自然科学と呪術のイチバン大切な違い

A)僕たちはありもしないものを見る

【呪術は全面的な因果性をその公準とする】ネタの続きというか補足というか。


僕たちはランダムなパターンの中に何らかの意味を見出すような心性を生まれつき持っているようですにゃ。インチキやプリントミスでない心霊写真というのは、だいたいランダムなパターンに顔を発見してしまうものですよにゃ。【後から】意味を見出すということにゃんね。
心霊写真のほかに、典型的なのが例えばこれ


第2次世界大戦で空襲を受けたときのロンドン市民の反応など歴史事例にも、この傾向は見られる。戦後の統計解析では空襲は都市全体にランダムに行われたことが明確に示されているが、人々は都市の特定の場所が狙われ、別の場所は狙われていないと確信していた。狙われていない場所に住む人々は、ナチのシンパだと疑われ、生活や安全を脅かされた。そして、狙われていると思われる地区から人々は、実際に系統的空襲ではないのに、系統的空襲から逃れようと、そこから出て行った。


NaziによるLondonを使ったPoisson分布の実験: 忘却からの帰還より


ランダムなパターンに意味を【後付けで】いったん見出してしまうと、最初からそこに因果関係があったとしか考えられなくなってしまうということでしょうにゃ。いったんそこに顔があると思ってしまうと、最初からそこに霊がいたということになってしまう心霊写真と同じことにゃんね。
ありもしにゃーものがそこに見えるということですにゃ。

  • 結果から完全な因果性を構築するのが呪術の思考

ですからにゃー。

B)僕たちはそこにあるものを見ない

では逆パターンを見てみましょうかにゃ。


養老:愛煙家なのは確かですが、医学者とはいっても解剖学ですから、医学界では最も役に立たないと言われていますけど(笑)。しかしね、私は現代医学ってそれほど役に立つのか、と逆に問いたい。たとえば、「たばこの害は医学的に証明された」と言いますね。この「医学的に証明された」がクセモノで、実際のところ、証明なんて言うのもおこがましい状態なんです。


そもそも私はいつも言うんですが、「肺がんの原因がたばこである」と医学的に証明できたらノーベル賞ものですよ。がんというのは細胞が突然変異を起こし、増殖が止まらなくなる病気でしょう。その暴走が起きるか起きないかは遺伝子が関わっている。つまり、根本的には遺伝的な病気なのです。トランプのストレートフラッシュのように、五枚の手札が揃ったら、がんになるとしましょう。遺伝的に四枚揃って生まれてくる人もいれば、一組もカードが揃わず生まれてくる人もいるわけです。つまり、カードが揃っていない人は、たばこを吸っても肺がんにはならない。逆にカードが揃っている人は、禁煙していてもがんになってしまう。


2007-09-19 より孫引き


この養老の香ばしい主張に対する必要にして十分な論駁はリンク元を見てもらうとして、ここで養老の言っていることというのは

  • 因果関係が完全にわかっていないのであれば、科学的に証明されたとはいえない

という主張であるといっていいのではにゃーかと。


この「因果性が完全にわかっていない」という反論は、科学に難癖をつけるときによく使われる論法のひとつですにゃ。ダーウィニズムに対する難癖に典型的によく見られるようですにゃ。

完全なる因果性

以上、

  • A)結果から全面的な因果性を構築し、ありもしないものを見出す
  • B)全面的な因果性が見られないことを理由に、そこにあるものを見ようとしない

それぞれの典型例を見てみましたにゃ。
この2つの考え方は、両者ともに【全面的な因果性】に依存したものの見方といえますにゃ。両者ともに、原因と結果が形式論理的な必要十分条件でつながっているという前提にたっているのではにゃーだろうか。
つまり、(B)のような考え方、因果性を基準にしたものの見方は呪術思考なのではにゃーのか?


「おいおい」というツッコミの声が聞こえてきそうにゃんね。「それじゃ論理を追うことがそのまま呪術になっちゃうじゃんか。必要条件と十分条件の違いがわかってねーな。馬鹿なの? 死ぬの?」
うむうむ、ツッコミごもっとも。
しかし、今日のお題は

  • 科学における論理って、形式論理とちがうんじゃね?

なのですにゃ。

科学における「証明」ってナニ?


しょう‐めい【証明】


1 ある物事や判断の真偽を、証拠を挙げて明らかにすること。「身の潔白を―する」「本人であることを―する書類」「身分―」「印鑑―」


2 数学および論理学で、真であると認められているいくつかの命題(公理)から、ある命題が正しいことを論理的に導くこと。論証。


デジタル大辞泉より


国語辞典に書いてあるこの2つの「証明」の意味するところは、実はぜんぜん違うモノですにゃ。(1)のほうは、経験的・帰納的に成りたちうる【証明】といえますにゃ。しかし、(2)のほうは公理系から演繹的に導かれるものでなければ【証明】と見なすことはできにゃーのだ。


数学において、ある命題が「正しい」とは、その理論のなかでその命題が成立すること、すなわち、その命題の証明が存在することである。数学の証明における推論は演繹(えんえき)的推論、つまり、普遍的命題から特殊な命題を導く推論であって、つねに成立する推論のみが許される。したがって、数学で「正しい」とされる命題は、つねに成立する命題のみである。



 これに対して、自然科学などで用いられる推論には、帰納的推論、つまり、いくつかの特殊な命題から普遍的命題を導く推論が多い。したがって、「太陽は東から昇る」などの命題は、ほとんどおこりえないような確率では、成立しないかもしれないが、一般には「正しい」とされるのである。


日本大百科 証明 の項より


つまり、証明というコトバには、経験的・科学的な意味合いにおける証明と、演繹的・数学的な意味合いにおける証明の用法があり、ごっちゃにつかわれているわけですにゃ。
例えば、ちょう有名な物理の基本的原理である「エネルギー保存則」ですら、演繹的・数学的な意味合いで証明されているわけではにゃー。経験的に徹底的に確かめられているから、「エネルギー保存則は証明されている」といってもちろんオッケーなんだけど、演繹的・数学的に証明されていにゃーわけ。
というか、そもそも自然科学は経験科学なのだから、演繹的・数学的な証明なんてものはにゃーんだね*1。


つまり、演繹的・数学的な証明というのは、いってみれば「隙がない」ものなのだけれど、経験的・科学的な証明というのは必ずどこかに何らかの飛躍なり穴なりがあるものだといえるわけなのですにゃ。だから、この飛躍なり穴の部分をつついて「まだ証明されていない」と言い張ることは永遠に可能。


進化論まちがっている系にもこの論法は見られますにゃ。典型的には中間化石(始祖鳥の化石など)をめぐるやりとりにゃんね。
ダーウィニズムにおける「証明」の最重要部分の証拠のひとつに化石がありますにゃ。で、進化論否定のヒトタチは「中間化石がないからダーウィニズムは証明されていない」とよくいうのですにゃ。
「人間(2)がサル(1)から進化したのならば(1から2になったというなら)、中間形態を示す化石(1.1〜1.9)があるはずだ。進化論は証明されていない。」
「はいはーい、(1.6)が見つかりましたー」
「ならば、人間(2)とそれ(1.6)の中間形態を示す化石(1.7〜1.9)が見つかるはずだ。進化論は証明されていない。」
「はいはーい、(1.8)が見つかりましたー」
「ならば、人間(2)とそれ(1.8)の中間形態を・・・・・」
と無限ループが可能にゃんね。
このあたりについて詳しくは創造論者が使ってはいけない論(第32回) -- 中間形態の化石は存在しない -- [アフォ]: 忘却からの帰還を参照のこと。


というわけで、完全な因果性を求めれば(=演繹的・数学的な意味での証明を求めれば)、すべての自然科学を「まだ証明されていない」と否定することが可能なのですにゃ。養老の論法はまさにこれですよにゃ。この養老の論法をNATROMは「0か1しかない1ビット思考」と切り捨てているわけにゃんね。


経験的・帰納的な領域に全面的な因果性を持ち込むのは、そもそも不適切であり、これを広い意味で呪術思考といってしまってよいのではにゃーかと考えますにゃ。そして、経験的領域における呪術思考は、「0か1しかない1ビット思考」になりがちにゃんね*2。

自然科学の論理

先ほども書いたように、自然科学における理路には必ず飛躍なり穴があるわけで、それを前提としたのが自然科学の論理でなければならにゃー。これにふさわしいのは、ズバリ【統計的思考】なのではにゃーだろうか?
リンク先でNATROMは「疫学を理解していないとはすなわち、医学を理解していないに等しい。」と言っていますにゃ。然り。しかしさらにこれを一般化して

  • 統計的思考を理解していないとはすなわち、自然科学を理解していないに等しい

といえるのではにゃーだろうか。


19世紀終わりから20世紀以降の自然科学における「パラダイム転換」とは統計の導入なのではにゃーかと考えますにゃ。その象徴が量子力学であり集団遺伝学なのではにゃーでしょうか*3。決定論から非決定論へ、必然性から蓋然性へという転回があったわけですにゃ。厳密な因果性なんてニンゲンの頭の中にしかないと懐疑主義の巨匠であるヒュームも言っているしにゃ。
統計的手法を取り入れて、現代の自然科学がさらなる成功をおさめたわけですにゃ。
自然科学的リテラシー能力というものがあるとしたら、多分それは因果性を部分的に用いつつ、統計的に考えることでしょうにゃ。


呪術が包括的かつ全面的な因果性を公準とするのに対し、科学の方は、まずいろいろなレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性のなにがしかの形式が成り立つことを認めるが、ほかに同じ形式が通用しないレベルもあるとするのである。


レヴィ=ストロース「野生の思考」P15

僕たちの失敗

僕たちは自然科学の有効性をよく知っていますにゃ。そして、また、僕たちは因果論的思考の有効性と重要さもまたよく知っていますにゃ。
だから、

  • 自然科学は精緻な因果論であると考え違いをしてしまっている

のではにゃーでしょうか。


因果性を追求し精緻化することによって世界の仕組みを明らかにしていく、ことにおいて、科学と呪術はちょっとまえまで同じだったわけですにゃ。ニュートン力学という因果的な世界観の中では、科学者ニュートンと錬金術師ニュートン(ついでにいえば数学者ニュートン)は矛盾なく共存できたのでしょうにゃ。
そして、

  • 統計的手法の導入によって、自然科学と呪術が本当にたもとを分けた

のだと考えますにゃ。
統計的手法の本格導入がダーウィンの「種の起源」、あるいは熱力学に始まったと考えても、科学と呪術が本当に分離してまだたった150年くらいしかたってにゃーのだ。
科学的な思考に馴れてなくても仕方がにゃーだろね。


  • 自然科学は中立だが、社会科学や人文科学(特に歴史学とか)は解釈次第のパフォーマンスであり政治である
  • 疫学などの統計的手法を用いたものは2流の科学、いわば解釈次第のパフォーマンスであり政治である*4
  • ダーウィンの進化論は証明されていない

これらの考え違いのおおもとは、

  • 自然科学は精緻な因果論なので、真理であり中立である

から来ているのではにゃーかと。
因果性の取り扱いにおいて、呪術と科学がごっちゃになっているのだにゃ。

おまけの提案

「エネルギー保存則は証明されている」「タバコの害は疫学的に証明されている」
というのは間違えてにゃーけれど、どうも演繹的・数学的な証明とごっちゃにするヒトは後を絶たにゃーので、こういうときは【証明】ではなく【実証】を使ったほうがいいのではにゃーかと提案いたしますにゃ。

*1:数学も単純に演繹的な学問ではないらしい。しかし、僕はそこまで数学を理解していない

*2:派遣村叩きも1ビット思考だと思いますにゃ

*3:ちなみに、ハイゼンベルグに先立って不確定性を自然科学に持ち込んだのはダーウィンだとデューイは言っていますにゃ

*4:統計を用いた嘘というのは確かにあるけど、それは別の話