消滅つつある日本のCAD開発史

「ググッて見つからないものは存在しないと同じ」

そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

かつて日本の自動車メーカーは、各社が独自のCADを内製していた。ふとしたきっかけで、これらインハウスCADの歴史を調べようとしたのだけれど、これがさっぱり見つからないのだ。少なくともインターネット上では、これらインハウスCADは「存在していない」。

海外CADはソフトウェア会社によって開発されているのでその会社の沿革を見れば割と簡単に歴史を知ることが出来る。しかし自動車メーカーのインハウスCADは、各自動車メーカーの内部でプロジェクトが立ち上がり、内部で使用され、内部でひっそりと姿を消している感じだ。その歴史は決してネット上に出てくることがない。この事実に僕は軽いショックを覚えた。

インハウスCADを調べようと思ったきっかけは、この記事。

日本の半導体産業はどこで負け組みに転じたのか。

結論から言うと、半導体設計支援ソフトの開発で負けた時に、もう勝敗は決していたのだろうと思う。


当初、日本の半導体メーカーはどの会社も、半導体開発のためのソフトを自前で開発していた。これをある時期から大半をアメリカ製に頼るようになった。何でもかんでも自前がいいというつもりは無いが、なぜここで負けたのか、という点には、反省すべき点が山ほどある。この戦いで勝てないのに、他人のふんどしよろしく購入したツールで勝負しようなどと考えたのが甘すぎたんじゃないのか。

日本の半導体産業はどこで負け組みに転じたのか - しんたろサンの日記

これは自動車業界の内製CADの状況とそっくり同じといっていいと思う。今のところ日本の自動車業界は負け組みではないけれど、CADに関しては完全に海外製に席巻されている。(この大不況で、自動車業界全体が負け組みの様相ではあるけれど)

トヨタ自動車が内製の「統合CAD」を捨てて CATIA と Pro/ENGINEER に移行すると発表したのが2002年。ちなみに僕が新卒で3次元CADの世界に飛び込んだのが2001年だ。当時、各自動車メーカーのCADの選定に関して盛んに議論されていた記憶がある。

どうして日本のインハウスCADは海外製に駆逐されてしまったのか。僕はこの答えに興味がある。そして、この答えを探るにはある程度は歴史を紐解く必要があるだろうと思っている。なのに、その歴史がネットに見つからない。

とりあえず、ここでは僕が知る限りのことを書いてみたいと思う。この辺りの歴史に関する僕の知識は皆無といってもいいくらい少ないもので、とても偉そうな記事を書ける立場にはないのは十分承知している。けれども、待っていたところで誰か詳しい人がネットに情報を上げてくれることは、あまり期待できない。というわけで、恥さらしは承知で少々書き綴ってみることにする。

特異点は1980年代

まず海外を見てみる。調べ始めてすぐ分かったのは、1980年代がいかにCAD史において重要な特異点であったか、ということ。

1980 3Dモデリング機能を搭載した最初のUnigraphicsがリリース
1981 Dassault Systems 社設立
1982 SDRC社、最初のI-DEASをリリース
1984 ボーイング社が Dassault の CATIA をメインCADとして採用
1985 PTC社設立
1988 PTC社、最初のPro/ENGINEERをリリース

1980年代に主要なハイエンドCADがすべて出揃っていることが分かる。おそらく競うように3次元CADが開発された、熱い時代だったのだろう。3次元CAD時代の幕開けだ。

さて、当時日本の状況はどうだったのか。

僕が入社したアルモニコス社の設立は1984年。特異点たる1980年代真っ只中に設立されている。アルモニコスの最初の仕事は三菱自動車のインハウスCAD「MERIT」の開発だったと聞いているから、日本の自動車メーカーにおいてインハウスCADの開発が始まったのも同じ時期なのだろう。

つまり、日本は出遅れていないのだ。この時点では、日本はまだ負けていない。

日本のインハウスCAD

僕の知る限りのインハウスCADを並べてみよう。これらのほとんどは僕は聞いたことがあるだけで、実際に見たり触ったりしたことがあるCADはごく一部。

統合CAD、ケーラム トヨタ
ESPRi ヤマ発
MERIT 三菱自
SCAD スズキ
ARS、RAM ホンダ

・・・間違っているかもしれない。間違っていたらごめんなさい。なにせググっても出ないので確かめようがない。

このリストを書いていて一つ思い出したことがある。以前、ATI(だと思う)のグラフィックボードの設定画面には主要なCADソフトのリストがあり、どのCADに最適化された設定にするかを選ぶことが出来た。そのCADソフトのリストの中に、名だたるハイエンドCADと肩を並べて、ヤマハ発動機のESPRiがあったのだ。これを見たときは仰天したが、要するにそれだけの存在感をESPRiは持っていたということなのだろう。これら製造業のインハウスCADは海外事業部にも展開されていたから、相当な本数が世界に出回っていたはずである。(ちなみに、たぶんESPRiはまだ現役で使われていると思う。たぶん。)

そして驚くべきことに、日本のインハウスCADの多くは「CADEL系」と呼ばれていて、そのアーキテクチャがほぼ共通なのだ(上に挙げたCADすべてがCADEL系なのかは僕は知らない)。これはおそらく1970年代と思われるが、当時の日本IBMがCADELというCADの基盤技術を開発していて、そのアーキテクチャをオープンにしたらしいのである。たぶんソースコードは公開していないのだが、アーキテクチャや設計思想の部分をオープンにし、基本構造はコピー(真似)されても構わないという判断をしたようだ。これが契機となって各自動車メーカーにおいてインハウスCADの開発プロジェクトが幕を開けたと思われる。

・・・うーん、実にあやふやな情報で申し訳ない。この辺りはだいぶ前に会社の上の人に聞いた話なのであまり正確なことが分からない。どなたか補足していただけるととても嬉しい。

さて、要点をまとめてみると。

  • 日本のインハウスCADの多くは、ほぼ共通したアーキテクチャの上に構築されていた
  • 特定のCADプロダクトが市場を占めることはなく、共通の設計思想を基盤として各社が独自にCADを内製した
  • 日本のインハウスCADもかつては相当な実力を備えていた

CATIAも元はインハウスCADだった

CATIAはフランスのDassault Systems社が擁するハイエンドCADだ。Dassault SystemsはCAD業界の中で最も成功している巨大企業である。そして、各ハイエンドCADの中ではCATIAが最も日本の事例に近いのだ。

CATIAは、もともとDassault Aviationというフランスの航空機メーカーが内製したインハウスCADであった。その開発部門が分離独立してDassault Systems社となったのだ。そのCATIAが飛躍した契機は次の2つと思われる。ひとつはCATIAがボーイング社に採用されたこと、もうひとつはIBMと提携したことだ。

CATIAの出自は、他のアメリカのハイエンドCADとは大きく異なっているように思う。アメリカ企業はいかにもアメリカらしいパターンで成功している。まず尖った技術者たちがベンチャー企業を興し、そこに有名企業が出資したり買収したり、あるいはベンチャーキャピタルから大きな資金を得たり、というパターンだ。このパターンは日本ではちょっと想像できない。これに対して、CATIAは航空機メーカーの内製CADからスタートしている。この成功パターンは日本でも十分に起こりえるものではなかったか。

なぜ日本のインハウスCADはCATIAになれなかったのだろう?

情報求む

なぜ日本のCADは敗れたのか。いくつか勝手な思索を巡らすことはできる。

  • CATIAのチームは分離独立したが、日本の内製CAD開発チームは分離独立しなかった。その理由は、当時の日本の終身雇用制度と関係しているだろうか。当時の開発チームには、分離独立して成功したいというモチベーションは発生しうるものだったのか。
  • 「バブル時代」から「失われた10年」にかけて、CADの開発状況はどうだったのか。
  • 製造業として強くなりすぎたことが、逆にCADを強く育てられなかった原因になってしまった、という可能性はないだろうか。
  • ゼネラリストを育てるローテーション人事のような日本的経営においては、プログラマも入れ替わりがあったはず。このことはCAD開発チームのプロジェクト運営にどう影響しただろうか。
  • 製造業において、ソフトウェア開発部門の地位や立場は、他の部門と比べてどうだったのか。

しかし、何か結論付けるにはあまりにも情報が足りない。いや、いくら情報を集めたところで結論なんて出ないのかもしれないけれど・・・。

まあともかく、情報をお持ちの方がいらっしゃればぜひぜひ、色々と教えてくださいませ。