THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

ポリコレは物語の質を上げて多様性を確保する…のか?

 

theeigadiary.hatenablog.com

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 以前にも似たようなことを書いているが、改めて。今回は特に長い。

 

●まえおき

 

 ネットでは「創作物とポリコレ」とか「表現規制とポリコレ」という話題は定期的に盛り上がる。それも、数ヶ月に一度どころか一ヶ月に一度くらいのペースだ。一週間に一度くらいかもしれない。

 話題となる創作物は漫画であったり映画であったりゲームであったりするし、表現規制の内容も「公共の場での掲示が撤回させられた」「俳優が役を降ろさせられた」「作者や掲載誌が謝罪文を発表させられた」から「規制という結果にはいたってないが、ある作品に対して政治的・規範的な観点からの批判が行われた」まで様々だろう。

 生産性のある議論を本気で行う気があるなら、映画の話なのか漫画の話なのか、日本の話なのかアメリカの話なのか、権力や圧力を介した実質的な規制の話なのか抗議運動の話なのかそれよりも不定形なコードの話なのか、話題にする内容についてしっかり定義付けを行うべきだというのはわかっているのだけれど……今回の記事では(というか、どの記事でもそうしているんだけど)とくに定義付けを行うことはせずに、"ポリコレ"という言葉でわたし(および世間のみなさん)が"なんとなく"抱いているイメージに基づいて話をすすめる。

 

 さて、さいきんRTがいっぱいされたりブクマがたくさん付いたりして話題になっているのが、以下の二つのツイートだ。

 

 

 

 

 これらのツイートのどちらも、コンテンツを世界に広げる「戦略」や「商売」の観点に基づいている*1。わたしが主に興味を持っているのはコンテンツの「質」についてであり、それが売れる売れないとかどう売るかという話には、あまり興味がない。

 ……とはいえ、後者のツイートに付いているブコメ群は、「ポリコレ」に対して市井の人々が抱いている反感を可視化しているようで興味深かった。たとえば、トップブコメは以下のようになっている。

 

Mayo "SEN" Naito⚡ on Twitter: "「ポリコレに従ったら日本の表現の自由が死ぬ」って言説、まずポリコレを表現規制と勘違いしてるところから間違ってないか? ポリコレに配慮するって、マイノリティへの偏見を助長しないとか、全年齢向けなら子供に悪影響を与えないとか、そういう「幅広い視聴者層に受け入れられる」ための工夫でしょ"

「フェミストは規制派ではない」とか「ポリコレは規制派ではない」とか、空疎な建前を喚き直すのが最近の作戦なの? きちんと実態を知られた上で正しく警戒·嫌悪されてるんだから安心しなよ。

2020/07/09 20:03

b.hatena.ne.jp

 

●ポリコレと、物語の質と多様性

 

「ポリコレ」賛成派と反対派とにおける見解の相違のなかでも最大のものは、ポリコレが創作物の"質"と"多様性"に与える影響に付いての見解であるだろう。

 ポリコレ賛成派の大半は、「ポリティカル・コレクトネスを守ることは、単なる商売上の戦略や少数派・弱者の気持ちを傷付けないための配慮であるだけでなく、個々の物語の質を上げることにもつながる。また、ポリティカル・コレクトネスに象徴されるようなリベラルな価値観は、これまでには注目されていなかったテーマや周縁化されていた人々にもスポットライトをあてるので、これまでになかったような物語を描くことを可能にして、物語の多様性を増させるものである」と、多かれ少なかれ思っているだろう。たとえば、以下のような記事である。

 

wezz-y.com

 

 一方で、ポリコレに反対する側は「どんな作品にもポリティカル・コレクトネスが強要されることで、特定の表現やテーマやキャラクター造形が物語から排除される。結果として、作品の質は下がり、描くことのできるテーマが制限されることで物語の多様性もなくなる」と思っているはずだ。

 

●Netflixオリジナル映画が面白い理由

 

 以前の記事では「Netflix的価値観」を批判していたわたしであるが、その後に、Netflixオリジナル映画をまとめて見た時期があった。そして、ちょっと悔しいことに、いかにも"Netflix風"であるリベラルな価値観やポリコレ的な要素がマシマシな映画でも、観てみるとしっかり面白いことに気が付いてしまったのだ。

 たとえば、「ルッキズム」や「ボディ・ポジティブ」をテーマとした『ダンプリン』や、同性愛者かつ中国系移民の女子高生を主人公とした『ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから』は、ポリコレカルチャーがここまで広がなければ作られない作品であったことは間違いないだろう。そして、両作品とも、テーマやメッセージをしっかり描きながら、エンタメ性のある物語にまで昇華することに成功している。

 Netflixはドキュメンタリー番組に関しては「どれも同じ価値観で同じような撮影の仕方で同じような話ばかりしているじゃん」と思わされもする。だが、Netflixオリジナル映画に関しては、一見するとどれも「ダイバーシティ」や「インクルージョン」的な物事を強調した同じような作品に見えても、ちゃんと見てみると作品ごとにしっかりオリジナリティが感じられるし、クオリティが高い作品も多いのである。ドラマ作品やリアリティ・ショーに関しては見ていないから知らないけれど。

 

●ポリコレを考えないことが、作品の質を損なう理由

 

 ステレオタイプ的な描写や差別的な描写の問題は、そこでステレオタイプや差別の対象となっているのと同じ属性を持つ視聴者を傷付ける可能性があるということ……だけではない。考えのたりない差別的な描写は、作品そのものの価値を損なう面も大きいのだ。

 昔の作品を例に挙げると、『ティファニーで朝食を』における日系人の描き方や『捜索者』などのジョン・ウェイン主演の西部劇作品におけるインディアンの描き方は、それらの作品自体はおおむね素晴らしい出来であるからこそ、現代の視聴者にとってはノイズとなる。あるかないかで言えば、それらの描写はなかった方が、作品の普遍的な価値はより増していただろう。

 脇役ならまだ見過ごせるとしても、ストーリーに大きく関わってくるメインキャラクターの描写がステレオタイプ的であったり差別的であったりすると、物語の面白さに与える影響は深刻なものとなる。たとえば、『グリーンマイル』は主要人物であるジョン・コーフィ(マイケル・クラーク)の描き方があまりにも典型的なマジカル・二グロという感じになっており、そのためにキャラクターとしての奥行きも失われていたように思える。

 昔の作品については「こういう時代だったんだから仕方ないな」とか「現代の価値観で当時をジャッジしても意味がないな」と思えるとしても、現代の作品において特定の人種や性的アイデンティティなどに関するステレオタイプ的な描写や差別的な描写を目にしてしまうと、かなりキツいものがあるだろう。作り手が同時代人であるなら最低限の前提や価値観の共有は求めたくなるものだし、それがないとなれば、作品への印象も悪くなる*2。

 差別的な描写やステレオタイプ的な描写であっても、物語上の意図がある「あえて」の描写であるなら、問題ないだろう。「誰になんと言われようとこの描写だけは外せない」という作り手の強固な信念に基づいた描写である場合にも、社会的に許されるかどうかはともかく、作品の質を上げる効果はあるかもしれない。……しかし、意図や信念に基づかないものであるなら、差別的な描写やステレオタイプ的な描写は作り手の鈍感さや無能さを示すシグナルとなってしまうのだ。

 

●ポリコレ的な描写をすればいいというものでもない

 

 逆に言うと、ある作品がポリティカリーにコレクトなキャラクター描写やテーマ設定を行なっていることは、その作品の作り手の繊細さや知性や有能さを示すシグナルとなり得る。日本の漫画を例に挙げると、たとえば最近のジャンプでヒットしている『チェンソーマン』や『呪術廻戦』のジェンダー描写からは「最近流行りの価値観に目配せしています」という感じが強く伝わってくる。そこに小賢しさを感じて若干イラっとすることはありつつも、その「目配せ」ができる知性や繊細さが作品のクオリティにつながっているのだ、ということもこれらの作品を読んでいると理解できるのだ。

 ただし、ポリコレ的な描写を入れることが、作り手の考えのなさや浅薄さを示すシグナルとなり得る場合もある。たとえば『アベンジャーズ/エンド・ゲーム』における女性ヒーロー大集合シーンはどう見ても失笑ものだし、「なんかさいきん流行っているからこういう描写をしておけばいいんでしょ?」というエクスキューズ以外の意図を感じられなかった。『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の世評の低さも、単にポリコレ要素やダイバーシティ要素をマシマシにしたことだけでなく、その描写の仕方の拙さが原因であっただろう。

『キャプテン・マーベル』は個人主義的なフェミニズムのメッセージとヒーロー映画というジャンルの折り合いの悪さを考えずに作ったために物語として失敗していたし、『シュガー・ラッシュ:オンライン』や『アナと雪の女王2』などもポリコレ的なメッセージを優先して前作におけるキャラクター描写やキャラクター同士の関係性などを蔑ろにしてしまったためにファンからの不評を買ったようだ。

 

●古典的で"差別的"な表現の面白さ

 

 物語においては、ステレオタイプ的な描写やテンプレート的な展開をすることが作品の面白さにつながる、ということもあり得る。

 たとえば、マッチョな男性主人公に惚れてしまい彼の安否でやきもきしたり、敵にとらわれてしまったところを主人公に助けられたり、他の女性キャラが主人公に近づいているのを見てやきもちをやいたり……といった女性ヒロインの描写は古典的なものであるが、このようなヒロインは"受動的"で"従属的"であり"性差別的"であるとして、近年ではどんどん描きづらくなっているだろう。

 しかし、王道には王道の良さがあるというものだ。過去の作品で受動的で従属的な女性ヒロインが量産されてきたのは、そのようなヒロインには可愛らしさや健気さなどの魅力が存在していて、そんなヒロインと主人公との関係を視聴者は応援したくなってしまうものだからである。たとえば、『マイティ・ソー』や『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』でナタリー・ポートマンが演じたヒロインは、2010年代の映画だとは思えないくらいに古典的なヒロインではあったが、だからこそ魅力的であった。ハリウッド女優のなかでもとりわけ小柄でか細くて美人なナタリー・ポートマンだからこそ「恋する乙女」や「守られるお姫様」の役柄が映えるのである(たとえ本人がフェミニストであり、このような役柄を演じることを内心では嫌がっていたかもしれない、としてもだ)。

 一方で、『マイティ・ソー』の主人公を演じたクリス・ヘムズワースは、2016年版の『ゴーストバスターズ』で「お馬鹿で受動的なヒロイン」の男性版、という批評的なキャラクターを演じた。これはこれで面白かったし魅力的ではあったのだが、やっぱり批評や戯画などの「意図」が露骨に先立つ特殊なキャラクターではあったし、連発されたら途端に魅力を失うようなキャラクター造形ではあるだろう。

 

●保守的な作品が描けなくなる?

 

 描写やキャラクターだけでなく、作品そのもののテーマ設定が保守的なものであり、そのことが作品の価値につながる、という事例もあるだろう。

 たとえば「軍人」や「警官」を主人公にした作品は、「反戦」であったり「警察の腐敗」をテーマにしている場合はポリコレ的な作品になるだろうが、そうではなく「軍人としての葛藤」とか「犯罪を見逃さない警察の正義」とかをテーマにした場合は多かれ少なかれ保守的な要素が強くなる。そうなるとポリコレ的にはキツくなり、批判の対象とされるおそれが生じる。クリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』は軍人である主人公の苦悩を全面に押し出していて反戦的なメッセージも感じられる作品ではあったが、それでも批判にさらされた。また、最近ではブラック・ライヴズ・マターの影響もあって警察という制度そのものを批判する風潮がアメリカでは高まっており、「警官の視点から描いた物語を製作するな」という要求もされているそうだ。

 こうなると、ポリコレ反対派が抱いている「ポリコレによって作品の多様性が失われる」という危惧も現実味を帯びてくるだろう*3。

 

●「評価」や「批評」が、物語の多様性を奪う

 

 作品を表現する機会が直接的には奪わないとしても、作品に対する「評価」や「批評」がポリコレ的なコードに支配されてしまい、ポリコレ的な作品であれば評価されたり賞をとったりして話題になるが、ポリコレでない作品は批判されるか取り上げられもしないかとなって興行収入や販売本数も減ってしまって、商業的な理由から作られることがなくなってしまう……という危惧を抱いている人もいるかもしれない。

 作品そのもののクオリティや中身よりも社会的な文脈や時事的な事情に基づいて評価されてしまう、という事態は近年のハリウッドでは確実に起こっている*4。そこで「評価」や「批評」を行う人たちが世間一般からそこまで離れた価値観を持っていなかったり政治的・アイデンティティ的に偏りがなかったりすればマシかもしれないが、そうでなかったら、視聴者や読者のあずかり知らぬところで業界の内部に勝手に生じた"党派"の見解によって、作り出される作品の内容や傾向が左右される、という事態になり得るのだ。

 アメリカで発生したゲーマーゲート事件やコミックスゲート事件も、もしかしたら、上述したような事態に対する危惧が一因となっているかもしれない(だからといって肯定できるものではないが)。

 

●ポリコレの本末転倒

 

 規範が設定された当初にあった目的が、規範が浸透するにつれて忘れられていき、規範を守ることを優先するあまりにそもそもその規範が設定された目的と反してしまう……これは、どんな種類の規範やルールでも起こり得ることだ。

 創作物に対するポリコレ的なコードが、当初は「作品の多様性を確保する」ためのものであったり「単一の価値観からではなく多様な価値観に基づいた評価を行う」ためのものであったとしても、そのコードを物神化して崇めるあまりに他の価値観の存在を見失って作品の多様性を認めなくなる、という状態になっている人はよく見かける。

 この現象は、特に批評家において目立つところだ。とりわけ、洋画をメインに扱っているタイプの映画批評家たちにはもともと出羽守に堕しやすい傾向があるために、アメリカのポリコレ的なコードを絶対なものとしてしまう人がちらほらといる。批評家ならポリコレ的なコードも相対化して「ポリコレ的な描き方やキャラクター設定が、作品そのものの"質"に対してどのような影響をもたらしているか」といった分析をしてほしいものだが、それができずに、欧米におけるコードを疑問視せずにイタコみたいにそのまま日本語で繰り返す、というだけになっていたりするのだ。

 業界の内部にいる批評家がこうなってしまったら、ポリコレ的なコードに沿わない作品の価値を認めて保護できるのは、業界の外にいる作品のファンや大衆だけとなる。というわけで、"業界"や"知識人"と、”ファン"や"大衆"との闘争が繰り返されることになってしまうのである。

 

●プラットフォームとジャンプ漫画

 

「どのコードを採用するか」「なにをコレクトとするか」ということは価値観闘争であり、文化とアイデンティティが大きく関わってくる。だから、「外資系プラットフォームの寡占化」に対して危惧を抱くことには、充分な正当性があるだろう。

 アメリカの映画がいろんなコードに雁字搦めにされているのに対して、日本の漫画はコードから解放されている。出版社の思惑や商売戦略などに左右されている漫画家も多いだろうが、たとえば週刊少年ジャンプという最大手の雑誌でトップクラスの売り上げを誇っている作品群を見てみると、『ONE PIECE』も『僕のヒーローアカデミア』も『鬼滅の刃』も、「作者が描きたいものを自由に描いている」ということが伝わってくる。他人の思惑が介入する余地があまりなく、作者本人の作家性を全面に出せることが日本の漫画の良さだろう。

 そして、これらの作品は、ポリコレ的にはかなりNGであったりする。『僕のヒーローアカデミア』は未成年を性的に描くシーンが多いし、『ONE PIECE』における同性愛者の描写はひどいものだ。『鬼滅の刃』だって異性愛中心主義的だと批判できなくもない。……しかし、これらの作品は日本国内にとどまらず海外でも広く受け入れられて評価されているようだ。

 海外で受け入れられているといっても収入にどこまで結び付いているかはわたしにはわからないし、もしかしたら、欧米や世界におけるポリコレ的なコードに沿った漫画を作ることのほうが収入には結び付くかもしれない。そういう漫画もあってもいいだろうが、そればっかりになったらつまらないし、日本の漫画の良さは失われてしまうだろう。

 

●まとめ

 

 いつにもましてダラダラと長く書いてしまったが、最後にわたしの主張をまとめてみると、こんな感じである。

 

  • ポリコレに配慮した描写を行うことは、物語の質を上げることに貢献することが多い。
  • ポリコレ的な価値観の浸透によって、これまでには描けなかったテーマの作品が描けるようになっており、物語の多様性は増している。
  • とはいえ、ポリコレに反する描写であっても、物語の質を上げることに貢献することはある。ポリコレ的な描写をすればいいというものでもない。描写の背後にある意図や考えなどの方が大切だ。
  • ポリコレ的な価値観が絶対視されることで、その価値観にそぐわない作品が間接的・直接的に排除されていく事態が発生して、物語の多様性が失われる……という危惧には、正当性がある。

 

 だからまあ結論としては「ほどほどが一番」ということになる(どんな問題に対しても言えてしまう、中身のない結論ではあるが)。ポリコレを全否定することもなければ、絶対視して全肯定することもない。そうすれば、世に生み出される映画や漫画などの多様性はちょうどいい塩梅で広がっていくし、個々の作品の質も上がっていくだろう……。まあ、そううまくいくわけがない、とみんなわかっているからこそ現状のような血を血で争うような対立が生じているわけなのだけれども。

*1:とはいえ、ポリコレ賛成派のずるいところが、「戦略」や「商売」と「道徳」や「規範」の要素を陰に陽に結び付けたり、議論の都合によってどちらの話をしているかをコロコロと使い分けたりすることであったりもする。

*2:よく「作品と作り手は別」だと言うが、作品の内容からは「作り手がどんな価値観を持っているか」「作り手が何を大事にしているか」ということが個々の視聴者や読者に伝わってくるものである。そして、作品を通じて個々の視聴者や読者が作り手に対して抱く印象が、作品そのものの面白さにも影響を与えることは疑いない。ついでに言うと、多くの作品におけるエンターテイメント性は道徳や倫理に関わっている…つまりなにを「善」としてなにを「悪」とするかに関わっているものなので、そこが作り手と視聴者や読者との間でズレ過ぎていると、まともに楽しむことが難しくなる。たとえばわたしが『キングスマン』のマシュー・ヴォーンの作品を楽しめないのはそれが理由だ。

*3:別の記事で書いたことであるので今回は強調しないが、ハリウッドでは、保守的な地域・保守的な考えを持った人間、そして保守的な白人に対しては配慮の必要がなくどんなにひどく描いてもいい、という傾向が確実に存在している。これも、物語の質を下げて多様性を失わせる事象であるだろう。

*4:といっても、明らかにクオリティの低い作品が高評価を受ける、ということはさすがに珍しいかもしれない。しかし、ジョーダン・ピールの『アス』や『ゲット・アウト』はマジで大したことのない作品であるし、アレがあんなに評価されているのは忖度以外のなにものでもないとも思う。