありません。それでも簿記をやったことを、芸術ほどには惜しがられません。それは簿記が芸術に比べて花形な技能ではないからです。
庶民はこと「芸術」となると構えて硬化してしまうものですが、ブルーピリオドは庶民的なレベルで芸大合格を解りやすいスポ根ドラマにしていると思いました。

 

爽やかな不倫映画 早春 (1956年製作の映画)

早春[1956](1/12、15、18) - メトロ劇場 - 映画館情報・上映スケジュール(福井市)

4.0

不倫を題材にした小津安二郎としては異色作になっています。
ウィキペディアに『池部と岸にとっては唯一出演した小津作品であり、同じようなキャストを使い続けた小津にとっては異例であった。』とあり、積極的に路線・趣向を変えようとした感のある映画でした。

1956年製作の早春は東京物語(1953)の次にあたる映画ですが、その間の3年という開きは終戦から年1本のペースで映画を撮ってきた小津安二郎にとっては長いブランクだったそうです。
Early Springのwikipediaによると当時、大船調やホームドラマの人気が下落しており松竹が新機軸をもとめていたため、野田高梧と小津の脚本コンビは松竹と時代性に即していくつかの譲歩をした──とありました。
集大成といえる東京物語を作り上げたことで家族哀話が一段落したという監督自身の意中もあったのだと思います。
そこで当時のフレッシュな人気俳優を使った刺激的な不倫もの映画早春がつくられた──という感じだったのでしょう。ただし映画に刺激的なところはありません。不倫を扱ってはいますがヒューマニズムが横溢するいかにも小津印(じるし)な映画になっています。

ちなみに「大船調」とはネットの概説によると──
『松竹大船撮影所で作られた映画作品をしめすことば。暴力、裸などが描かれない、家族で楽しめる作品。多くほのぼのとした映画をしめす。』とのことでした。

蒲田に住む妻帯者の杉山(池部良)は都心の丸ビルにある東亜耐火煉瓦株式会社につとめています。会社でハイキングにでかけたとき、その大きな目から金魚とあだ名されている若い同僚(岸恵子)と急接近し、以後たびたび逢い引きするようになります。
杉山の妻、正子(淡島千景)は夫の異変に感づきますが、向き合うことができないままでいます。杉山の岡山への転勤を機に杉山と正子は夫婦として互いにやりなおそうと誓います。

不倫もの映画とはいえ杉山と金魚の交情描写はありません。接吻シーンでさえ横からではなく後ろからなので、どちらかの後頭部しか見えません。そもそも二人でいる描写自体がわずかなので、不倫の有無もあいまいであり、不倫よりも浮気と言ったほうが妥当なものです。
金魚は無邪気な幼い女で、じぶんが妻帯者と仲良くしていることに良心の呵責がありません。男の生態を観察しているような若い女っているでしょう。つきあうっていうより面白がっていて、こっちも愉しんで利用している──という状況が男にはあると思います。
むろんそんな関係は泡沫ですし遊びのつもりでしょうがパートナーが知ったら悲しむのは言うまでもありません。

しかし不倫は副次的なもので映画早春の主題はサラリーマン生活の閉塞感です。戦争で生き延びて、帰還し、日常生活に戻った人間、戻ろうとしている人間が撞着する悩み、あるいは戦争後遺症の話は内外問わず、しばしば映画になります。
杉山にも漠然とした不安があります。正子は気丈ですが、ふたりは子をつくったものの幼くして赤痢で失っています。その痛みに加えてサラリーマン生活は単調で、このままこうやって生きていていいのか、という憂慮が杉山にも正子にもあります。
そんなとき憂さを忘れてつきあえる金魚に接近してしまった──とはむろん男側の言い訳ですが、そういう流れをみてとることができます。

池部良は暗さをもった美男子です。ウィキによると1942年に召集され、46年復員するまでの間に、輸送船を撃沈されセレベス海を10時間泳いだり、ハルマヘラ島のジャングルをさまよったり、オーストラリア海軍艦長と交渉をまかされたこともあるそうです。戦争体験が俳優池部良に陰影と厚みを付け足しているように感じました。

映画には戦争が描かれていませんが戦争の影が色濃い映画です。
加東大介や三井弘次が演じている杉山の戦友は、生き延びるために必死だった戦場から、金稼ぎに必死にならなければならない平時に戻って、戦時を懐かしんでいるように見えます。平時の延命方法は、戦時の延命方法とちがって、ルーティン化された規則的なものです。高度成長期にあり、時代は激しい変化をとげています。かれらが抱えている将来への漠然とした不安が伝わってくることと、杉山の不貞が軽減されることは、無関係ではないと思いました。

ところで不倫について、人それぞれ違った見識があります。まず大前提として不倫とは当事者間の問題です。無関係な者がとやかく言うことではありません。
また、あまりこのようなことは言われませんが、芸能人の不倫についてけしからんと言う人は、おそらく恋多き人ではないでしょう。不倫・浮気はそもそもが魅力的な人のやることです。すなわち、わたしが不倫をしたことがないのは、とりもなおさずわたしに外見的魅力や甲斐性が無いからです。人様の不倫をどうこう言う前に不倫と無縁であるじぶんを顧みる必要があると思います。わたしは不倫を拒んだのではなく、できなかったのです。モテない。誰も寄ってこない。甘美な誘惑を知らない。そんな非モテの不倫未体験者が不倫をけしからんと言うのは惨めなことです。不倫をどう見るかそれぞれの勝手ですが個人的にはそんな風に思っています。

多目的トイレでコトにおよんだ芸人がいましたが男とはそういうものです。もしあなたが男で、かたわらに乗り気な女がいて、目の前に多目的トイレがあって、とくに誰かに見られる心配もなくて、それでもおれはそんなことはしないと言うのだったら、そりゃあたいしたものですが、ただしこの芸人は「男とはそんなもの」と知っているきれいな女と結婚する甲斐性をもっていました。雲泥の差だと思います。

話が逸れましたが早春は浮気をあつかってはいるものの、それは枝葉になっていて、最終的にはしっかり前を向いて生きようとする夫婦像をおしだして、正しい世道を説きます。同時に正子の母を演じた浦辺粂子に『女は三界に家無し』という台詞を言わせて、銃後女性の辛労にも配慮しています。

淡島千景は、いつも毅然としていて、さっさと家を出て行く鉄火なところもあるので、話の見た目はさっぱりしています。これを田中絹代が演じていたら、可哀想で仕方ない──ということになりますが、淡島千景なのでほとんど憐憫を感じません。さらに岸恵子が裏表のないお嬢様なので、まったく悪意を感じません。暗い池部良ですが、ふたりの明るい美人のおかげで、こんな爽やかな不倫映画があるんだろうか、というくらい爽やかな不倫映画になっていると思いました。
imdb7.7、RottenTomatoes100%と88%。

女は三界に家無しとは──
『《「三界」は仏語で、欲界・色界・無色界、すなわち全世界のこと》女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。』

 

おでこをつつくと屁がでる芸 お早よう (1959年製作の映画)

4.0

1932年の無声映画「大人の見る繪本生れてはみたけれど」をセルフリメイクしたものだそうです。彼岸花につづいて2本目のカラー映画になるそうです。Plexという無料ではありますがCMの多いストリーミングサービスで見ました。

小津安二郎お得意の父娘哀話ではなく、平屋がならんでいる郊外で、お隣と密接に関わって暮らしている人々が巻き起こす、謂わば長屋風のコメディになっています。
舞台は助産婦という看板が目立つ公社住宅風の家並みです。昭和半ばごろまで、子供を産むのに病院へ行くのではなく地域の助産婦さんがそれぞれの自宅へ赴いて分娩を手助けしていたそうです。

中学生と小学生の兄弟、実と勇は、勉強もそこそこにしてテレビのあるお隣宅へいりびたって相撲を見るのが日課になっています。
しらべてみると1953年にシャープが国産第一号テレビを発売したそうです。1959年の映画公開当時、テレビはまだ高嶺の花だったことでしょう。

テレビ所有者であるお隣の男を大泉滉が演じていました。昭和時代、よく見たクォーターの喜劇役者で、顔がダリっぽくダリ髭をつけるとそっくりでした。概してダメ亭主を演じる俳優でしたが、ここでもボヘミアン風の男で、夜職風の女と同棲しています。

この男女はその賤業気配や風体によって近所の主婦たちから白眼視されています。実と勇の父母(笠智衆と三宅邦子)もそこへの出入りを禁じようとしますが、兄弟は隣へ行かせたくなければテレビを買ってくれと駄駄をこねます。

要求を塞がれてしまった兄弟はしまいには結託して緘黙(しゃべらないストライキ)を実施し、兄弟がしゃべらなくなったことで親たちや学校へ不協和が波及していくというドタバタ劇になっています。

子供のころ、友達や兄弟と遊びでなにかの取り決めをしたとき「タイム」を設けておくことは重要でした。たとえば「だべさ縛り」で話すことにしても「タイム」を宣言すると縛りが解除され、親や学校と接するときは「タイム」にしておくことで、取り決めを破棄することなくやり通せるわけです。

しかし実と勇のしゃべらないストライキは基本的にタイムなしでした。弟・勇は緘黙にタイムはありかと兄・実にたずねますがタイムなしと言われてしまったので、学校でも律儀に黙ったままやり通します。ただし常にタイムのサイン──所謂okサインを出して口を開く許可をもとめていました。その姿がけなげで勇を演じた豊頬の子役(島津雅彦)は映画の実質的な主役といえるアイキャンディになっていました。

兄弟の反抗期を通じて、小津安二郎が言いたかったのは、大人の会話のもどかしさです。
父親に「余計なことを言うな」としかられた実が「大人だって(余計なことを)言うじゃないか、お早う、こんばんは、こんにちは、良いお天気ですね、って」と反論したことが題名になっていますが、挨拶はともかくとして大人の会話が目的や立場や状況などによって余計な枝葉をつけるのは社会の理です。ご近所づきあいとテレビ騒動を通じて大人の会話の非合理性が諷刺的に描かれています。

近所に福井という姉弟(沢村貞子と佐田啓二)が住んでいて、その家も実と勇の遊び場になっています。佐田啓二は、実と勇の叔母である久我美子に恋心をいだいていますが、本心を言うことはありません。駅のホームで会ったふたりのそらぞらしい会話がスケッチされています。

福井(佐田啓二)『ああ、いいお天気ですね』
節子(久我美子)『ほんと、いいお天気』
福井『この分じゃ二三日続きそうですね』
節子『そうね、続きそうですわね』
福井『あ、あの雲、面白い形ですね』
節子『あ、ほんと、面白い形』
福井『なにかに似てるな』
節子『そう、なにかに似てるわ』
福井『いいお天気ですね』
節子『ほんとにいいお天気』

ただし諷刺を本題に据えているわけではなく軽いコメディとして着地しています。
映画の起と結になっているのは学校で流行っている、おでこをつつくと屁がでるという芸です。この芸には軽石を削った粉が効くとされているので兄弟は軽石粉を食べています。軽石とはお風呂でかかとなどの角質をおとすものです。今はそうでもありませんが昔はたいてい風呂場にありました。母親は軽石が日毎目減りしていくので軽石ってネズミがかじるものかしら──と夫に相談したりします。
この芸がうまくできない近所の「こうちゃん」は屁じゃないものがでてきます。屁じゃないものがでてきて立ち往生してしまうのが映画の起と結になっているわけです。

映画お早うの笑いはダウンしたテンションの謂わばアレクサンダーマッケンドリック風orジャックタチ風、現代で言うならジャームッシュ風の笑いです。ブラックユーモアともちがう、大人っぽく、笑わせようとしない、穏やかで温かみのある、現代の日本映画では見たことのない笑いでした。

佐田啓二がよかったです。昔の人の意見風に聞こえるかもしれませんが、現代の美男子にはない正統な感じがあり、まるで昔のグレゴリーペックのようです。おそらくこれを見たらご賛同いただけることでしょう。

『息子の中井貴一は、当作品中の佐田について「小賢しくない、余計な芝居のない演技をしていて、父の出演する小津映画の中では一番好きです」と評している。』
(ウィキペディア「お早う」より)

黒澤明の映画をみんなおなじという人はいないでしょうが、小津安二郎の映画をみんなおなじという人はいるでしょう。わたしも東京物語と晩春と、二つ三つ見て、わかった気になっていましたが、しっかり見ていくとそれぞれ主題がちがうものです。わたしは映画をよく見るので、わかった風なことをレビューに書きますが、こうして一人の監督をひとつひとつ見ていくと、よくわかっていなかったことがわかります。
IMDB7.8、RottenTomatoes88%と87%。

見えないレイヤー 彼岸花 (1958年製作の映画)

3.8

小津安二郎はじめてのカラー映画だそうです。小津映画解説でよく引き合いにされる赤いやかんも出てきました。

大企業の常務である平山渉(佐分利信)が長女節子(有馬稲子)の突然の嫁入りに気を揉むという話で、父としての心境の変化をコミカルに描いていきます。

佐分利信が演じる父は、他の小津映画で笠智衆が演じる優しい父ではなく、昔ながらの封建的な父です。
前段で友人や人の娘にたいしては、結婚は当人の主体性に任せるというリベラルな結婚観を披瀝しておきながら、いざ自分のところへ佐田啓二が「娘さんをください」と願い出てくると、すっかり憤慨し、実質的に節子を家に軟禁してしまうのです。今なら虐待になるでしょう。

彼岸花の主題は娘を嫁にやる父の悲哀ですが、同時に父と母もしくは夫と妻の課題の違いが描かれています。
両者の意識と役割の差を如実にあらわしている会話がありました。
一家は箱根へ家族旅行に来ていて娘二人は芦ノ湖で手漕ぎボートに乗っています。湖畔でその様子を眺めながら、夫婦は久しぶりの一家団欒にしみじみとしています。

平山清子(田中絹代)『戦争中、敵の飛行機が来ると、よくみんなで急いで防空壕へ駆け込んだわね。節子はまだ小学校へ入ったばっかりだし、久子はやっと歩けるくらいで。親子四人、真っ暗な中で、死ねばこのまま一緒だと思ったことあったじゃないの』
平山渉『うん、そうだったねえ』
清子『戦争はいやだったけど、時時あのときのことがスッと懐かしくなることあるの、あなたない?』
渉『ないね。おれはあの時分がいちばんいやだった。ものはないし、つまらんやつがいばっているしね』
清子『でもあたしはよかった。あんなに親子四人がひとつになれたことなかったもの』
渉『なんだ、このごろおれの帰りがちょいちょい遅くなるからか』
清子『でもないけど。四人そろって晩ご飯食べることめったにないじゃない』
渉『そりゃあおれの仕事がだんだん忙しくなってきたからさ。そのかわり暮らしもいくらか楽になってきたじゃないか』
清子『でもやっぱり』
渉『やっぱり、なんだ?』
清子『ううん、もういいの』

この会話には三つのポイントがあると思います。ひとつ目は戦争、ふたつ目は高度成長期、みっつ目は家父長制社会です。
戦争が必要悪となって家族・夫婦の絆をつくり、戦争がおわると高度成長がきて夫は忙しくなり、夫の収入をあてにする妻は必然的に夫に従属的になる──という図式がこの会話から見えてくるからです。

小津安二郎の映画は総じて、戦後、民主化と西洋化の波が一緒くたになって押し寄せ、社会と文化が急速に変化しているときの映画です。平山はじぶんのビジネスや仕事量がじょじょに拡がることと、収入がふえるのを日々実感しながら、一方で娘が結婚するというごくありふれたイベントに直面しなければなりませんでした。これらの社会背景は小津映画のダイナミズムと無縁ではありません。父が娘を嫁にやるという珍しくもない出来事を描いた映画がわたしたちの心をうつのは、娘の嫁入りに戦後と高度成長期と家父長制社会(封建社会)が絡んでくるからこそです。彼岸花や秋刀魚の味を、今リメイクしたって面白くもなんともないわけです。

おそらく父・夫の気持ちは純粋な寂しさからくるふてくされだと思います。彼は封建的で頑迷な男ではありますが、最終的には、娘のためなら自我は引っ込めておこうとする賢さもありました。母・妻とは当初意見が食い違いましたが、完全に決裂することはありませんでした。
ある意味、平山渉の強情さを突き崩したもの、つまり封建的な男を教育した出来事が戦争だったとも言えるはずです。小津映画で「つまらんやつがいばっているしね」という台詞を聞いたのは二度目ですが、復員した男たちが、威張っている者とそれに隷属する者の構造、家父長制社会に不条理を感じるのは順当なことだと思います。敗戦が男たちの意識を変えたのです。

旧友である佐分利信、中村伸郎、北竜二らはクラス会をやりますが、そこで笠智衆が詩を吟じます。生きて帰ることはないと決心したので如意輪寺の門扉に矢じりで辞世を彫った──という太平記の一場面となる楠木正行の詩だそうです。そんな詩をしんみり聴くのはこの時代のクラス会が必然的に戦争で生き残った者の再会になっているからでしょう。
娘たちのあたらしい門出と戦争での喪失が同居していることも小津映画のダイナミズムを支えているはずです。

つまり、わたしたちは赤いやかんなど絵的に美しく配置された小道具に小津映画の美学を見いだしますが、じつは戦争や高度成長期や家父長制社会・その崩壊という、絵には見えない奥のレイヤーがあるからこそ小津映画はわたしたちの心に響くのだ、と思ったのです。

一方で、小津映画は日本の裕福な一側面だとは思います。平山は都心で仕事をしていますが、家には縁側がありどこからともなく練習中のピアノが聞こえてくるようなのどかな戸建てです。清子は専業主婦に見えますが女中を雇っていますし、帰ってくると背広を着物に着替え、風呂にするか晩ご飯にするか選ぶような暮らしぶりです。
こうしたポジションの人々を描くのは、おそらく衣食足りて礼節を知る──からだと思います。衣でも食でも住でも、足りないのであれば、娘の嫁入りが悲しい父の悲哀を描く以前の問題になってしまうからです。娘の結婚に対する父の心境に焦点をあてたいのであれば、他の問題が見えては焦点がぼやけてしまうからです。
と同時に、小津安二郎に、映画とはきれいなものを描くものだ──という強固な信条があったから、だとも思います。小津映画の、現代の日本映画よりも美しい画面構成や女たちを見ればおのずとそれがわかるはずです。

撮影に際して赤の発色がきれいという理由でわざわざドイツ製フィルムを選んで使ったそうです。そのせいか、赤いやかんが、たしかに鮮烈な赤でした。
また、すでにカラフルな彼岸花のコントラストをさらに強くしていたのは山本富士子でした。その母役の浪花千栄子が演じた、やかましくてそそっかしいキャラクターも出色で、昔の映画だと思ってたかをくくっていましたが、所々ほんとに笑えました。

英題Equinox Flower、imdb7.8、RottenTomatoes88%と87%。



元祖メロドラマ 秋刀魚の味 (1962年製作の映画)

3.8

小津安二郎は1963年12月12日、誕生日とおなじ日にがんのため60歳で亡くなり、1962年製作の本作が遺作となりました。
おなじみのテーマである父娘の別れ──娘の嫁入りをあつかったドラマですが、より通俗的にユーモラスに描いています。乱暴に言うと晩春を格調高いとするならその格調低いバージョンが秋刀魚の味です。そんな風に見えるのはこの映画が典型的な家庭メロドラマのシチュエーションで構成されているからですが、おそらく家庭ドラマというものの発明第一号が秋刀魚の味なので、秋刀魚の味からこんにちに至るまでのもろもろをわたしたちが見て知っているゆえに、発明第一号が通俗的に見えてしまう、という現象によって秋刀魚の味は通俗的なのだろうと思います。

カラーなので小津安二郎の画面構成となるレイヤー細工がよりにぎやかに見えます。マグカップ、ウィスキー、ビール、ショットグラス、灰皿、テーブル上のさまざまな食器、ランプシェード、掃除機、家具や団居、洋服や着物。飲み屋街の看板、家や塀、煙突、森永地球儀ネオン。それらのショットがめまぐるしく変わりながら、彩り豊かに画面をにぎやかします。が、カメラは110分間、1ミリも動きません。役者たちも劇的な演技をしません。腰位置にカメラを据え、セリフを言う毎にカットが変わる、この世にふたつとない映画手法で語られる小津映画の集大成といえる映画になっていると思います。

父である周平(笠智衆)が娘の路子(岩下志麻)を嫁がせるために腐心するという話です。
周平が路子を嫁にやることに躍起になったのは「ひょうたん」とあだ名されている恩師(東野英治郎)の言葉に感化されたからです。
ひょうたんは厳しい漢文教師でしたが、40年ぶりに同窓会をやってみると、下町で娘と燕来軒というラーメン屋をやっていることが判明します。それがいかにも凋落したように描かれていて、いつもピシッとしたスーツを着ている周平らと比べ、薄汚れた前掛けをかけていることに加え、師であったにもかかわらずかつて生徒だった周平らに対して、下男のような言葉づかいで接します。

そんなひょうたんが酔ったとき「娘を便利につかってしまった」という悔恨を吐露します。小津映画で、いつもはちゃきちゃきしている杉村春子が、ここでは父の燕来軒を手伝っている行き遅れた娘を演じています。ひょうたんの悔恨は、娘が嫁にいかないのをいいことに店を手伝わせた結果、娘を「いかずごけ」にしてしまった、彼女の人生を不幸にしてしまった──というものです。

現代は多様性の時代なので、いかずごけは不幸とイコールになりませんし、公人がそんなことを言ったら直ぐに炎上しますが、やはり男も女もはやく結婚して子供をつくって結婚生活を長くつづけるのが、いちばん真っ当な人生だと思います。
多様性軽視になるので言わないだけで、一般的にもそういうものだと思います。わたしは離婚しており子供もいません。そういう人間が、ごく一般的な社会でどういうポジションを得られるか、考えるまでもなく解りきった話です。時代が進歩しようとも、男女がつがいになって生きるという人類の営みのプリミティブな要件は変質しようがないわけです。

したがってこの映画が伝えている父の焦りも全人類に解る気持ちです。じっさいにIMDB8.0、RottenTomatoes95%と91%で、外国人も高い評価で「秋刀魚の味」のペーソスに共感しています。
英題はAn Autumn Afternoon。「秋の昼下がり」という英題にしては珍しい独自タイトルですが『the taste of saury』と言うわけにもいかなかったのでしょう。
われわれにしたって「秋刀魚の味」ってなんなんという感じですが、この題は、娘を嫁にやって悲しむ父の話ではあるが、それは秋刀魚の味のように日常的なことだ──という意味を込めたものだと思われます。小津安二郎が次回作として構想をすすめていた映画の題が「大根と人参」だそうですので、日々接する食材のようなことを描いているのですよ、と小津安二郎は言いたいのでしょう。

確かに日常的な食材のようによく解る話ですが、まっとうな人ほど刺さる映画だと思います。周平のように娘を嫁がせた経験者ならなおさらです。逆にいけずごけであったり、人生に失敗した人にとっては、これが家庭メロドラマ第一号であることを考慮しても出来すぎのドラマです。

また、ひょうたんの描写はやや残酷に感じます。漢文教師が退職してラーメン屋をやっているのは、むしろポジティブな行動力ですが、映画でひょうたんはおちぶれた者のように扱われています。誤解をおそれずに言うと、ひょうたんの描写は、中産以上の階級が飲食業を見下した描写になっています。総じて小津映画の登場人物が比較的裕福かつホワイトカラーなので、ブルーカラーがやや卑しく描かれるきらいがあると思います。

そうは言っても、この映画の時代は日本の戦後高度成長期のど真ん中です。
佐田啓二が冷蔵庫を買うから金(5万円)を貸してほしいと周平に頼む場面や、トマトを借りにお隣を訪れた岡田茉莉子が掃除機を見て「どう掃除機、具合いい?」とたずねる場面や、お隣の主婦が(冷蔵庫を買うと言った岡田茉莉子に)「でもあんなの早く買うと損ね、あとからどんどんいいのができるから」と応える場面などがあり、時代性をうかがい知ることができます。

一方この映画ほど戦争がのんきに語られている映画もありません。周平は戦時中海軍で駆逐艦朝風の艦長をやっていました。燕来軒で朝風の乗組員だった坂本という男(加東大介)と偶然に出会い、岸田今日子がママをやっているトリスバーで飲み直します。

坂本『ねえ艦長どうして日本負けたんですかねえ』
周平『んん、ねえ』
坂本『おかげで苦労しましたよ帰ってみると家はやけてるし食い物はねえしそれに物価はどんどん上がりやがるしねえ』
(中略)
坂本『けど艦長これでもし日本が勝ってたらどうなってますかね。おいこれトリス、瓶ごともってこい瓶ごと。勝ったら艦長、今ごろあなたもあたしもニューヨークだよニューヨーク。パチンコ屋じゃありませんよ、ほんとのニューヨーク、アメリカの』
周平『そうかね』
坂本『そうですよ、負けたからこそね、今の若え奴ら、向こうのまねしやがって、レコードかけてケツ振って踊ってやすけどね、これが勝っててごらんなさい勝ってて。目玉の青い奴が、丸まげかなんかやっちゃって、チューインガム噛み噛み、しゃみせん弾いてますよ、ざまあみろってんだい』
周平『けど、負けてよかったじゃないか』
坂本『そうですかね、うん、そうかもしんねえな、バカな野郎が威張らなくなっただけでもね、艦長あんたのこっちゃありませんよ、あんたは別だ』

「バカな野郎が威張らなくなっただけでも(よかった)」とは実際に戦地を転々とした小津安二郎の実感ではなかったかと思います。一兵卒にとってみれば戦争とはたんにバカな野郎が威張っていただけのイベントだったのかもしれません。

余談ですが画家、映画監督、小説家など、顔を見ることが後になるタイプの職業があり、じぶんが好きだったそのクリエイターの顔をはじめて見たときの印象というものがあります。で、いい仕事をするクリエイターは、おうおうにしていい顔をしているものです。そうではありませんか。わたしは面相をよめるわけではありませんが、小津安二郎の顔をはじめてみたとき、ああやはりいい顔をしている、と思ったのです。

熱燗が飲みたくなる 東京暮色 (1957年製作の映画)

4.1

数年前東京暮色がにわかに着目されたのは有馬稲子の一枚の劇中スチールだった。おそらくvoguejapanか何かに載って火が点いたのだろう。

うしろで束ねていてショートヘアよりも短く見える髪型だった。ほおづえをつき、ほおをささえた手指にタバコをはさんでいた。丸顔の中心にある大きな目が不安そうにこっちを見ていて、なんともいえない表情をしている。白黒写真だが着衣も髪型も昔の女性には見えない。が、今様のコンプラに抵触するタバコをはさんでいる。だれもが「これは誰?」と思った。
それが東京暮色の有馬稲子だった。圧倒的なモダニズムだった。とうてい半世紀以上昔の映画女優には見えなかった。いや、現代だってこんな美しさとアンニュイが同居する表情をとらえた写真はなかった。

その東京暮色をはじめて見た。
東京暮色は小津安二郎が得意とする父娘のテーマを扱っているものの、機能不全に陥った家庭を描き、話は絶望的と言えるほど暗かった。
多くの人が小津安二郎の映画の中で一番暗いと認めているそうだ。

わたしも孝子が「あきちゃん死にました」と言ったときはびっくりした。事件らしい事件がおこらないのが小津映画であり、夢落ちにするのかとさえ思った。

ただし外国の批評家たちは一様に「悲しい話なのに気楽な雰囲気がある」と評価していた。同感だった。暗い話だがぜんぜん暗くなかった。

だいたい喪服の孝子(原節子)が母親(山田五十鈴)がやっている雀荘にやってきて、おもむろに「あきちゃん(有馬稲子)死にました」と言う前段のシーンといえば、藤原釜足が病院の宿直に「つい珍々軒て言うの忘れたからねよく教えといてくれよ珍々軒たのむよ」と言伝する場面で、珍々軒のシーンではうしろにぜんぜん場所にそぐわない安里屋ユンタが流れているのだった。ちなみに珍々軒の読みは当然と言えば当然だがちんちんけんだった。

出演者が小津安二郎の演技指導通り能面・無感情で演じているから悲劇が悲劇にならないのだった。劇的にしないことがドラマをどれほど見やすくするのか──を小津安二郎は教えてくれると改めて思った。

ウィキによると東京暮色はエリアカザンのエデンの東(1955)を小津流に翻案したものだそうだ。明子役は岸惠子の予定だったがスケジュール都合で有馬稲子が抜擢された。暗い作品なので公開年の旬報ランキングで19位になり、一般的にも長らく失敗作と見なされていた。
が、東京暮色、英題Tokyo Twilightは、IMDBは8.1、RottenTomatoes100%と92%である。

かつて書いた東京物語のレビューでIMDBは8.2だった、と書いているが、いま見ると8.1である。ストリーミングサービスが波及し小津安二郎が世界中で見られるようになったことで東京物語以外の小津安二郎の評点が底上がりしているように感じられる。秋刀魚の味、東京暮色、麦秋、東京物語、晩春がいずれも8超えだった。

思うに映画における慧眼・先見の明とは、公開当時にそれが良い作品であることに気づくことだろう。
オーソンウェルズのTouch of Evil(1958)はIMDB8.0の名画である。チャールズロートンのThe Night of the Hunter(1955)もIMDB8.0の名画である。ところが両者は公開当時、興行的にも批評的にも失敗している。後年、それが良い映画であることを誰かが言うまで過小評価されていた、わけである。そのように時間が経ってから再発見される映画があり、東京暮色にもそれが言える。

『小津当人は自信を持って送り出した作品だったが、同年のキネマ旬報日本映画ランキングで19位であったことからわかるように一般的には「失敗作」とみなされ小津は自嘲気味に「何たって19位の監督だからね」と語っていたという。』
(ウィキペディア、東京暮色より)

悲劇色のせいで埋もれてきたが、東京暮色は核心を突いていた。父がいて娘がいて、父が娘を心配している、東京物語のように誰にでも理解できる共通言語のような話だった。と、同時に、色あせない有馬稲子の風采によって東京暮色は再発見された。

有馬稲子は後年書いた自伝のなかで市川崑との7年間の不倫関係と堕胎をぶちまけ「許さない」と結んでいるそうだ。明子は悲劇のヒロインだったが、東京暮色が今も輝きを失わないのは、明子の勝ち気なキャラクターが素の有馬稲子を反映していたから、かもしれない。

個人的にもっとも印象的だったのは、山田五十鈴が演じる母親が室蘭へ発とうとしている上野駅で、娘の孝子が見送りにくるかと思って何度も何度もホームを確認する場面。ホームで応援部が凱歌をやっていて「おおめいじ」と歌っている。明子が死んでしまったから孝子がたったひとりの娘だ。が、発ってしまえばその一人娘とも永遠に会わないかもしれない。だから母は目を皿のようにしてホームを何度も何度も見る。とても不憫で印象に残った。

──

さいしょに周吉(笠智衆)が入ってくるカウンターだけの店で浦辺粂子が女将をやっている。このわたが入ったと言うので燗をつけてもらい牡蠣もあるというので雑炊と酢でおねがいした。

「あけみちゃんはきょうは」
「スキーに出かけちゃったんですよお友だちと、清水トンネルくぐってった向こうのなんとかってとこ、雪が350キロも積もってるんですって」
「そうは積もるまい350キロていや名古屋あたりまで行っちゃうもの、そりゃセンチだろ」
「あらそうですか、やだねえ」

昭和世代はご記憶されていると思うが晩年の浦辺粂子はバラエティやCMに出てくる楽しくて愛らしいお婆ちゃんだった。

手なずけられた子供 Love According to Dalva(英題) (2022年製作の映画)

3.7

ダルバは小児性愛者の父親によって立場的にも性的にも妻として扱われていた12歳の少女。
そのグルーミング(=未成年が精神的・肉体的に手なずけられ、アイデンティティが歪むこと)を解いていくのが映画の骨子。

母親は当時5歳だったダルバの共同親権を約束して父親と別れたが、反故にされ父親とダルバは行方不明になる。母親が探している7年のあいだに父親は自分の娘であるダルバを洗脳し捕食した。結果、ダルバは12歳でありながら大人のような化粧・服装をしている。

父親は通報でつかまり、ダルバは虐待児のシェルターに入って学校へも行くようになった。が、グルーミングは容易には解けず、思春期も重なって幼いエルザの心は千千に乱れる。

話はおぞましいが映画はドラマチックな描写一切なしでつくられている。が、じょじょに子供らしいあどけなさ、無邪気さを取り戻していくダルバを演じたZelda Samsonの変化と、その表情を捉えたEmmanuelle Nicot監督の技量はドラマチックだった。

グルーミングからの解放とは、友達をもつことと、自分に起きたことが自分のせいではないのを知ることだ。しかし解放されたとて、父親からされたことはダルバの心を一生涯蝕むだろう。それがダルデンヌ兄弟風の坦坦としたタッチで描かれている。
映画は2022年のカンヌ映画祭でFIPRESCI賞をとった。FIPRESCIは国際批評家連盟と訳されるそうだ。

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ハリウッドがこぞって民主党押しだったのはトランプ大統領がエプスタインの顧客リストを公開すると示唆したからだとも言われている。ハリウッドにはそれが公開されると失墜する小児性愛者がいて、かれらが自身で、また周囲を焚きつけて、トランプ排斥の構図をつくったが、結果は及ばなかった。

民主党と共和党という名前なので解りづらいが、アメリカの既得権益者サイドは民主党である。少なくない既得権益側の著名人がエプスタイン島でひとときを過ごした、と言われている。アンドリュー王子は氷山の一角に過ぎない。

今話題はエプスタインからディディに移っている。彼が何度となく主催したフリークオフ(未成年者との乱交パーティ)に呼ばれ乱交に参加した者、またその実態を知っていながら、それを黙認している者がいるとされ、再びハリウッドは戦々恐々としている。ジャニー喜多川しかり、鑑みれば芸能界全体が小児性愛者の温床であるという見方は決して飛躍しすぎではない。その影には何人ものダルバがいるに違いない。

imdb7.3、RottenTomatoes95%と100%。

unextで見た。邦題:小さなレディ。

 

是枝裕和監督のデビュー作品 幻の光 (1995年製作の映画)

4.2

是枝裕和監督のデビュー作であり江角マキコのデビュー作でもあった。
Maborosiというタイトルがついていて海外で評価が高い。RottenTomatoesのオーディエンスレビューを見て解ったがMaborosiは海外にコアなファンをもっている。
一方日本でそれほどでもないのはおそらく主演女優の保険料の未納問題や落書き問題が影響していると思われる。

良くも悪くも芸能界を駆け抜けた人であり、幻の光の「ゆみ子」とはタイプが違い、ショムニや肉食系のイメージが固着しているので「むかし猫かぶって是枝映画に出てた」という下馬評が形成され、映画自体もそんなふうに流された、の感がある。

じっさい本作の江角マキコの演技は棒であり上手ではなかった。ただし言わば小津映画のように上手ではない棒演技で大丈夫につくってある映画だった。江角マキコの素人っぽさはむしろ好ましく、且つ内省的な「ゆみ子」の性格を表現し得ていたと思う。
また是枝映画ファンなら解ると思うが是枝監督は女優に関して面食いで、演技力と面なら、面をとる監督だと思う。当時、新進で曲がりなりにもきれいな江角マキコは監督好みだったに違いない。

海外では特に撮影がほめられていて小津安二郎や侯孝賢(ホウ・シャオシェン)が引き合いにされているが、長回しや静けさや遠景での撮影距離感などテオアンゲロプロスを思わせた。ご覧になれば解ると思うが演技力を必要としない俯瞰的な映画だった。
現行の是枝裕和よりずっとアートハウスな、と言うか、ばりばりのアートハウス映画だが、こけおどしなアートハウスではなく、ペーソスが解る、内容のある監督がデビューしたことが解る映画だった。

ちなみにこけおどしなアートハウスとは河瀬直美みたいに深刻or高尚っぽいテーマをもっていて、その真意は解らないし、そもそも下手なので伝わらないのだが、深刻or高尚っぽい雰囲気に気圧されて、なんとなくサムズアップが醸成される、という感じの映画をこけおどしのアートハウスと言っているのだが、きょうびの日本映画、ほどんどがそこへ当てはまると思う。
ていうか「こけおどしのアートハウス」は所謂「日本映画」の特徴と言える。

幻の光の話の骨子は、ゆみ子が郁夫(浅野忠信)の自殺を理解できないことである。
優しく温厚な民雄(内藤剛志)と再婚し、海辺の村で息子と連れ子と幸せに暮らし、悲しみが次第に和らいではいくものの、しかし郁夫の死は痼り(しこり)のようにゆみ子の心に影を落としている。それを民雄に打ち明けたときの回答がこの映画の題にも関わる白眉になっている。

ゆみ子『うちな、わからへんねん、あの人がなんで自殺したんか、なんで線路の上あるいてたんか。それ考え始めると、もうあかんようになんねん、なあ、あんたはなんでやと思う?』

民雄『海に誘われる言うとった。おやじ、まえは船に乗っとったんや。ひとりで海のうえにおったら、沖のほうにきれいな光がみえるんやと。ちらちら、ちらちら光って俺を誘うんじゃ言うとった。誰にでもそゆことあるんとちゃうか。』

幻の光は、大切な人の自殺について生き残った人にその理解方法を提供する話、と言える。
自殺は、忌まわしく、やってはいけないことだが、もし誰かの自殺に遭ってしまったなら、幻の光に誘われて行ってしまったんだ──と理解したほうが生きるのが楽だ、と民雄、ひいては作者宮本輝は言っていて、それを婉曲に語っている。

世の中には「なぜ死んでしまったのだろう」という自殺がある。有名人でも、ある。その「なぜ」の深淵を見つめてしまうと「もうあかんようなんねん」という混沌と不信に陥る。だから光に誘われて行っただけ──という、気持ちを和らげる理解が必要なんだ、と映画幻の光は言っているわけ。

こだわったのは長回しよりも自然光で暗くてリマスターがなされてほしいと切実に思った映画だった。また、イケボな内藤剛志がテレビづいていて映画へ来ないのを改めて残念に思った。
imdb7.5、RottenTomatoes100%と83%。



グレターガーウィグトリビュート マイ・オールド・アス ~2人のワタシ~ (2024年製作の映画)

4.0

未来の自分に会って今の自分を見つめ直すという話になっている。レディバード(2017)を思わせた。というのもレディバードの骨子は家族愛と地元愛を再認識するところにあったし、主人公エリオット(Maisy Stella)の弟がシアーシャローナンのストーカーちっくなファン(アイルランドに行って結婚すると豪語している)に設定されていて、またストーリーオブマイライフ(2019)を何度も見た──というエリオットの台詞もあり、全体としてグレターガーウィグトリビュートな映画になっていたと思う。

Megan Park監督は銃撃事件のトラウマを乗り越えようとする女子高生を描いたジェナオルテガ主演のThe Fallout(2021)で長編デビューし、これが2作目だそうだ。
監督はグレタガーウィグの大人っぽい精神性を受け継いでいて、主人公らの魅力を引き出してもいる。西洋世界への羨望傾向をもった人間に、やみくもな卑下祭をさせるような、大人の青春映画だった。
毎度の言及だが、たとえば日本の女流監督の第一人者とされている人と本作の精神的大人度を比較するとその隔たりに唖然とする。と同時にMaisy StellaもPercy Hynes Whiteも魅力的で、さりげなくLGBTQ値も効かせて、日本人のWestern feverをくすぐりまくったあげく、やつがれさせる映画になっていた。

レディバードはサクラメントだったが、本作はどこか解らないが、魅力的な地元描写があった。
高校を卒業したエリオットは毎日ボートを蛇行運転し、湖でスキニーディッピングをし、森に入って幻覚キノコをきめて、時には親のクランベリー湿地の収穫も手伝う。

どうだろう。日本にはこういう地元愛をもてる地方があるんだろうか。個人的には故郷にわずらわしさしか感じたことがない。ほかの人がどう思っているか知らないが、日本の地方というものは、ここにでてくるような美しい場所ではなく、たんに国道の両脇にすき家とか回転寿司とかファミレスがならび、商店街がシャッター街になっていて、イオンだけに人がいる、どこでも同じ「ファスト風土」である。

だいたい日本人は嫌悪から郷里を出ていくのだが、レディバードやこの映画のエリオットは居心地が良すぎる地元に慣れてしまうことに危機感を感じて郷里を出ていく、わけである。ぜんぜん違う。

以前ストーリー・オブ・マイライフのレビューに『レディバードは中産階級より低層な家庭の設定だが、冒頭で母子はスタインベックの怒りの葡萄のオーディオブックを聞いて涙を流している。──のである。』と書いたのは、登場人物の大人度が日本とは違うと感じたからだが、健全な地元愛があってこそ家族愛や教養がはぐくまれる──という感じがこの映画にもあった。

つまり登場人物の大人度にも映画のつくりとしての大人度にもわれわれとの懸隔があり、Megan Park監督は若い頃の自分と今の自分の和解をテーマに、ユーモアとペーソスをもってこれを書いたのであって、その感性の格差はわれわれというか少なくともわたしを悄然とさせた。
あたりまえだが、外国人がたとえば「日本のアニメはすばらしい」と思う以上に米映画は日本人を驚嘆させる。そこは勘違いしてはいけないと思う。

未来の自分に会うという超現象はさりげなくて理由も構造も明かされないが違和感はなかった。Maisy Stellaには自然な肉感があり、率直に言ってその未来がオーブリープラザとは思えないが、毒舌と奇矯な性格のタイプはオーブリープラザに似ていた。
Maisy Stellaはフローレンスピューのようなトランジスタな肉食女の気配と思春期らしい多感さが同居した2024時点で20歳のZ世代だがすでに老成した大人っぽさもかいま見えた。

サンダンスでプレミア上映されたあとアマゾンが23億円で配給権を買ったそうだ。ゆえにプライムビデオ内で見ることができた。
imdb7.0、RottenTomatoes90%と89%。

遺跡への旅路 コンパートメントNo.6 (2021年製作の映画)

4.0

Kanozero Petroglyphsはロシアにある遺跡だそうだ。岩石に動物の絵や文字が刻まれているが、意味はまだ解明されていない。フィンランドの女学生が列車に乗ってその遺跡を見に行く。その道中劇。

カンヌのグランプリ(二席)になりアカデミーの国際長編映画賞にもノミネートされている。が、個人的には当初の印象はあまりよくなかった。

主人公は女性だが寝台列車で見ず知らずの青年と相部屋になる。青年は狭いコンパートメントでタバコをふかし酒を飲んで酔っぱらっている。ロシアだから野蛮なのだ──と察しはするが、わたしたち日本人には考えられない状況だ。

旅は道連れ世は情け──を言いたいのはわかるにしても国内の列車事情に慣れた日本人からみるとありえない。モスクワからムルマンスクまで、たんに遺跡を見に行くだけなのに冒険しなきゃならない未成熟なインフラ。それが気にかかって感情移入できなかった。

が、見てから時が経ち、不意にこの映画を思い出すことがあった。見てすぐの印象は良くなかったが、思い返すとあれはいい映画だった──と考えを改めた。
山田洋次の映画で家族(1970)というのがあって怒りの葡萄みたいな話だが長崎から北海道の中標津町まで約2,500キロの列車旅をする。
グーグルを見たらモスクワからムルマンスクまでの距離は約1,900キロ。メルカトルだと北極圏界隈が大きく見えるので掴めなかったが、だいたい長崎から函館へ行くようなもの──と考えると、映画の旅程が把捉できる。高速鉄道はなく寝台列車なので30時間以上かかる。

遠路に加え、主人公の女学生ローラ(Seidi Haarla)はハリウッドタイプの白人女性ではなく、北欧美女でもない。あかぎれのあるざんばら髪のごく普通の女性で、映画は終始、雪と寒さに覆われている。北極圏の冬は8ヶ月つづくそうだ。
がさつな相客と暗く冷たい鈍色の世界に閉口したこと、またハリウッドのもてなしのいい映画を見慣れているゆえの拒否反応があったことは認める。

ローラは道連れになったリョーハ(Yura Borisov)が船乗りに頼み込んでくれたおかげでペトログリフ(紋様が刻まれた石版)がある島へ辿り着くのだが、映画の描き方では、そこには何にもない。ただ雪と岩肌と荒れた海があるだけ。だが目的は果たした。猛吹雪のなかでローラとリョーハは子供のようにじゃれあって親睦するがやがて別れる。凡そ世の映画で男女におこることが、ふたりには一切おこらない。

しかし映画にはペーソスがあった。愛情ではなく友情でもなく同情というか思い遣る気持ちがふたりにはあった。うまく説明はできないが哀しくてやるせないペーソスがあった。それを、見てからしばらく経って思い出したのだった。

「何かを見つけに旅に出る」という命題があったとして映画「コンパートメント No.6」はそれを敷衍して説明している。ローラは自分が見たいものが遺跡にあるような気がしてKanozero Petroglyphsを見に行く。結果的にローラは旅でなしえた体験に対して最後に朗笑する。
トランヴェール(新幹線のメッシュポケットに備え付けのJRサービス誌)風に言うならそれが旅というもの、かもしれない。

フィンランドは約1,340キロにわたってロシアと国境を接している。
この映画の公開(2021)後、2022年2月24日ロシアがウクライナに侵攻したので今は事情が違うことになっているのではなかろうか。その意味でもすでに古き良きノスタルジックな映画だと思う。

imdb7.2、RottenTomatoes93%と83%。