ローマ法王発言の波紋 TODAY放送分から
オックスフォード大学の教授タリク・ラマダン氏とウエールズ・カーディフ大司教ピーター・スミス氏がゲストだった。
―スピーチに怒りを感じているか?
ラマダン氏:怒りを感じない。全体の文脈の中で考えるべきだ。最善の言葉ではない、と思った。14世紀の言葉を引用している。こんなことをする正しいときではないし、正しいやり方ではない。私たちは落ち着いて、合理的にこの問題を考えるべきだ。法王はジハードなどの問題を問いかけている。もっと重要なことにはイスラム教の合理性と欧州の伝統に関して話している。ただ、やり方がよくない。
―つまり、(暴力を用いるジハードに対する)問い自体は正しいわけですね?
ラマダン氏:もちろんだ。イスラム教の名の下で、ジハードということで人を殺す人々が世界中にいる事態に、イスラム教徒たちは直面している。米国だけでなくイスラム諸国でも起きている現象だ。
こうした人たちに対し、私たち(=イスラム教徒たち)は、ジハードは「聖なる戦い」でなく、抵抗のことであること、心の中の抵抗であること、抑圧されている状態での抵抗であることを明確にしなければならない。しかし、戦争の倫理性というのがイスラム教にあるので、これも説明しないといけない。それにしても、法王は、引用を使ってイスラムにはジハードの問題があると言っておきながら、何故そうなるのかなどを言わないので助けにならない。
―イスラム教を攻撃しているわけではない、ということを、法王がもっとはっきりさせるべきだったと思うか?
スミス氏:もちろん、イスラム教を攻撃していたわけではないし、それが目的ではなかった。
レクチャーはかなり学問的だと思った。「信仰と合理性(faith and reason)」というのは彼が長年考えてきたテーマだった。私が見たところでは、数世紀に渡り、宗教のために暴力を使うことが正当化されるべきかどうかを議論していた、ということを指摘したかったのだろう。もちろん、結論は、「正当化されない」、ということだ。どの宗教にもいえることだが、もし合理性を失えば、信仰は暴力的、狂信的になる、と。
―前任の法王がイスラム教も含めた全ての宗教の信者とともに祈ったときに、現法王は複雑な気持ちを抱いていた、と聞く。また、まだ法王になる前、トルコがEUに入ることに反対していた、という。人々が法王の真意について疑わしい思いを抱くのも無理はないのでは。
スミス氏:不幸なことだ。彼には以前会ったことがあるが、正直な人物だ。ものごとをよく考えている。トルコのEUの件は、欧州の地理的な範囲を指していたのだろう。
―いや、欧州を地理的でなく文化的集合体と見ていた、と聞く。キリスト教文化のルーツがあるのが欧州、と言っていた、という。
スミス氏:法王は欧州に関していろいろ前から書いている。欧州はいろいろ変わったが、キリスト教的価値観に基づいて作られた。トルコや東欧はイスラム教的価値観が強い。法王が言いたかったのは、異なる文化の間で議論があるべきだ、ということだった。
―欧州の文化の議論についてどう思うか?
ラマダン氏:これは深い問題だ。法王になる前、欧州のアイデンティティーに関して(否定的な)態度を持っていた人物だ。
このレクチャーでも、もし宗教と合理性を切り離せば暴力に通じる、といっている。しかも、この箇所はイスラム教の伝統は合理性とつながっていない、と言った後に来る。
これは一体どういう意味か?イスラム教は欧州の中心となるアイデンティティーの外にあるということか?つまり、これから行く予定のトルコさえも、この伝統の一部ではない、ということだろうか?こうした見方は危険だし、間違っている。欧州はキリスト教の伝統だけの場所ではない。イスラム教の伝統も入っている。
―つまりあなたは、法王が、イスラム教が合理的な宗教でないと言っている、と見ているのか?キリスト教的見方からすれば、ということだが?
ラマダン氏:(そうだ。)法王は、キリスト教的伝統が合理性とつながっているほどには、イスラム教的伝統は合理性と結びついていない、と言っている。これは間違っているし、多元的価値の欧州の将来にとって危険な考えだ。イスラム教を合理性の範囲の外に置くことで、欧州の範囲の外に置いている。危険だ。
―同意するか?
スミス氏:ラマダン氏の指摘した点が重要だということは認めるが、意見には同意しない。欧州・キリスト教の伝統では哲学や神学は一緒に働くが、私の印象では、イスラム教の伝統ではそうはならない。
ラマダン氏:それは真実でなく、そういう印象がある、ということを言っているにすぎない。
―もし法王が、イスラム教が欧州の伝統の枠の外に存在し、宗教としては合理性とかけ離れている、と解釈しているとすれば、こっちの方がものすごく重要な問題だが。
スミス氏:だから、私はその点ではラマダン氏の意見に合意しない。法王が言っているのは、2つの異なる宗教的伝統が発展してきた、と。現在のような政教分離の欧州の文化の中で、私たちがしなければならないのは、それぞれの文化や伝統が互いをどう見ているのかを理解することが重要だ、といっているのだと思う。
議論の流れをうまい具合に説明できたかどうか?やや心配だが。
もしかすると、今回の一連の流れで、イスラム教に対する言論の自由がない・窮屈だなあと思っている方もいらっしゃるかもしれない。
こうした窮屈さを打破したいという思いが、きっと、今年2月話題になった、デンマークの預言者風刺画事件の背景にもあったろうと思う。
しかし、イスラム教徒側が、「言うな」と必ずしも言ってるのではない。
欧州といえば、キリスト教文化圏、というのがある意味では一番シンプルだろうけれど、そういってはいけないのが現実となっている。欧州=キリスト教文化の場所、という概念を表明した人は、(言論で)攻撃される。新聞記事として掲載されてしまう。イスラム教徒からの攻撃、というよりも、特に多文化主義(といわれる)英国では、その人は浮いてしまうし、「右」的な見方をされる。言えない事は、結構いろいろあるのである。イスラム教側に言われて、口止めをしている、というよりは、自分たち自身が課した「言ってはいけないこと」の中で、動けなくなっているようにも見える。
去年4月、宗教と欧州について書いた。前法王とトルコのことに触れている。ご関心のある方はーー。http://ukmedia.exblog.jp/m2005-04-01/#1427712
**前のエントリーにコメントを残してくださった方のご指摘に、大学での発言だったからではないか?という説明があった。その要素もかなりあったと思える。