恋人のつくり方について訊かれることが多い。
結婚していると、そういう面に一家言あると思われるのだろうか。 


研究会や学会などで大学院生のみなさんと話をする機会がある。僕もつい数年前まで大学院生だったので、彼ら彼女らが日々、不安に思っていることはよく分かる。
将来についての不安。
自分の能力についての不安。
そして、結婚できるかどうかの不安。

最近、大学院生のみなさんから「彼氏(彼女)がいないんですけど、どこかにいい出会いってないですかね?」と訊かれることが増えてきたような気がする。どうも僕は、院生の方々に、そういう話題を振りやすい人間と思われやすいらしい。
本音としては大学院にそんなものあるかヴォケというところなのだが、正直にそう言うわけにもいかない。

最近、「婚活」という言葉がありますな。
どうも、結婚しようと思って努力している方々が多いそうな。若い世代が中心だそうだが、バブル世代の生き残りのような40代後半でも婚活に励む人が多いとのこと。 

そんなに経験豊富でもない僕が物申すのもおこがましい気がするが、僕の見るところ、そういう「出会いが少ないんです」という人には、共通点があるような気がする。
出会いが少ないのではなく、ものすごく狭い範囲でしか出会いを探していないのだ。

行動範囲の話ではない。精神的な範囲とでも言おうか。
「恋人がほしいのになかなか出会えない」という人に、「どういう人と付き合いたいの?」と訊くと、ほとんどの人が大同小異のことを条件として挙げる。具体的にはいろいろあるが、要するに「今の自分の生き方は変えたくない。自分の人生をそのまま受け入れてくれる人、あわよくば今の自分の生き方に有利に働く人と付き合いたい」ということだ。 
 
人が人とつきあう際には、それまでの自分のスタンスや考え方をまったく変えず、相手が自分に合わせてくれることを期待するような態度では、長続きしない。
もともと他人なのだから、価値観も考え方も、違っていて当たり前だ。そういう「自分とは異なる要素」を、自分の中に取り込み、それに合わせて自分が変わって行くことを楽しめるような感性がないと、人生の伴侶は得られないと思う。

つまり、「出会いがない」のではない。「出会っているのに、それが見えていない」のだ。
「いつか素敵なチャンスが来ないかなぁ」と思っている人には、チャンスは決して廻ってこない。今、自分が置かれている状況を「これがチャンスなんだ」と気付ける人が、幸せを掴むのだと思う。青い鳥の話は本当なのだ。

恋人ができない人というのは、無意識のうちに、自分の生き方に合致しない人を、ことごとく「候補者」から除外している。まだ自分というものが固まっていない学生に恋人ができやすいのは、そのためだ。大学を卒業し、自分の望む進路を設計していくにつれて、道は細くなる。その同じ道に乗っていない人をことごとく「予選落ち」にしてしまう。

大学院生など、「細い道」の最たるものだ。大学生が片側4車線の大通りとすると、大学院生など平均台程度の道幅に過ぎない。同じ道に乗ってる人、自分がその道から一切外れずに出会える人など、そうはいない。
それは単に環境の問題というより、多分に心理的な問題だと思う。自分と異種の環境、異種の価値観、異種の感性に対する拒否感を少しでも減らせば、いわゆる「出会いのチャンス」なるものは格段に増えると思う。

どうしようもない環境的な要因で頑張らないと合わせられない人は、ちょっと遠すぎる。自分とぴったり合う人はなかなか見つからない。視点を遠すぎず近すぎず、自分の人生を守りに入らなければ、視野が広がる。
出会いのチャンスは、「いかに自分とは異なる要素を自分に取り入れることができるか」という、人としての柔軟性に拠ると思う。それまでの自分にないものを拒絶せず、受け入れることによって自分が変わっていく。そういう過程を楽しめる感性の人は、広い範囲で出会いのチャンスを見出せる人だろう。


それともうひとつ。
「出会いが少ない」という人の共通点として、「人との関係は双方向的なものだ」ということを失念しているような気がする。

相手から異質のものを吸収し自分を変えていけることが重要であるように、自分の中にも、相手に対して寄与できるものがなくてはならない。相手から見て、「この人、自分とはちょっと違うけど、この人と付き合っていくと自分は良い方向に変わっていける」と思わせられるものがなくてはいけない。

彼氏、彼女ができない人に、「どういう人がいいの?」と訊くと、条件をすらすら並べる人が多い。
しかし、「あなたと付き合うと、どういういいことがあると思う?」と訊くと、並べられる人が少ない。

試しに、「自分がデートをプランすると、どういう所に相手を連れて行ってあげたいか?」と考えてみる。ディズニーランドとか映画とか、一般性の高いものはことごとく却下。「この人と付き合わなければ、自分は一生こんなところに来なかっただろうな」と思わせる場所でなければならない。それはすなわち自分の興味と価値観の反映であり、その魅力をどれだけ熱く語れるかどうかが、その人が「もっているもの」の証左となる。

そういう要素のことを、「個性」というのだろう。一般的に「個性」とは、他の人とは違う、オリジナリティー溢れる、エキセントリックなイメージとして捉えられているような気がする。しかし、個性とは何も常識破りの型破りとは限らない。他の人は同意しないかもしれないが、自分なりに生きていくうえで柱となる、ものの考え方や価値観の体系のことを指す。夢中になって取り組んでいる世界がある、そういう生き方が、人の「個性」を作り上げる。

人を惹き付けるには、この「個性」がなによりも必要なのだと思う。それを時間をかけて育んでいる人は、人生の作り方を知っている。自分という人間の育て方を身につけている。そういう人の人生の作り方、ものの考え方は、たとえ自分とは違うものであっても、参考になる。「この人の生き方をもっと知りたい」と思わせること、それが「相手に寄与できるもの」の正体だろう。

彼女ができない、彼氏ができない、とため息をついている人は、まず自分をつくりあげていないのではあるまいか。別にインパクトのある特殊なものである必要はない。自分なりに自分を作り上げ、好奇心を失わず、興味の対象をつねに広げる構えをとっていれば、今まで人の見えていなかった部分が見えるようになる。
出会いというのは、環境で決まる「少ない」「多い」ではなく、自分の中の吸収力を上げることによって得られるのだと思う。



出会えるときには地球の反対側でも出会えるんです