うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

山に登りて告げよ

来年から本格的にトレイルランニングを始めるということで、6月には岩手の70kトレイル、11月にはフィリピンで開催されるSpartanrace Ultra 50kに出る予定です。

その他も隔月、ウルトラトレイルに登録しているので死なないように頑張りたいです。

 

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今年はまだ準備不足で間に合いませんでしたが、伊賀と熊野で毎年トレイルマラソンが開催されるようなので、こちらも参加予定です。

 

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『My American Journey』Collin Powell その1 ――どんな兵隊でも、機会さえ与えられれば活躍できる

 

 

 

これは忠誠についての話である――私自身への、アメリカへの。

これはアメリカだからこそ生まれた物語である。

 

◆所感

  • 黒人であるパウエルが、なぜ軍人として奉仕する意志を持ったかが説明されている。当時、黒人が活躍できる数少ない職業が軍人だった。
  • 軍は一般社会、特に米国南部よりも、民主主義の理想に近づこうという(人種にとらわれぬ)自由を尊重していた。このため、かれは一般社会での人種差別や公民権運動を目の当たりにしながらも、勤務を続けることができた。
  • パウエルの人格……短気が自分の欠点であると自覚している。細部に対してこだわることを重要と考えている。勝利に執着し、良い成績をとること、昇進していくことを重視している。しかし、出世のために人を蹴落としたり兵隊をないがしろにしているわけではない。
  • 戦争には明確な目的が不可欠である。ゴールのない派兵、「プレゼンスを示す」というようなあいまいな派兵は、ベトナム戦争やレバノンにおける海兵隊のような悲惨な結果を招く。
  • 世界最大の米軍は、好きなように使える「おもちゃの兵隊(Toy Soldiers)」ではない。地上軍の派遣は必ずアメリカの子供たちを死に追いやる。遺族に対して、犠牲の意味を説明できないような運用はしてはいけない、という。
  • しかし、後にパウエル氏はイラク戦争の決断に寄与した。
  • 米軍だけでなく米国社会の一部も知ることができる本である。

 

1 初期

大学卒業まで

ジャマイカ移民の子として生まれた著者は、ブロンクス地区で少年時代を過ごし、ニューヨーク市立大学に入学した。その後、ROTCに入校した。

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学業では当初工学を専攻しようとしたものの、元から数学と物理が苦手だったこともあり、早々に挫折して地理学(Geology)に転科した。

周囲でただ一人、大学に通っていたパウエルは、ROTCの仲間と交流することで同志を手に入れた。また、ドリル(教練)競技会の優勝や自分の所属するチーム(Fraternity)へのリクルート成功を通じて、自分が現実を変えられるという意識を抱いた。

かれはROTCを優秀な成績で修了し、陸軍に入隊した。

ブロンクスで移民に囲まれて育ったため、それまでは人種差別に直面したことがなかった。しかし、南部に訪れたときに「狂った慣習」を目の当たりにし、また黒人であることを理由にサマー・キャンプで最優秀を取れなかったことを受けて、差別について考えるようになった。

かれは差別に対して自分を乱されるのではなく、挑戦を受けているとポジティブにとらえた。

 

責任を持つということは、時に他人を怒らせることもある。

 

パウエルは将校として自分の力に自信を持ち、また家族に対しても誇りを持つようになった。

 

入隊

歩兵学校で基礎を学んだ後、レンジャースクールを卒業し、空挺レンジャー(Airbornranger)となった。

学校で学んだことはかれにとって軍人の原点となった。

 

与えられたポストとそこにある政府の財産に責任を持て。

任務が優先、それから兵たちの面倒を見る。

突っ立ったままでいるな。行動しろ。

模範となれ。

言い訳はするな。

将校は常に最後に食事をとる。

最良のアメリカ軍歩兵であることを忘れるな。

時計、鉛筆、メモ帳を常に携帯せよ。

 

また、国民と軍についても考えた。

 

フォート・ベニングでは、アメリカ軍人は自己犠牲の理由を知らされなければならないと教わった。わたしたちの兵隊は属国や傭兵ではない。かれらは国の息子たち・娘たちであり、意味のある目的のためにのみその命を危険にさらす。もし兵隊の義務がその命を危険にさらすことであるなら、指導者の責任は、かれらの命をムダにしないことにある。

 

1959年当時、民主化された軍隊に比べて、外部の社会はまだ遅れていた。

ジョージア州フォート・ベニングの近郊にある黒人教会に行くために、パウエルは白人ドライバーの運転する車に乗った。白人ドライバーはそのために日曜日の礼拝ができなかったが、もしこの白人が(黒人が所属する)黒人教会に闖入すれば、地域で騒ぎになり黒人たちが苦しむことになっただろう。

「男性/女性/有色人種」というトイレの区分けを見て、南部はジェンダーについては先進的だったかもしれないとジョークを書いている。

 

教育課程を卒業後に、西ドイツのフルダ・ギャップ(Fulda Gap、東西ドイツの境界であり戦略的に重要視されていた)に配属された。

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第2次世界大戦、朝鮮戦争を経験した上官たちから、若者を見守り時には寛容さを示すことを学んだ。パウエルはいくつかのミスをしたが、上官たちは前途有望な若者の経歴を守るために懲戒処分にかけなかった。軍のトップになる人間も、必ず過去にミスやトラブルを起こしている。

ムダを放置することは破壊的な結果につながる。新しく導入された補給制度は使い物にならず、みな使っているふりをして放置していた。その結果はベトナム戦争の惨事となって現れた。

 

アメリカ兵は、勝つことが好きである。かれらは一見楽をしたがるようにみえるが、実は勝利したいのであり、また自分の働きぶりを見てもらいたいのだ。

 

西ドイツでの勤務の後、かれはボストンのフォート・デヴンスに異動した。かれは副官や中隊長として勤務した。この間、アルマ・ジョンソンと出会い結婚した。

米軍は民主主義において一般社会の先を行っていた。

トゥルーマン大統領は、黒人が軍で平等に取り扱われなければならないとする決定を行った。当時の黒人は、なぜこれだけ差別を受けていながら、国のために奉仕することができたのか? 

それは当時、黒人が立身出世できる数少ない職業が軍人だったからである。

 

2 軍務

ベトナム

1962年のクリスマスに、かれは軍事顧問団の一員としてサイゴンに派遣された。当時、アメリカは南ベトナム政府を支援するために、約3000人の軍事顧問団を派遣していた。

パウエルは、映画やニュース映像でしか見たことのなかった戦場についに赴くことになった。

 

当時のサイゴンはまだ風光明媚な植民地都市の面影を残していた。かれはラオス国境の山岳地帯にヘリコプター(海兵隊が操縦)で運ばれたが、そこには無人の山林に小さな飛行場と前哨基地があるだけだった。

本来は、国境のベトコン補給路を遮断するためにつくられたものだが、この設備が効果を発揮しているようには思えなかった。

 

米軍顧問団の任務はプレゼンスを示すことである。この無意味に見える前哨基地は、飛行場を守るためにある。飛行場は、前哨基地を補給するためにある。それだけだった。

パウエルによれば、この基地はベトナム戦争全体を象徴していた。

 

かれは約400人の南ベトナム兵を、ベトナム人将校および米軍下士官とともに率いた。かれらの任務は、基地周辺の渓谷をパトロールすることだった。

南ベトナム兵は皆徴兵されてきた若者たちだった。パウエルらはヒルや虫の大群、毒のとげトラップと苦闘しながら、暗い密林を巡察した。

村や集落を発見した場合は敵の補給を絶つため畑を荒らし家を燃やした。毎日、ベトコンの攻撃があり、1名、2名と射殺された。しかし、ベトコンを実際に目にしたのは数回だった。

パウエルは、これで戦争に勝てるはずがないと感じた。

 

毒のとげトラップを踏み抜いてしまったパウエルは、軍病院に搬送された後、司令部で働いた。司令部の情報要員は、現場に行けばすぐにわかることをもっともらしく分析していた。また、都会での勤務や休暇を楽しんだものの、ジャングルの現場とのギャップが大きかった。

 

南ベトナム軍の高官たちは、汚職と腐敗、ぜいたくにまみれていた。こんな人間たちのために若者たちが死んでいるのかと腹が立った。

 

ベトナムから戻り、パウエルは上級歩兵課程(その他上級レンジャー課程も)を履修した。かれは同期の中でも早く昇任していた。

上級レンジャー課程では、空挺隊員たちと競った結果、首席をとった。かれは、専門家に尻込みせず、また盲信しないことが大切であると学んだ。

 

妻アルマの実家であるアラバマ州バーミンガムは、当時もっとも危険な町になっていた。かれがベトナムで現地軍を指導している間、アメリカでは公民権運動が盛り上がり、黒人に対するテロや爆弾攻撃も行われていた。

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パウエルも基地の外で家を見つけるのに苦労し、またハンバーガー店では通用口でしか商品を渡さないという嫌がらせを受けた。かれは激怒したが、陸軍でのキャリアに専念したかったため気を静めた。

 

フォート・レヴンワースの参謀本部課程を履修し、続いて教官になった後、1968年に再びベトナム派遣を命じられた。

1964年のトンキン湾事件以降、ジョンソン大統領は派兵を拡大させていた。ベトナムにおける米軍の戦力はパウエルがいたときの13000人から30万人にまでふくらんでいた。

 

1968年1月末のテト攻勢は、アメリカ世論を一変させた。

アメリカでは、ベトナム戦争は終結に近づいていると考えられていたが、突如ベトコンと北ベトナム軍が蜂起しサイゴンで戦闘となったため、国民に大きなショックを与えた。北ベトナムは軍事的には敗北したが、政治的には勝利した。

北ベトナムには勝利への強い意志があり、一方、アメリカで戦争に味方するのは軍人だけだった。

 

なお、パウエルは民主党のジョンソンに投票した。共和党のゴールドウォーターは黒人差別を維持すべきと主張しており、黒人として支持することはできなかった。

 

2度目のベトナム派遣では、少佐として大隊の副隊長を務めた後、師団長(ゲティス少将)に引き抜かれ師団司令部の作戦部長(G-3)として短期間勤務した。

パウエルのブリーフィングを聞いた伝説的な将軍エイブラムス(在ベトナム米軍司令官)は、あの少佐はだれだ、と非常に満足した。

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師団長とともに視察で前進基地を訪れた際、ヘリが墜落し足を負傷した。パウエルは搭乗員の救助に自ら乗り出したことで勲章を受け取った。

 

パウエルはジョージ・ワシントン大学大学院への入学を認められ、1969年に帰国した。

ベトナムでの勤務中、1968年3月にアメリカル師団で発生していたミライ虐殺の調査に協力した。事件はかれが派遣される前に起こっていた。

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ベトナム戦争での勤務を通じて、パウエルは政治指導者たちと軍の欠陥について考えるようになった:

 

  • 目的が不明確なまま戦争を拡大したため、国民の支持が得られず、また勝利も得られなかった。
  • 大量の即席将校や即席下士官がつくられ、士気を低下させ、また職業倫理も失われていた。
  • 徴兵された多数が貧しい人びとで、多数の金持ち息子やスポーツ選手が徴兵逃れしていた。
  • KIA(Killed in Action)をKHA(Killed by Hostile Action)、MEF(Marine Expeditionary Force)をMAF(Marine Anphibious Force)に言い換えるなど、戦争の現実を糊塗する姑息な言い換えが多用された。
  • 昇任システムが形骸化し、役職を務めた将校ばかりが勲章をもらっていた。その式典に参加する徴募兵たちは、これは狂っていると感じていた。
  • 杓子定規の反共主義はベトナムでは通用しなかった。ベトナムの戦争意志は民族自決や反植民地主義とも結びついていた。
  • 占領や敵軍撃破のようなわかりやすい戦果が出ないので、屍体カウント(Body Count)が戦果の基準となった。嘘や過大申告による張り合いが、現実認識をゆがめた。
  • 軍指導部たちは、戦争に勝てないことを認識していながら政治家たちに適切な助言や諫言をしなかった。

 

大学院

パウエルは大学院で経営学修士(MBA)を取得した。その後国防総省において、陸軍を改革する部署に配置された。

この間、反戦運動が盛り上がり、軍は信頼を失っていた。著者の母校のROTCも、人が集まらず廃止された。

陸軍からの指示により、ホワイトハウス・フェローシップに応募したところ合格した。パウエルはホワイトハウスの研修生となった。多くのフェローが、後に政治の世界やビジネスで大成している。

 

ホワイトハウス・フェローシップ

OMB(行政管理予算局)は予算教書の作成、予算執行、各行政機関の活動管理を担う、最も強力な官庁である。

民主主義の運用は、必ずしも理想とは合致していなかった。一部のフェローは、権力を使うことに酔っていた。民主主義の現実を認識していた建国の父たちは、そのために権力分立を重視したのだと悟った。

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ソ連研修では、自分たちと変わらないソ連の一般市民たちを垣間見た。しかし、パウエルたちは多数のKGBに常に監視されていた。

中国研修では、ソ連に比べてまだ監視統制が行き届いていなかった。ただし、毛沢東を崇拝させる思想教育は徹底していた。

米海軍原潜の父と呼ばれるリコーバーは、非常に厳しいパワハラ上司で有名だった。しかし、「優れた人びとを集めることのみが成功のかぎである」というかれの講話は真実でもあった。

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韓国勤務

パウエルはもう1度大隊を指揮したいと希望し、韓国・国境付近の基地に配置された。38度線の近くにあり、戦時には血と肉をもって緩衝となる部隊だった。

この部隊は非常に士気が低く、問題を抱えていた。犯罪が続発し、近場の売春宿が繁盛したため性病が蔓延していた。当時は徴兵制と志願制の過渡期であり、兵隊の半分は、適性のあまりない(カテゴリー4)徴募兵たちだった。

陸軍が進めていた、福利厚生や居住環境の改善、KP(Kitchen Police)の廃止などは、韓国の基地には届いていなかった。

 

師団長である"Gunfighter"エマーソン将軍の下で大隊長として働き、将軍から大きな影響を受けた。

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  • 無駄な行事や礼式を排除した。将校には勲章は与えず(かれらの出世は勤務評定で決まるため)、下士官や兵隊たちを表彰した。
  • スターだけが活躍できるスポーツではなく、大人数で戦うサッカーやバスケを考案した。
  • 兵隊たちの半分以上は中卒だった。かれらは、これまでの人生で他人に認められたことがなく、評価もされてこなかった。このため将軍は、全員を対象に大検取得の講義を開始した。
  • 勤務時間外や飲み会では、自然と人種ごとの住み分けができてしまう。将軍は人種の壁に正面から取り組んだ。MP(憲兵)が酒場を巡回して、黒人/白人であることを理由に暴行を受けそうになった場合は制圧した。そして、MPたちはその場で酒を飲むことを許可された。
  • 一般に黒人兵のほうが能力や勤務態度は悪かったが、これは出身環境による。パウエルは、黒人兵から信頼され"Bro P"と呼ばれていた。白人であれば尻込みするような不良の黒人隊員が来たとき、パウエルはすぐに除隊させた。
  • 将軍は、黒人を差別的に呼んだ下級将校を更迭した。

 

パウエルは1974年に国立戦争大学(NWC, National War College)への入学を命じられた。

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NWCでの課程

(略)

 

空挺師団連隊長

大佐(Full Colonel)となったパウエルは連隊長として勤務した。

師団対抗ボクシング大会では、何のとりえもなかった小柄な兵隊を訓練し、フェザー級チャンピオンに育てた。この出来事は、師団長エマーソン将軍の信念、「どんな兵隊でも、機会さえ与えられれば活躍できる」を体現していた。

 

パウエルは、当時カーター政権の国防長官だったブレジンスキーから呼び出され、大統領補佐官の一部署で勤務することになった。

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[つづく]

 

 

SPARTANRACE ULTRAに出る準備

ULTRA計画

来年の夏から秋にかけて、SPARTANRACE ULTRA(50㎞)に出場しようと思いトレーニングを始めました。

50㎞のトレイルランニングと60個の障害物をクリアするアクティビティです。

日本では開催されないので、ハワイか、開催予定があればインドネシアかマレーシア、中国に行くことになります。

jp.spartan.com

 

9月に走ったBEAST(20㎞)で途中足がつったため、まずは体重がダメと判断し、体脂肪率を10%以下まで落とすのを目標にしました。

 

現在のトレーニング:

 

体重と体脂肪が重すぎてこのままではまともに走れないので、筋力は極力残しつつ体脂肪を限界まで落としたいと考えています。

形から入るのが大事ということで、Garmin Forerunner 955を買って、食事管理はMyFitnessPalを使い始めました。

1日の食事量等が把握できて見るだけで健康になっているような幻覚が味わえます。

www.garmin.co.jp

www.myfitnesspal.com

 

第1関門はダイエットなのでフルマラソンのタイム云々は先の話ですが、2019年に走ったホノルルマラソンのタイムが4時間40分だったので、せめてこのタイムは超えたいです。

 

将来的には元SBSのAnt Middletonのような体型でウルトラマラソンやトレイルを走れるようになりたいです。

https://hips.hearstapps.com/hmg-prod/images/ant-test-1591010771.jpg?resize=2048:*

www.menshealth.com

ja.wikipedia.org

 

スキューバダイビングとスカイダイビング

先日100ダイブを達成したので、引き続き年間50ダイブ以上を目指して継続的に潜る予定です。

まだ経験が足りないですが、自分は沈没船や沈没航空機、セノーテ等を探索したいので、テクニカルの準備をしていきたいです。  

www.tdisdi.com

www.tdisdi.com

 

スカイダイビングは他との優先度合いもみつつ、四半期に1回以上は降下するようにして技量維持しつつ、ライセンス取得を目指します。

youtu.be

 

沖縄SPARTAN RACE

12月に沖縄のSPARTAN RACE SUPER(10km)にいくついでに、3日間ダイビングと、2日間程観光に行く予定です。

jp.spartan.com

自〇隊で2年弱沖縄にいましたが、まだ見ていない戦跡もあるので事前に本を読もうと思いました。

新しく買ったのもあるが、長い間積読状態のものもあります。

 

 

 

 

マルチドメイン・ゲリラ

www.netflix.com

 

「トップフォース」

世界各国の特殊部隊を、元特殊部隊が実際に体験参加するドキュメンタリーです。

これを見て、寒冷地やジャングルでの活動能力も能力開発の観点から大事だなーと思いました。

 

というわけで、年明けの2月か3月に、北海道で流氷ダイビングに行く予定です。流氷が来るかどうかは自然状況に依存しますが、寒い場所特有の生き物(エビカニ、アザラシ、クリオネ等)はぜひ見物したいです。

www.divenavi.com

Insta360とフォトグラメトリ(Photogrammetry)(写真測量法)

水中マッピング

複数の写真から3Dモデルを生成するフォトグラメトリという技術があり、現在はソフトウェアで簡単に作成することができます。

blogs.nvidia.com

www.youtube.com

 

 

せっかく使っているInsta360で何かできないかと思い、いままでに撮ったダイビング動画を試しにUnrealEngineのRealityCaptureに読み込ませてみました。

 

www.capturingreality.com

 

やはり特定のオブジェクトや地形を測量するように撮影しなければならないので、できたモデルは断片的でした。

 

www.instagram.com

 

臺灣の海底の断片

 

今後は、よく潜りに行く伊豆を中心に海底や沈船、構造物などをモデリング撮影していこうと思います。

マッピングの精度をあげるために、Insta360を二刀流で持つような器具がないか探します。

 

主要なフォトグラメトリソフト

  • Reality Capture
  • metashape
  • zhepher
  • meshroom 
     

www.agisoft.com

 

www.3dflow.net

 

github.com

 

陸の活動:SpartanRace

GALA湯沢でスパルタンレースが開催されました。

湯沢のビースト(21㎞)は3回目ですが、気温が高くだいぶ疲れたので途中で足がつってしまいました。

ゴールはしたものの水分・栄養補給が課題なので、引き続き訓練したいです。

 

まとめ動画:

 

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