自由科学と真正性の水準

ローチの議論を検討するにあたり、ちょっちハーバーマスから離れますにゃ。
長くなっちゃったよ。

価値は知識についてくる


ローチの議論は差別的な言説に対してきわめてラディカルな「観点」「立場」に立っている。いかなる命題も特定の「価値」「立場」において退けられてはならない、「すべての女は肉便器である」という命題に対してさえも、「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試み」なしに退けられてはならない――ということです。つまり、知識の自由をのみ否定する彼の議論は、「価値」「立場」に対する相対主義的な観点に支えられている。いや、相対主義という言葉は正しくない。ローチは「相対」するもの、「相対」させるもの、として「価値」「立場」を扱っていない。


ローチの議論は確かに魅力的だと感じますにゃ。
疑似科学とその批判に首を突っ込んでいる身としては、知識の形成において価値を検討する必要なしってのはアタリマエですにゃ。そして、疑似科学のやろうとしていることは、ニセの知識を普及させることによって、特定の、往々にして自分たちの経済的・社会的な利益となる価値を保持したり捏造したりしようとするものといえるでしょうからにゃ。このことは、知識が価値形成に対して決定的な影響を与えうることを逆に示しているといっていいでしょうにゃ。
「権力の究極の源泉は意見である」(ポランニー)としても、意見の基盤となるものは事実であり知識なのですからにゃ。


そして、知識が意見を変えてきたというのも歴史的事実ですにゃ。ダーウィン進化論を支持し、当時もっともリベラルな知識人のひとりであったはずのT.H.ハクスリーですら、1871年には「理性を備え、事実をわきまえた人間で、平均的な黒人が白人と対等だと考える者などいないし、ましてすぐれているなどということはありえない」などと人種差別丸出しのことを公言していたんだぜ。
ところが、より人種差別の惨かったメリケンで黒人が大統領になりましたよにゃ。140年弱、5世代ほどで事態は劇的に変わっているといえますにゃ。しかも、よいほうに。
知識が意見を変え、社会を変えることで、立場をも変えることが現実に可能であることは、実証されてきているといっていいでしょうにゃ。


sk-44もいうとおり、ローチは価値について検討する甲斐などにゃーと考えている。それはなぜかというと

  • 結局のところ、価値は知識(=共有された事実)についてくるから


そして、差別を正当化してきた知識は淘汰・周縁化されてきたし、これからも淘汰・周縁化されていくであろうとローチは確信しているでしょうにゃ。僕もそう確信しているのでよーくわかるにゃ。
つまり、
知識と価値の関係における徹底したオプティミズムがローチの考え方の根っこにあり、そしてそのオプティミズムは歴史的にも実証されてきているんですよにゃ。ローチの考え方のラディカルさというのは、このあたりなのではにゃーかと僕には思われますにゃ。
うむ、魅力的だ。
でも文句あるぞ。

代替のきく存在

ローチの議論においては、「属人性」というものが徹底して排除されますにゃ。

  • ある命題が知識として確立されたと主張できるのは、それを検証するために用いた方法が、それを行った人が誰それであったとか、その命題の出所がどうであったとかとは一切無関係に、同じ結果を生み出す場合にのみ限られる(「表現の自由を脅すもの」P79)

と書いてあるとおりであり、したがって↓のとおりとなりますにゃ。


【被害者にとって】「それはフィクションではない」という命題は、「ある命題が知識として確立されたと主張できるのは、それを検証するために用いた方法が、それを行った人が誰それであったとか、その命題の出所がどうであったとかとは一切無関係に、同じ結果を生み出す場合にのみ限られる」がゆえに「批判の前にさらけだされ、しかもその間違いを暴露しようとする試みに対して耐える限り」において「知識」として確立されたと主張できる。そして断言しますが、「知識」として確立されることはないでしょう。


ローチにおいては「それはフィクションではない」という命題が一切です。【被害者にとって】は「それを行った人が誰それであったとか、その命題の出所がどうであったとかとは一切無関係」であるがゆえに、棄却されて然るべき前提です。


ローチにとっては、「誰が」「どこで」言ったかというのはシカトされるべき要因ですにゃ。もちろん、科学(特に自然科学)においては、「誰が」「どこで」というのはたいした問題ではなく、得られた結果とプロセスがオープンにされて、よってたかって検証されることが重要ですにゃ。
で、しつこく言うけど、こうして検証された知識は結局のところ差別を正当化するような知識を駆逐し淘汰していくであろうと、多分ローチは確信している。そしてまた、それがやはり結局は被害を最小化させるであろうとも、多分ローチは確信していますにゃ。


そして、知識からは属人的性格が徹底して排除されなければならにゃーわけだ。誰が言ったかは関係なく、その発言内容が検証されているか否かが問題になるのですからにゃ。
「誰が言ったか」「被害者にとって・被差別マイノリティにとって」といった属人的なるものは、オープンな検証が不可能であるがゆえに科学とはなりえず、それはいってみれば「オカルト」であり、そうした「オカルト」で表現の自由を制限することは断固として退けるべきことだというのがローチの議論だと考えますにゃ。


ここでは知識と知識を刷新するシステム(ローチの用語では自由科学)こそが社会的統合にとって一義的なもの、代替不可能なものであり、各個人は代替可能な存在となりますにゃ。これは、ローチが市場システムを代替不可能なものとして評価することとパラレルにゃんね。
ここで、各個人が代替可能なものとなっていることは、ローチにとっては問題にはならにゃーだろう。知識が中心となるということは、知識こそが攻撃目標となるということであり、ということは各個人は攻撃目標とはならにゃーことになりますにゃ。各個人やその価値観の自由を担保するためにこそ、知識を一義的なものとするのがローチの論法にゃんね。なによりローチには知識と意見との関連におけるオプティミズムがありますにゃ。


ただし、前回に引用したように


「表現の自由」は本来、解釈の多元性を保障する概念であったのだが、差別的表現に関しては社会的少数者の批判や抗議を少数意見であるがゆえに排除する機能を与えられてしまい、多様な考え方や意見を保障する場としての表現のメディアが同化を強いるベクトルをもつという事態に直面しているのである。


岩波講座現代社会学 (15) 差別と共生の社会学
P165  第八論文  差別的表現と「表現の自由」論  湯浅俊彦 より


個々のニンゲンの尊厳を守るためには、社会の多元性・多様性を確保しなければならにゃーってのは、sk-44とも意見の共有ができるところですよにゃ。僕たちひとりひとりが多様なのだから、社会も多様であってもらわにゃーと本当は困る。
で、僕のローチに対する疑問も、sk-44と同じく、
「そのやり方で、本当に多様性が確保できるの?」
もうひとつの疑問は
「知識によって意見を変えていく諸個人、というものも、歴史的に形成されてきた価値にもとづく存在なのではないの? つまり、価値を排除しているのではなく、特定の価値に乗っかってない?」

リベラリズムと多様性

では、ちょっち長いけれどもリベラリズムとコミュニタリアニズム(未定稿)をご確認くださいにゃ*1。


いろいろと興味深い論点を含む論考なのだけれど*2、ここで述べられていることの眼目のひとつは、リベラリズムとコミュニタリアニズム(共同体主義)は単純に対立するようなものではにゃーってことですにゃ。
リンク先を引用しますにゃ。


共約不能な諸価値の並立、という現状に対する「評価」は、リベラル、コミュニタリアン共に一応肯定的であるわけです。しかしこの現状が将来どのようになっていくか、という(希望的な期待ではなく)「事実」的、客観的な予想のレベルでは、リベラルの方はおそらくこの並立が続くだろうと予想しているのに対し、コミュニタリアンは、もし適切な手を打たなければ、とりわけ積極的な政治的アクションを起こさなければ、この諸価値の並立状況は崩れていくだろう、と考えているわけです。


リベラリズムにおいては、一方で「世界のマクドナルド化」がすすみ、もう一方では「島宇宙化」がすすむのが、筆者によって理想化されたコミュニタリアンが危惧するところなのですにゃ。


社会の中に現実に多様な価値が存在し、多様なライフスタイルが共存していようとも、その多様性という事実が、それぞれの個人の人生にとってなんら深刻な意味を持たないのであれば、結局価値の一元化と同じことだ


リベラリズムというのは、価値の多元性に対して容認はするが積極的にコミットするわけではにゃーと筆者はいいますにゃ。これは、自由主義においてはただ乗りという措定はない、というsk-44の言っていることと対応するかにゃ。
ここから、価値の多元性にコミットしているのは自由主義者ではなく、実は共同体主義者のほうだ、という逆説が導かれますにゃ。


ここで必ずしも多文化主義を前面に出さない論者の典型として、アラスデア・マッキンタイアを挙げましょう。彼は西洋における伝統的・正統的な道徳理論の中興の祖としてアリストテレスを、そしてその継承者にして大成者をトマス・アキナスとしますが、その場合のポイントはこうです。まず何よりアリストテレス、そしてトマスは、人間をして(そして神もまた)目的を追求し、それを実現しようとする存在と見なします。それゆえ人間の生の意味も、生きる目的を実現するところにあります。この限りでは後の功利主義は、この問題意識を引き継いでいるわけです。しかし後の功利主義者とは異なり、アリストテレスたちは人間が生きる上で追求する価値の多様性、そしてその価値を追求し、実現する手段、方法が、それこそその価値ごとに異なっていることを強調します。このような多様な生の目的、またそれぞれの性の目的を追求するのにふさわしい人の能力・性質のことを「徳virtue」と呼びます。当然にこの「徳」もまた複数形で語られます。


「[アリストテレスによれば――引用者]諸徳の行使は、人間にとっての善という目的に対するこの意味での一つの手段ではない。というのは、人間にとっての善を構成するものは、最善の状態で生きられる完全な人生であり、諸徳の行使はそうした生を確保するための単なる予備的実践ではなく、その生にとって必要で中心的な部分なのである。」マッキンタイア『美徳なき時代』みすず書房、183頁上


ローチの積極的主張は「知識の自由は認めない」であり「自由科学」の推奨であって、価値の多元性は結果的に実現されるというプログラムですにゃ。そこでは価値の多元性への直接のコミットを求められるものではにゃーことを考えると、ローチの主張に対しても共同体主義者の反論は無効ではにゃーよな。
某所で「共同体主義はメリケンのまっとうな右翼」と言ったけれど、こうなってくるとこれも単純のそしりをまぬがれにゃーですね。ローチ含む自由主義のプロジェクトでは、価値の多元性は容認されるか結果的に実現されるものであり、それだと実際には価値の多元性は「世界のマクドナルド化」により縮減しつつ「島宇宙化」により無意味なものになるんでないの? と共同体主義者は価値の多元性への直接的なコミットを求めるのだから、両者は単純に対立しているようなものではにゃーわけだ。


とはいえ
「人間が生きる上で追求する価値の多様性、そしてその価値を追求し、実現する手段、方法が、それこそその価値ごとに異なっていることを強調」「人間にとっての善を構成するものは、最善の状態で生きられる完全な人生であり、諸徳の行使はそうした生を確保するための単なる予備的実践ではなく、その生にとって必要で中心的な部分」
という共同体主義の、徳倫理学の主張は、属人的なるものを排除したローチの議論と正面衝突にゃんね。さて、どうしよう?

「わたしは降りる」という一人称の要請

さて、せっかくだから僕も美人投票がらみでいくか。


8月1日から選考が始まる「ミス・ユニバース」の日本代表、宮坂絵美里さん(25)が着用するナショナルコスチュームのデザインが見直されることが分かった。牛革製の黒振り袖に、下半身はショッキングピンクの下着とガーターベルト丸出しというド派手な衣装には国内外から批判が殺到。デザインを事前に知らされていなかった呉服店や帯職人もミス・ユニバース事務局に抗議した結果、変更を余儀なくされることとなった。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090731-00000562-san-ent


デザインについての簡単な私見は「21世紀の花魁ってのはこんな感じだろうね。キッチュ・ジャパン」というところかにゃ。江戸時代の花魁というのは教養まで要求されたわけで、ある意味ミスコンというものの性格をあらわにしてしまったデザインといえるのではにゃーだろうか? だからこそ反発くらったんだろね。
さて、今回デザインの変更を余儀なくされたのは、呉服店や帯職人の反発というのがでかかったのではにゃーかと考えますにゃ。デザイナーも当初は強気だったようだけど、協力者の反発はシカトできなかったのではにゃーかと。そういう仮定で話を進めますにゃ。


このぶつかりを「ミスコン(=リアル美人投票)におけるケインズ的な美人投票原理(=「クイズ100人に聞きました」のように、何が人気を博すかの推定)によるイメージ演出のためのデザイン商業主義」と「呉服屋や帯職人の権威主義的世間様」のぶつかりと見ることも妥当でしょうにゃ。実際に、呉服屋や帯職人が権威主義的で気取っていて世間様に親和的という側面って否定できにゃーし。
しかし、別の見方もできますにゃ。


帯職人が
「そんなデザインだと聞いてない。わたしの帯を使うな。わたしは降りる」
と言うのを誰も止めることはできにゃーですね。「わたしの帯を使うな。わたしは降りる」を権威主義とか世間様への迎合と見ることもできるけれど、ひとりの職人として公共性を意識した行動と見ることもできるわけですにゃ。世間様と公共性ってのは、場合によっては区別がつかにゃーこともありますにゃ。


別の事例ね。
wikipedia:一澤帆布工業では、ブランドかばんのメーカーである一澤帆布工業でおこったお家騒動について書かれていますにゃ。これがけっこうオモチロイ。
京都の老舗ブランドかばんメーカーである一澤帆布工業では三代目の三男が後継者と目され、実際に切り盛りしていたのだけれど、三代目が死んでしまうと長男がどこからか怪しげな遺言状を持ち出して「自分が一澤帆布工業の正当な後継者だ」と言い出したのですにゃ。三男は裁判戦術でちょっと下手をうって負けてしまい、会社を追い出される。すると職人が全部三男についてきて、新しいかばん屋を興すのですにゃ。仕入れ先(特殊な帆布をおろしていた)も納入先も三男を支持し、長男の会社と取引をやめてしまうのですにゃ。どうやら「職人とか仕入れ先なんて、いくらでも替えがきく」などと長男が発言したことが致命的に職人や取引先を怒らせたという話もあるようですにゃ。


結果的にどうなったかに興味のある向きはリンク先を見てもらうとして、これはすんごく京都っぽい話ですよにゃー。
京都って、閉鎖的で気取っていて世間様がやけに強いところだってのも事実だろうけど、公共意識があって革新が強いというのもありますにゃ。共産党がずっと衆院の議席もってるし。ここでは、どうみても横車をおして会社をのっとった長男が、ブランドを当て込んで職人や仕入れ先を軽視したことを公言すると、取引先がさーっとひいちゃったわけだにゃ。「わたしはおまえとはつきあわないよ」と。長男の「替えはいくらでもある」といういわば市場の論理に対して、取引先はだまって「降りて」しまったわけですにゃ。


この「わたしは降りる」が意味を持つのは、「わたし」が「あなた」にとって代替不能な存在であるときといえますにゃ。ミス・ユニバースのコスチュームデザインにおける帯職人・呉服屋、かばんメーカーにとっての職人や取引先は代替不能の存在であったからこそ、「わたしは降りる」が意味を持ちえましたにゃ。


「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会をちょっと想像してみましょうにゃ。こういう社会では「わたし」の判断は不可避的に他者へ影響を及ぼすことになりますにゃ。だから、「自由とは自分の自由を守ることである」「自分の好きに生きて何が悪い」はこういう社会ではそうそう成り立たにゃーといえる。というのも、好き勝手なことをすると、他者から縁を切られ、結果的に自分が生きづらくなってしまうからだにゃ。
だから、このような社会では「わたしはあなたに要求する」がでかい意味を持つといえますにゃ。互いに対等な存在として「わたしは〜するけど、あなたはどうするのか?」という一人称および二人称の要請が現実的に意味を持ちますにゃ*3。
逆にいえば
「自由とは自分の自由を守ることである」「自分の好きに生きて何が悪い」という言明の意味するところは
「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」
ということですにゃ。
フリーライドを公言するお歴々はそれでええんだろか? それがチミの自由意志か? とmojimojiならずとも尋ねたくもなりますにゃ。


僕たちひとりひとりが代替のきく存在か代替不能の存在かということを、レヴィ=ストロースは「真正性の水準」と言っていますにゃ。

真正性の水準

「表現の自由」が必要とし、受容すべきもの - 地下生活者の手遊びにおいて、ストロースの言葉をもじって
「内心の自由の行使に表現の自由がどれほど不可欠であるにしても、道は二つに一つ、ことばのうえだけの根拠のない自由の確認か、あるいは、社会が提供し得る表現のあり方を受け入れる義務を暗黙の交換条件とする自由である。」
と書きましたにゃ。これはあっさりと避けられてしまったけれど、「真正性の水準」という概念とともにもう一度提出いたしますにゃ。


真正性の水準、については、小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」にいって「真正性の水準」で日記検索をかけていただければよくわかるのではにゃーかと。
真正性の水準について書かれているものをいくつか選ぶとすると

を紹介しておきますにゃ。一番下のリンク先から孫引きしますにゃ。


町議会や村議会の運営と、国会の運営との間には、程度の差だけではなく質的な差があることは周知の事実です。前者の場合、特に或るイデオロギー的内容に基づいて決議がなされるというわけではなく、ピエールとかジャックとかいう個人の考え、とりわけその具体的な人柄を知ることも、考えを決する基となります。その場合、人々は全体的に、大づかみに、人の行動を把握することができます。思想もたしかに問題にはなりますが、しかしそれらの思想は小さな共同体の一人一人の成員の身の上話や家庭事情や職業的活動によって解釈されうるものです。こんなことはみな、或る人数以上の人口の社会では不可能になります。私がどこかで「真正性の水準」と呼んだのはこのことを指しているのです。


[シャルボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』(みすず書房)55-56頁、訳語は一部(小田氏が、引用者注)変更した]


レヴィ=ストロースは、この真正性の水準という概念について、


将来おそらく人類学から社会科学へのもっとも重要な貢献は、彼が「真正性の水準」と呼んでいる社会の二つの様相の区別、すなわち、人びととの生きた直接的な接触による小規模な「真正(オーセンティック)な社会」の様式と、より近代になって出現した、印刷物や放送メディアによる大規模な、「非真正な(まがいものの)社会」の様式との根本的な区別にあると判断されるだろうと述べています。


http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/page040.html


これをハーバーマスとの関連でいうと、ハーバーマスのシステムと生活世界の区分や、理想的コミュニケーションが成り立つ種々の条件よりも、ストロースの「真正性の水準」は何よりも集団の規模にかかわるものであり、つまりは圧倒的にシンプルであるということですにゃ。もちろん、「真正」なる社会においては、「しがらみ」は避けることができにゃーものでしょう。代替不能なる「わたし」の判断が「あなた」へ影響を及ぼすことが必然である以上、それは受け入れなければならにゃー。
ローチはここをこそ避けたように思われますにゃ。ローチは「非真正」な社会における自由、つまり「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」「わたしもあなたも代替のきく存在です」という社会における自由と解放を語っているのだから、当然そうなるのでしょうにゃ。

オカルトにより権力を掣肘する

つまり、ローチにとっては「真正性」というものは多分オカルトであり迷信にすぎにゃー。属人的で証明不能で「知識」になりえにゃーものだ。


政治的な解決法としての多元主義は抽象的には規定できない。多元主義は、まったく別のところからくる実証的な内容に適用されるのでなければ一貫性を失う。法に先行し、法が保護するはずの、文化遺産、慣習、信仰などからなる自由は、多元主義が生み出せるものではない。


中略 (迷信が専制主義のもっとも確かな解毒剤であるという意見を引用したのち)


しかし、迷信という概念が現代人にとってうさんくさいものになっているいま、迷信はどのような意味で専制主義に対抗できるだろうか。


中略


(迷信とは)さまざまな文化的な規範がそれだ。しかし、より一般的には、個人が総合的な社会に抹殺されることを防ぐ、多数の小規模な貴族集団や零細な連帯組織などであり、また総合的な社会自体が没個性の部分品的な原子に分解して雲散霧消するのを防ぐ組織でもある。このような組織は、一つの地方、伝統、信仰あるいは無信仰の形を、特定の生活習慣に統合しているが、それらの要素は、モンテスキューの言う分権方式で均衡を保っているのではなく、それぞれが、公権の権力乱用に抵抗して協力して立ちあがれる対抗勢力としてある。


レヴィ=ストロース「はるかなる視線2」 P422〜425


そうなのよ、レヴィ=ストロースも、真正性ってのは迷信でありオカルトであると思いっきり認めているのですにゃ。そして、その迷信において公権力の乱用を掣肘するといっているんですにゃ。
ここで重要なのは、ストロースのいう「迷信」というものは反知性主義や反科学とはまったく異なるものだということですにゃ。ここで言われている「迷信」とは、「人間に共通する欲求として、小規模な共同体で生活する要求(P426)」のことなのですにゃ。これは、先ほどのリンク先で稲葉振一郎氏が触れていた進化心理学との知見とも一致するところにゃんね。


さてさて、レヴィ=ストロース自身がこれを「迷信」と認めていることから、実はローチの議論とストロースの議論は本質的に矛盾するわけではにゃーようにも考えられるのですにゃ。
そもそもストロースは自らを科学者と規定していますにゃ。人類学は科学の一分野であり、構造主義は科学の方法論ですからにゃ。ソーカルによるおフランス哲学者批判のときも、ストロースは批判されてにゃーんだよね。一貫して科学に対して正確な理解をしている思想家といえますにゃ。この人が反科学とか反知性主義的なことをいうわけもにゃーのだ。


まず、ローチにおいても「多数の小規模な貴族集団や零細な連帯組織など」が否定されているわけではにゃー。そしてその組織が「真正性」をもち、組織内部で相互の代替不能性において決断し要求しあうことを否定しているわけではにゃー。
ストロースにおいても、特定の組織が「最終発言権」を持つことを要求しているわけではにゃーし、可謬主義を否定するわけにゃーし、科学の作法を全力で肯定するはずだにゃ。そして何より、知識が意見や価値に影響を及ぼすことは「真正」なる社会においても十分に可能なことなのだにゃ。かえってこっちのほうが効率がいいってこともあるかもにゃ。
つまり
それが迷信でありオカルトであることを認めたうえで、ローチの議論に「真正性の水準」を加味することは不可能ではにゃーと考える。ここを迂回して、共同体主義やハーバーマスの公共圏論とも接続できればいいのではにゃーだろうか?

しかしながら

しかし、ローチとレヴィ=ストロースでは(多分ハーバーマスはストロースに近いと思われる)、自由に対する考え方がやはり大きく異なるということは認めにゃーとね。


ルソーは国家内の部分社会をすべて廃止しようと考えていたが、この考え方とは逆に、部分社会をある程度復活することが、病める自由の、健康と活力を回復する最後の手段である。


同 P427


なぜなら、


自由が拘束を退け、克服するものであれば、そして、拘束に欠陥や弱点があって、創造をさそうのであれば、自由と拘束は対立しているのではなく支え合っていることになる。自由は障害を拒否し、教育、社会生活、芸術の開花は自発性の全能への信仰なしにはあり得ないとする現代の幻想、今日の西欧の危機の原因ではないとしても、その重要な側面と考えられる幻想を払拭できるのは、自由と拘束のこの関係以外にはない。


「はるかなる視線1」 まえがき より


はるかなる視線〈1〉

はるかなる視線〈1〉

はるかなる視線〈2〉

はるかなる視線〈2〉

*1:これを書いている稲葉振一郎氏って、id:shinichiroinabaですよにゃ?

*2:「公共性」とゲーム理論で言う「共通知識」の関係とか、「自然的(1)」と「自然的(2)」の違いなどは特に興味深い

*3:カントの理性の公的使用、とはちょっち意味合いが違ってくるけど