平和願う
避難民の実像
住み慣れぬ
異国の地
故郷の
安寧願う
穏やかだった祖国は突然の戦火に見舞われた。ロシアによるウクライナ侵攻から5月24日で3カ月。停戦交渉は進まず、激しい交戦が続く。家族や友人と過ごした故郷を離れ、日本に逃れた人は1000人を超えた。言葉も習慣も違う異国の地で、ふるさとの平和を願い、懸命に前を向く避難民の姿を追った。
「家族と別れることはできない」
3人の子を持つ父、苦渋の選択
学校でプログラミングの教師をしていたディミトルさん(38)は4月3日、東部のドネツク州コンスタンチノフカから家族5人で避難を始めた。
自分だけは国内にとどまるつもりだった。妻のイリーナさん(36)と子ども3人をポーランドの首都ワルシャワの空港まで送り届けたら、祖国に戻り「国の役に立ちたい」と考えていた。だが、父親との別れを嫌がり、大泣きする子どもの姿を見て、家族と離れる選択はできないと悟った。
ウクライナ政府は、18~60歳の男性の出国を原則禁止している。ただ18歳未満の子どもが3人以上いる場合は例外的に免除される。ワルシャワの日本大使館でも、家族そろっての避難を勧められた。
今も祖国に貢献できなかった悔しさは残る。国に残した妻の両親のこと、戦場にいる同胞のこと、教え子のこと。心配は尽きない。それでも「子どもたちを大切に育てたい」という強い思いが難しい決断を後押しした。
家族にとって言葉が一番の壁
「早く日本の人たちと会話できるようになりたい」
広島県三次市にある妻のいとこ(47)の自宅に身を寄せて1カ月。日本人の夫を持ついとこの存在が日本への懸け橋となった。
「ミルクや子ども服を譲ってくれる地域の人たちに感謝を伝えたい」。言葉の壁を克服するため、長男と週2回、語学教室の個人レッスンを受け始めた。
ドイツやポーランドに避難した10~12歳の教え子約20人とは来日後も毎日オンラインで連絡を取りあう。「先生、私は無事よ」。離ればなれになってしまったが、安否確認を欠かしたことはない。ただ、給料の振り込みは侵攻後はストップしたまま。ハローワークに相談して仕事探しを進める予定だ。
5月5日のこどもの日は、親戚と地元の温泉施設を訪れた。土産物店の店員に避難民であると伝えると、ウクライナ国旗と同じ青色と黄色のブレスレットを作ってプレゼントしてくれた。今では長女のお気に入りだ。
出発5日後に駅爆撃、
生徒ら約50人が犠牲に
「自分たちは運が良かった」
ワルシャワ滞在中、つらいニュースに直面した。自分たちが5日前に出発した鉄道駅がロシア軍のミサイルで爆撃され、子どもを含む約50人が犠牲になった。教師を務める学校の生徒も含まれていた。
自分たちは運が良かっただけだ。亡くなった人々や残された家族のことを思うと「本当に悲しかった」。
「どうして戦争が起きたの?」。駅の爆撃を知る長男に問われたとき「ロシアの大統領が欲張りなんだ」と答えた。「支援してくれる人たちをよく見て、優しさを大事にしよう」とも伝えた。
子どもが遊ぶ姿で心からの安心
家族の笑顔を守るため
「できることを少しずつ」
故郷コンスタンチノフカは、とても美しい町だ。妻とは彼女が16歳のときに出会い、花やプレゼントを贈って仲良くなった。結婚して3人の子どもにも恵まれた。天気が良い日は自然豊かな公園にピクニックに出かけるのが家族の楽しみだった。
身を寄せる親戚宅にある庭で、子どもたちが笑顔で遊ぶ姿を見ると「心から安心する」。ふるさとの思い出の公園は破壊されてしまった。家族の笑顔を守るために「今は少しずつでも、できることをしていきたい」。
Q.ディミトルさんが考える「平和」とは?
強制されず、自由であること
静かに目覚めて、幸せな気持ちで朝日を見ること。なにかを強制されず、自由であること。子どもたちに勉強させてあげられること。
戦場と化した
「緑豊かで大好きな町」
祖国への帰還を願う母子
「地獄のような日々だった」。5月中旬の宮城県石巻市の災害公営住宅。母のリディヤ・シェプノバさん(86)と2人で暮らすイリナさん(62)は、目に涙を浮かべながら3カ月間を振り返った。
故郷のウクライナ北部の町チェルニヒウは、2月の侵攻開始直後から激しい攻撃にさらされた。
一日中鳴り響くサイレン。映画館や幼稚園が次々に破壊され、「歴史があって緑も豊かで大好きな町」が瞬く間に戦場と化した。
逃げ込んだのは荷物置き場として使われていた地下室。地域の住民ら約30人が肩を寄せ合うようにして身を守った。
寒さに耐えるため毛布を持ち寄り、夜はコートや帽子を身につけたまま眠りについた。食料品店も爆破され、何も売っていない。爆撃の恐怖におびえながら約4キロ離れた井戸まで歩き、約20キロの水を担いで地下室に帰った。
8000キロ離れた
遠い異国へ行く迷い
足の悪い母
「私は我慢できるよ」
地下室の人々は次々に町を出たが、足が不自由な母のため「逃げることは考えていなかった」。
そんな思いを変えたのは「化学兵器による攻撃があるかもしれない」との報道だった。
「ここから逃げなくては」。日本人女性と結婚し、宮城県石巻市で暮らす息子(43)は「早く日本においで」と言ってくれた。約8000キロ離れた日本までたどり着けるか――。迷うイリナさんの背中を「私は我慢できるよ」という母の言葉が押した。
4月5日夕に出発。バスや避難者用の列車を乗り継ぎ、ワルシャワ経由で石巻市にたどり着いた。
石巻の人々の温かさ
「日本人の心遣いと愛」に感謝
それから約1カ月。2人は料理をしたり、外を眺めたりして穏やかな日々を送っている。
避難民に対し、石巻市は住居を無償で提供し、生活資金や医療費を支援している。町の人々も温かく迎えてくれた。電子レンジや冷蔵庫などを届けてくれたり、職場で募った募金や手作りの食事を差し出してくれたりした人もいた。「日本人の心遣いや愛を感じる」と笑顔を見せる。
それでも生活は容易ではない。国際交流協会が主催する日本語教室に通い始めたが、一人では買い物も難しい。近くに住む息子夫婦が一緒に出かけたり、ビザの手続きを手伝ったりしている。
災害や戦争で
初めて気付く平和
「故郷に帰れる日が来れば」
ふるさとのチェルニヒウは1986年に原子力発電所の事故が起きたチェルノブイリに近く、イリナさんも甲状腺の疾患を抱え、日本でも通院が欠かせない。
取材の終わり、イリナさんは「石巻市にも大きな津波の被害があった。自然災害や戦争があって、平和とは何かに気付く」と語った。居間の壁にはウクライナの風景を写した写真が飾ってある。「早く故郷に平和が戻り、帰れる日が来れば」。今はそれだけを願っている。
Q.イリナさんの考える「平和」とは?
平穏、静けさ、愛
平和な生活を送っているときには気づかないもの。自然災害や戦争があって、平和とは何かが分かる。ウクライナにも平和が必要。ロシアの人たちにも、ウクライナでどんなことが起こっているのか分かってほしい。ロシア人が沈黙したままなのは悲しい。人は皆、生きるために生まれてきた。
バレエがつないだ
日本との縁
スーツケースに
シューズやレオタード
ユリーアさん(34)はウクライナの首都キーウのバレエ団に8年間所属したバレリーナ。5年ほど前、練習中に足首の靱帯を損傷する大けがをして退団。子どもにバレエを教える講師となった。
ロシアによる侵攻が始まった日、母(58)と自宅の地下駐車場に避難し、スーパーで買い込んだ水やパンを食べて数日をしのいだ。その後、地上に上がると自宅は無事だったが、周辺には壊された家が何軒もあった。
「もうここにはいられない」。3月15日に祖国を離れる決心をし、ウクライナ西部のウジホロドを経由してハンガリーに避難した。頼ったのは東京都内でバレエスタジオを主宰する知人女性(67)。レッスン指導などで日本を訪れた際に交流を深めた。「日本に行きたい」とSNS(交流サイト)で思いを伝えると、ハンガリーの日本大使館にビザ発行を陳情してくれた。
3月末に短期滞在ビザを取得。4月16日に来日した。スーツケースにはバレエシューズ1足とレオタードとスカートが1着ずつ、Tシャツ数枚だけが入っていた。
犠牲になった人々を思い
鎮魂の舞
会場からは大きな拍手
来日から約1カ月は都内のホテルに滞在。4月30日には武蔵野市で開かれたバレエやダンスの発表会に特別出演した。舞台で踊るのは4年ぶり。避難生活で2カ月間は練習もしていない。それでも「私はウクライナの人々を思い、平和を祈りながら踊る。日本の観客に同じ思いを抱いてほしい」と舞台に上がった。
発表会の第1部は、これまでに世界で起きた戦争で犠牲になった人々への鎮魂の思いをこめた演目「平和と祈り」。アイルランド民謡「ダニーボーイ」に合わせて約15分間、バレエを披露した。「ダニーボーイ」は兵士を戦地に送り出す歌。ユリーアさんのいとこ2人も徴兵され、戦場に向かった。踊りを終えると、会場は大きな拍手に包まれ、感じたことのない一体感を味わった。
「ウクライナのことを観客も考えてくれている」。感動で胸が詰まった。
「日本の自然と景観が
好きになった」
異国での一人暮らしを
支えてくれる人々も
ユリーアさんは今、週3回ほど教室でバレエを教えている。同僚の先生や生徒の家に招かれ、夕食を取ることもある。庭園巡りや散歩を通じて「日本の自然と景観が好きになった」。高層ビルを背景に新宿御苑の池の前で撮った写真がお気に入りだ。
渡航費やホテルの滞在費はバレエ教室を主宰する女性が負担してくれた。在留資格は短期滞在から特定活動に切り替え、16日に三鷹市の都営住宅に引っ越した。家賃は都が負担し、家電や日用品も都から家に送られてきた。
引っ越し前日、教室の教え子約60人が白い自転車を贈ってくれた。白は舞台演出などで好んで使う一番好きな色。「ウクライナでもよく自転車に乗っていた。私の好きな色を覚えていてくれてうれしかった」
異国での暮らしも「手伝ってくれる人がたくさんいるから不安はない」と笑顔をみせる。ただ「今は日本語で伝えたいことが伝えられない」。ビザの期限である来年5月までに日常会話ができるようになるという目標を自分に課した。
「遠い国への避難が怖い」と母
いつか日本へ呼び寄せたい
今後はバレエ教室のほか、バレリーナとして公演を重ね、日本に長く滞在したいと考えている。7月には金沢市でのウクライナ支援のチャリティーバレエ公演に出演が決まった。
母は「遠い国への避難が怖い」とハンガリーに残ったが、日本の写真を送ったり、ビデオ電話をしたりして毎日連絡を取り合う。「母は一人で遠くへ行ったことがなく不安だと思うが、日本に呼びたいと思っている」
来日前、ウクライナで勤めていたバレエ教室の生徒から「また先生に授業をしてもらいたい」と声をかけられた。今も週1回、生徒たちとビデオ通話をする。「先生、元気?」。子どもたちはキーウからウクライナ国内外へと避難したが、互いの身を案じている。時差に合わせて日本時間の午後10時ごろ、5~10分ほど交わす短い会話が心の安らぎだ。
Q.ユリーアさんの考える「平和」とは?
豊かな街での元の日常
朝起きて安心を感じられ、夜よく眠れる「日常」。地下シェルターでの寒い、暗い生活を経験してはじめて、故郷キーウで過ごした日常が平和と思えた。自然や歴史がある豊かできれいな町だった。できることなら侵攻で破壊された町を、昔の姿に再生させたい。
母を説得し国境へ、
故郷離れた青年の決意
「祖国のために戦うことは、人を殺すことだ」。ビクトルさん(26)は5月中旬、都営住宅で故郷を離れた苦渋の決断を振り返った。祖国にいれば徴兵される可能性がある。でも「たとえ憎い相手でも人殺しはできない」。東京都杉並区で暮らす兄(31)を頼り、4月に母と2人、西部の町リュボームリを後にした。
ロシアによる侵攻が始まった2月24日のことは鮮明に覚えている。午前6時にベッドで目覚め、何気なくスマートフォンを眺めた時。首都キーウが攻撃されているという速報が飛び込んできた。「本当に始まったんだ……」。パニックに陥った。
クリミア侵攻があった2014年からこの日が来ることは覚悟していた。家に残りたいと言い張る母親を説得し、ポーランドとの国境へと急いだ。
国境越え目前の出国禁止
「胃が沈んでいくような感覚」
午後3時ごろ国境に到着すると、出国審査につながる道は国外に退避しようとする人々の車で約10キロも渋滞しており、ひたすら待つしかなかった。
ようやく自分たちの番が回ってきたのは約7時間後。だが次の瞬間、審査官が行く手を阻んだ。「たった今、大統領令が発令された。18~60歳の男性は出国禁止だ」。逃げられないことが分かり「胃が沈んでいくような感覚に襲われた」。1つ前に並んでいた車はギリギリのところで国境をすり抜けていった。
ビクトルさんは小学生時代に始めた柔道で国内3位の実績がある実力者。だが子どものころから争いごとが大嫌いだった。負けた子の悔しそうな顔をみると「かわいそうで、勝っても素直に喜べなかった」という。
持病があるため出国可能に
祖国で兵役の父とは別れ
やむを得ず自宅に引き返したが、戦況は悪化の一途をたどった。爆撃は同国西部にも広がり、毎日空襲のサイレンを聞いた。そのたびに地下室などに避難し、眠ることもままならなかった。
持病もあったため除隊し、出国を認められたのは4月1日。向かった先は兄がエンジニアとして働く東京だった。この日リュボームリを出発。ポーランドを経由して9日、成田空港に到着した。
兵役対象のため出国できなかった父(59)は別れ際までビクトルさんを気遣い、「頑張れ」と送り出してくれた。現在もメッセンジャーアプリを使い、お互いの様子を確認し合っている。
爆撃忘れられず、
今もサイレンで跳び起きる
「ウクライナの惨状に目を向けて」
来日から約1カ月半。今は兄の家の近くにある都営住宅で母と暮らす。日本語を勉強したり、ギターを弾いたりして久しぶりの平穏な日常を過ごす。キーウ大では日本語を専攻し、大阪に1カ月ほど滞在した経験がある。好きな食べ物は納豆だ。大型連休は兄たちと群馬、新潟両県を旅行することができた。
だが、爆撃におびえて過ごした日々を忘れることはない。夜中に救急車のサイレンで跳び起きてしまうことがある。「ロシア軍による攻撃のイメージがよみがえる」。アルバイトなどを始めたいと思うが「もう少し時間が必要」と打ち明けた。
祖国では今も攻撃が続いている。「他の国でも同じことが起こるかもしれない。ウクライナの惨状にもっと目を向けてほしい」と訴える。
Q.ビクトルさんの考える「平和」とは?
互いを尊重し合える世界
ロシアのプーチン大統領は「ウクライナという国はもともとなかった」と発言し、侵攻を正当化している。私たちウクライナ人の存在を否定する発言だ。誰にも他人の存在を否定する権利はない。私はロシア人ではなく、ウクライナ人。それぞれの国や人が互いの権利、自由を尊重し合えば、世界に平和が訪れるのではないか。
平和な
祖国は
いつ
美しかった国は深く傷つき、戦禍がやむ兆しは見えない。避難民の置かれた立場は様々だが、平和を願う気持ちは同じだ。日本で暮らす上で言葉や仕事、生活習慣などの悩みはさらに増える可能性がある。どのように手を差し伸べていくのか。国際社会の一員である日本が向き合うべき課題は多い。