Under the roof

三児の父が育児、家事、読書のこととか書きます

ぎっくり腰によって、僕は解放された

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今週の頭、ぎっくり腰になってしまった。

 

かなりひどい症状で、痛めた当日はほとんど歩行することができなかった。数日間仕事を休み、今日ようやく復帰した。

 

ぎっくり腰は、ただただ安静にしていることしかできない。病院を受診したが、医師の指示はとにかく安静にすること。飲み薬や湿布薬を処方してもらったが、それらは気休めでしかない。それどころか、痛くて歩けなかった頃は気休めにすらなっていなかった。ひたすら静まるのを待つだけの日々。

 

出産を控えた妻、4歳の息子ともうすぐ2歳の娘。子供たちを妻ひとりに任せるのは酷なので、自分と子供たちの3人で今週は実家に寝泊まりしていた。僕はひたすら安静。はしゃぎ回る子供たちの世話を、僕の両親に任せた。両親はかなり疲れたことと思う。

 

ひたすら安静にしていたこの数日間、なんとなく予想はついたんだが、僕が感じていたのは「仕事行かなきゃ…職場に迷惑がかかる…」といった焦りと、「なんて楽なんだろう…もうずっとこのままでいいや…」という開放感の相反的な感情。


こんなことでもないと、仕事も家事も育児もすべて放棄してただただ寝続ける機会なんてない。

 

仕事をしなきゃならないという焦燥感は、体の芯まで社畜根性が染みついた結果の物悲しさなのかもしれないし、社会とのかかわりがないと不安になるという寂しさの表れかもしれない。

 

それでも、いざ解放されると、今までいかに自分は仕事や家事や育児に追われ、時間を割き、疲れ果てていたというのを思い知る。もちろん辛いことばかりではないが、こういったひと時の解放だけでも、自分の今までの生活を見つめなおす機会にはなってくれた。

 

安静にしている間、時間はあったので、ブログ書き溜めしたり停滞気味だった語学の勉強したり3人目の出産に際して家計の見直しをしたりとか、たくさんある時間を有効活用しようと思ったが、どうも活力が生まれなかった。読書も小難しい本になると集中力が続かず、合間にネットやオリンピック中継や高校野球を見てしまう。ダラダラとしたインプットはできても、アウトプットが何もできない。


仕事、家事、育児をしなくて済んだのは有難かったが、望んでもいない強制的な安静状態というのは、考える力を奪い取ってしまうのかなとも感じた。