『マン・オブ・スティール』批判への批判に答える

ご無沙汰しております。ご無沙汰している間にこちらでこういう記事を書かしていただいてですね。

モヤモヤ超大作「マン・オブ・スティール」のスーパーマンが煮え切らない件

するとこういう指摘をいただきました。

てらさわホークの『マン・オブ・スティール』評の事実誤認について

ここで問題とされているのは
・映画のなかで描かれていることはすでに原作コミックにあることだから、それを知らずに映画を叩くのは筋違い
・スーパーマンは映画の中で人助けをしている。人助けをしないというのは俺の捏造
・何でもかんでも全部ノーランのせいにするのはおかしい
といったところでしょうか。自分で書いたものについてこういう補足をするのはみっともない話ですが、拙レビューを楽しんで読んでくださった方もいらっしゃると信じておりますので、その方たちのためにもですね。指摘されているいくつかの事柄についてお話ししたいと思います。なので少々お付き合いください。

まず
・映画のなかで描かれていることはすでに原作コミックで描かれていることだから、それを知らずに映画を叩くのは筋違い
ということについてはっきり申し上げておくと、知らずにいろいろ言っているわけではありません。
たとえば原作のスーパーマンにしてからがもう赤パンを履いておらず、ここしばらく今風のコスチュームを着ていることは理解しています。コミック版の最新衣装は詰襟で、どうせならこのデザインも映画で採用していればヘンリー・カヴィルの襟ぐりから胸毛がチラチラ見えるという問題も解決できたのになあと思います。
あとスーパーマンの「S」が地球のアルファベットではなくてクリプトン星における家紋なんだという設定についても、これは78年の映画ですでに語られていたこと、およびコミックでもそうした設定になっていることも承知しています(「自由」じゃなくて「希望」という意味でしたね。これはすみません!超すみません。以後気をつけます)。
それに原作のスーパーマンだってもうずっと悩めるヒーローだということもですね。今日び悩まないヒーローを探すほうが難しいわけですが、このことはあとでもうちょっとお話しします。
またはスーパーマンは人を殺したことも死んだこともあるとか、義理の親父ジョナサンの性格も何度か変わっているとか、スーパーマン・レッドとスーパーマン・ブルーの2種類になったことがあるとか、レックス・ルーサーが大統領になったとか、まあその長い歴史でいろいろあったことは把握しとります。たいていのことはもうやってますねと。
なので、何も映画が勝手に設定をでっち上げていると言いたいのではないわけです。繰り返しますが、原作上で諸々描かれてきたことを知らずに映画をブッ叩いているわけではありません。むしろ新しいスーパーマン像を作るにあたって説得力を増しそうな要素を、今度の映画は原作からいろいろ拾ってきているなと感じました。ただ問題はまさにそういう、拾ってきた要素の使い方だと思うんですね。いまスーパーマンの映画を作るにあたって何かこう、リアルにやろうという目的があって、そうするうえでコレは使えるなという。ただそうやって拾い集めた要素のアレコレでもって結局どういうスーパーマンを描きたかったのかということに、非常にモヤモヤするんですね。

それが2つめのポイント、
・スーパーマンは映画の中で人助けをしている。人助けをしないというのは俺の捏造
ということにつながりましょうが、映画の中でカル・エルが「スーパーマン」になってから、やっぱりこれは人助けをしてないと思うんですね。確かにこどもの時分に、川に落ちたスクールバスから同級生を救いました。でもこのときはまだスーパーマンを名乗ってないわけです。むしろそのことを諌められて、以来能力を封印しますね。何というかスーパーマンの映画ですから、自然な心理として「スーパーマンが」「人助けをする」ところが見たいじゃないかと思うわけです。レビューにも書きましたが、そりゃマクロで見れば地球を救おうとしています。ただ見え方というか物語の構成としてどうなの、という話です。いろいろ引っ張って引っ張ってカル・エルがスーパーマンとして立つことをとうとう決意した、直後にゾッド将軍との大バトルにいきなり突入してしまう。ビルがドッカンドッカン壊れてですね。これがデビュー戦なんだからアレコレ気を遣っている余裕はないだろうとか、そういう擁護はできるでしょう。しかしそれにしてはちょっとブッ壊れすぎじゃないか、街が。実はものすごい数の一般市民が死んでるんじゃないか。と思わざるを得ない。それこそ画面上の見え方としてスーパーマンがそれを気にするふうでもない、というところにやっぱりもの凄くモヤモヤするわけです。デビュー戦だからとはいうけれども、逆にデビューでコレだとスーパーマンがですね。大きな目的のためには小さいことはしょうがないと、物が壊れても人が死んでもそれはコラテラル・ダメージだと、そういうキャラクターとして規定されてしまうんじゃないかと。そんな心配をしたわけです。ということでちょっと話はずれましたが、「スーパーマンが」人助けをしない、という書き方は間違っていないと信じております。これはズルい言い方でしょうか。

あと物語構成についてもうひとつ文句を言うとすれば、カル・エルとして力を使った、それを隠しておかなければならなかった、というこども時代のエピソードに対応する場面が実はないと思うんですね。いろいろ逡巡してきたカル・エルがスーパーマンとして立つことを決意する、そのことで劇中さんざん付き合ってきたフラストレーションが晴れる瞬間がない。確かにいよいよコスチュームを身につけて初飛行する場面はあったし、ここは多少なりとも高揚しました。でも映画の前半で義理の親父からまだ力を使うときではないと言われて呻吟してきた、その葛藤は映画が終わっても何となく晴れない。これはやっぱりもうちょっと寄った視点で、スーパーマンが人の役に立つ、役に立てるんだと自覚する、そういう転換があって然るべきだったと思います。スーパーヒーローが悩んじゃダメという単純な話ではないわけです。他作品を引き合いに出すのは好きじゃないですが、それこそスパイダーマンなんかはアレコレ悩むのがアイデンティティというか仕事のうちでしょう。だから葛藤することは問題じゃないのです。別に俺は悩みなんかないぜイエー、という単純な映画がいいぜと言いたいわけでもない。問題はそこから先のことで、悩んだ末にその葛藤をついに全部乗り越えて大暴れするのか、あるいは極論すれば悩みすぎて死んじゃったぐらいのですね。そういう転換ですね。特にこの手の映画にはそんなカタルシスが必要なんだと思います。クリストファー・ノーランは(という言い方をするとまたお前ノーランのせいかよと思われましょうが、その話はこのあとすぐ)アメコミ映画にそういうカタルシスを持ってくるのが下手だなあといつも感じるわけです。
(あとやっぱり劇中で軍人同士がちょっとスーパーマンという名前を口にして、それがたぶん定着していくんだろうという、そのさりげない演出はどうなのと思います)

ということで最後のポイントでございます。
・何でもかんでも全部ノーランのせいにするのはおかしい
確かに今回の映画、監督はザック・スナイダーです。ノーランではない。しかし現場を任せたとはいえ、脚本家のデヴィッド・ゴイヤーと一緒にストーリー原案を書いたのはノーランですね。スナイダーが監督として加わった時点で映画の方向性は決まっていただろうと思うわけです。そのことでもってノーランノーランと言っています。確かにノーランを執拗にブッ叩きながら、スナイダーについてはなぜかどうしても優しい視線を向けてしまうことは事実です。何かと粗はあるものの、毎度こっちがビックリするような画を作ろうとしてくるからでしょうか。なので同じ監督の『300』や『ウォッチメン』についても多少モヤモヤしつつ堪能してきました。
あるいはこれまでさんざんダメなアメコミ映画、略してダメコミ映画を観てきてですね。『X-MEN : ファイナル・ディシジョン』とかドルフの『パニッシャー』とか、あるいはスタローンの『ジャッジ・ドレッド』に対してさえ、常に何とかいいところを見つけてきたわけです。そういう寛容さを持った人間が、どうしてノーランにはこんなにカリカリしてしまうのか。なぜだ!そのことについてはもう少し考えていかなくてはならないと思います。

以上つらつらと書きました。批判に答える形になっているといいのですが……
ということで今後ともよろしくお願いいたします。