デズデモウナの残酷、あるいは、心ではなくあなたの外見こそが美しい
仕事の合間に現実逃避しつつ。
ブックマークを通じてid:FUKAMACHIさんの「一青窈さんのPVがすごすぎる件について」と、それに続くエントリ「先日の大反響について」を読む。
「善に酔うなよ」「偽善サイアク」的な物言いというのは、とことんまで偽善で頑張ってみようとする努力すら放棄して単純にその方が楽だからという理由で偽悪を気取る言い訳として機能している場合が多いような気がして、わたくしは個人的には好きになれないことが多い。
けれども、上記エントリで言及されている一青窈のPVに関しては、偽善にすらなっていないように思えるし、好きになれないという点について異論はない。「心の美しい逸脱者」(そこにおそらく「かわいそうな」という形容詞も加わっているのだろうけれど)という表象にうんざりするという点にも、同意。
その上で、上のエントリでは触れられていないように思えるけれども、PVを見ていてわたくしが非常にいやな気持ちになったというか、へこんだ点について。ちなみに、主にPVについてであって、歌自体は殆どまったく関係ありません。PVの映像が歌からかなり独立しているように見えるということと、ここで「気になっている点」というのが映像表現上のものだということとが、理由です。
さて。
「怪物だって心は美しい」「怪物だってさびしい」「怪物だって受け入れてほしい」というメッセージに対する批判としては、「心美しくない怪物もいますが?」「さびしくない怪物もいますが?」「別に受け入れてほしいわけではないですが?」というのはもちろんありだと思うけれど(クィア。笑)、とりあえず今それはおいておく。
ここで問題にしたいのは、このPVにおいて、「受け入れられるべき」ものはきれいだったりさびしかったり受け入れてほしかったりする「心」であるという点、そして、その「心」は怪物の外見「にもかかわらず」受け入れられるべきだとされているという点である。
このPVの映像が機能するためには、怪物オトコやつぎはぎ縫いぐるみ少女の外見は「人々に受け入れられないもの、見るもおそろしい醜悪なものである」ということが、いちおう暗黙の了解事項になっていなくてはならない(「いちおう」の理由については後述)。言葉を変えれば、このPVは、人々が「怪物の外見」にいわれなき恐怖をおぼえ目をそむけるというそのこと自体に強く異議を唱えるものでは、ない。
わたくしはひそかにこれを、デズデモウナの残酷、と呼んでいる。
ウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇の一つ『オセロウ』の、デズデモウナである。ムーア人将軍のオセロウが、はるかに年下の若く美しくそして「白人の」デズデモウナを妻とするものの、部下のイアーゴウの唆しによって妻が自分を裏切っていると信じ込み、あげくは妻を殺害して自害するという、あれ<きっとこういうあらすじ紹介はよくない
デズデモウナには罪はないのにオセロウが勝手に追い詰められて嫉妬に狂っていく、というのが一応の設定ではあるのだけれども、オセロウが追い詰められるのにはそれ相応のわけがあり、そしてデズデモウナは、無自覚ではあるのだが、その「追い詰め」に大きく一役かっている。
舞台となっている「白い」ヴェニスにあってムーア人のオセロウは「目にするのも恐ろしい」存在だと表現され、デズデモウナの父親は若い純粋なオトメたる娘がそんな醜悪な怪物に恋をするわけがない、と逆上するのだけれども、これに対するデズデモウナの答えが、それこそ実に恐ろしい。
わたくしはオセロウの心に彼の姿を見たのです。
I saw Othello's visage in his mind (I. iii. 248)
要するに、オセロウの外見に惹かれたわけではない、外見なんて見ていないの、この人の心を見ていたのよ、ということになるのだが、この発言の意味は、このすぐ後、同じシーンでの他の登場人物の発言によって、さらに明確になる。
もしも美徳にはいつもこころよい美しさが伴うのであれば
あなたの娘婿[オセロウのこと]は、黒いというよりは、実に白い/美しい。
If virtue no delighted beauty lack,
Your son-in-law is far more fair than black. (I.iii.285-6)
ここで前提となっているのは、オセロウの「黒い」外見はあくまでも美しくない、ということだ。デズデモウナは、オセロウの「黒い」外見が美しい、彼の「黒い」外見を好きだ、とは、決して言わない。「そんなの問題じゃないのよ、外見は黒いし醜いかもしれないけれど、心は白いし美しいの」。恋人であるデズデモウナにとってさえ、オセロウの外見が醜いという事実は、揺らがない。
そんなのってないよ、デズデモウナ、とわたくしは思う。「他の人にとっては美しくないかもしれないけれど、わたくしにとってはオセロウの黒い顔こそが美しいの!魅力的なの!めろめろなの!オセロウの外見大好き!」恋人にすらそう言ってもらえないとしたら、オセロウはどうすればいいのよ。まあ、だからこそ嫉妬に狂って無理心中にいたるわけですけれど<違
わたくしはこのシーンを読むたびに、デズデモウナの残酷さに胸がつまりそうになる。そして、このPVにはそれと同じ残酷さがあると、わたくしは思う。
上記エントリによれば、この歌は性同一性障害の友人を思って歌われたものなのだそうだ。歌い手がPVの表現をどの程度コントロールできるのかわたくしにはわからないけれども、少なくともPVのこの表現が示しているのは、この「性同一性障害の友人」は、心は美しいかもしれず、さびしがっているかもしれず、受け入れて欲しいと思っているかもしれず、つまり「その心は<怪物>ではない」かもしれないのだけれども、「その外見においては」、誰から見ても明らかな事実として「怪物」であり、忌避の念を引き起こすのであり、醜悪であり、目をそむけたいようなものだ、ということである。
そのような醜悪な怪物の外見に惑わされることなく、「受け入れて欲しい」と願うその美しい心を見抜ける「怪物でないわたくしたち」は、ちょっとそんなワンランク上の自分に惚れ直しちゃったわ!という気分になれる、という仕組み。
わたくしなら、そんな上から目線の方にはお友達でいていただかなくても結構でございますわ、と思ってしまいそうだ。歌い手さんは、それでよいのだろうか。
同じく問題なのは、上で書いたように、このPVでの怪物オトコやつぎはぎ縫いぐるみ少女の外見は人々に忌避され目をそむけられるおそろしく醜悪なものだということに「いちおう」なっている、という点である。あくまでも、「いちおう」。
実際のPVでの映像を見て、まあ怪物オトコはとりあえず怪物っぽいし、つぎはぎ縫いぐるみ少女はつぎはぎなのだけれども、全体にただよう「メルヘン」な雰囲気もあいまって、どちらも本当の意味で「直視できない」ような存在には見えない。正直、このPVの雰囲気だったら、怪物オトコだのつぎはぎ縫いぐるみ少女だのがふらふらコンビニで買い物をしていても、たいしてびっくりもしないかもしれない(勿論、現実に外に出て行ってこういう人がいたらちょっとびっくりするけれども、それはまた別のレベルでの「びっくり」であるように思う<どういうコスプレなのかしら、みたいなレベル。)*1
ある意味では、このPV内世界で、怪物オトコやつぎはぎ縫いぐるみ少女を見て目をそむけあとずさり、あるいは子供の目を覆う人々の方が、なんというか、オーバーリアクションなのだ。もちろん、そのようなオーバーリアクションな人々を「一般の人々」として提示することで、「直視できないような恐ろしい外見」の基準がいかにあてにならないものであるのかを視聴者に納得させるという方向も、あることはあるだろう。
けれども、このPVはそういう方向には機能していないように思える。そうであるなら、より明確に「直視しうる」人物、視聴者の目にはおよそおそろしくも醜悪でも異様でもなく、むしろ「一般的」にかわいらしいとか美しいとか言われる人物を配する方が、効果的であるだろう。中途半端な「怪物」を配するのは、視聴者に、自分たちはPVに登場する「一般の人々」と同じ基準を有しているのだと考えてほしいからだ。そして、「それにもかかわらず」、そのような怪物の内面を見抜き、異なる反応をするという点において、自分たちは「一般の人々」よりワンランク上の存在であると、感じて欲しいからである。
しかしもちろん、視聴者とPVの中に描かれる「一般の人々」とは、最初から別の位置に立っており、その両者が見ているものは全く違っている。PVの中の「一般の人々」にとって怪物オトコやつぎはぎ縫いぐるみ少女は、「直視できない」あるいは「見るもおそろしい」存在であり(これはPV自体がそのように決めたことである)、だから「一般の人々」は彼らを「受け入れ」ようとはしない。PVを見ている視聴者にとって、怪物オトコやつぎはぎ縫いぐるみ少女は、最初から直視しうる、おそろしくはない存在であり(これまた明らかにPVによってデザインされていることである)、だから視聴者にとって彼らは比較的「受け入れ」やすい。このPVは、全く異なるその二つの立ち居地を巧妙に重ね合わせ、あたかも「一般の人々」と「視聴者」とが「同じもの」を見て「違う反応(違う受け入れ方)」をしているかのような錯覚をおこさせようとしているのだ。
その裏で、視聴者であるわたくしたちが、実際に「見るもおそろしい」と思うかもしれないような存在、直視することのできないかもしれない存在は、視聴者の「目」から慎重に隠されたままになっている。その意味において、このPVは視聴者の目をその隠蔽の事実それ自体からそらせてしまうのであり、怪物オトコやつぎはぎ縫いぐるみ少女から目をそらす「一般の人々」と全く同じことをしていると言ってよい。いや、視聴者が「目をそらす」必要すらないよう、あらかじめ「見るもおそろしい」ものを視野から締め出しているのだから、こちらの方がむしろたちが悪いと言うべきだろう。
「受け入れて」というメッセージにもかかわらず、このPVが行っているのは、まさしく「見るもおそろしい存在」を「受け入れない」ことなのだ。
「見るもおそろしい怪物でも差別はいけない、受け入れるべきだ。」わたくしは、これを正しいと思う。目をそむけたくなるような怪物だから差別しちゃえ!排除しちゃえ!というよりは、よほどましだ。たとえそれが偽善であろうとタテマエであろうと、わたくしはまずはそれを絶対に支持する。
それと同時に、とりわけこれが社会政策についての議論といったものではなく、社会が「建前」として守るべきことを教える道徳の教科書でもなく*2、そのようにまとめて平たく言語化されたメッセージにとどまらない「作品」である以上、「目をそむけたくような」という価値判断をあまりに安易に前提とすることそれ自体への批判が行われるべきだろうとも、思う。
上で書いたことを繰り返せば、人々が見るもおそろしいものとして怪物から目をそむけ、あるいはあとずさる、その美意識自体に揺さぶりをかけるのでなければ、少なくとも映像作品において「怪物を受け入れること」を表現する意義は、ないのではなかろうか。PVを「映像作品」と呼ぶのならば、の話ではあるけれども。
別にあれです、デズデモウナがオセロウを美しいと思えなくても、そういう「美意識」というのはなかなか自分の思うままに変更のできるものではないわけですし、ある意味仕方のないことではあります。でもその時に「あなたは見るもおぞましいけれども心はきれいよ」とわざわざその美意識を確信もって堂々と補強する残酷さってどうなの?と思うわけです。そういう自分の美意識にぬくぬくとおさまってそれを疑うことのない表現って、どうなの?と。
さらに言えば、人文系机上系にして心底あまっちょろいわたくしは、「愛」というものがあるとすれば、それは「ものの見え方」を変えてしまうものだろう、と思っています。あるいは、「ものの見え方」が変えられてしまったときに、人はその説明のつかなさを「愛」と言う言葉で理解しようとするのかももしれない、と思っています。他の誰が何と言おうと、わたくしにはあなたが本当に美しく見えてしまってどうしようもないのだ、という風に。*3
*1:と、思っていたらこちらで適格な指摘が既にありました。「サンリオピューロランドと何が違うというのか」
*2:ちなみにわたくしは「道徳」という教科のあり方はともかく、「建前」というのはとても重要だと思っている
*3:そういう意味では、最後に怪物オトコにつぎはぎ縫いぐるみ少女がそっと寄り添うシーンは、怪物オトコにとってつぎはぎ縫いぐるみ少女が明確にある種の「理想像」であり[自分と同じ体験をしている、でも自分より「かわいい」、お話の中の存在]、つぎはぎ縫いぐるみ少女の方が怪物オトコを「見つけて」近寄ってくる=眺めたい、触れたいと思う、という点を考えると、クィアな「相思相愛」が達成されたシーンと、呼べなくはないのかもしれない。とはいえ、このラストシーンでのつぎはぎ縫いぐるみ少女は怪物オトコの「悲しい幻想に過ぎない」ようにも見え[まあ、少女は怪物オトコの読んでいた本の登場人物であるわけだし]、シーン全体もお互いを見出した喜びというよりは、一縷の希望は残しつつ基本的には沈んだ空気に満ちているので、この読みはさすがに強引すぎる気もするけれども。