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昔、「ROOMMATE〜井上涼子〜」というセガサターン用ギャルゲーがありました。サターンの内蔵時計を利用して、女子高生とのリアルタイム同居生活を楽しむシステム。例えば朝にゲームを起動すれば登校する彼女と挨拶ができて、夕方は帰宅する彼女に「お帰り」を言い、夜に繋げば個室で過ごす彼女と会話ができるという、今日に至ってもなお燦然と素晴らしくダメなゲームデザインです。
とはいえ、セガサターンの内蔵時計は本体の設定画面で操作が可能ですから、実際は時刻を任意に動かして井上涼子の時(イベント)間を"かすめとる"ことが可能で、それが「ROOMMATE〜井上涼子〜」という作品に関するゲームプレイの実体だったのでしょう。
しかし僕は、購入後1ヶ月はいっさい内蔵時計を操作せず、現実の時間通りにゲーム内の時計を進めていました。朝、登校するときに起動、夕方帰ってきて起動、夕飯を食べ終わって起動、そして寝る前に起動。そういう生活を1ヶ月も続けていたのです。その精神は、「信長の野望」で徹夜して学校を休んだりとか、「ラグナロクオンラインのGvGがあるから」と、日曜友達からの遊びの誘いに消極的になることがあったとか、きっと脈々と現在にも引き継がれています。馬鹿ですよね、ほんと。
一見、リアルタイムがゲーム内タイムと一致しているように思えるこのシステムですが、実はそんなことはありません。たとえば20時に起動して涼子ちゃんの部屋まで来てみても、決定ボタンを押してテキストを読み進めなければドアは決して開きません。何もせずいくら待っていても、涼子ちゃんが部屋から出てくることもありません。リアルタイムとゲーム内タイムの一致は全く仮初のもので、実際は、プレイヤーが内蔵時計をいじくるのと同次元で、プレイヤーの操作がゲーム内時計を制御していたことが判明します。僕の1ヶ月は裏表なく馬鹿そのものでした。
そこでは錯覚としてのリアルタイム=ゲーム内タイムであったものを、限りなく事実としてゲームシステム的に追求して見せたのが、かの有名なPS「ノエル」でした。この作品ではプレイヤーは、1個の個人として、ヒロインたちにテレビ電話を掛けていきます。テレビ電話上では、設定的な齟齬はあるものの、まず間違いなくプレイヤーはイコール主人公であり、好きな時間、好きな相手に電話を掛けます。
そのテレビ電話は、さまざまなキーワードをボールとして画面内ウィンドウに配置し、配布され、それを話の途切れ目に応じてタイミングよくヒロインに"投げる"ことで、会話を繋いでいく。ビジュアルノベルよろしく、頁送りボタンを押さない限り時間を止められるといったことは、ありません。何もしなければ、何も話さなければ電話は切られてしまう、送った話題はときどき無視されてしまう、全くありきたりの仕打ち(リアル)に僕などはかなり打ちのめされたものです。
しかし「ノエル」のケースでは、「ROOMMATE〜井上涼子〜」において建前的には変更不可能であった内蔵時計と異なり、時間を操作することをシステム的に先制して取り込んでありました。テレビ電話中の時間は制御できないのに、彼女達と電話をする時間は任意に操ることができるのです。
それは、物語の要所を飾るムービーシーンに(プレイヤーではない)主人公が存在していることをほのめかしていることと合わせて、「もったいない」と僕が思うところです。主人公の設定についてヒロインにつっこませないようにして、多様な身分・年齢・思想や性別の主人公を成立させられるような絶妙の環境を配膳すべきであったし、そしてテレビ電話で始まり、テレビ電話で終わらせるべきだった。なおかつ、あらゆる時間をプレイヤーサイドで操作できないようにすれば、それはより画期的なゲームデザインになれただろうと、僕などは考えるのです。
リアルタイムが完全にゲーム内タイムと一致し、リアルプレイヤーの存在が完全にゲーム内主人公の"存在"と一致し、5ヶ月間女性を監禁して「ご主人様」と呼ばせていた無職男のありようと(観念上は)変わるものがなくなったとき、僕らは空想と現実の垣根を跨ぐ正当な通行許可証を獲得するのかもしれません。少なくとも僕がゲーム(というかギャルゲー)に求めている地平は、そんな風景であったりするのですから、最早テロリストを非難できませんよね。
プレイヤーはゲーム内の物語や世界、システムを体験することはできません。どれほど共感的な主人公・ノンフィクショナルな作品であろうとも、それらに接して生ずる情感は、体験ではなく、しいていうなら観念的なもの。テキストを読み、物語を飲むとはつまるところ、観念的でないことはできないのだと考えます。
しかし、時間は違います。時間とは哲学の先生なら観念だとのたまうかもしれませんが、本来は誰もが平等に体験することができる自然です。だからこそ、僕はゲーム内時間を、リアルタイムのそれと一致させることにより、体験ベースのゲーム共感・共鳴・同化を目指す一里塚としたい。主人公の1秒とヒロインの1分を、僕の1秒と僕の1分として体験するように、主人公の鼓動とヒロインの息遣いを、僕の鼓動と僕の息遣いとして体験したい。
少なくとも今はっきりしていることは、テキスト型のビジュアルノベルで、頁送りのためにクリックやエンターキーを1回押すごとに、体験は遠のき、空ろな観念が積みあがっていくのだということ。それはそれで、幸せな場合も多いのですけれどね。観念的なSEXほど甘美なものはないのですから。