2023年10月11日 (水)

2024年秋の市長選・出馬、記者会見

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  去る10月6日、午後一時、市役所の記者クラブ室において、来秋行われる岡崎市長選への出馬表明・記者会見を行いました。
 この出馬表明は、先月地元紙のインタビューをお受けしたところ、「内田前市長出馬の意向」という記事として紙面に出たため、記者クラブの皆様に正式なごあいさつをした方が良いと思い行ったものです。

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  御支援を頂いている後援会の皆様方には、先回の敗選以来、「今一度、再挑戦させて頂きたい」と言って政治活動を継続してきたため「今さら~」感があるやもしれませんが、ちょうど一年後の10月6日が投票日にあたるため、区切りが良いと考え今回の出馬表明を行いました。

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2023年5月20日 (土)

2023年 内田康宏をかこむ新緑の集い

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5月13日(土)午後2時、市民会館あおいホールにおいて“内田康宏をかこむ新緑の集い”を行いました。
多くの皆様の御理解、御協力、そしてお忙しい中御出席頂きました参加者の方々のおかげで盛会に開催できましたことを御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
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以下は当日の私のあいさつの内容です。

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本日は連休明けのお忙しい中、昨年同様、満堂の皆様の御来会を賜り、心から御礼申し上げます。また衆参両院の先生方、並びにこの春の選挙を終えたばかりの県会議員の先生方、本当にありがとうございます。
そして、本来でしたらこの壇上にお席を設けさせて頂くべき市会議員の先生方、総代の皆様はじめ、各種団体の長の方々には前方に特別席を用意させて頂きましたが、どうか非礼の段、お許し頂きます様お願い致します。
今の時期はまだ農繁期でもあり、各地域において、お祭りや行事の多い中、本日こうして御参加頂きました皆様には重ねて御礼申し上げます。
U4 さて、これで、先の市長選から2年半の時が経ち、来年10月には再び選挙の時を迎えます。昨年のこの会で決意表明させて頂いた通り、今度こそ失った時間を取り戻すべく、〝捲土重来〟を期して、全力でガンバル覚悟であります。
ふつう選挙に敗れますと、それで政治生命を断たれるケースが多いものですが、ありがたいことに、私の場合、後援会も支援団体も、皆様方のおかげで存続しており、そのおかげで、こうして今日もなお政治活動を続けていられることを感謝致すと共に、自らそのことを肝に銘じております。
先回の選挙はコロナ下で十分な広報活動のできないものでありました。さらに続く3年間のコロナ禍において、社会のデジタル化が大幅に進み、選挙運動のあり方そのものが大きく変わってきております。そうした点を踏まえ、ただ今スマホや各種IT機器を活用した新たな活動を展開しております。
それでも、地域に根ざした後援会活動というものが保守政治の存立基盤であることに変わりはないと考えております。
大衆戦略としての街頭演説と共に、これから本腰を入れて地域活動を再開いたしますので、変わらぬ御支援、御協力のほどよろしくお願い申し上げます。

先日、ある団体の年次総会に出席させて頂いたところ、かつて市役所で活躍していたまだ若く優秀な市職員であった方とお会いし驚かされました。
私の選挙の敗戦の結果が他の方の人生にまで影響を与えていることを再認識し、本当に申し訳なく思っております。

現在の岡崎市政はNHKの「大河ドラマ・どうする家康」実現の結果、大きな政策変更は無いように見うけられますが、様々な所に大きなヒズミが出てきている様であります。

まず多くの皆様の協力と長年の議論を積み重ねて進めてきた新ホテル・コンベンション計画が一時の熱狂の中、ヤリ玉に上げられ、続いて東岡崎駅前再開発事業まで中止の憂き目をみることとなりました。駅前再開発事業はこれまで4代にわたる市政の最重点課題でありました。当初の計画のまま事業が進められていれば、この春にホテルは完成し、大河ドラマファンの来訪者に十分対応できただけに、本当に惜しいことをしたと思っております。
また、三菱地所が資本算入も含めて、計画立案に参画していた東岡崎駅前再開発事業が振り出しに戻ってしまったことは、まさに本市にとって大損失であります。もし、私に再起の機会が与えられるならば、なんとしても今一度、復活させたいプロジェクトであると考えます。

U5これまでの2年半、市内各地でさまざまに会合を開かせて頂き、さらに地域によっては学区別に個別訪問をさせて頂きました。そうした活動を通じ実に多くの市民の皆様方から様々な御意見を拝聴させて頂くことができました。その時、強く感じたことは、岡崎市は40万近い人口の都市ではありますが、まさに町村合併を重ねて大きくなってきた市であるということです。今でも地域ではかつての町や村としてあった伝統文化、地元意識、地域アイデンティティーを強く持っている所が多い様であります。そうした所では、オール岡崎の大きなテーマよりも、各地域の独自性に根ざした要望の方が期待感が高いことがよく分かりました。
私はこれまでも市内を大きく東西南北に分けて考え、それぞれの地域にふさわしいまちづくりのテーマを進める行政を心がけてきたつもりであります。しかし、国の認定を受けて大きな財政援助のあったリバーフロント計画、くるわ戦略の方が目立ってしまい、「中心ばかりに力を入れている」という誤解を招いてしまったきらいがあります。
 そこで、これからは、オール岡崎の大きな仕事もさることながら、岡崎市を中心地区と額田、そして他の東西南北の6つのブロック単位で考え、各ブロックごとに地域の皆さんの要望を取りまとめ、重点テーマを決めて頂き、行政はそのテーマにそって“地域まちづくり”を応援・推進してゆく形にしたいと考えます。そうしたやり方の方がより地域のニーズにかなったものとなるはずです。

本日の会が始まる前、皆様にごらん頂いた岩津地区の岩津城跡を活かした北部活性化プラン映像は、そうした例の1つでありますので、ぜひ参考にして頂きたいと思います。

先ほど、オール岡崎のテーマはひとまずおいて、と申し上げましたが、これから10年、15年先には、今の名古屋城と同じく「岡崎城をどうする!」という問題が必ず想起して参ります。歴史に基づいた木造の城とするのか、快適さと使い易さの鉄筋コンクリート製にするかはともかく、今から私達が基金の準備をしておく必要があると考えます。どのような城とするかは、次の世代の方たちにお任せしたいと思います。

また、私はこれまで給食費の無料化に向け努力をして参りましたが、完全無料化には年間20~25億の予算が毎年必要となるため、とりあえず父母負担の多い4月分の無料化を実現しました。その後、段階的に3カ月、半年と伸ばし、最終的に完全無料化につなげたいと考えておりましたが、昨今は国の施策として考えられている様なので期待しております。
いずれにせよ、子育て支援と少子化対策はコインの裏表でありますので、市も国・県と協力して重点的に推進してゆく覚悟であります。

これまでに何度も申して参りましたが、私たちの西三河・岡崎の豊かさの根源は〝堅実なモノづくり産業〟のおかげであることはマチガイありません。そのことを忘れず、新産業の育成と新たな工業団地の造成に向けて、努力を継続して参ります。

これまでの2年半の活動を通じ、いまひとつ印象的であったことは、先の選挙で中根さんが訴えた「一人5万円お返しします」という公約を未だに多くの市民が記憶しているということであります。公約というものは、あだやおろそかにするものではなく、確実な見通しと実現性のもとになされるべきものであると痛感しております。

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 本日御出席頂きました皆々様のご厚情に報いるべく、まず来秋に向け、そして岡崎市の未来に向け、全力でガンバリますので、皆様方のさらなる御支援、御協力をお願い申し上げ、ごあいさつとさせて頂きます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

ありがとうございました。

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2022年12月 6日 (火)

観光伝道師としての任命式以来の再会

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 11月29日、若い友人のS君から「東海オンエアのチケットが手に入ったので行きましょう」と誘われて、どんなものかも知られずにでかけてしまった。何でも参加できるのは男だけということである。それでも、彼らを岡崎観光伝道師に任命したのは私であり、久しぶりの再会を喜びとするものである。
 入場チケットはスマホの画面であり、まるでコンサート会場のような雰囲気のホールの真中には本格的なリンクがこしらえてあった。どうやらトーク・ショウではないようだ。
 会場の外からラフなスタイルの若い人ばかりであり、背広姿の二人(我々)は場違いな所に迷いこんだ異邦人の感があった。
 開会後の写真撮影は禁止のため場内の様子だけ撮っておく。
隣席の若者は神奈川県から、後方の人は福岡からさっき飛行機で来たばかりという。
女の子のタレントの追っかけなら理解できないでもないが、同年代の男のファンが全国からこんなに集まっていることに驚かされる。しかも一人一人はきわめて普通のまともな男性たちである。中にはマスクをかけているのに「市長さんではないですか?」と声をかけてくる人もいた。どうして知っているのか尋ねると「以前東海オンエアと一緒に動画に出ていたのを覚えている」とのことであった。改めてインフルエンサーとしての彼らの力のすごさを知らされることになった。
 場内は500~600人ほどの人で埋まっていて、すべて座席指定である。
 後ほど知ったことであるが、チケットの倍率は10倍以上だったそうだ。
 ふつうのコンサートでも4倍くらいだそうであり、よく当たったものだとS君の運の強さに感心する。
 メンバーのてつや氏の発案で、20日間特訓したてつや氏と、全く何もしないゆめまる氏がマンガの格闘技モノで得た技で対決するという趣向であった。二人の体重は70㎏と90㎏で、20キロの差というのは通常の格闘技ではありえないことである。なんとなく学園祭の余興のプロレスごっこのようなものかと思っていたが、思いのほか真剣な対決であった。対決後、二人の体には青あざができていたそうだ。レフリーはK1で有名な角田信朗氏であり、さすがテレビ局が関わると本格的である。
 「一見くだらないことを真剣にとりくむところに彼らの魅力があり、今日の人気の根源がある」ということを知ったのが本日の私の新たな学びであった。
試合後S君の友人のキブサチの大将と、ご近所の暴れん坊チキンの店主射り口さんと久しぶりに再会しました。東海オンエアのメンバーからも「お久しぶりです」とあいさつをされ、一緒に写真を撮らせてもらったことを感謝しております。

当時のブログはコチラ
https://uchidayasuhiro.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0b4c.html

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2022年12月 5日 (月)

籠田公園・今昔

1   岡崎の籠田公園を中心に、伝馬、康生、連尺、本町にかけての沿線はかつて西三河の商業の中心地域であった。籠田公園そのものも、毎日我々近在のワンパク坊主達の集うニギヤカな公園であった。
 時は移り、各市にそれぞれ商店街が発展する様になり相対的に岡崎の地位も下がってきた。さらに、昭和末期の大規模店舗法の見直しによって、全国的に大駐車場を併設された大型ショッピングセンターの出店が始まる。その結果、地域商店街は大打撃をこうむり、急激に衰退してゆくこととなった。岡崎市もその流れから逃れることはできず、後継者不足も相まって、かつての中心街の衰退が始まり、“シャッター街”というありがたくない呼び名をちょうだいすることになっていた。
 そのため、私が県会議員になった頃から、この地域の最大の政治・経済的課題は、「中心街にいかににぎわいを取り戻すか?」ということであった。
これまでも、歴代の市政において、歩行者天国を行ったり、通りに面した駐車スペースを設けたり、季節ごとに様々なイベントを展開したりしてきたものである。
 そうしたことによって、一時的な人通りの回復はできても、かつてのにぎわいを取り戻すことはかなわなかった。
 籠田公園そのものも、10年ほど前までは、年に何度か行われる定例のイベント時をのぞけば、どこの地方都市にもある、閑散とした一公園となっていた。
そうしたものを何とかしたいと始まったものが、私の市政の目玉の一つである『リバー・フロント計画』であった。
 国の“川まちづくり事業”、“歴史まちづくり事業”の二つの認定を受け、駅前から桜城橋、天下の道(中央緑道)を通り、籠田公園までの空間に、人々が集い、くつろぎ、楽しむことのできる多目的スペースを作るために、多くの専門家、まちづくりの先駆者、商工会議所はじめ、地元の皆さんの智恵と御協力によって今日のような利用勝手の良いエリアとなったものと考えている。
 籠田公園も一時はホームレスが住みつく公園となったこともあったが、今や一日中、子供連れの市民が集まり、キッチンカーも常駐する公園となっている。23_20221205203401  しかしながら、どの様な政策にも、プラスとマイナスの功罪があるものであり、最近では一日中集まる人々の騒音に対して苦情が出る様になり、現在、公園の使用に制限が出されているという。迷惑を受けている方の気持ちは分かるが「前の静かな公園の方が好きだ」などという声を聴くとガッカリしてしまう。
 リバー・フロント計画の本来の目標であった「快適な都市空間の形成と中心市街地のにぎわいの再生」まで、今一歩のところであり、なんとか双方の折り合いをつけて、中心街に本格的な活気を取り戻すところまでガンバリたいものである。

 

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2022年8月10日 (水)

安倍邸・月命日訪問

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 8月8日、安倍晋三元総理が狙撃され亡くなって1ヶ月目の月命日、期せずして本宅にお悔やみに伺わせて頂いた。初盆には少し早いものの、8年8ケ月の在任期間とも符合する8並びの訪問となった。
 ちょうど前日まで、山口県長門市にある安倍家のお墓に行ってみえた昭恵夫人自らお出迎えして頂けた。先月から、こうして連日の様に喪服姿で来訪者の対応をされているわけで、その心労がしのばれた。
Uch081002      御本人はまだ気が張ってみえるせいか、冷静に現状を分析し、今後の方針についてテキパキとお話をされた。そうした中で「今回のことは運命だと思っています」という言葉が印象的であった。
   あの様な形で最期を迎えられたことに対し、いかようなお悔やみの言葉も虚しく感じられてしまう。気丈にお話を続けられる昭恵さんの話しに耳を傾ける。


「主人はまだ、やり残したこと、やりたいこともあったと思いますが、政治家としてその務めは十分果たしてきたと思います。妻としては、もっと長生きしてほしかったと思いますが、選挙の最中、演説中に倒れたということは“名誉の戦死„と同じだと思っています。本人にとっても男子の本懐であったはずです」と語られた。

「とりあえず、一段落したところで、下関に戻って、主人が残してくれた下関の実家を拠点に“安倍晋三記念館„の設立に向けて努力をしてゆくつもりです。そして、主人が果たすことのできなかった志を若い人達が引き継いでいける様にバックアップしてゆきたいと考えています」と力強く話された。
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 まだ傷心いえぬ中、よどみなく決意を語られる様子を拝見してホッとすると共に、9月の国葬後の心理的エアポケットの心配がふと心をよぎる。
 主人がいなくなったことを知らない愛犬ロン(茶色のダックスフント)が、しきりに我々に愛きょうを振りまいてサービスしてくれているのがなんとも悲しい気がした。

 

 いずれにしてもかっての秘書仲間であった元・東京都議会議員の佐藤裕彦先生に同行して頂き、久しぶりの東京行きを無事終えることができたことを感謝しております。
しかし、生前中にお話していた「総理を辞した後、一度御夫妻で岡崎にゆっくりと遊びにおいで下さい」という約束が果たせぬこととなったことが本当に残念である。

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(※ 訪問の性質上、昭恵さんの写真が無いことをお許し下さい)

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2022年7月29日 (金)

ポスト・コロナの時代に向けて

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 7月27日、久しぶりに岡崎政経同友会の例会に出席させて頂いた。今回は、来年NHKで放送が決まった大河ドラマ「どうする家康」に連動して、岡崎市がどういう政策で臨むかということを副市長がお話されるということであった。
 市政の変転によって、当初観光事業にのり気の薄い意向が聞こえており、心配していたが、大筋は変わることなく積極的に対応準備がなされていることを知り安心した。
 岡崎の観光事業というのは、その根本に「市民が楽しめる快適な都市空間を造る」ということから始まっており、市の中心をS字型に流れる河川空間とお城を活かしてヨーロッパの都市にも負けない、美しく快適な“夢ある新しい岡崎”を目ざしていたのである。
 岡崎をはじめ、西三河の経済的豊かさの大元は言うまでもなく健全な「モノづくり産業」の存在にあり、これを守り育てることが最重要であることは言うまでもない。しかしそれだけではいつまでたっても豊田市の後を追っかける岡崎市でしかなくなってしまう。
 そこで岡崎の歴史・文化、自然を活かした観光産業をもう一つの経済の柱として育てたいというのが“夢ある新しい岡崎”の考えであり、その第一歩がリバーフロント計画であった。
 市民の御理解、国・県の協力の元にその基本的な事業が完成し多くの市民が楽しんで有効活用を始めているのを見るのは何より喜びとするところである。
 そもそもこれらの事業は数多くの識者、専門家、市民代表、商工会議所の方々の知恵と経験を元に国・県のかってない資金援助を得て進めてきた政策であり、一部の特殊政党や、本市の歴史、文化、伝統、市民性に理解の薄い人達によってネジ曲げられてしまう様ないいかげんなのもではありません。
 法律や政治のシステムにも理解が乏しく、特別ワクの補助金は他の目的に流用できないことすら知らない方達に勝手な振る舞いを許すわけにはいくまい。
 子供達が自らの古里に誇りと愛情の持てる素晴らしい岡崎市にしたいと思っている。
Uch0729022我々「原・岡崎人」は、岡崎の伝統・文化を体現した観光政策をポスト・コロナ時代の本市の「モノづくり」に続く、もう一つの経済の柱として確立するために全力で取り組むべきと確信している

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2022年7月14日 (木)

元総理・安倍晋三さんを偲んで

Uchi1   先週安倍晋三元総理が奈良で遊説中、手製の銃で撃たれお亡くなりになった。心からお悔やみ申し上げます。
以来、毎朝目覚めてからもずっと悪夢を見た直後の様な不快さが心を離れない。それにしても、ただただ残念である。
   私が父上の晋太郎先生の秘書であったというだけでなく、思想的傾向が近かっただけに総理としての彼の再生を心から願っていた。それがわけのわからない暴漢に生命を絶たれてしまい、不可能となった不条理に悔しさだけがつのる。現在の保守陣営の中で、理念が確立しており、言動もブレない数少ない政治家であっただけに、彼を失ったことは惜しんで余りある。日本の現状を考えた時、まさに国家的な損失である。

思えば、私と安倍家との御縁は40数年前に遡る。
父の友人を通じ、政治評論家の飯島清氏の御紹介を経て、先代の安倍晋太郎代議士の秘書となったことがその始まりであった。
 当時晋太郎先生は農林大臣を降りたばかりであったが、議員会館に面会に訪れた初対面の私に対し
「この世界は水商売と同じで、浮き沈みの激しい世界なんだよ」
「今、この議員会館で先生と呼ばれている議員の三分の一は次の選挙でいなくなる」というお話をして下さったことを今も鮮明に覚えている。
 27才で私が衆院選に臨んだ時、無所属で自民党の現職に対抗して出馬したため、応援はして頂けませんでしたが、一言、
「刺し違えるつもりでガンバって来い」と励まされたものです。
 その後、選挙に敗れ、選挙違反事件に巻き込まれた折りも何かとお心使い頂いたことを思い出します。

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 そして7年後、34才で県議選出馬の決心を固め、当時外務大臣であった晋太郎先生にごあいさつにうかがった折には、大臣室で励ましの言葉と共に「もうすぐニューヨークにいる息子(晋三氏)がアメリカから帰ってきて秘書官になってくれる」と、うれしそうに話された笑顔がなつかしく思い出されます。

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   晋三さんとのおつきあいは最初の県議選の折に父上の代理として3回応援に来て頂いて以来のことです。
当時まだ幼児であった長男圭亮も抱いて頂くことができました。

 

 

 以来、選挙の度にお世話になり、その後父上の替わりに代議士となられてからも愛知県の青年議員連盟の大会などに何度も足を運んで頂きました。私の県会議長就任と初の総理就任が同じ年であったことも不思議な御縁です。 

   最初の市長選では、自民党の単独支援の厳しい戦いでしたが、当時総裁になられたばかりの晋三さんが奥様と何度も応援に来て頂きました。その時も市長当選と総理就任が同じ時期になりました。

まさに私の政治人生は安倍家と共にあったと感謝しております。

 先回の三度目の市長選の直前(3日前)、東京陳情の仕事の折に議員会館にごあいさつに訪れた私をわざわざお待ち頂いたことも忘れられません。

 その時に、1ヶ月前に8年8ヶ月務めた総理大臣を辞任したばかりであった晋三さんから「こんなメンドウくさい仕事(首長)をまだやるの?」とジョークを混じえてお話しされたものです。

「ところで選挙の様子はどう?」と問われ、「実はきのうからこんなチラシが出回っています」と「5万円返還!」のチラシをお見せしたところ、じっと眺めてから、「これは前回、自民党が負けた時と同じ戦術だよ。油断しない方がいいよ」と言われたことが、思えば最後の直接の会話となってしまいました。

 先日(5月28日)の再起を目ざした「新緑の集い」に際しましては、大村知事と共に心温まる祝電を頂いております。

 次の選挙に向けて御相談したいこともありましたが、それももはやかなわぬこととなってしまいました。

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 必ず、墓前に良い御報告ができるようにあと2年3ヶ月、全力でガンバリたいと決心しております。

 お亡くなりになったことが今も信じられない思いですが、本当に長い間国家・国民のためありがとうございました。

心から御冥福をお祈り申し上げます。

 

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2022年7月 5日 (火)

ベランダプール

   InstagramとFacebookに載せた家庭用組み立てプールに、予想外の反響がありました。2年ほど前から買おうか迷っていたものですが、ネコのせいで今年から使っています。
 水をいっぱいにすると2トンほどになりますので安全の為、半分くらいで使っています。
 水は毎日、朝・夕植物にかけて、減った分をつぎ足しています。(ウナギのタレみたいですが、、、。)

 娘がうるさいのでタブレットの消毒剤を使用しています。プールを使うのは私と孫だけなので水もたいして汚れません。

 ネコが落ちない様に注意しています。

かって子供達が小さい頃は近くに市営の流水プールがあって、助かったものです。ついでに施設内の売店でホットドッグや焼きそばで夕食を済まして帰ると嫁さんに喜ばれたものです。

 東部に民間による、砂浜のある扇形の大プールを計画していたのですが、タナ上げとなってしまい残念です。

 夜間照明で夜も市民が楽しめるプールがあるといいと思います。できれば冬場はスケートができる様になればとも考えていました。デート・コースになれば将来の少子化対策になるかもしれません。

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2022年6月28日 (火)

新緑の集い(5/28)”御礼報告

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   5月28日(土)多くの市民の皆様の御来会を得て、3月から準備をしてきました「内田康宏をかこむ新緑の集い」を盛会裡に開催することができました。御協力を頂きました皆様方に心から感謝申し上げます。
 先回の市長選から1年半の時が経過し、一度は政治生活の継続を断念しかけた私でありましたが、全市各地の皆様方の御激励、御支援のおかげをもちまして、再起の歩みを再開しております。ただただ感謝の気持ちで一杯であります。
 これまで、県議のころより毎年2月に行ってきた「新春の集い」がコロナ・ウイルスの影響もあって2年続けて開催できませんでした。本年は5月の新緑の時期に時を移して、場所も中総から市民会館に替え、飲食の提供も控え、簡素化して行わせて頂くこととしました。
 市民会館での後援会の大会・開催は初めてのことであり、これまでの中央総合公園体育館での会とは勝手も違い、様々な手違いがありましたことをおわび申し上げます。
 ことに駐車場の不足は否めない事実であり、当日あてにしていた篭田公園の駐車場も各種イベントと重なり、十分に機能しませんでした。駐車できずにお帰りになった方も少なからずおみえになったと聞いております。御参加頂いた皆様方に重ねて御礼申し上げると共に失礼の段、伏しておわび申し上げます。
 御報告が遅れましたが以下、当日のあいさつです。


  皆様こんにちは。 本日は土曜日の午後という貴重なお時間にも係りませず、満堂の御参会をたまわり心から御礼申し上げます。 また来賓の先生方におかれましては、御多用中、本当にありがとうございました。
 一昨年の選挙以来、一年半を経過しておりますが、私自身の力足らずのせいで多くの市民の皆様方に御心配、御迷惑をおかけしておりますことをおわび申し上げます。
 これまで、選挙前・選挙中に引き続き選挙後もコロナ・ウイルスの影響により後援会としての活動は思うにまかせませんでした。一部地域において昨年中、役員会まで開催して頂きながらあいにく緊急事態宣言、まんえん防止法、そして秋には国政選挙も行われ、独自の後援会活動は休止状態となってしまいました。
 しかし、私個人におきましては、この一年半は久しぶりに十分な思索の時間をもてました。現職中に購入しながら読めなかった書籍に加え、様々な皆様からたくさんの図書が届けられました。そうした読書を通じて、新たな知識を得ると共に、これまでの出来事を改めて思い返すことができました。
 そのおり、旧約聖書の「コヘレトの言葉」の章の中の「時の詩」に目が止まりました。その詩では「天の下ではすべてのことに時節があり、すべてのできごとに時がある」と説いていました。「生まれる時と死ぬ時」「泣く時、笑う時」「戦う時、平和の時」「進む時、退く時」…そうした言葉が20項目ほど書かれておりました。
 私は、その詩編を読み進む内に、今回の敗北は1つの運命であり、この際ここで潔く身を引くことも政治家としての生き方かもしれないと思ったのです。
 その後そうした思いを胸に、支援者の皆様のお話しをうかがって歩く中、それぞれの皆様から元気づけられ、励まされるだけでなく、今回の敗北をまるで我ことの様に悔しがり再起に向けての決意を述べられる多くの皆様の声に接し、心うたれるものがありました。一時、弱気になりかけていた私ではありましたが、そうした善意の熱意ある支援者の方々の心に触れる中、「いたらぬ私ではありますが、そうしたお声をかけて頂ける限り、今一度ガンバッて挑戦してみよう」という決心が芽ばえてきました。
 実際に具体的な動きとなりましたのは今年になってからでしたが、3月の末に選挙後3回目の連合役員会を行い、本日の“新緑の集い”の募集活動を始めさせて頂くことができました。
 そして、その結果「私にはまだこんなに多くの味方がいる」ということを改めて気づかされ、大きな勇気を頂くことができました。
 本日の開催のために市内各地において御尽力頂きましたお一人お一人の皆様に、改めて心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
人は大きな失敗にみまわれた時、後ろ向きの心のあり方となりがちです。私は、今回の挫折はもう一度自分の人生を見直し、さらに良い形で前進するために神仏から与えられた啓示であると思い直すことにしました。
もとよりこれまでの二期8年にわたる私の市政は、岡崎市のあるべき姿を願って全力で取り組んできたものであります。先達の智恵と経験を十分にふまえ、さらに多くのまちづくりの専門家、市民代表の意見を加えて練り上げた政策によるものばかりであり、きわめて民主的なものであったと思っております。
選挙においても、けっして後援会頼みではなく、400回を超える自由討論を含めた“市民対話集会”を行っております。望まれれば小学校、中学校へも足を運び、市内の全高等学校、三つの大学においても同様の対話の機会をもちました。
ここまでやっている市長は全国に他に無いものと自負しております。
他にマスコミを活用した政策・P・R、インターネットにおける多くのブログの配信、岡崎市の公報のあり方についても、どこにも負けない工夫をしてきたつもりです。
しかし、時は我々に味方せず、コロナ・ウイルスのまん延による社会情勢の変化の中、そうした努力が十分な効果を発揮することがありませんでした。
逆に組織を持たない相手方のゲリラ的な大衆戦略と新しい情報システムを駆使した戦術によって足元をすくわれてしまう結果となってしまいました。
本日、皆様にお配りしたパンフレットは当時のものですが、あれほどたくさん配ったはずなのに「全く見ていない」という声も多くありました。いずれにせよ、先回私はそうした中途半端な選挙をやってしまったのです。また、相手が選挙活動中も東京への陳情要望活動に追われ、現職ゆえの仕事をしながらの選挙となり、十分な街宣活動ができなかったことも反省しております。そのような、私の至らなかった点を十分に反省し、この度新たに加わってくれた、本日の石本講師のような若い仲間達の知恵と力を借りながら、次のチャンスに向けて準備を始めております。
これまで皆様の御理解のもとに行ってきた市政によって、岡崎市の新たな骨格はできつつあります。堅実な「モノづくり産業」によって支えられてきた「豊かな地域」を、独自の「歴史資産」と市の中央を流れる二つの川、山々の「美しい自然」を活用することによって、より質の高い「福祉・文化都市」を目指します。さらに、その流れを観光産業に結びつけることによって、岡崎市はより素晴らしい都市に成長することができます。先日、スイスのダボスで行われた国際会議では、これからコロナ後の国際交流時代において№1の観光資源を持つのは日本であると認識されたことも明るいニュースであります。
すでに市の南部は藤田医科大学病院の誘致が切っ掛けとなり、“新たなまちづくり”が始まっております。東部は2025年のアウトレットを中核に区画整理も始まります。北部では、新たな拠点整備計画に加え、岩津・松平の遺構、細川氏などの歴史を活用した独自のまちづくりが考えられております。西部・矢作地域は、国や県、及び周辺自治体との連携をより高め、地元の要望も高い南北道路の整備を進めます。その上でしっかりとした基盤整備を行わなくてはなりません。そうして地域の目玉となる施設や民間事業の誘致ができる様になります。隣接する安城、豊田という有力自治体の存在は矢作の“強み”となります。
そしてもう一つ、市域面積の60%を占める額田の中山間地域を、ぜひとも市民の憩いの空間として有効活用したいと考えております。
すでに在職中に具体的な民間のプランをいくつも頂いており、ぜひそうしたものを実現したいと思っております。そうして山間地への人の出入りを増やすことにより、関連する働きの場ができます。今、外に出ている地元の若い人も戻ってくることができます。もちろん新たな工業団地計画も行います。全市の公園の整備に額田の間伐材を活用した高齢者と子供達のための施設整備をする約束も忘れておりません。
そしてもう一つ、本日ここに来て改めて自確しましたが、北の駐車場を2階建て3層に立体化し、駐車台数を倍増させたいと思います。そうすれば、そのまま二階からアオイホールに入れる様になります。
まちづくりというものは、どこまでやったら完成ということはありません。私は、私の時代になすべきまちづくりを完成させなくてはなりません。次の時代には、また新たな視点をもった新しい担い手にまちづくりのタイマツの火を手渡してゆきたいと思います。
いずれにせよ、中途半端に断ち切られてしまった『夢ある新しい岡崎』の実現に向けて、全力で邁進する覚悟であります。
もうあと2年半の有余となっております。これからも時をムダにすることなく、より計画的に活動を積み重ねて参ります。
今さらですが「政治家にとって一番大切なことは実現できる公約をうたい、一日も早くそれを実現してゆくことです」できないことを言うのは詐欺です。
これまで、長年積み重ねてきた東岡崎駅の再開発もようやく形が見えてきました。“家康公400年祭”以来何度もNHKに要望・陳情を重ねてきた大河ドラマも、来年度「どうする家康」として実現するはこびとなりました。
しかし、残念ながら今後のことを考えた時、共産党と手を結んだ現市政では国や県からまともに相手にされることはありません。
 これからの岡崎市政の一日も早い正常化を目指し、再起をかけて全力を尽くします。どうぞ、市民の皆様の今一度の御支援、御厚情を賜りますことをお願い申し上げ、本日の私の決意表明のごあいさつとさせて頂きます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。


 当日は多くの国会・県会・市会議員の先生方の御来会を賜りましたことを重ねて感謝申し上げます。

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2022年4月 6日 (水)

今さらですが、なぜ人道橋だったのか?

  そもそもは渋滞解消のため「築後90年になる古い殿橋明代橋をかけ替えたい」というのが始まりでした。
それぞれ橋上緑地帯のある幅広の新橋にしたいと考えていました。
しかし殿橋が昭和初期に造られ、戦渦に残った全国でも貴重な橋であり、簡単にとり壊せない橋であることが分かり、断念しました。
 かわりに、県道にかかる二つの橋は、県がしっかり補強することになりました。しかし「街の活性化のための河川公園の施設として人道橋を!」というアイデアが“岡崎活性化本部”(地元代表、商工会議所、学者、専門家の会議)から提言書の1プランとして出されました。
それを市議会で討議し、市役所内でも検討して決まったものが桜城橋です。
名前は公募し、中学生がつけてくれました。
 一部の人から“100億円の橋”と悪口を言われましたが、実際は基礎工事も含めて21億円です。
もともとその場所に橋を造る計画が3代前の市政の頃からありましたが、県河川にかかる橋は県の所管するもので実現しませんでした。しかし、岡崎市が国の「かわまちづくり」「歴史まちづくり」の2つの事業認定を受け、モデル都市となったため大きな国庫補助を受けリバーフロント計画が実現したのです。
 また桜城橋は過重量となっていた殿橋の負担を減らすため、その下に殿橋の下を通っていた水道の本管、電線、NTTの配線などがまとめて配置された「ライフ・ラインとして重要なもの」となっています。
 橋上の仮設・商業施設も、活性化本部やまちづくり専門家からのアイデアです。
 幅広の人道橋は、夏の花火大会には身障者(車イス)や施設の子ども達高齢者のための特設無料観覧コーナーとしても考えられていました。
 また災害時には新しく強度のある桜城橋が二橋の助けにもなります。表装に額田の木を使ったことで、山林の整備にも寄与しています。Uchida22040601Uchida22040602Uchida22040603

ツインブリッジ構想から桜城橋へ

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