秒速5センチメートル

(小学生時代の二人の会話に乗せて、満開の桜の風景が切り替わるように映し出される)

「ねぇ、秒速5センチなんだって」

「えっ?なに?」

「ウンコの落ちるスピード。秒速5センチメートル」

「遅くない?」

「ねぇ、なんだかまるで雪みたいじゃない?」

「きいてる?遅すぎない?」

「隆貴くん、来年も一緒にウンコ、見れるといいね」

「きいてる?」

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場面が変わり、中学生となった明里が隆貴への手紙を朗読する形からはじまる。

「遠野隆貴様へ
大変ご無沙汰しております。こちらの夏も暑いけれど東京に比べればずっと過ごしやすいです。でも今にして思えば、私は東京のあの蒸し暑い夏も好きでした。溶けてしまいそうに熱いアスファルトも、陽炎のむこうの高層ビルも、デパートや地下鉄の寒いくらいの冷房も。なかなか見つからないトイレも。私たちが最後に会ったのは、小学校の卒業式でしたから、あれからもう半年です。ねぇ、隆貴くん、あたしのこと、覚えていますか?」

「前略隆貴くんへ。お返事ありがとう。うれしかったです。もうすっかり秋ですね。こちらは紅葉がきれいです。今年最初のセーターをおととい私は出しました。そうそう、覚えていますか?ウンコの落ちるスピード。今日理科の先生に聞いてみました。やはり秒速5センチメートルは遅すぎるみたいです。ウンコがそんなに宙を漂っていたら大変だって叱られちゃった。1キロのウンコが1秒で便器に到達すると考えると、おおよそ秒速6メートルはあるそうです。時速に直すと20キロほど。原付ぐらいですね」

「最近は部活で朝が早いので今この手紙は電車で書いてます。この前、電車でウンコを漏らしました。やはり秒速5センチではなかったです。なんで昔のあたしはあんなに頑なに信じていたんだろう。そこで疑問に思ったのですが、電車は100キロで前方に動いていて、その中で20キロの速度でウンコが落下します。電車の外から観測するとどのような速度になるのか、答えなさい」

「拝啓。寒い日が続きますが、お元気ですか。こちらはもう何度か雪が降りました。私はその度にものすごい重装備で学校に通っています。東京は雪はまだだよね。引っ越してきてからもつい癖で、東京の分の天気予報まで見てしまいます。やはり重装備だとトイレをするのが大変です。でも、漏らしてもばれにくいと考えるとなんだか楽になりました」

「今度は隆貴くんウンコを漏らしたと聞いて驚きました。お互いに昔から慣れているわけですが、それにしても中学になっても……。 今度はちょっと致命的だよね。いざという時に、漏らすという選択をできるひとは……ちょっと……。どうかどうか、隆貴くんが元気でいますように」

「前略。隆貴くんへ。3月4日の約束、とてもうれしいです。会うのはもう一年ぶりですね。なんだか緊張してしまいます。うちの近くに大きな桜の木があって、春にはそこでも多分、花びらが秒速5センチで地上に降っています。そうです、秒速5センチなのは桜の花びらのことでした!ウンコと間違うなんてどうかしていました。そのごどうですか?学校で漏らしてから引きこもっていると聞きましたが…。とにかく会える日を楽しみにしています」

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明里との約束の当日は昼過ぎから雪になった。

僕と明里は精神的にどこかよく似ていたと思う。僕が東京に転校してきた一年後に明里が同じクラスに転校してきた。まだ体が小さく病気がちだった僕らは、グラウンドよりは図書館が好きで、トイレにもよく行っていた。小学生が学校でウンコをすることは重罪だったが、僕たちはごく自然に罪を共有する意識から仲良くなり、そのせいでチームメートから、からかわれることもあったけれど、でもお互いがいれば不思議にそういうことはあまり怖くはなかった。僕たちはいずれ同じ中学校に通い、この先もずっと一緒だと、どうしてだろう、そう思っていた。

「新宿、新宿です。終点です。お降りのお客様は……」

新宿駅に一人で来たのは初めてで、これらか乗る路線も僕には初めてだった。ドキドキしていた。お腹が痛くなってきた。これから僕は明里に会うんだ、そう思うとお腹が暴れだした。

「まもなく武蔵浦和、武蔵浦和に到着いたします。次の武蔵浦和では快速列車待ち合わせのため4分ほど停車いたします。与野本町、大宮までお急ぎの方は……」

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乗り換え駅のターミナル駅は帰宅を始めた人々で混み合っていて誰の靴も雪の水を吸ってぐっしょりと濡れていて、空気は雪の日の都市独特の匂いに満ちて冷たかった。

「お客様にお知らせいたします。宇都宮線、小山、宇都宮方面行き列車は、ただいま雪のため、到着が10分ほど遅れております。お急ぎのところ、お客様に大変ご迷惑をおかけいたします」

その瞬間まで、僕は電車が遅れるなんていう可能性を考えもしなかった。不安が急に大きくなった。

「ただいまこの電車は雪のため10分ほど遅れて運行しております。お急ぎのところ、列車遅れておりますこと、お詫びいたします」

大宮駅を過ぎてしばらくすると、風景からはあっという間に建物が少なくなった。

「次は、久喜、久喜。到着が大変遅れましたこと、お詫び申し上げます。東武伊勢崎線にお乗り換えの方は、5番出口にお回り下さい。後続列車が遅れているため、この列車は当駅にて10分ほど停車します。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ち下さいますよう、お願いいたします」

(乗客がボタンを押してドアを閉める。「すいません」と答える)

「後続列車が遅れているため、この列車は当駅で10分ほど停車します。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたしますが、今しばらく……」

「野木、野木。お客様にお断りとお詫びを申し上げます。後続列車遅延のため、この列車は当駅でしばらくの間停車します。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ち下さいますよう、お願いいたします」

駅と駅との間は信じられないくらい離れていて、電車が一駅ごとに信じられないくらい長い間停車した。窓の外の見たこともないような雪の荒野も、ジワジワと流れていく時間も、痛いような腹痛も、僕をますます心細くさせていった。列車にはトイレがなかった。

約束の時間を過ぎて、今頃明里はきっと不安になり始めていると思う。あの日、あの電話の日、僕よりもずっと大きな不安を抱えているはずの明里に対して、優しい言葉をかけることができなかった自分が、ひどく恥ずかしかった。

明里からの最初の手紙が届いたのは、中一の夏だった。彼女からの文面は全て覚えた。約束の今日まで二週間かけて、僕は明里に渡すための手紙を書いた。明里に伝えなければいけないこと、聞いて欲しいことが、本当に僕にはたくさんあった。

「大変お待たせいたしました。まもなく宇都宮行き、発車いたします。小山、小山。東北新幹線を乗り換えの方は……。東北新幹線下り盛岡方面を乗り換えの方は1番線、上り東京方面を乗り換えの方は5番線へお回り下さい」

「お客様にお知らせいたします。ただいま両毛線は、雪のため、大幅な遅れをもって運転しております。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしております。列車到着まで今しばらくお待ち下さい。次の上り……」

とにかく、明里の待つ駅に向かうしかなかった。トイレは我慢した。

「8番線、足利前橋方面、高崎行き上り電車が参ります。危ないので……」 

「お客様にご案内いたします。ただいま、降雪によるダイヤの乱れのため、少々停車いたします。お急ぎのところ大変恐縮ですが、現在のところ、復旧のめどは立っておりません。繰り返します。ただいま、降雪によるダイヤの乱れのため、少々停車いたします。お急ぎのところ大変恐縮ですが、現在のところ、復旧のめどは立っておりません」

腹痛は限界に近かった。電車はそれから結局、2時間も何も無い荒野で停まり続けた。たった1分がものすごく長く感じられ、時間ははっきりとした悪意を持って、僕の上をゆっくりと流れていった。僕はきつく歯を食いしばり、ただとにかく出さないように耐えているしかなかった。明里……どうか……もう……家に……帰っていてくれればいいのに。

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「3番線、足利前橋方面、高崎行き電車が到着いたします。この電車は雪のため、しばらく停車します」

「明里……」

小さな駅の待合室に置かれたストーブの前で明里がねむりこけている。

「おいしい」

「そう? 普通の焙じ茶だよ」

「焙じ茶? 初めて飲んだ」

「うそ。絶対飲んだことあるよ」

「そうかな」

「そうだよ。それからこれ、私が作ったから味の保障はないんだけど、よかったら食べて」

「ありがとう。お腹すいてたんだ、すごく」(ほんとうはそれ以上にお腹が痛いんだけど、この駅にトイレはなさそうだ)

「どうかな?」

「今まで食べた物の中で、一番おいしい」

「大げさだなぁ」

「本当だよ」

「きっとお腹すいてたからよ」

「そうかな」(ほんとうはそれ以上にお腹が痛いんだけど、この駅にトイレはなさそうだ)

「そうよ。あたしも食べようと。うふ」

「引っ越し、もうすぐだよね」

「ん、来週」(トイレ行きたい)

「鹿児島かぁ」

「遠いんだ。栃木も遠かったけどね」(トイレ)

「帰れなくなっちゃったもんね」

(たった一人の駅員が窓口から顔を出して二人に声をかける)

「そろそろ閉めますよ。もう電車もないですし」

「はい」(トイレもないし)

「こんな雪ですから、お気をつけて」

「はい」(トイレ)

(駅を出て真っ暗な雪の中を歩く二人)

「見える、あの木?」

「手紙の木?」

「桜の木。ねぇ、まるで雪みたいじゃない?」

「そうだね」

その瞬間、永遠とか、心とか、魂とか腹痛とか、そういうものがどこにあるのか分かった気がした。13年間生きてきたことすべてを分かち合えたように僕は思い、それから次の瞬間、たまらなく悲しくなった。

腹痛に耐える僕のその魂をどのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか。それが僕には分からなかったからだ。僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきりと分かった。彼女と離れなければウンコはできない。まさか目の前でするわけにも……。

僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、強大な腹痛が、どうしようもなく横たわっていた。でも、僕をとらえたその不安は、やがて緩やかに溶けていき、あとには、肛門から漏れ出した柔らかな感触だけが残っていた。

あああああああああああああああああああっっっ。

その夜、僕は桜の木の下で、ウンコを漏らした。

「綺麗、キラキラしてる」

「肛門から出て大気に触れた瞬間に温度を失ってウンコが凍っていくのさ」

「ダイヤモンドダスト。全ては凍り付く」

明里は小さく呟いた。キラキラと凍りながら粉末状になり、ゆっくりと落下していくウンコは風に舞い上げられ、静かに、音を立てずにゆっくりと滑空しているようだった。

「きっと秒速5センチメートルだね」

「ああ、それくらいだ」

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(翌朝、もう電車は動いていた。始発に乗り込む隆貴。明里はホームで見送る)

「あの……隆貴くん。隆貴くんは、きっとこの先は大丈夫だと思う!絶対!あと、誰にも言わないから」

「ありがとう。明里も元気で!手紙書くよ!電話も!パンツも洗って返す!」

明里への手紙を渡せるような雰囲気ではなく渡せなかったことを僕は明里に言わなかった。あの脱糞の前と後とでは、世界のなにもかもが変わってしまったような気がしたからだ。自分の尊厳を守れるだけ力が欲しいと、強く思った。それだけを考えながら、僕はいつまでも、窓の外の景色を見続けていた。


「桜花抄」おわり