b22

1: 日本@名無史さん 02/06/17 05:27

陸軍の統制派と皇道派について教えてください。
また、海軍にはそんな派閥があったんですか?

6: 日本@名無史さん 02/06/17 06:54

第一次世界大戦が終わり、
国際的軍縮会議が開催されるようになると、
政府側の要請に応えて軍縮に努めようとする主流派と反対する非主流派の争い、
いわゆる海軍部内における条約派と艦隊派という争いが生じた。

主流派はワシントン条約の交渉に当った
上記の加藤友三郎や財部彪、それに対して反主流派は、
日露戦争の英雄である東郷平八郎を担ぎ出し、
これらの政府側要請に抵抗した。

同時期に陸軍においても師団増設などに関して、
政府側の意向に従う主流派と、反主流派の争いが起こる。

7: 日本@名無史さん 02/06/17 07:04

やがて世界恐慌が到来し国民の政党政治への信頼が揺るいで行く中で、
貧困に喘ぐ国民に同情し、違法な手段を用いてまでも政党政治を打倒し、
改革を実現しようとする急進的軍人が現れる。

彼らは天皇を中心とした改革を武力によって成し遂げた
明治維新を理想とし、昭和維新の実現を目標とした為に、皇道派と呼ばれる。

8: 日本@名無史さん 02/06/17 07:10

問題は、こうした急進的軍人を、上記の主流、反主流の争いの中で、
利用しようとする動きが起こったことである。

上記の荒木貞夫、真崎甚三郎などは、その最たるもので、
これら急進的な軍人に対して、同意と支持と受け取られるような
無責任な言動を繰り返し、擾乱の芽を摘み取る事を遅らせた。

9: 日本@名無史さん 02/06/17 07:34

クーデターを伴う改革を指向する皇道派は陸海軍を跨って存在し、
最終的には226事件の失敗によって壊滅する。
統制派と言われる主流派は、最後まで厳とした態度を取り、
東条英機は226事件の大陸への波及を阻止したと言われている。

しかしながら国民の同情は反乱者であるはずの
自己犠牲的な皇道派の軍人へ流れ、
これ以前の政府による政策の失敗などから政党政治への信頼は地に落ち、
最終的に軍人に政治を委ねようとする機運が高まってしまう。

陸海軍の派閥争い=統制派と皇道派の争いでは無く、
誰がどの派閥にいたと断言することも出来ない。
従って、4のような派閥による色分けは正しいとは言えない。

むしろ皇道派と呼ばれる軍人は派閥争いに利用されただけとも言え、
軍部内の派閥争いは最後まで存在し続けたと言われている。

13: 日本@名無史さん 02/06/20 14:46

バーデンバーデンの密約で藩閥解消を誓いながら
自分たちが新たな派閥争いを繰り広げてしまった
というのは皮肉だね

11: 日本@名無史さん 02/06/20 01:05

これよいからあげとこ。
もっともっと説明求む。
4: 日本@名無史さん 02/06/17 06:22

皇道派
荒木貞夫 真崎甚三郎 山下奉文 山岡重厚 小畑敏四郎 秦真次
統制派
永田鉄山 東条英機 小磯国昭 武藤章

艦隊派
東郷平八郎 大角岑生 加藤寛治 末次信正 高橋三吉
条約派
加藤友三郎 財部彪 岡田啓介 小林躋造、野村吉三郎 山下源太郎 山梨勝之進
左近司政三 堀悌吉 米内光政 山本五十六 井上成美


詳しい方フォローよろしく

99: 日本@名無史さん 02/11/21 21:25

>>4

超亀レスだが、山本五十六は条約派か?

条約派と艦隊派が生まれたロンドン会議で
山本少将は海軍の次席随員だったが、
山本は海軍随員の中で強硬派のリーダー格。

大蔵省の随員だった賀屋興宣が財政面から妥協案を支持したときには
「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と怒鳴りつけたほどだ。

21: 中¥某 02/06/28 09:16

ちなみに辻政信は統制派。
5,15と2,26との間にあるはずのクーデターを水際で防いだ。

77: 日本@名無史さん 02/11/19 22:41

>>21

2月事件と10月事件

22: 日本@名無史さん 02/06/28 09:18

士官学校事件のことかい?


62: 日本@名無史さん 02/10/06 12:52


皇道派と大本教の関係について情報キボン


63: 日本@名無史さん 02/10/06 17:44

陸軍急進派、桜会の橋本欣五郎らが計画した10月事件では、
同士の将校百余名が指揮下の各連隊から十数中隊を出動させ、
首相官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部などを襲撃、
首相以下は斬殺し、他の反対派は捕縛。

その後、東郷元帥が参内して荒木中将に大命降下という筋書きだった。
他に霞ヶ浦の海軍爆撃機や大本教の出口王仁三郎が
信徒40万人を動員して支援に立つ約束もできていた。

だが、後に大本教は強烈な弾圧をくう。

41: 日本@名無史さん 02/08/24 11:18

統制派も皇道派も
社会主義的傾向を有していた?

79: 日本@名無史さん 02/11/19 22:54

>>41

社会主義というよりは全体主義。
国家による計画統制経済といったほうが正しい。
企画院などはその象徴だった。

114: 日本@名無史さん 02/11/23 15:32

>>79

しかし経済的平等に対する志向がまったく無かったとは言えないのでは?

116: 日本@名無史さん 02/11/24 03:45

>>114

平等という考え方よりは、国策会社を多数作ったことからも
明らかなようにやはり統制・計画を目的とした経済政策だったと思う。
平等を実現しても戦争に勝てる国家は作れない。

戦争に勝つためには国家の持つ力を管理し、
効率的に分配し・投資する必要があると考えていた。

23: 日本@名無史さん 02/06/28 09:25

北一輝、西田税らが、青年将校に国家社会主義と
私有財産制度の否定を吹き込んで、急進化させたんじゃないの。

24: 日本@名無史さん 02/06/28 09:36

>23
青年将校が北の理論を理解していたのかどうかは疑わしい。
また、北は東郷平八郎の腰巾着、小笠原長生中将のところに出入して、
日蓮宗や法華経について講義しており、他にも三井財閥からも
ばく大な資金援助を受けており、本心はどこか不明
ちなみに北の弟は、自民党代議士、北玲吉。

42: 日本@名無史さん 02/08/24 22:16

さまざまな留保付きになるけど、社会主義的なのは統制派。
荒木など軍中枢にいた皇道派は、完全に反社会主義。

54: 日本@名無史さん 02/10/03 20:59

>>42

北一輝の私有財産の制限などというのは、明らかに社会主義。
経済に対する国家の過剰な関与、国民への富の分配への国家による
過大な配慮をするのが社会主義であるなら
皇道派の精神的主柱北一輝は立派な社会主義者。
現に国家社会主義という。

例えば、金正日の北朝鮮は、社会主義ではあるが、
金日正を昭和天皇・ヒトラーに置き換えれば、何らの違和感は無い。

この辺は非常にこんがらがっており、
スターリンの一国社会主義というマルクスの想定したものとは
似ても似つかぬものが社会主義の祖国となってしまったことに端を発する。

55: 42 02/10/03 23:53

>>54

>皇道派の精神的主柱北一輝
42に書いたように、皇道派の定義にもよるが、
本来の皇道派を真崎や荒木とするなら、
彼らにとって、北は精神的支柱ではないし、
国家社会主義者でもない。明らかに反社会主義。

当たり前だが、北自身も皇道派ではない。

青年将校も、どれだけ、北の国家社会主義的部分に
共感したかは必ずしも明かではない。

非常に大雑把にいうならやはり、
皇道派が反社会主義、統制派が社会主義的。
25: 日本@名無史さん 02/06/28 09:49

2.26事件の直接の動機は、陸軍派閥争い。
皇道派が劣勢になったことからの焦りから
皇道派上層からの教唆などあり暴発した。

国家改造、農村の疲弊などは後講釈。
まさか派閥争いが動機です、とは陳述できんからね

78: 日本@名無史さん 02/11/19 22:48

>>25

高橋なんとかという学者さんの本に寄れば、

青年将校(隊付将校)は
兵士としてやってくる農村青年達の指導に当たる。
隊付将校達は兵としての教育だけでなく
人格形成にも教師として大きな側面を持っていた。

また、農村青年の個人的な相談
例えば、農家ではもう生計が立てれない等のを受けていた。
隊付将校は若い兵士達の教育をしている間に、
社会問題(特に農村疲弊)に深刻な危機意識を持った。

将校達は政党政治では農村を救えない、
救えるのは「天皇の子たる」兵士のみだと考えた。

その為、政治家や財閥党首を暗殺しようとする事件が頻発。
それだけでは政治が変わらないのでクーデターにまで及んだ。

そんな感じだったけどな。

29: 日本@名無史さん 02/06/28 11:33

北一輝の略歴(1883~1937=m16~s12)
国家主義運動の理論的指導者。
新潟県佐渡の海産問屋に生れる。本名輝次郎

1906年、「国体論及び純正社会主義」を自費出版するが発売禁止。
黒竜会に参加。後に「国会改造法案大綱」発表。
内容は天皇大権の発動でクーデターを行い、国家改造を実施し、
海外膨張を達成しようとしたもの。

大川周明の猶存社に参加したが大川と対立してこれを解散。
小川平吉、平沼騏一郎らと結び、朴烈怪写真事件などを起こし
政界の裏面で暗躍。ロンドン条約での「統帥権干犯」は北の造語と言われる。

大川周明、権藤成縁らと並ぶ国家改造運動の中心的人物の地位を占めたが、
三井財閥から多額の活動資金を入手していた。
2.26事件で西田らと銃殺刑(世界大百科事典)

30: 日本@名無史さん 02/06/28 12:48

西田税は陸幼、陸士と進み、
t11年34期生として卒業、同期の秩父宮との接触が深かった。そ
の縁で後年、秩父宮が北に密かに会見する仲立ちになった。

陸士では頭脳明晰、成績抜群、朝鮮羅南の騎兵27連隊付少尉に、
その頃から国家革新への情熱を燃やしていた。
広島の騎兵5連隊に転任後、健康を害し、依願予備役となり
自由の身となり、かねてからの希望通り、国家革新運動の実践に乗り出した。

大川周明、安岡正篤、満川亀太郎の行地社に入り、猶存社で北と知り合い合流・・・

35: 日本@名無史さん 02/07/02 22:28

私は、『軍国太平記』の中で軍事参議官会議の時に
(真崎が教育総監を首になった直後)、
荒木・真崎が3月事件関係の書類を出して永田を首にしようとしたとき
「そういう書類を軍事参議官となった今日まで所持しているのは、
ひとえに永田を陥れようとしているためだ。これは軍紀漏洩だ!」といって、
彼らを黙らせた渡辺錠太郎教育総監がかっこいいと思いました。

けど、渡辺大将のことについて書かれた本があまりないようです。
誰かご存知でしたら教えて下さい。

40: 日本@名無史さん 02/08/21 15:29

>>35

真崎(陸士9期、陸大19期)が首になった後の教育総監が
渡辺(陸士8期、陸大17期)。陸軍少将昇格から2・26事件までの二人の歩みは

真崎:大正11年陸軍少将・歩兵第一旅団長-
士官学校本科長-
同教授部長-
士官学校長(少将5年間)-
陸軍中将・第八師団長-
第一師団長-
台湾軍司令官※渡辺の後任-
参謀次長兼軍事参議官-
(中将6年間)陸軍大将・軍事参議官-
教育総監-
昭和10年7月軍事参議官※更迭され、後任が渡辺。

渡辺:大正9年陸軍少将・歩兵第29旅団長-
参謀本部第四部長-
(少将5年間)陸軍中将・陸大校長-
第七師団長-
航空本部長-
台湾軍司令官-
(中将6年間)陸軍大将・航空本部長-
軍事参議官-教育総監※真崎の後任

と、真崎のほうがやや華々しい印象がある。
ここらへん詳細な人の解説キボン。
真崎は陸軍省軍務局軍事課長や
近衛歩兵第一連隊長等の比較的目立つ職を歴任して
陸軍少将に昇進しているが、渡辺は山県有朋の副官を務めたり、
参謀本部外国戦史課長が目立つ程度で、あとは在外公館付武官。

経歴から判断すれば、欧州通で
国際的な視野のある人間ということになるのだろうが。

36: 日本@名無史さん 02/07/03 22:20

学者肌の軍人だったようですね>渡辺錠太郎大将

37: 日本@名無史さん 02/07/03 22:58

>>36

そして天皇機関説支持者だった。

14: 【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守 02/06/20 15:19

荒木貞夫は東京の出身ですが、
彼の父親は武士だったのでしょうか?

19: 日本@名無史さん 02/06/28 08:43

荒木は「皇軍」「聖戦」の名付け親。
露国通で奇抜な修辞の雄弁家。
出所後も派手に動き回り、s41.11奈良県十津川の講演先で
長広舌2時間の後、旅舎で急死。89歳。

20: 日本@名無史さん 02/06/28 09:08

荒木陸相時代には軍備の近代化が進まなかった。
理由は荒木の精神主義。陸相時代、彼は来日したバーナード・ショーとの対談で、
日本の兵隊が勇敢なのは、日本は地震が多く、
胆力を鍛えられているからだと述べて、ショーをケムに巻き、
竹槍による戦争がもっとも経済的だと述べショーを驚かせた。

27:   02/06/28 10:00

1956/05/08 衆議院 文教委員会 で、高津正道なる議員が、
巣鴨から出所後、文化放送出演の際の
荒木貞夫・橋本欣五郎の発言を紹介している。
http://kokkai.ndl.go.jp/

43: 日本@名無史さん 02/08/29 14:30

ゴーストップ事件も荒木だったか
横紙破りに若い者をチヤホヤするわでダメ軍人の一人

真崎は腹黒い男だし

47: 日本@名無史さん 02/09/12 17:07

>>43

真崎は腹黒いなんてレベルじゃない!
被害妄想激しすぎ。日記読むとよくわかるけど、
初めは仲間だと思っていた林銑十郎が
教育総監の真崎を更迭しようとすると「土蜘蛛」と罵るし、
永田鉄山が惨殺された時も、「神罰が下った」と喜んでるくらいだから。

そのくせ、東京裁判では、自己弁護のみに終始するだけだし。

こんなヤツが一時は陸軍のトップだったんだから、戦争に負けるはず。

44: 日本@名無史さん 02/08/31 11:14

杉山さんはなんであんなに出世されたんですか?
責任はとられましたが、各場面の判断はいま一つ納得がいきません。
他の人だったらなあとどうしても考えざるを得ません。

51: 日本@名無史さん 02/09/14 11:47

>>44

杉山は陸大22期。陸大同期に畑俊六(元帥)、小磯国昭(大将)。
1つの期から元帥を2人出したのは陸大60期の歴史でもこの代だけだし、
大将3人というのも、ここと17期(渡辺錠太郎、林銑十郎、南次郎)
28期(山下奉文、木村兵太郎、板垣征四郎)だけ。

一応将来を嘱望された世代だったとは思われる。

特に持論があるというタイプではなく、
部下の提案をよく採用したらしいので受けはよかったようだよ。

49: 日本@名無史さん 02/09/12 17:41

昭和6年12月の犬養内閣で
荒木貞夫が陸相になったのが皇道派の全盛の始まり。

際立った人事の不公正で、
まず真崎甚三郎(参謀次長=総長が皇族なので実質的総長)
翌年、軍務局長(山岡重厚)、人事局長(松浦淳六郎)、憲兵司令官(秦真次)、
軍事課長(山下奉文)、参本三部長(小畑敏四郎)、作戦課長(鈴木率道)など
自派に近い人物で固めた。不自然、且つ、強引な人事が目立ち過ぎたという。

50: 日本@名無史さん 02/09/12 17:44

このため、離反する者も多く、没落も早かった。

57: 日本@名無史さん 02/10/06 06:08

統制派=モダニスト=国家主義
皇道派=反近代派=天皇主義

58: 日本@名無史さん 02/10/06 09:36

荒木大将戦犯被告の時牢屋が汚くて
「バカモン」とmpに大喝したらしい(天皇と東條
英機の苦悩」塩田道夫) やるっすねー

59: 日本@名無史さん 02/10/06 10:09

↑ 房内のトイレの窓ガラスが破れ、
臭気が室内に充満するので紙を貼ったが
看守兵がはがしたので支給されたボール箱のふたをかけたがそれもダメ、
将校を呼んで事情を話すが、ルール違反だからノー。

切れた荒木が「すりガラスは文明のためにあるのだ、
日本の武士は雪隠の中で暮らすほど野蛮ではない」と
ボール箱を房の外に放り出した(小島襄=東京裁判)

18: 日本@名無史さん 02/06/28 08:30

東京裁判で最初に証言台に立った荒木貞夫大将は言った、
「平和・人道に対する罪は、荒木の70年生涯にわたる誇りを奪うものであり・・・」

31: 酔生夢死ジーモン三等兵@香宋我部家中 02/06/28 13:48

東京裁判の時も荒木貞夫一人は
「これで欧米人にも八紘一宇の精神を解ってもらえる」
と意気揚々としていたそうです。

33: 日本@名無史さん 02/06/28 15:45

「・・・正月とか祭日になると、少尉、中尉が、
千鳥足で泥靴のまま陸相官邸に現れ、
“荒木はいるか”と怒鳴りつつ奥に通る。

それを見ながら、“若い奴は元気がいいのう”と歓迎するから
「荒木閣下、荒木閣下」である。いやしくも陸軍大臣を捉まえて、
酔っているとはいえ呼び捨てにするとは、
何処の国の軍隊にも見られない奇現象であった」
(軍国太平記)

34: 日本@名無史さん 02/06/29 08:22

若者に対して、オトナたるものが
その過激な姿勢をたしなめようとはせず、
「元気がええのー」とか「ワシもすこしは見習わなきゃならんのー」などと
嘆息するような時代っつうのは、つまり乱世だ。

まあ、乱がいけないとは言わない。
明治維新のときの長州の場合も似たようなものだった。

ただし、万が一自分が生きている間にそういう時代になってしまったら、、、
全財産引っ担いで山奥に隠遁することをおすすめする。

引用元 http://mimizun.com/log/2ch/history/1024259247/