夏季五輪VS
気候変動
2050年、世界の大都市の
6割で開催困難に
熱戦が続く2度目の東京オリンピック。新型コロナウイルスと合わせて選手や大会関係者が向き合うのが「酷暑」だ。地球温暖化が進む中、夏季五輪に適した都市はどれほどあるのか。日本経済新聞が2050年の気象予測データを分析すると、世界の大都市の6割超でマラソンなど屋外競技の熱中症リスクが高まり、「開催困難」との結果が出た。スポーツの祭典は気候変動との戦いの場となる。
section.1
東南アジアは適地ゼロに
2050年8月の暑さシミュレーション
- 開催困難
- 厳重警戒
- 要警戒
- 低リスク
7、8月に日没が早い南半球の高緯度の都市や、競技に支障が出る可能性が高い標高1500メートル以上の有力都市も開催困難に含めた
8月の開催は困難な都市の数
日経新聞は米ブルッキングス研究所の経済成長指標で上位に入った都市を参考にし、人口100万人以上もしくは過去に開催・立候補した計193都市を抽出。気象庁や米航空宇宙局(NASA)など国内外の主要気象機関が解析した関連データを使い、スポーツ科学に基づいて競技の中止や中断の判断に使われる暑さ指数「WBGT」を推計した。身体からの熱放出を妨げる湿度も重視した基準だ。
熱中症のリスク判断に使われる「暑さ指数」
✕
湿度
✕
日射
✕
気流
本文中の暑さ指数の単位は°C
国際マラソン医学協会の基準を参考にした暑さ指数の目安
暑さ指数 | 警戒レベル |
---|---|
28以上 | 開催困難 |
22〜28未満 | 厳重警戒 |
18〜22未満 | 要警戒 |
18未満 | 低リスク |
開催地選びは、過酷で、観客が最も多いマラソンが重要な意味を持つ。「マラソンは暑さ指数28が開催判断のひとつの目安となる」と運動時の暑さ対策の国際指針づくりに参加する早稲田大学の細川由梨専任講師は指摘する。陸上の国際統括団体、ワールドアスレチックス(世界陸連)のステファン・バーモン博士も「28以上は極端に警戒が必要な水準」と認める。
スポーツ別目安でも暑さ指数28以上は警戒が必要になる
暑さ指数 | マラソン | テニス | サッカー | トライアスロン | 日本スポーツ協会 |
---|---|---|---|---|---|
32 | 追加の休憩推奨 | 中止推奨 | |||
31 | 運動は原則中止 | ||||
30 | 厳重警戒 | ||||
29 | |||||
28 | 中止推奨 | 追加の休憩推奨 | 警戒 | 厳重警戒 |
選手だけでなく観客やボランティアにとっても28は重要な目安だ。日本スポーツ協会は立ち見観戦や軽い仕事も含む運動時に、熱中症リスクが高まる28以上を「厳重警戒」状態と定めている。この基準に照らして、各都市が8月の開催に適しているかを判定した。
推計結果からは、8月開催が困難になりそうな都市が次々と浮かび上がり、その数は全体の63%の122都市に達した。1970〜2000年の8月平均、直近17〜19年の平均はそれぞれ約4割にとどまっていた。酷暑リスクは東京五輪以降、世界で加速度的に高まる。
開催困難都市数
- 開催困難
- 厳重警戒
- 要警戒
- 低リスク
地域別にみると、招致に熱心で経済成長著しい東南アジアでは、マレーシアのクアラルンプール、インドネシアのバンドン、スラバヤ、スマランなどが適地リストから消え、開催に適した主要都市はゼロになる。アジア全体でも半分以下に激減する見通しだ。韓国・北朝鮮が共同開催を目指すソウルと平壌、豊富なオイルマネーを背景に熱心な招致活動を展開してきたアゼルバイジャンの首都バクー、東京や仙台なども開催困難ゾーンに転落する。
日射が強い厳しい条件を想定した場合には、19年までの直近3年で既に6割が適地から外れており、50年までに8割に迫る。この場合、適地の7割は欧米の緯度が高い都市や季節が逆の南米の都市となる。競技時間を早朝や夕方以降に寄せて開催を模索することはできるが、国際オリンピック委員会(IOC)は「今後は気候条件を厳しく精査する」としており、こうした提案は受け入れられにくい。
section.2
想定を上回る温暖化
温暖化の衝撃はすでに想定を上回るレベルに達している。
19年9月、選手が次々に座り込み、頭を抱えながら車いすで運び出されていく。カタール・ドーハで開催された世界陸上女子マラソンは世界に温暖化の恐ろしさを見せつけた。同大会では、オイルマネーでスタジアムには強力な空調を設置。慣例を破って開催時期は8月から9、10月にずらしたほか、もっともリスクの高いマラソンの開始時刻はこれも異例の深夜の11時59分とした。世界陸連の研究者らが過去30年以上のデータからはじき出した暑さ指数が開催判断の目安となる28を辛うじて下回っていたのはこの時間帯しかなかったからだ。
だが、当日の気温は30〜32.7度。湿度は73%。暑さ指数は中止推奨の28を超え、30近くまで上昇した。世界陸連は「レースは慎重に計画され、熱中症は出ていない」と主張するが、途中棄権は68人中28人に達した。4割超えは異常な水準だ。
同じことが東京五輪で起きれば五輪のブランドは地に落ちる。夏季五輪開催のための暑さ対策は従来よりもはるかに厳しいものにならざるをえなくなった。急きょIOCは東京五輪でのマラソン・競歩の会場を札幌に移すことを決めた。
ドーハ世界陸上の開催時期の気候
ドーハ当日、東京・札幌のデータ
「寝耳に水だ」。東京五輪・パラリンピック競技大会組織委員会はIOCからの突然の変更連絡に騒然となった。猛暑対応のためのIOCとの議論の中で会場移転の話は全く出ていなかったという。暑さの和らぐ早朝や夕方以降へ各競技の開催時間を変更するなど、むしろ議論は順調に進んでいるとの認識だった。
だが、当初のマラソンコースを18年8月に実測したスポーツ医学の専門家、中京大学の松本孝朗教授らは、暑さが厳しくなる午前6時にレースを開始した場合でも、最後の30分は中止が推奨される暑さ指数28を上回る危険な状況になりかねなかった、と指摘する。環境省が計測したデータを見ても、異例の猛暑が続いた直近2年の五輪開催時期の東京の平均暑さ指数(日中7時から17時)は29を超えている。建物や地面からの熱放射がない広い芝生の上で計測しているのに、ドーハ世界陸上に迫る危険な水準を示した。東京農業大学の樫村修生教授らが18年の開催時期に各会場で測った暑さ指数はすべての会場で28を上回っていた。
NASAや英気象庁によれば、直近10年は観測史上最も気温が高い期間だった。気象予測には通常、数十年分のデータを平準化して使うが、最悪の事態を議論する上で古い長期データはあまり参考にならなくなっている。組織委の赤間高雄メディカルディレクターによると暑さ対策の議論に今は過去2、3年の気象データしか使っていないという。
section.3
立ちはだかる米放映権の壁
「前回の東京五輪は気候を考慮して10月開催となった。7、8月に限った開催には無理がある」と松本教授は指摘する。近代五輪の歴史を振り返れば、2000年以前は秋開催の「夏季五輪」も珍しくはない。
過去の夏季五輪の開催期間
開催時期の決定権を持つIOCは「選手保護のため、今後時期は柔軟に考えたい」とコメントする。7、8月を避ければ、気候の基準を満たせる都市は増える。だが、IOCの運営はそれを許す構造にはなっていない。全体収入の3分の1以上を頼る北米のネット放映権問題が立ちはだかる。
五輪の放映国数
放映権収入の推移
IOCの収入の内訳(2018年)
巨大市場、米国の放映権を長期にわたり独占するのは米放送大手NBCグループ。長期契約によってIOCの意思決定に大きな影響力がある。IOCのトーマス・バッハ現会長の体制下では14〜32年の夏冬10大会で計120億ドル(約1兆3千億円)を超す収入をもたらす。最初の取引は64年の東京五輪まで遡る。84年ロス五輪以降、五輪が商業主義の色彩を強める中、主たる財源を提供するNBCは発言力を高めてきた。
「我々は常に視聴者の最大化を目指す」。同社グループの副社長であるクリス・マクロスキー氏は7〜8月の開催が望ましいとの考えをにじませる。なぜなら9月以降は米NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)など人気スポーツのシーズンが始まるため、視聴者を奪われるからだ。実際、9月に開催した2000年のシドニー五輪は視聴率が悪かった。南半球にあり高緯度のシドニーは8月の日没時間が早い。暗くなると中継がしづらいこともあり主に9月開催となったが、米国での平均総視聴者数は、米以外で開催された五輪でトップだったロンドン五輪を3割も下回った。
米開催以外の夏季五輪における米国の総視聴者数の比較
24年パリ大会、28年ロサンゼルス大会も7月下旬から8月上旬の開催が決まっている。組織委にとっても夏季休暇中のボランティアを動員しやすく、膨張が問題となっている運営費を圧縮できる利点も大きい。
section.4
温暖化が迫る修正
開催地選考に参加した都市数
- 途中で辞退した都市
- 先進国・開催経験のある都市
- 新興国の都市
欧州の寒冷な都市で持ち回り開催にすれば問題ない、という意見はある。だが、現実にはバルセロナ、ボストン、ブダペスト、ダボス、ハンブルク、クラクフ、ミュンヘン、オスロ、ローマ、ストックホルム、トロントと、住民の反対運動で五輪への立候補を取り消す都市は増え続ける。招致時には既存施設を有効活用した効率運営を訴えながら、最終的に費用が膨張。地元に過大な債務負担を強いる例が後を絶たないためだ。
「厳しいコスト管理の仕組みと気候の検証はIOCの最重要課題だ」。五輪の経済分析の専門家、英オックスフォード大学のベント・フライベルグ教授は指摘する。同教授は「節約五輪」を実現する具体策として、毎回同じ都市で開催する案を推す。五輪の起源を象徴するアテネはその最有力候補だが、そもそもアテネ自体が50年までに適地からは外れる見通しだ。
IOCの放映権収入の地域別内訳
IOC委員の地域別構成(人数)
夏季五輪にとって、開催をテコに社会インフラの整備と経済成長を加速させようとする新興国への期待は大きい。ブランディング戦略に詳しい米ハーバード大学のステファン・グレイザー教授は「中国・北京五輪のモデルにならい、サウジアラビアなどまだ多くの新興国が採算度外視で国家のイメージ改善を目的に開催を目指すだろう」と語る。
IOCは新興国の成長を取り込み、収益構造を多角化すれば、気候変動の壁を乗り越える道が見えてくる。米放送局1社の思惑にとらわれなくなり、開催都市や開催時期の選択肢が増えるからだ。放映権・商品化権などの取引条件をより柔軟にして、コンテンツやグッズの販促、イベント動員といった市場開拓を得意とするネット企業やベンチャーの力も取り込める。中国・テンセントは15年から米プロバスケットボール協会(NBA)のデジタル放映権を取得。今やNBAの主な収益源の一つだ。五輪のスポンサーの中国・アリババ集団グループは18年サッカーワールドカップのネット放映権を獲得した。
カナダ・ウエスタン大のロバート・バーニー教授は「経済成長に伴いアジアの影響力が欧米と拮抗する可能性がある」と指摘する。それに伴ってIOCの委員構成が変化すれば、開催時期などを柔軟に決められるようになるだろう。
人類は五輪を通じ、肉体や精神の限界を乗り越える姿を見せてきた。だが、地球温暖化という新たな難敵の攻略法を見いだせていない。経験にとらわれず、新しい運営のあり方を探る必要がある。
今回推計した暑さ指数「WBGT」は気温、湿度、風量、日射のデータを活用した。 2050年の予測値は、各国の気象機関が開発する地球規模の気候変動予測モデルから導き出された最新の比較可能なデータ(CMIP6)のうち、解像度が高い4つを選び、平均して算出した。このうち気温データは、都市部に特化した形で予測精度を高めるため、都市気象学の専門家である神田学・東京工業大学教授の助言を受け、 ヒートアイランド効果を加味して補正した。比較のための過去データとして、カリフォルニア大の研究者らがまとめた気象データベースWorldClim上の1970〜2000年の年間平均を用いた。同データは国際連合なども採用している。「開催困難」の目安は過酷で観客数が最も多いマラソンの国際基準を参照した。観客やボランティアの熱中症リスクも考慮した。