日々、これ口実

自分の感じたこと、思ったこと、ただの雑記

ありのままを受け入れるということの大切さ

今朝方、母の姉、大阪の伯母が亡くなりました。数年前に大腸がんが発覚し抗がん剤で症状を抑えながらの生活が続いていました。発見段階からすでに手術不可能なほど転移もしていたので最初からターミナルケアでした。それはそれでまた語るべき事ですが、またの機会に。

 

私も大概おしゃべりだと言われます。しかし、伯母は本当によく喋る人で、私以上に喋る母も相づちを打つくらいになるという感じで、母方の従兄弟と「おばちゃんが喋らへんなったら、ほんまにあかんときやわ」と冗談で言っていたものでした。

 

抗がん剤導入時以外、通院しながら自宅で生活していましたが、先月末危篤状態になり、もう目を覚まさない可能性が高いと言われていました。流石に私も腹をくくりましたが、一時的に意識を取り戻し、状態を見に行ってた母の前で「邪魔や」と酸素マスクを取り外してまた喋り出すような人でした。

幼い頃から大阪に行くときは必ずお世話になり、おおらかでかつ賢明であれこれとエピソードをもっている人ですが、自分が福祉の道に本格的に入ってから本当に伯母がすごいことに気がつき驚きました。


息子である従兄弟は、私より10歳以上年上ですが、幼いながら変わった人だなと思っていました。
会っても一切喋らず、いつもボロボロの国語辞典と漢和辞典を片手にクロスワードを解いていました。
伯母は「この子喋るんが苦手やねん」の一言で、それ以上でもそれ以下でもなく普通に母をやっていました。


私が大学院で自閉症スペクトラムを本格的に学び始め、現場に出たり、日本各地、世界各地の状況を知り始めた頃、兄は勤めていた事務所が潰れ(PCでの事務的な作業だったため喋らなくても問題なかったらしい)無職で家にいるようになりました。
再就職しようにも、年齢的な問題や喋らないという事からままならず、流石の伯母も少し困ってる様子でした。


その頃の私はもう自閉症とはどんな障害かを事細かに教わり、兄がそうである確信めいたものを持ちはじめていたので、伯母に電話し兄が自閉症という障害の可能性が高いことと大阪での相談場所や使える福祉サービスについて話しました。
結果、兄は典型的なカナー型の高機能自閉症と診断されました。

 

40歳近くまで発覚せず、また社会不適応も一切起きてなかったことに担当した医師は驚いていたそうです。


兄はそれなりの大学も出ており、喋らないこと以外は特にこだわりがないように見えましたが、発覚してから少し勉強した伯母は、「ああ、こういうのがこだわりになるんやね」とあっけらかんと、時間、順序、様々なこだわりのあるようなことを話していました。

私の数少ないながら現場で会ったことのあるお母さん方なら、確実に気にして誰かに相談しているような事でした。
伯母に言わせれば、「そういう子なんやな」の一言で全てが片付いていたらしく、問題意識を一切もったことがなかったそうです。

その兄が高校入学した際、主席で合格したため入学者代表で挨拶をするように高校から言われたそうです。だが、当然兄はうまく喋ることができないため「この子喋るんが苦手やから2番目の子にやらしてあげて」と断ったそうです。
何かにしろ特に障害という概念はなく、「苦手やねんな」の一言で全て片がついてしまう。


私がうつで倒れたときも「しんどかってんな。休まなな」と過度に心配する母をなだめてくれていたようです。

師から教わった「ありのままを受け入れる」を本当に地で行く人でした。

自らの病気に対してもその態度は変わることなく、病状が酷いとき大変だったということを話すことはありましたが、特にそれで弱音を吐いたり愚痴を言うことなく、どこかに旅行に行ったように「こんなことがあって大変やったわ」とあっけらかんと話していました。

兄は、その後近くの知的障害者の作業所を紹介され最近まで通っていたそうですが、自閉症というだけで知的には高く、作業も簡単にこなすため、他の利用者さんから尊敬され、それが嬉しく安定した生活を送っていたようでした。
ただ、職員さんは、兄は自閉症ながら知的に高いしふさわしい場所があるはずと、正規の職を斡旋してくれようとしていたようです。
それが去年。伯母に最後に会ったときの話ですが、今頃兄はどうしているのか少しばかり気になります。伯母のことですから、それなりに何とかなるようにしていたでしょう。

障害、ことさら自閉症に関しては、周囲の環境、特に家庭環境というのが生育に本当に大きな影響を与えるものだと教わりました。

知識もなにも持たず、単純に、本当に単純に「ありのままを受け入れる」を実践していた伯母はナチュラルに最良の療育者でありました。

私にとってこれから先もずっと尊敬する人でしょう。

Â