小山田圭吾氏を起点とする一連の出来事について / TVOD
コメカ 小山田圭吾のことについて話したいと思います。正直言ってぼくはまだ非常に混乱していて、自分でも整理がついていません。ただ、これまで自分なりにサブカルチャー批評をやってきて、コーネリアスやフリッパーズ・ギターにも何度も言及し、肯定的に評価もしてきた。TVODの『ポスト・サブカル焼け跡派』でも、フリッパーズ・ギターと小山田・小沢健二それぞれのその後について一章を割いている。かつ、この本の出版元である百万年書房の北尾修一さんは、今回の問題の焦点である1995年の『Quick Japan』vol.3の記事「いじめ紀行 第一回」の取材現場に立ち会っている(北尾さんは当時太田出版社員)。自分みたいな人間はやはりこの件について話さないといけないと思って。かつ、13歳のころ、97年に聴いたコーネリアス『FANTASMA』が、自分のポップミュージック原体験のひとつにもなっている。そういう立場から話したい、と。
パンス はい。僕も同様に、TVODでもたびたび言及しているし、自分が思春期の時点で原体験としてコーネリアスを聴いていたし、いま話題になっている『Quick Japan』の記事は、刊行後、中学校の頃に読んでいます。なので記事の内容も知っていたし、今回改めて読み返してみました。つまり、自分も一読者として触れたうえで、スルーしていたひとりなんですね。そのような立場からの発言になります。一連の出来事における問題を考えると、かなり広範で、考えなければいけない課題が何層にも重なっていると思う。そこで今回自分たちは、言及するべきであろうと思ったすべての点について、いま考えていることを話そうと思います。
まずいじめという出来事がひとつの問題としてあり、さらに、それが雑誌媒体に掲載されたという問題がある。後者についていまさかんに議論されているのが、当該記事の内容を許容したメディア、ひいては1990年代における文化というものは何だったのか、ということ。これは、ふだんTVODでも話しているテーマに抵触する部分でもある。しかし今回は同時に、そんな議論をするような段階ではない、起こったことの悲惨さを考えるに、悠長な態度なのではないかという批判も見られ、そこも十分に理解できます。すごく悩むところなのですが、その指摘について思うところを端的に述べます。
僕は普段から過去に起こった出来事の年表を作ったりしているので、過去にこだわりがある人のように見えると思うんですが、なんでそんなことをしているのかというと、過去を懐かしむのが好きとか、そういった理由ではないんです。過去を掘らないと、現在のことが分からなくなるからなんです。過去には現在の「原因」が隠れている。現在につながる徴候的なものもあれば、形が変わっているけど分解していくと同じだと気付かされるようなものもある。そういう意味では、「90年代はこういう時代だった」という言い方だと、ある領域を区切って固定化するような側面があるので、ちょっと違うのかなとも思っています。90年代にあったさまざまな要素は現在につながっているし、もっと昔の要素が90年代につながってもいるんです。そういう見方を、今回の記事では提示したいです。
コメカ まず問題の核心部分のひとつとして、「村上清氏によって書かれた『Quick Japan』vol.3「いじめ紀行 第一回」において、(実在するとされる)障がいのある方・外国人の方へのいじめ行為・暴力行為に対する嘲笑的な描写及び差別表現・侮蔑表現がある」という事実がある。これは当時も今も社会的に肯定されることではないと思う。そしてぼく自身、15歳・1999年ごろに『Quick Japan』バックナンバーを読む形で、この記事の存在を知っていた。しかしその後、この記事を何がしか議論の俎上に乗せ批評の対象にしようとはぼくはしてこなかった。コーネリアスやクイック・ジャパンというものについて長年考え、その後北尾修一という編集者の下で本を出してからも、この記事についてクローズ・アップしなかった自分は、あのテキストが持つ意味をずっと軽視していた。そしてこうして大きな問題となった現段階でも、この記事のような表現を含んでいた『Quick Japan』、そして『ROCKIN'ON JAPAN』(ぼくは中学生の頃、この雑誌にも強い影響を受けた。今回の問題のもうひとつの核心部分は、この雑誌でのインタビューにおける小山田の発言である)、ひいては1990年代のサブカルチャーが抱えていたものと、いま現在の自分を切り離すことはできないと思っている。あの記事に顕れてしまったようなものが、確実に自分の一部になっている。それを考えなければと今思ってるけど、自分のなかで非常に混乱している。
パンス 僕もいまのコメカ君と同様の立場として、できるだけ極私的な形で、まずは1990年代の文化について話していきたいと思ってます。
いま議論になっているのが「悪趣味/鬼畜系サブカル」(この名称に統一します)が、当該記事も含めてもたらした影響についてですね。このジャンルというのが当時のメインストリームであったというわけではなく、若い人にも伝わりづらいものがあると思うので、それはどういうものだったのか、自分からの視点ですが、簡潔に定義していきます。
これらは源流を辿ればさらに昔に遡れますが、いわゆる「書店の棚にカジュアルに置かれる」といった程度の知名度で考えるならば、1990年代中盤から徐々に顕現していったものでした。当時の雑誌記事なんかを思い出しながら、いま大きく分けるならば、それ以前までは表に出づらかったマージナルな表現の記録を掘って楽しむ、というのがいわゆる「悪趣味」文化に位置すると考えています。そこにカテゴライズされるのは映画、マンガ、レコードなど、多岐に渡っていました。一方、「鬼畜系」というのは、1996年頃からでしょうか、こちらはより行為に主眼が置かれているというか、インモラルな行為や、ドラッグにまつわるようなカルチャーや実践を紹介するという傾向があったと思います。ただし、これら二つが棲み分けていたというわけではなく、雑誌媒体のなかで同居していて、ライターやアーティストのなかで相互に乗り入れている部分も多々あります。それら全体的な傾向/雰囲気が、小さなブームにはなっていたわけです。
『Quick Japan』も、そういった文化を旺盛に紹介するメディアのひとつでした。そのなかの3号、小山田インタビューが載った号を僕も読んでいるのですが、個人的に、上記のカルチャーをわりと把握したうえで読んでいました。そこで自分は何を考えていたか思い出していたんですが、ふたつあります。ひとつは、この記事は「悪趣味/鬼畜系サブカル」の雰囲気に乗っかろうとしているな、というものです。フリッパーズ・ギター含め、それまでの小山田の表現のなかにはなかった要素を取り入れようとしているなという意図を感じたんですね。しかし、少し違和感もありました。それは「テーマがなぜ『いじめ』なのか」ということです。これは読んだ自分自身の個人的な感情が反映されています。極めてショッキングな内容なのですが、当時の自分は中学生でした。当然、いじめにまつわる記憶がたくさんあるんです。自分でもそういった状況を見たりしていました。僕がカルチャーに求めていたのは、そういった日常から離れたところに広がっている世界でした。求めているものと違う、日常が突きつけられている状態に違和感を持ったんですね。ただ、いま読み返してみて、そういったカルチャーのなかで「いじめ」に言及されていることに対する必然性を理解することもできました。これはのちに話します。
コメカ 自分が15歳・1999年頃に『Quick Japan』のあの記事を読んだときには、いまパンスが話したような文脈というのはもう過去のものになっていた。ただ4~5年前の出版物だったので、大きな書店の「サブカル」コーナーにはその手の書籍や雑誌バックナンバーがたくさん並んでいた。『Quick Japan』に触れたのも、そういう風に書店に並んでいるのを立ち読みしたのが初めてだったと思う。中学生になってからサブカルチャーに興味を持った自分には、そういう書店の棚での出会いというのは大きなものだった。
そこで初めてあの記事を読んだときの記憶としては、非常にショックだったし傷ついたのを憶えている。コーネリアスは大好きだったし、「ポップミュージックってすごく楽しいものだな」と自分が思うきっかけのひとつになった存在だったから、記事内でいじめに関する経験や、先述した差別・侮蔑表現を彼が口にしているのを読んで、混乱した。『FANTASMA』はすごくイノセントな世界が表現されたアルバムだったし、遡って聴いたコーネリアスやフリッパーズ・ギターの過去作にもとても眩しいものを感じていたから。ただ、『69/96』というセカンド・アルバムにおいて、スカムやノイズ、ヘヴィ・メタル等のダーティな要素が導入されていることと、この記事におけるモードが同調していたであろうことは感じ取ってはいた。「こういう悪辣としたモードを抜けて、『FANTASMA』的なイノセントな世界に辿り着いたんだな」というような理解をしていたように思う。そしてその後も、作家としてのコーネリアスのキャリアが、フリッパーズ・ギターやソロ1stアルバムにおける自意識過剰な在り方から、どんどんと無意識の世界・感覚の世界に向かっていく、スキゾ・キッズ的な意味での「逃走」の軌跡だと理解していくようになった。あの記事のような悪辣さも、その「逃走」のなかでの一過程、自意識と無意識の境の時期におけるもがきとして受け止めていたし、そして今でも恐らく実際にそうであった側面はあると考えている。
ただ、そういう話とは別に、あの記事のなかにはいじめられる人々に対する嘲笑や、差別・侮蔑表現が含まれている。そのことに論点を置かなかったことは、やはり自分のなかでその問題を軽視していたということだと思う。作家・コーネリアスの軌跡のなかにあったこの問題を、自分は軽視してしまった。そしてまた、「そういうことを軽視する姿勢」が、あのころのサブカルチャーのエネルギーを生んでいた一要因だったんじゃないかと思う。
パンス 「いじめ紀行」という連載全体に着目すると、僕は「いじめられっ子だった」竹熊健太郎氏の証言には強い影響を受けています。たしか4号に掲載されていたと思うのですが、現在手元になく、それが改めて収録された『私とハルマゲドン』を参照しますが、竹熊氏がいじめられていた末に「変の道」を追求するという姿勢には、日頃学校/教室のなかで疎外感を覚えていた立場から、強い影響を受けました。また、同単行本で提起された「旅人の論理」という提起にも刺激を受けた、というか、いまだに自分の指針になっているようなところがあります。これは元ネタが西江雅之なのですが。いっぽうで、同じ「いじめ紀行」の連載上ではジェフ・ミルズがいじめられっ子に違いない、などという仮定のもと頓珍漢なインタビューをしていて、それは読んだ当時の時点でサイテーな記事だとも思ってました。
なぜ自分はいまこのように細部にこだわるアプローチをしているのか。それは、当時雑誌を読むということが、そのような細部の複数が寄り集まった末にある雰囲気自体を摂取する、といった行為だったからです。そして、そこから受け取ったものは、嫌悪感を持ったものが多々あれど、いまだに自分の糧になっているものもある、という、端的な事実を示したいというのもあります。
「そういうことを軽視する姿勢」というのは、一体なんなのか。それは「あのころのサブカルチャー」の問題なのか。ある定義を設けて断罪することは簡単で、批判的に検証されないといけないものだと思いますが、少なくとも、それらをパラフレーズしていかない限り、議論を進めることは難しいと思います。
コメカ 今回再読した「いじめ紀行 第一回」は、今の自分には悪い意味で「情熱的」な文章に見えた。少なくともこの記事は、(いま世間で思われているように)残酷ないじめ行為をただ露悪的に提示することが目的だったわけでは恐らくないだろうと自分は思う。書き手の村上清が、自分自身の被いじめ経験も踏まえ、子どもの世界のなかにあるいじめ=暴力や、学校空間における関係性のあわいなど、紋切り型の言葉では掬い取れない現実を描きたかったのだろうと推察する。だが、その方法も姿勢も思想も、決定的に未熟であり疎かなものだったと思う。それをフィクションとして自作の架空の物語にするのでなく、取材対象から具体的な語りを引き出す形で「物語」化するのであれば、こんな乱暴で稚拙な方法をとるべきではなかった。
書き手の「情熱」は迸っているが、語り手である小山田圭吾も、その語りのなかで回想される人々も、取材と称して家に押しかけられることになった沢田氏も、村上の「情熱」の素材に過ぎなくなっている。記事中でいじめられる、もしくは差別・侮蔑表現を投げかけられる人々の内面や尊厳は(あえて、だろうが)捨て置かれている。「そういうことを軽視する姿勢」を自分なりにもう一度パラフレーズする。それは、自らが情熱的に表現すること・「物語」を描くこと・自分が考える現実の姿を描くことの為に、実際にあった(とされる)いじめ=暴力、ひいてはそこにいた(とされる)人間の内面や人権を、「軽く」捉えようとする姿勢、ではないか。村上清や小山田圭吾、『Quick Japan』の面々、そして『ROCKIN'ON JAPAN』や山崎洋一郎の世界観のなかには、そういう姿勢があったのではないか。「あのころのサブカルチャーのエネルギー」という言い方も訂正する。いま挙げた固有名たちのなかに、そういうエネルギーがあったのではないか。そして90年代末に思春期を迎えていた自分には、そういうエネルギーを受け取って出来上がった部分が確実にあると思う。そしてこれらは、あのころの「オトコノコ文化」の一部であったとも思う(少なくともここまで挙げてきた関係者面々は、すべて男性である)。自分はかつてそこに育てられてきたし、そこに救われて生き延びた。だからこそぼくは『ポスト・サブカル焼け跡派』で「オトコノコ文化」的サブカルチャーが持つ問題点を指摘したつもりだったが、村上がここで発揮していた「情熱」については対象化できていなかった。
「短期間だがいじめられたことはあるから、いじめられっ子に感情移入することはできる。でも、いじめスプラッターには、イージーなヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティブさを感じる」「どうせいじめはなくならないんだし」「去年の十二月頃、新聞やテレビでは、いじめ連鎖自殺が何度も報道されていた。「コメンテーター」とか「キャスター」とか呼ばれる人達が「頑張って下さい」とか「死ぬのだけはやめろ」とか、無責任な言葉を垂れ流していた。嘘臭くて吐き気がした」「いじめ談義は、どんな青春映画よりも僕にとってリアルだった」。村上の記述には、彼が言うところの「イージーなヒューマニズム」や「嘘」をぶっ飛ばし、「リアル」(紋切り型の言葉では掬い取れない現実)を見出したい、という姿勢が感じられる。人間や暴力を「軽く」描くことによって、むしろ「リアル」に到達しようとする姿勢。当時の村上が本当に何を考えていたのかはわからない。しかしこのテキストそのものは、そういう風に読めるものになっている(また、山崎洋一郎の小山田に対するインタビューにおいても、この「軽さ」を強調しようとする姿勢が見える)。
しかし、こうして村上が描いた物語(それは小山田圭吾にまつわる物語という意味合いも持つ)のなかで、いじめられていた人々、差別・侮蔑表現を投げかけられた人々の存在は、そのまま無造作に置き去りにされることになった。実際ぼくも、15歳からいま現在まで、あの記事を「小山田圭吾にまつわる物語」としてしか捉えてこなかった。作家としてのコーネリアス、つまり「語る権利を持つ者」の軌跡におけるいちプロセスとしてしか捉えてこなかった。村上が描いた物語という捉え方すらしておらず、ひいてはそこに描かれたいじめられた人々、差別・侮蔑表現を投げかけられた人々について、捉え直そうとはしてこなかった。そもそも、この記事のような「情熱」や「リアル」への志向の在り方に、思春期の頃の自分は確実にのめり込んでいた。その後年齢を重ね、人権や反差別について考えるようになり、実際にそういう言説も口にしてきた。しかし原体験としてのこういった志向・エネルギーについては、(作家・小山田圭吾に対してそう捉えたように)自分にとっても「原体験」「通過点」であるとしか捉えていなかった。自分が生き延びるために、別の人々の存在を置き去りにしてきたように今感じている。村上は「小山田さんは、最初のアルバム『ファースト・クエスチョン・アワード』発売当時、何度も「八〇年代的な脱力感をそんな簡単に捨てていいのかな」という趣の発言をしていた。これを僕は、"ネガティヴなことも連れていかないと、真のポジティヴな世界には到達できない"ということだと解釈している」と書いているがしかし、少なくとも自分は、いろいろなものを置き去りにしてきてしまったように感じている。しかもこうして大きく問題化するまで、そのことに気づかなかった。
パンス ひとりの「作家性」に回収する傾向は、SNS以降の言論と相性がよい。多くの人が、日々流れてくるトピックの要因を「属人的」に解釈するからです。さきほど提起のあった「パラノ/スキゾ」的な分類に関しては自分としては「それでよいのか?」という疑問があります。そもそも、1984年の流行語であったこの二分法自体、現代の精神医療の状況などを考えると適用が難しいとも考えます。
「いじめ」そのものに焦点を当てます。内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書、2009年)によれば、いじめは構造的な矛盾を抱えています。ある「秩序が解体」していると同時に「秩序が過重」であったり、「大人びた」しかたで「幼児的な」ノリを生きているといった矛盾です。本書ではそのような秩序を「群生秩序」と呼んでいます。これらが、学校の教室など、閉鎖空間で展開されるわけです。これらは「子どもの世界」と言い換えることもできますが、大人になっても小社会のなかに見られる傾向なのはみなさん認めるところかと思います。
連載「いじめ紀行」冒頭の村上清の文を読む限り、上記のような状況そのものを直感し、描こうとした試みだと僕は見ました。しかし、結果的には露悪性が高いような仕上がりになっている。その要因として「悪趣味/鬼畜系サブカル」が持っていた要素はあったと思います。それは、自分たちと異なる存在を「観察」することが面白い、という感覚です。そのコードが本記事内では共有されているのですが、当然、それは普遍的たり得ません。だからこそ、振り返って読み返された時にゾッとするのです。この「観察」についてもう少し考えると、「悪趣味/鬼畜系サブカル」が「生み出した」というのは少し違っていて、この記事のなかで実例として示されてしまっている通り、小学生でもそういう視点を持ってしまうのです。その視点を延長することが、市民社会に対峙するような表現になりえるという感覚があったのだと思います。「ねこぢる」のマンガなどが分かりやすい例かもしれません。
「子どもの世界」という点では、この記事の前にはいとうせいこう『ノーライフキング』という小説があったり、のち1996年には竹熊健太郎・永福一成『チャイルド★プラネット』というマンガがあったことも思い出しました。「悪趣味/鬼畜系サブカル」以外にも、さまざまな表現が及ぼした影響を感じ取ることができます。
僕も小学校の頃はいじめられがちだったんですが、なぜか空手を習わされました。「精神的に強くなればいじめも克服できる」みたいな価値観がまだ強い時代だったんですね。いっぽうで、子どもたちの秩序をきちんとすれば解決するなんて言説もあったり、いじめそのものに関する言説もまだ途上で、そのような時代へのカウンターとしてこの記事があったのは、これもまた冒頭の文を読めば分かります。「『死ぬのだけはやめろ』とか、無責任な言葉を垂れ流していた。嘘臭くて吐き気がした。」そして僕自身は、空手より「変の道」に活路があったわけですが。
このように書いていくとあの記事を擁護している、と指摘されてしまうかもしれませんが、全くそうではなく、むしろ「なぜダメだったのか」考えて分解しようとする試みだと受け取って頂ければと思います。
コメカ すべてを属人的に判断する傾向が過剰になり過ぎると、社会における問題を、誰か特定の人間を悪魔化し排除する形での解決に、たしかに向かってしまいかねない。その危険性についてはきちんと留意した上で、ただやはりぼくは村上清や小山田圭吾、そして当時の『Quick Japan』の赤田祐一・北尾修一、そして企業としての太田出版に対して、それぞれのかつての/いま現在の主体の在り方を問いたい(加えて『ROCKIN'ON JAPAN』や山崎洋一郎など、他の当事者たちにも)。もちろんその問いの対象は、15歳であの記事を読み、2020年に北尾さんの百万年書房から書籍を出した自分自身も含まれる。
「観察」という視点の延長が、市民社会的な世界観に対するオルタナティブな価値観を生み出す契機になり得る可能性はたしかにあったかもしれない(「イージーなヒューマニズム」や「嘘」をぶっ飛ばし、「リアル」を探す)。だが、あの記事においてその「観察」の対象に、実在したとされる障がいのある方や外国人の方、いじめ被害者の方を置くという構図をつくることに、つくり手たる先述の面々は、果たしてどこまで向かい合う覚悟があったのか?そこにある現実に、徹底的に付き合うつもりはあったのか?単なる「ネタ」としてそれを扱う感覚はなかったか?
少なくともぼく自身は、あの記事に触れた後、そこで描かれた現実をとことん突き詰めることはしなかった。あそこで描かれたいじめや暴力や差別や侮蔑を、具体的に突き詰めようとしなかった。その意味で、当時あの記事をつくった彼らと自分は同罪だと思う。サブカルチャーとしての「情熱」やエネルギーの交感のために、あの記事に記されたいじめられた人々、差別・侮蔑された人々を、自分は置き去りにした。置き去りにしたままサブカルチャーについて考え、本を出した。そして恐らく、置き去りにしてきたにも関わらず自分で気がついていないことが、他にもまだ沢山あるのだと思う。
「自分たちと異なる存在」として実在の人間を客体化・「観察」対象化することは、「イージーなヒューマニズム」に反する行為だと思う(だからこそ、子どもの世界ではそれが活発に行われる)。しかし、「イージーなヒューマニズム」は単に社会に対する抑圧コードとして機能しているだけではなく、実際に生きている人間を暴力から護る機能もまた持ち得る。「イージーなヒューマニズム」や「嘘」をぶっ飛ばし、「リアル」を探すために、なぜ村上は、自分自身をその「ヒューマニズム」の外部に晒してみようとせず、他者による「観察」の語りを引き出そうとしたのか?そもそも彼は当初小山田と「かつてのいじめられっ子」を対談させようとしたわけだが、それもまた、「水槽の中に二種類の生物を入れたらどうなるか?」というような、ある種の「観察」行為であるように思う(そしてそこで発生する出来事こそが、村上にとっての「エンターテイメント」)。どうして彼はあの記事を書くにあたって、自分自身の身体をもって「イージーなヒューマニズム」の突破を、「リアル」の模索を試みなかったのか?
北尾さんの「いじめ紀行を再読して考えたこと」からは、ぼくはこういった自らの主体への捉え返しを感じられなかった。通読しても、北尾さんの主体がどこにあるのかわからない。あのときの村上と小山田をエモーショナルな筆致で物語化し祝福するというのは、「イージーなヒューマニズム」や「嘘」をぶっ飛ばし、「リアル」を見出そうとしていた俺たちの青春は美しかったよね、と励ましている行為にしか見えない。あのときに切実さがあったのはもちろんわかる。「リアル」を見出そうとする「情熱」がそこにあったことも痛いほどわかる。ただ、そこに主体的に関わった自分たちが置き去りにしたものは果たして何だったのかを考えることこそが、本当の意味であの頃をちゃんと歴史として捉え返すということ(そして、本当の意味できちんと終わらせてあげること)なのではないかと、北尾さんにも自分にも問いたい。読み手だったぼくにも責任があるし、当時新人社員だったとはいえ、作り手としてそこにいた北尾さんにもやはり責任があると思う。その責任はもはや取り切れるものではないのかもしれないけれど、それでもやはりそのことについて考えなければいけないのではないか。
パンス 北尾氏による一連の表明について僕からも。全3回に分かれており、2に関しては、今回拡散されたブログ記事の問題点を洗いざらい整理していて、これは絶対に必要なアプローチだと思いました。そもそも、原典にあたらないという行為がこれほどまでに当たり前になってしまったということに関して、いま現在ものを書いている身として痛感させられるというか、それは大前提なのだということを自分の書くものでも伝えられないといけないとも考えた。社会問題についてTwitterで議論を沸騰させることが当たり前になりすぎてしまった結果、このような展開が生まれるのだと思います。3に関しては、エモーショナルにする理由が理解できないし、するべきではなかったと思います。ただ、作り手側の記憶と意識そのものをよりリアルに伝えるためにそのような手法が取られたのかな、とも解釈しました。そもそものQJ原稿におけるつまづきを、26年後に完成させたという感じです。被害者視点の不在だけが残りますが、もともとそのような原稿であったために、それが限界だったということではないでしょうか。それ以上については、別の実践が必要になるでしょう。なので、このアプローチ自体が不誠実であるといった判断は行いません。
責任論については、僕はコメカ君に厳しく指摘しますが、「主体の在り方」を問う、とか、あまりにも抽象的すぎると思います。一体何を求めているんでしょうか。はっきり言えば、抽象化そのものに問題があると思いますし、抽象化してしまうことに対する責任があるでしょう。それは、エモーショナルに展開させることとも表裏一体です。また、今回の出来事の渦中にいる方々はなんらかの形での表明があるべきですが、それらを間接的な関係性のところまで広げてしまうことには同意できません。間接的であれば、基本的にすべての発言は、個々人の自主性に任せられるべきだと考えています。「公共のために」その自主性を投げ出すといった行為が生んだ歴史を知っているからです。
Twitterでの炎上状況についても触れたいと思います。僕がひとつ思うのは、個々人で考えて表明したことは正当であっても、それが集団化することで、個人の主張をはるかに超えた力を持ってしまうということです。それは政治的な推進力になる点では利点ですが、いち私人に向けられたときにどうなってしまうかという自覚が必要です。また、今回気づかされた点として、明らかに「祭り」状態にはしゃいでいる層が非倫理的な行為を繰り広げていました。一連の事象をまとめるならば、規模の大きくなった「教室の論理」、すなわち「いじめ」に似てしまう。これは比喩ではなく、先に記した通り、秩序と無秩序がないまぜになった閉鎖空間がいじめを生み出すという点で、同質です。「秩序が過重」で、空気を読んだ発言が求められると同時に、叩きたい放題の享楽性にも解放されている空間です。すでにSNS登場からずっと大規模化し続けている状況ですが、いまこそ公共性を考えるならば、ネットという現場から考えないといけないと改めて思います。
コメカ ぼくが「主体の在り方を問う」と言うときに問うているのは、「自分が他者や現実に対して能動的に作用するとき、その作用の力を振るうことに対してどう考えるのか」問う、ということ。誰かについて書くとき、誰かに触れるとき、誰かのことを殴るとき、自分はそこで他者や現実に対して何らかの作用を生むことになる。そこで自分はその作用における主体にならざるを得ないとぼくは考えている。いじめが起きたときに「いじめる側」として群れてしまうことのなかにも、Twitterでの炎上において「「祭り」状態にはしゃいでいる層が非倫理的な行為を繰り広げ」ることのなかにも、作用の主体になることに責任を感じない人間が多く存在することが、要因のひとつになっているとぼくは考えている。ただ、では具体的にその責任をどうとるのかというのは常にケースバイケースであり、「責任をとる」という言葉が空手形になっていることが多い=結果的に抽象化されてしまうことが多い……というか殆どであることも、理解しているつもりではある。お前は「主体」「責任」といった言葉をマジックワード化し、抽象的に振り回している、といった指摘には、今の自分は反論できない。実際その通りになっている。ただリアルタイムの現実に対して能動的にコミットしようとするならば、今言ったようなことをなんとか考えるしかないと思っている。これは自分なりに今後考え続けます。
結局今回のことについては今も混乱しながら考え続けているし、今後もずっと考えるつもりです。ただ、小学生から高校生にかけての小山田圭吾少年が、実際にどんな風に生きていたのか、そこで何が起きていたのかは今もわからない。いま我々の目の前には、90年代半ばに彼が『Quick Japan』や『ROCKIN'ON JAPAN』等の取材を受けて語り、ライターや編集者によって記事にされた文章しか存在しない。ただそこで、いじめや差別や侮蔑が、「軽い」形で扱われていたことだけは間違いがない。そしてぼく自身、その記事の「軽さ」を、かつてのある一時期の通過点として容認してきた。そういう「軽さ」によって「イージーなヒューマニズム」や「嘘」をぶっ飛ばし、「リアル」を探す、という情熱がかつてあり、それがいま現在の諸々の文化や状況にも様々な形で繋がっている。そういう情熱によって生かされた人間もいれば、置き去りにされた人間もいる。でも、これはあくまでぼく自身の個人的なスタンスとして、いじめや差別や侮蔑を、「軽く」扱うのはやはりダメだと改めて自分に言おうと思う。(いま現在も様々な場所で進行している)いじめられること、差別されること、侮蔑されること、それらの「重い」恐ろしさを、もう一度噛みしめようと思っている。
パンス 物事について原点から考える必要があると思います。いじめについてもそうです。とくにいじめについては、誰しもが何らかの形で加担したことがあるだろう、というのが基本的な共有認識ではないでしょうか。つまり、社会全体の問題であるということです。それは、解決される必要があります。少なくとも予断に満ちた環境で、問題解決の道筋をつけることは難しいでしょう。スタートラインは「どう理解するか」ということです。問題だと思った対象に注意深く向き合い、考える。インターネットにて、おぼろげな断定がその作業を阻害し、堂々巡りの議論を引き起こすさまも何度も見てきました。ここ10数年に起きていたさまざまな問題の極点を見る思いでした。表明の問題について先に書きましたが、表明せずとも考えることはやめてはならないでしょう。今回、自分と向き合いつつ記録しましたが、引き続き作業を続けます。