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敗北を抱きしめて:ゼロ年代批評と「青春ヘラ」「負けヒロイン」についての覚え書き

 ここ最近、ゼロ年代批評に造詣の深い紅茶泡海苔さん(@fishersonic)の企画で、かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインさん(@wak)、大阪大学感傷マゾ研究会さん(@kansyomazo)、早稲田大学負けヒロイン研究会さん(@LoseHeroine_WSD)らとオンラインでお話しする機会があり、「感傷マゾ」や「青春ヘラ」「負けヒロイン」といった概念についていろいろ教えてもらった。当日の録音アーカイブはYouTubeで公開しているので、興味のある方は聴いてみてほしい。

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 動画のタイトルにもあるように、これらの長い長い会話は「2020年代の批評ライン」の一環として企画されている。それが具体的にどのようなラインなのかは、動画のなかで断片的に語られている(ような気がする)ものの、全貌は私にもよくわからない。たぶん提唱者の紅茶泡海苔さんが、いずれどこかの媒体で発表することになるのだと思う。

 本稿はこの2つの会話をきっかけに私が感じたこと、考えたことを暫定的にまとめた覚え書きのようなものだ。そのため、個々の概念の理解や解釈については、感傷マゾ・負けヒロイン各研究会の公式見解と食い違っている可能性も少なからずある。というより、私自身の問題意識に強く引きつけて書いているせいで、おそらく両研究会の趣旨をかなりの程度ゆがめてしまっている。いちおうそれぞれの主宰者には目を通してもらってはいるが、筆者のバイアスが多分に入っていることをあらかじめ承知して読んでほしい。(以下敬称略)

 さて、私が個人的に気になっているのは、「感傷マゾ」や「青春ヘラ」「負けヒロイン」といった比較的新しく見える概念が、いわゆる「ゼロ年代批評」とどのような関係にあるのか、ということだ。紅茶泡海苔は当初、東浩紀や宇野常寛に代表されるゼロ年代批評をモデルとした批評シーンの再興を企図しており、その過程でこれらの概念やそれを扱う各研究会を「発見」したかのように見える。けれども、それらは必ずしもゼロ年代批評とは直接関係がない──というか、むしろ全然違うところが出てきたものだ。にもかかわらず、私は(そしてたぶん、紅茶泡海苔も)この2つのグループのあいだに、ある種の連続性があるのではないかと考えている。

※本稿では諸般の事情により「感傷マゾ」には立ち入らない。気になる方は各自で検索してほしい。

 「青春ヘラ」とは何か。この言葉を作り出した大阪大学感傷マゾ研究会の記事*1をもとに私なりにまとめると、それはノベルゲームやアニメ、漫画、ライトノベルなどの若者向けフィクションで描かれるような輝かしい「青春」を送ることができなかった(と感じている)高校生や大学生が、その苦い記憶をいつまでも引きずり、自己愛の裏返しとしての自己嫌悪や自己卑下にとらわれ、否定的なアイデンティティを獲得してしまうことを指す。「ヘラ」というのは「メンヘラ」、つまり心の健康に問題を抱える人を意味するネットジャーゴンに由来する。同研究会の記事では「青春敗北者」という印象的な言葉も用いられている。

 他方で「負けヒロイン」とは、夜須田舞流のリサーチ*2によると2010年代後半頃に広まった言葉で、やはりライトノベルなどの若者向けフィクションにおいて、最終的に男性主人公の恋人としては選ばれなかったヒロインを指す。こちらは青春ヘラとは違い、若者の自意識というよりは物語のキャラクター類型に関するものだが、そこにもやはり、ある種の「敗北」の感覚が深く影を落としているように見える。早稲田大学負けヒロイン研究会の主宰者は、とあるフィクション作品で自分の好きなヒロインが「負け」たことをきっかけに、これまで自分が好きだったヒロインがことごとく「負け」ていることに気づき、やむにやまれず会を立ち上げたという。

 一見すると、これらは2000年代に一部の若者のあいだで流行した「批評」とはかなり異なるように思える。仮にこの批評という言葉を、個々人の私的な「感想」から区別される、ある程度の客観性を志向した価値評価(evaluation)の営みとして理解するなら*3、そこには当然、自分とは異なる価値観を持った他者への「批判」や「説得」のプロセスが含まれるだろう。プロ・アマ問わず、しばしば批評家同士が派手に喧嘩したり対立したりするのは、この批評という営み自体の闘技的ないしスポーツ的な性格に由来している。批評家志望の若者を募って選抜する「東浩紀のゼロアカ道場」(2008~09)などは、当事者ではないため推測にすぎないが、まさにその最たる例だったように思う。

 けれども、オンラインでお話をうかがうかぎり、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会の主宰者にはそのような動機があまり感じられない。それどころか、価値観の異なる他者との摩擦や衝突をできるだけ回避し、最初から同じ趣味嗜好を持つ人々とのみつながろうとする意識がきわめて強い。たぶん彼らは「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった概念を、他者の説得や自己の正当化のために使おうとはあまり考えていない。もちろん、こちらから説明を請えば快く教えてくれるが、その語り口もそれぞれの概念の内実と同様、どこか自虐的・自嘲的で、自分たちの価値評価(カントの言葉でいえば「趣味判断」)をまったき他者と共有しうる、普遍化しうるとはそもそも信じていないふしがある。要するに、紅茶泡海苔が「2020年代の批評ライン」と名づけたものは、少なくとも私から見ると、批評という営みからきわめて遠いのだ。

 にもかかわらず、というよりだからこそ、私はそこにゼロ年代批評との逆説的な連続性を感じてしまう。もはやかつてのような「批評」が事実上失効していることを、彼らの防衛的な振る舞いが如実に示しているように思えたからだ。

 ゼロ年代批評のグルとして君臨した東浩紀は、『動物化するポストモダン』(2001)の続編となる『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)のなかで、たんなる男性向けポルノグラフィとみなされていた美少女ゲームを本格的な批評の俎上に載せ、PCゲームのシステムと結びついた物語構造を鮮やかに分析してみせた。『AIR』(2000)をはじめとする一部の美少女ゲームには、少女を「所有」したい(つまりはセックスしたい)というプレイヤーの家父長制的な欲望を想像的に満たすと同時に、その欲望に「反省」を迫り、内向的なオタク男性の「ダメな僕ら」という自己欺瞞を解体する批評的な構造が備わっている、と東は主張した。

 これに噛みついたのが宇野常寛だ。宇野は『ゼロ年代の想像力』(2008)のなかで、東のいう「反省」がたんなるポーズ、彼の言い方では「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎず、結局は家父長制的な欲望が温存・強化されていると厳しく批判した。宇野に言わせれば、それは中年男性が女子高生と援助交際した後に、自分の後ろめたさを解消するために「こんなことをしていちゃいけないよ」と説教するようなものでしかない。彼はそうしたコンテンツ一般を「レイプ・ファンタジー」と呼んで切り捨てている。

 私個人としては、宇野の批判もわからなくもない一方、東の美少女ゲーム論にはいまなお参照されるべき重要な成果があると考えている。けれども、ここであらためて確認しておきたいのは、宇野の苛烈な批判がたんに東ひとりに向けられたものというより、彼の強い影響下にあったゼロ年代(前半)批評のシーンそのもの、いわば「東チルドレン」全体に向けられていたことだ。宇野は東によるセカイ系論や美少女ゲーム論が、それらを愛好する若いオタク男性に「ある種の免罪符として消費されることで無批判に受け入れられている」*4状況に苛立ちを隠さない。つまり、宇野の批判のポイントは、東の美少女ゲーム論の問題点を指摘するにとどまらず、それを「免罪符」として「ダメな僕ら」の自己正当化を図り、ポルノグラフィを「文学」とうそぶく東チルドレンを一掃することにあったわけだ。『ゼロ年代の想像力』のなかで、彼は2000年代前半の状況を次のように総括している。

東の両義的な評価をご都合主義的に解釈することで、ゼロ年代前半のサブ・カルチャー批評の世界は、もっともマッチョでありながら、そのことに無自覚な鈍感な想像力が「文学的」「内省的」であると評された時代を迎えた。だがそんな不毛な時代はもう終わりにしなければならない。結論ありきの自己反省パフォーマンスは、むしろ文学の可能性を剥ぎ取り、より単純化された思考停止に人々を導いていくのだから。*5

 当時の宇野の批判に対して、東が正面から反論したという話は寡聞にして知らない*6(ツイッター上ではやり合っていた気がするが)。むしろ両者はその後接近し、2010年代前半に『AZM48』の権利問題をきっかけに決裂するまで一緒に仕事をしている。ともあれ、若者向けコンテンツを対象とした批評シーンは、2011年の東日本大震災・福島第一原発事故による社会問題への関心の前景化や、同年の『フラクタル』騒動による東の離脱もあって急速にしぼんでいく。2000年代前半が「不毛な時代」だったかはともかく、一部のオタク男性のある種の「自己表現」としてのゼロ年代批評は、宇野の批判に適切に応答することなく退潮してしまった。近年SNS上で戦われている「表現の自由」論争には、後で述べるように、このときの「敗北」の記憶が遠く反響しているように思える。

 私が「青春ヘラ」や「負けヒロイン」を掲げる研究会から感じるのは、私自身とよく似た「ダメな僕ら」、つまりは「主体性の根拠を失い、父性や男性性を無自覚に担うことができず、文学的な内面を抱えた男性」*7としての自意識だ。そういう意味では「2020年代の批評ライン」もまた、ゼロ年代批評とほとんど同じような心性に支えられている気がするが、それでも2000年代とは決定的に異なる点がひとつある。そもそも彼らが「批評」を志向していないように見えることだ。そして私の考えでは、まさにこの点こそが、ゼロ年代批評との断絶にして継承なのである。

 紅茶泡海苔が企図していたように、仮にゼロ年代批評をモデルとする批評シーンを再興しようとするなら、東チルドレンが2000年代にやり残した課題、すなわち宇野による「ダメな僕ら」批判に正面から応答しなければならないだろう。けれども、私の見るかぎり、この課題をクリアするのは当時よりも現在のほうがはるかに難しい。いわゆる「リベラル」な価値観が一般化し、社会的・制度的な不利益を被っている女性やマイノリティの権利保護の要求が日増しに高まり、「価値観のアップデート」に乗り遅れた男性がフェミニストから糾弾される2020年代の日本社会で、コロナ禍があったとはいえアニメや漫画のような青春を送れなかったことへの鬱屈とか、主人公に選ばれなかったヒロインへの哀惜とかいったものを、真剣な議論に値するテーマとして正当化しうるとは思えないからだ。そんなものは所詮、フィクションに耽溺する若い高学歴オタク男性のナルシシズムでしかなく、自身の恵まれた境遇にあぐらをかいて現実の諸問題から目をそらしているにすぎない──こう言われたらたぶん、反論するのは難しいだろう。

 急いで付け加えておくと、だからといって私は、感傷マゾ研究会や負けヒロイン研究会を批判したいわけではまったくない。気候変動とかSDGsとかLGBTQ+とかの話をすべきだと言いたいわけでもない。そうではなく、私がここで強調したいのは、彼らがそうした批判の妥当性をあらかじめ深く認識しているということだ。

 「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も、それらに執着してしまう「ダメな僕ら」のごく個人的な問題にすぎず、ポルノグラフィックな美少女ゲームと同様、もはや社会的に正当化するのが困難であることを、両研究会はおそらく完全に理解している。だからこそ、彼らは「批評」という論争的なフォーマットを採用せず、あくまで「自分語り」的な文体にこだわることで*8、2000年代に比べてはるかに道徳化・倫理化した社会から身を守ろうとしているのではないか。つまり、宇野による「安全に痛い自己反省パフォーマンス」批判に反論するどころか、逆にそうした批判を「正論」として受容し内面化した結果として、「2020年代の批評ライン」が形成されているように思えるのだ。私のいう「ゼロ年代批評との断絶にして継承」とは、おおよそこのような意味である。

 もちろん、これは感傷マゾ・負けヒロイン両研究会で実際に『ゼロ年代の想像力』が読まれているということではない。彼らより一回り以上年長の中年男性で、いわゆる「ゼロ年代の亡霊」にすぎない私が、無理やり自分の問題意識と結びつけているにすぎない(その暴力性もいちおう認識してはいる)。けれども、東に対する宇野の批判をあらためて議論の出発点に置いてみると、「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった個別の概念のみならず、現在の(とりわけSNS上での)批評=批判をめぐる状況がいくぶんクリアに見えてくるような気がするのだ。

 私の印象では、いま最も強力な批評的=批判的言説はフェミニズムである。これはフェミニズム批評が他の方法論よりも優れているということではなく、個人と社会とをダイレクトに接続する回路としてきわめて効果的に機能しているということだ。「個人的なことは政治的なこと」という1960年代の有名なスローガンのとおり、フェミニズムは女性ひとりひとりが抱えている生きづらさを、そのまま社会全体の問題へと引き上げることができる。「あなたが苦しいのはあなたのせいじゃない、女性差別的な日本社会のせいだ。一緒に社会を変えていこう」というわけだ。こうした傾向は近年、SNSの活用によって劇的に加速し、ハラスメントなどの問題を起こした男性を集団で追い込んで「キャンセル」したり、女性に対する「性的消費」を促進すると判断した図像を撤去させたりする「ハッシュタグ・ポリティクス」として結実する。

 その一方で、私の見るかぎり、男性には女性にとってのフェミニズムのような、個人と社会とをつなぐ回路が「仕事」以外に存在しないか、存在したとしてもほとんど機能していない。そこからドロップアウトした一部の男性がどれほど自分の生きづらさに悩んでいても、それはいわば「自己責任」であって、社会的に解決されるべき問題とはみなされない。男性にとってはあくまで「個人的なことは個人的なこと」*9なのだ。たしかにフェミニストからすれば、依然として男性優位の日本社会で、男というだけで「下駄を履かされている」にもかかわらず、なお生きづらさを訴えるような男性にかまっている余裕も理由もないだろう。彼ら/彼女らに言わせれば、それは男性自身が生み出したマッチョな価値観、いわゆる「有害な男らしさ」にとらわれているせいであり、そこから「降りる」ことで自己解決を図るしかない、というわけだ。

 だが「男性性から降りる」ための具体的な手続きが明らかでない以上、少なくとも「価値観のアップデート」が完了する(?)までは、現実では受け入れられない願望をフィクションを通じて想像的に満たすことが必要になってくる。自己と社会とをつなぐ回路を見失った、あるいは見失いがちな男性にとって、いまも昔もフィクションが心身ともに大きな慰めになっていることは明らかだ。

 そもそも東の美少女ゲーム論自体が、すでに見たとおり、フェミニズム的な「家父長制」批判を強く意識しつつ、それでもある種の「文学」として一部の美少女ゲームを擁護してみせる、きわめてアクロバティックな試みだった。ゼロ年代批評の盛り上がりの背後に、東の議論を「免罪符」として受容した若いオタク男性のセクシュアリティの問題があったことは無視すべきではない。そして彼らに対する宇野の批判は、東の美少女ゲーム論を流用して築かれたささやかな自意識の拠点を断固粉砕しようとする、フェミニズム的な批判の徹底として現れた。つまり、ゼロ年代批評のひとつのハイライトは、ともにフェミニズムを内面化した2人の男性批評家によって演じられたのだ。

 このように考えると、宇野による「安全に痛い自己反省パフォーマンス」「レイプ・ファンタジー」といった痛烈な批判が、リベラルとフェミニストに席巻された現在の「政治的に正しい」言論市場を正確に予言したものであることがわかる。そこに「ダメな僕ら」の居場所はない。家父長制的な欲望を嫌悪しながらも手放せない、屈折したオタク男性の自意識を受け止める場所はない。それはもはや決して正当化されえず、フィクションを通じてこっそりと、想像的に満たされるべきものでしかない。

 かくしてオタク男性は批評=批判のアリーナで劣勢に立たされ、日本国憲法に記された「表現の自由」という最後の砦に立てこもる。SNS上で一部の男性アカウントが「表現の自由戦士」と揶揄されるほどフィクションへの表現規制に激しく抵抗するのは、言うまでもないことだが、彼らが憲法の理念をことさらに重んじているからではない。そうではなく、自らの欲望の受け皿がもはやフィクションのなかにしか存在しえないことを知っているからだ。それはある意味で「レイプ・ファンタジー」批判への居直りとも言える。フィクションの美少女を想像的にレイプする(?)権利は憲法で認められている、というわけだ。そう考えると、昨今の「表現の自由」論争は、敗走を重ねたゼロ年代批評の最後の戦場、つまりは本土決戦なのかもしれない。

 かつて東は『動物化するポストモダン』のなかで、当時のオタクたちが人間性と動物性を乖離的に共存させる特殊な主体を形成していると論じた。けれども、私の見るかぎり、2020年代の表現規制反対派が抱える分裂はそれよりはるかに深刻化している。彼ら(というか私)は、自分がまさにそのフィクションに日々慰められているにもかかわらず、というよりだからこそ、それが現実とはまったくの無関係であることを強調しなければならない。生身の人間よりはるかに深い愛着を抱いているにもかかわらず、というよりだからこそ、彼女がたんなるフィクショナル・キャラクターでしかないことを強調しなければならない。そうしなければ、「戦士」たちの休息の場はたやすく失われてしまう(と信じられている)からだ。愛することが同時に愛の否認でもあるようなこの新たな分裂は、ポストモダンな社会構造というより、リベラル+フェミニスト連合軍に対する防衛戦というきわめて政治的な状況布置によって引き起こされている。党派的なアンチ・リベラルやアンチ・フェミニズム、あるいはミソジニーに陥ることなく、この分裂をひとつの倫理として保ち続けるのは難しい。

 すでに述べたとおり、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会はいまのところ、こうした批評=批判のアリーナには上がろうとしていない。セカイ系的な「ダメな僕ら」を自己否定し、サバイブ系の主人公のように戦うそぶりを見せているわけではない。その代わりに、彼らは「表現の自由戦士」とは異なる仕方で、現代の男性性それ自体の困難、もっと言えば「敗北」と向き合っているように見える。もちろん、なかには女性会員や年長/年少の会員もいるのかもしれないし、そもそも公式には「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も若年男性限定のトピックというわけではないのだが、それでも私の目には、彼らが同世代のオタク男性にうっすらと共有されている「敗北感」に訴えることで、ある種のホモソーシャルな「連帯」を呼びかけているように映るのだ。そこでは誰が、何に敗北したかさえもはや重要ではない。それは青春かもしれず、受験かもしれず、就職かもしれず、あるいは人生そのものかもしれない。負けたのはヒロインではなく、自分だったかもしれない。

 感傷マゾ・負けヒロイン両研究会が「批評」というフォーマットを採用しないのは、こうした「連帯」を呼びかけるうえで合理的な選択であるように思える。繰り返しになるが、彼らが目指しているのは価値観の異なる他者、たとえば急進的なリベラルやフェミニスト、あるいは頭の固い先行世代を「説得」することではない。そうではなく、おそらくは似たような敗北感を抱える男性の「共感」を呼び起こし、彼らを迎え入れることで、ある種の互助的なコミュニティを形成することにある。先に触れた「自分語り」的な文体に加え、たとえば複数人でのリレー形式による連載記事*10などには、そうした方向性が端的に表れている。「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といったキャッチーな言葉を重視するのも、それらが一種のタグとして機能し、SNS上でのマッチング精度を高めてくれるからだろう。その意味で両研究会の戦略は、どちらかというとフェミニズムの文脈における「#MeToo」運動に近い。とはいえ、彼らは社会変革を志向していないという点で、ベクトルが大きく異なるのだが。

 仕事以外に社会とつながる回路を事実上持たなかった男性にとって、フィクションを含む「趣味」を媒介にしたゆるやかな相互扶助は、精神衛生上、きわめて重要な意味を持つ。それがいわゆる「メンズリブ」と異なるのは、両研究会が「有害な男らしさ」からの脱却を目指すどころか、むしろ自身の家父長制的な欲望をかなりの程度容認しつつ、半ば自虐的・自嘲的な振る舞いを通じて「安全に痛い自己反省パフォーマンス」を実践していることだろう。

 冒頭で紹介した動画のなかで、「感傷マゾ」の創始者であるかつて敗れていったツンデレ系サブヒロインは、宇野による美少女ゲーム批判に言及した私に対し「でも『安全に痛い自己反省パフォーマンス』だから気持ちいいんじゃないですか」と応答している。一見するとただの居直りにも思えるこの切り返しに、私はたいへん感銘を受けた。自身の趣味嗜好に対するフェミニズム的な批判に向き合ったうえで、いたずらに反論や自己正当化を試みるのではなく、あえて「それが気持ちいい」という美学的なカテゴリーへとずらしてみせること。家父長制的な欲望から自由になれない「ダメな僕ら」を引き受けつつ、「政治的正しさ」の要求をフィクションのただなかで美的に、あるいはマゾヒスティックに反芻し続けること。私の見るかぎり、ここには東の美少女ゲーム論の最も核心的な部分が、いわゆる「批評」とは異なる仕方で引き継がれている。そして、このぎりぎりの肯定/抵抗の身ぶりは、多かれ少なかれ、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会にも共通して見られるような気がするのだ。

 もちろん、そこに何か新しさがあるかと言えば、必ずしもそうではないかもしれない。2000年代以前、それどころか先の戦争での敗北からずっと、男性の屈折した自意識の問題を引きずっているだけなのかもしれない(私には十分展開することができないが、「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった概念を、江藤淳や加藤典洋の問題意識に接続することは決して不可能ではないように見える)。両研究会が志向するホモソーシャルな互助的コミュニティに関しても、すでに宇野の『ゼロ年代の想像力』のなかに、セカイ系・サバイブ系を乗り越える「空気系(日常系)」の可能性としてあらかじめ書き込まれている。「敗北感」を共有する若者たちが集い、まだ何者でもない自分自身への不安に駆られ、互いの傷を舐め合いながら最後のモラトリアムを謳歌する──思えばいつの時代の青年も、そうやって大人になっていったのだろう。

 「自分がいかに負けたか」を切々と語れるだけの教育環境で育った彼らの多くは、各研究会に冠された一流大学を卒業した後、名だたる企業に就職し、あるいは大学院に進み、やがて家庭を持ち、相対的に安定した生活を送れる可能性が高い。目の前の仕事に忙殺されるうちに、いつしか「ダメな僕ら」という自意識は薄れ、かつての「敗北」の記憶も遠ざかり、いやおうなく社会人としての自負と責任感が芽生えていくだろう。「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も、いまとなっては大学時代の気恥ずかしい「黒歴史」のひとつにすぎなかったと、懐かしく思い出す日が来るのかもしれない。

 それでも彼らが、というより私たちが人生のどこかで運悪くつまずき、望まないn度目の「敗北」を喫したとき、せめてその「敗北感」を受け止めてくれるコミュニティが、あるいはフィクションが用意されていてほしい。公共空間でガソリンを撒き散らすことも、SNSでヘイトを書き散らすこともなく、ただ自虐的・自嘲的なネタでともに笑い合い、慰め合えるささやかなアジールが存在してほしい。いまだ制度的救済のおぼつかないこの社会にあって、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会の扉に掲げられているのは、かつて敗れていった者たちへの、そしてこれから敗れていく者たちへの親愛と連帯の挨拶なのだ。

 

*1:

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*2:

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*3:たとえばノエル・キャロル『批評について──芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房、2017年などを参照

*4:宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、早川書房、2011年、237頁

*5:『ゼロ年代の想像力』、241頁

*6:2021年12月5日追記:東による宇野への反論は、たとえば『PLANETS』vol.4(2008)に収録された両者の対談などに見てとることができる。この点については完全に私の不勉強で、同書を貸してくれた倉津拓也さん(@columbus20)に感謝したい

*7:東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生──動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007年、320頁

*8:以下の2つの記事などを参照

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*9:かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインが本稿のラフに寄せてくれたコメント

*10:

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