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雑文系ブログです。

先祖の戸籍の写しを取り寄せてみたら、214年前(江戸時代、文化7年)までさかのぼれた

三行まとめ

  • 青森県にいる先祖の戸籍謄本(除籍謄本)の写しを集められるだけ集めた
  • 一番古い先祖の生年が1810年だということがわかった
  • 戸籍を通じて、「自分は人類のデータの一部だ」と思うようになった

取り寄せることができた戸籍の写しについて

  • 数:合計29個
  • たどれた先祖の人数:数え切れる人数ではなかったので本記事ではパス

なぜ突然先祖の戸籍の写しを集めようと思ったか(行動の背景と目的)

背景その1と目的:戸籍の広域交付制度が始まった

実はそんなに高尚な話ではありませんでした。

2024年3月の戸籍法改正により、これまでは先祖の戸籍をさかのぼる際に「その戸籍の本籍地へ行く or 郵送で取り寄せる」必要があったのですが、そうしなくてもよくなったのですね。

これは便利すぎる。試してみるしかない。

これが背景その1と目的で、今回の行動に至った力の90%くらいを占めます。直系尊属なら、戸籍が存在している限りさかのぼれるので、どこまで行けるかチャレンジ!

本籍地以外の市区町村の窓口でも、戸籍証明書・除籍証明書を請求できるようになります(広域交付)。
これによって、
【どこでも】
本籍地が遠くにある方でも、お住まいや勤務先の最寄りの市区町村の窓口で請求できます。
【まとめて】
ほしい戸籍の本籍地が全国各地にあっても、1か所の市区町村の窓口でまとめて請求できます。

※ コンピュータ化されていない一部の戸籍・除籍を除きます。

上記の理由により、戸籍の写しの取得ノウハウなどはこの記事には含まれません。ちょっとしたコツは後ほど。

背景その2:私が子孫の終点だ!(直系で)

2023年6月に、子宮筋腫に対する腹腔鏡下子宮全摘術を受け、物理的に子供を持ち得ない状態になりました。妊孕性(妊娠する可能性)でいえば、かかりつけ医の基準である45歳を過ぎていたので、「可能性は極めて低い」状態でした。そして子宮を摘出したことで「可能性はゼロ」になったわけです。

私の直系卑属が存在しなくなった以上、戸籍の直系のつながりとしては、私が終点になります。よっしゃ、じゃあ逆にさかのぼってみようじゃないの。そんなふうに考えたのが、残りの約10%です。

戸籍をさかのぼってみた

とりあえず結果から。以下のような基準で書きました。

  • 死亡年などもいろいろ読み取れますが、生年に絞って整理しました
  • 名前の後ろに「(仮)」とついているのは、変体仮名や筆跡のにじみ・かすれ、達筆・くせがすごすぎて字が判読できないなどの理由で「確実ではない」文字があることを指します
  • 両親ともに青森県出身で「親戚がほぼ全員青森県にいる」という都合上、名字を出すと簡単に親戚(傍系の方々)であろう人々にたどり着く状況で、存命の方々にご迷惑をおかけする可能性が否定できないため、名前のみの公開としました
    • 名字もオープンインターネット上に出しておくと、後々たどり着いてくれる人にとって有益な面もあるとは思うのですが……この辺は非常に難しいですね

父親の父母より上

祖父母 曾祖父母 高祖父母 五世の祖父母

金四郎
大正7年(1918年)12月8日生
(父の父)
辰五郎
明治26年1893年)2月1日生
(父の父の父)
藤太郎
明治3年(1870年)10月11日生
(父の父の父の父)
兼吉
-
(父の父の父の母)
さき
-
(父の父の母)
たき
明治7年(1874年)5月4日生
(父の父の母の父)
久之助
-
(父の父の母の母)
とめ
-
(父の母)
つる
明治33年(1900年)2月3日生
(父の母の父)
才太郎
明治15年(1882年)3月2日生
(父の母の父の父)
勇吉
安政4年(1857年)2月3日生
(父の母の父の母)
すへ
文久元年(1861年)4月21日生
(父の母の母)
まめ
明治16年(1883年)2月8日生
(父の母の母の父)
兼吉
-
(父の母の母の母)
マン
-

ツネ
大正12年(1923年)12月10日生
(母の父)
運吉
明治14年1881年)11月2日生
(母の父の父)
佐之助
嘉永5年(1852年)5月25日生
(母の父の父の父)
佐之助
-
(母の父の父の母)

-
(母の父の母)
とよ
嘉永5年(1852年)2月19日生
(母の父の母の父)
清之丞(仮)
-
(母の父の母の母)

-
(母の母)
みよ(仮)
明治20年(1887年)7月15日生
(母の母の父)
大吉
-
(母の母の父の父)

-
(母の母の父の母)

-
(母の母の母)

-
(母の母の母の父)

-
(母の母の母の母)

-
五世の祖父より上
  • 兼吉の父は熊吉(六世の祖父)
  • 久之助の父は源四郎(六世の祖父)、母はりつ(六世の祖母)
    • りつの父は伊三郎(七世の祖父)
  • とめの父は善四郎(六世の祖父)
  • 勇吉の父は巳之吉(六世の祖父、天保4年(1833年)4月14日生)、母はとめ(六世の祖母、天保12年(1841年)6月20日生)
    • 巳之吉の父は三右エ門(七世の祖父)、母はりん(七世の祖母)
      • りんの父は万之丈(?)(八世の祖父)
    • とめの父は七左エ門(?)(七世の祖父)
  • すへの父は寅蔵(六世の祖父)

母親の父母より上

祖父母 曾祖父母 高祖父母 五世の祖父母

由徳
明治41年(1908年)3月21日生
(父の父)
福松
明治元年(1868年)8月18日生
(父の父の父)
庄三郎(仮)
天保10年(1839年)3月22日生
(父の父の父の父)
庄三郎(仮)
-
(父の父の父の母)

-
(父の父の母)
せん
弘化元年(1844年)7月21日生
(父の父の母の父)
助五郎
-
(父の父の母の母)

-
(父の母)
その
明治7年(1874年)1月3日生
(父の母の父)
元吉
弘化3年(1846年)6月15日生
(父の母の父の父)
源吉
文政8年(1825年)5月18日生
(父の母の父の母)
かね
文政9年(1826年)5月17日生
(父の母の母)
およ
-
(父の母の母の父)
円次郎
-
(父の母の母の母)

-

ツヱ
大正8年(1919年)2月13日生
(母の父)
留次郎
明治16年(1883年)1月2日生
(母の父の父)
長松
天保11年(1840年)7月23日生
(母の父の父の父)
喜兵衛
-
(母の父の父の母)

-
(母の父の母)
のよ(ノヨ)
嘉永2年(1849年)7月13日生
(母の父の母の父)
太左エ門
-
(母の父の母の母)
スケ
-
(母の母)
さん
明治23年(1890年)6月18日生
(母の母の父)
幸吉
安政6年(1859年)12月21日生
(母の母の父の父)
佐之助
文政8年(1825年)7月3日生
(母の母の父の母)
まさ
文政11年(1828年)8月20日
(母の母の母)
せん
文久3年(1863年)4月16日生
(母の母の母の父)
万左エ門
-
(母の母の母の母)

-
五世の祖父より上
  • 源吉の父は喜三郎(六世の祖父)
  • かねの父は權七(六世の祖父)
  • 佐之助の父は茂助(六世の祖父)、母はさん(六世の祖母、文化7年(1810年)7月15日生)
    • さんの父は金次郎(七世の祖父)
  • まさの父は金四郎(六世の祖父)

たどれる中で一番上の世代

  • 万之丈(?)(八世の祖父)
    • 私から見て、父の父の母の父の父の父の母の父

たどれる中で一番古い生まれ

  • さん(六世の祖母、文化7年(1810年)7月15日生)
    • 私から見て、母の母の母の父の父の母

戸籍謄本(除籍謄本)を取り寄せる一例

以下はすべて「私の場合」の話なので、もし同様のチャレンジをする時に参照される方がいらしたら、適宜読み替えてください。

まずは祖父母の戸籍から

私は婚姻によってもともといた戸籍から抜けているので、まずは役所で自分(筆頭者は夫)と親(筆頭者は父親)の戸籍謄本(戸籍全部事項証明書)の写しを取得します(以下、「写し」は省略します)。すると、自分と親が直系であることが証明できます。この「直系の証明」は役所の窓口で手続きをするたびに必要になります。

親の戸籍謄本に「従前戸籍」が書かれています。従前戸籍は「もといた戸籍」のことで、前の戸籍のある場所(本籍地)と筆頭者(祖父か祖母)が書かれています。それを手がかりにして、祖父母の戸籍を取ります。

申請書の書式は役所によって違うため、詳しくは記入例を参照するのが早いのですが、もし可能であれば「出生から死亡まで」を指定して、改製原戸籍と除籍謄本を申請しましょう。改製原戸籍は「法律の改正によって除籍扱いになった戸籍」、除籍謄本は「戸籍に記載された人が全員除籍になったために除籍扱いになった戸籍」です。戸籍の構成員が婚姻または死亡で全員除籍になっているかいないかわからないことが多いと思うので、どちらも申請しておくとよいと思います。

自治体によっては「さかのぼれるだけ全部」という指定ができるので、受け付けてくれそうな書式であれば忘れずに指定しましょう。

謄本類は1通750円かかるので、取れる戸籍が多いと地味に財布に響いてきます。最近はPayPayなどでも決済できるので便利ですね。

祖父母の戸籍から一気にさかのぼれることが多かった

父方、母方の祖父母の改製原戸籍または除籍謄本が取れると、一気に情報量が広がります。運が良ければ祖父母の祖父母までわかることがあります。人によってはここで旧民法下の戸主制度での戸籍までさかのぼれて、一つの戸籍に入る範囲が広がるからです。

登場人物も増えます。戸主の祖母、妻、長男・次男・三男とその妻、その子供、さらにその妻と子供が一気にわかる戸籍がありました。一番多いものでは「叔父の妻」「曾孫」まで含まれていました。戸主制度の戸籍では一気に関係性がわかるので、家系図を書こうとする際には結構楽になるんじゃないかと思います。

ただ、そのあたりの時代柄、養子縁組や離縁が多くて大変そう。私は全員書き起こすのはいったんあきらめ、直系のみに焦点を当ててGoogle スプレッドシートに起こして整理しました。

明治時代で行き止まり

戸籍の年式は、戸籍が改製された年にちなんで名付けられています。取得可能な一番古いものは明治19年式とのことです。このあたりは自分の知識では記載するのは無理なので、ソースになりそうなURLをはっておきます。

それより古い戸籍については「確認できない」「登録されていない」という説明がありました。家族構成によっては江戸時代の最後の方の元号天保や文化など)が記載されていて、うわーすごい、と素朴に思うなどしました。「すごい」しか出てこない。

戸籍を眺めて考えたこと

オーラルヒストリー、結構あてにならないぞという話

母方の祖父母は再婚同士だと聞いて育ちました。祖父の前の奥さんとの間には子供がいて、会う機会が少しだけあったそうです。とはいっても1歳の時に祖父が、4歳の時に祖母が亡くなっており、本人から直接聞くことはありませんでした。

実際の戸籍を参照したところ、祖父は再婚ではなく、再々婚でした。一度婿養子(誤用ではなく、本当に名字が変わっている養子)に出ており、その時に子供が生まれています。離婚して元の名字に戻り、再度結婚。その奥さんは亡くなりました。私の祖母が3人目の妻でした。祖母は初婚でした。

わかるデータには直接あたらないとだめだ……。

特徴的な名字

古い先祖の名字に「長利」さんがいて、あんまり見ない名字だったのでちょっと調べたところ、青森県ではメジャーな名字だということがわかりました。読み方は不明(いくつかある)。東北なので、奥州藤原氏の影響で「藤」が付く名字は頻発するのはわかっていたのですが、「青森県に多い」かどうかはきちんと調べないとわからないですね。

「筆舘(あるいは筆館)」というのもありました。これはさすがに珍しいと思ってぐぐったり調べたりしたのですが、どうにもヒットしない。郷土史料などをあたると出てくるかもしれません。

特徴的な名前

さすがに名前でぐぐって出てくることはないと思っていたら、父方の七世の祖父「七左エ門(?)」さんで以下の記事がヒットしました。

弘前に居酒屋「七左ゑ門」 元大学生協職員が開業 - 弘前経済新聞

店主の早川桂さんは元弘前大学の生協職員で、店名は自身の先祖にいた「七左衛門」から数えて13代目に当たることから名付けた。

13代目ということは、武士とかお寺とかで記録がかなり昔まで残っている家系なのでしょうか。一番古い年号が残っている六世の祖母でやっと江戸時代末期なので、お寺の過去帳がきちんと残っていないと名前を読み取るのが難しそう。弘前市には、33の曹洞宗寺院が集まる「禅林街」という町があり、そこまで行けば私の先祖の過去帳も見られるのかもしれません。現実的にはちょっと難しい。何しろ先祖、意外と多いので……。

古い戸籍、意外と読める?

変体仮名

上記の直系家系に出てくる「その」さんは、最初の戸籍に登場した時は以下のように書かれていました。

祖父の戸籍で「その」と書かれていたので、「のって読むんだ!」ということがわかり、逆に変体仮名の一覧から「能」をくずした字であることがわかりましたが、変体仮名一覧からは私は読み取ることができませんでした。

「みよ(仮)」の「み」は、たぶん本当は「み」じゃないと思うのですが(もっと複雑)、時間がある時にじっくり調べようと思います。

読めない漢字

「庄三郎(仮)」と書いたところは、実際には以下のように書かれていました。明らかに違う漢字です。

これも収録数の多い漢和辞典をあたればたぶんわかると思うのですが、時間がある時に……。

数字

戸籍に限らず、古い書物で使われる数字には「壱」「弐」「参」「拾」「廿」などが使われています。これらは慣れてくると意外とそのまま読めるようになっていて、そんなに苦労しないですみました。

アラビア数字は使われていませんが、かなり古い戸籍でも「一」「二」「三」「十」「二十」などと書かれている場合もあり、あんまり基準がなかったんだなということが見てとれます。

「電算化最高」という気持ちになれる

戸籍の改製について - えいすけ相続サポート京都(京都市左京区)

平成6年(1994年)に戸籍法が改正され、それまでは手書きがメインだった戸籍がコンピュータで管理され(電算化)、横書きで書かれるようになりました。平成6年に戸籍が改製される前の戸籍(昭和23年式戸籍)は「改製原戸籍」となっており、私の改製原戸籍は、縦書きのものでした。

「コンピュータ化」された平成6年式の戸籍謄本

電算化された戸籍の一部。とっても読みやすいですね!! 最高!

記録することについて

イムリーなことにこんなツイートを見かけました。このような記録に何かの価値があるといいなと思いながら書きました。

私はX(旧Twitter)で時折「現在の戸籍は非常にドライで、感情がはさまる余地はない。アップデートが遅れているのは人間の方」という意図のことを投稿することがあります。それはやはり間違いなかった、自分の情報も行政文書の膨大なデータの中の一部だな、と実感できました。