「本来」の日本語を捏造する人

思い込みを補強するために資料を探す人っていますよね。

日本語の問題に限らないと思いますが。

自説に都合のいいもの以外をガン無視する人。

今回は、日本語に関してそのようなものを見たので、ここで取り上げてみたいと思います。


日本語には「目をみはる」という表現があります。

この「みはる」は漢字で書くとどうなるのか。

結論から言うと、「見張る」でも「瞠る」でも、またもちろん平仮名で「みはる」と書いても、間違いということはありません。


ですが最近、次のような記事を見つけました。

瞠ると見張る

この人の思い込みは、次のようなものです。

目を大きく見開くの意味の「みはる」は「瞠る」が本来の表記ではないのだろうか。瞠が常用漢字の表外字であるため、代用表記として「見張る」も許容されるようになったというのが自分の理解である。

「自分の理解である」と言っておきながら、その後の論はすべて、この理解が正しいという前提に立脚しています。

ところが、国語辞書(明鏡第2版、岩波第6版、ネット版大辞林・大辞泉)を見ると、そうなっていない。

「見張る」の項の最初に「目を大きく見開く」の意味が載っていて、「瞠るとも書く」などと書いてある。これでは、「見張る」が本来の表記だと言っているようなものだ。

「だと言っているようなものだ」って、「見張る」が本来の表記じゃないという信念はどこから来ているんでしょうか。

漢和辞典で「瞠」を引くと、「みはる。驚いたりあきれたりして、目を広く見開く」とある。ここから「瞠目」という言葉も生まれた。この記述からも本来の表記は「瞠る」であることが分かる。

ここには二つの誤解があります。

1. 漢字と訓読みの対応を一対一のものと考えている

確かに「瞠」の訓読みは「みはる」ですが、それを逆方向に考えて「みはる」の本来の表記が「瞠る」ということは言えません。

漢字の訓読みというのは、外国語である漢語に対して日本語を対応づけるというものなので、そうきれいに一対一対応するわけがありません。

2. 漢字熟語が日本で生まれたものだと思っている(ように見える)

この人は「瞠目」という言葉が日本で生まれたと思っているんでしょうか。

日本語と中国語の関係について、まったく言及がありません。

「瞠目」は純然たる漢語です。

中国語版 Wikisourceをちょっと調べるだけでも、いくらでも古い資料が見つかります。

現代中国語でも、“瞠目結舌” のような成語でよく使われています。

だいたい「瞠目」のような単語は西洋からの輸入概念ではないので、それが和製漢語でないということは、少し日本語の歴史を知っていたら想像がつくと思うんですけどね(もちろん確認は必要ですが)。

「漢文」というものの存在がなじみがなくなって、日本語と漢文の歴史的な関係についての教養が失われつつあるのではないかと危惧を覚えます。


さて、「瞠」にあてられた和語の「みはる」のほうですが、これは古くから「見張る」と書かれてきたものです。

然るに火を点し太刀を抜き目を見張りて各立ち竦みて更にする事なし

(宇治拾遺物語 巻第十)

だから、どちらが「本来」かというと(それにどれだけ意味があるかはおいといて)、「見張る」のほうが本来でしょう。

後世になって、「みはる」には「監視する」のような意味も加わりますが、日本語としてはひとつのものです。


明治から戦前にかけては「瞠る」の表記も多いのですが、その時期にも「見張る」の表記は並行して使われてきています。

…、吃驚して暫時(しばらく)眼を見張り、…

(五重塔 幸田露伴)


もちろん、「瞠る」と書くなというわけではありません。

それも日本人が使ってきた書き方のひとつで、私的な文書でどちらを使うかというのは好みの問題です。

ただ、そちらのほうが「かっこいい」というのが、いつの間にか「正しい」にすり替わってしまうということになると、日本語の理屈のほうが淘汰されてしまうということになります。


このような、日本語の理屈でも漢文の理屈でも書ける言葉は、ほかにもいくつかあります。

「竹の子」「手の平(手のひら)」に対する「筍」「掌」などがそうです。

漢文はずっと日本語よりも上の存在であったため、後者のほうが「かっこいい」のですが、古くからある前者の書き方は日本語の意識を反映したもので、「かっこ悪い」と思うのはまだしも、「正しくない」というところまで行ってしまうと、それはちょっと日本語に対してあんまりな仕打ちなのではないでしょうか。


日本語について、「本来」という言葉を軽々しく使う人は多くいます。

ただ、日本語の歴史を少しさかのぼればわかるように、昔の日本語というのはそんなに簡単に「本来」という言葉が使えるような、整備された状態ではありませんでした。

それが今の形に次第に収斂してきたという面もあるのです。


日本語について考えるにあたって、そのヒントになるような本を二冊挙げます。


「百年前の日本語」という本は、明治期の日本語表記とその変遷を淡々と描写した好著です。

当時の多様な日本語と、標準化が進んだ今の日本語を、価値判断を交えることなく対照させています。

また、外来物としての「漢字」という存在を考えるとき、日本語話者としては、「日本語のために漢字を使う」という視点が必要なのではないかというのが私の考えです。

「漢字と日本人」は、「百年前の日本語」とは対照的な、中国語学を専門とする著者の軽妙な語り口が面白い本です。

必ずしもすべて同意できるわけではないにしても、漢字との付き合い方を考えるきっかけとなってくれました。

漢字と日本人 (文春新書)
高島 俊男
文藝春秋
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著者の高島俊男先生は、次のように言っています。

日本人が漢字をもちいて日本語を書きあらわしていることは、支那人が漢字をもちいているごとく理想的な状態ではない。しかしこれまでずっとこれでやってきた以上、しかたがないのである。

とは言え、過去の日本人は、聖人を崇拝し聖人の教えをのべた(と称する)支那思想を崇拝し、したがって漢籍を崇拝し漢字を崇拝した。純然たる日本語もみな漢字で書くをよしとした。これはあらためなければならない。

私もこの考えには同意しています。

道具としての漢字は使い続けるにせよ、「本来」の「正しい」日本語を求めて漢字崇拝に走り、その結果として日本語の理屈を踏みにじるようなことは避けてほしいものです。