
- 作者: 齋藤孝梅田望夫
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/05/08
- メディア: 新書
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私は対談本はあまり買わない。なぜなら、対談本だとどうしても著者が訴えたい事項が薄まってしまう気がするからだ。しかも対談本は、対談を本にしているが故に2人(以上)の著者が関わっている。基本的には、著者が思いを込めて執筆し、推敲を重ね、著者自身の主張のみが貫き通されている作品の方が価値があると思っている。しかし、本書は対談であるが故に全く異なるベクトルを持っていると思える著者2人の想いが絡み合い、意外とシナジーが共有されていることを著者たち自身も相互に理解していく過程が「対談ならでは」の展開であり興味深い。
対談本をあまり買わないという考えは基本的には変わらないのだが、対談本というジャンルとして、著者の主張を読むと言うよりも相互理解と新たな発見・認識を持つ過程を著者たちと共有する作品として読めばいいのだなということは思った作品だった。
共通のシナジーを持っているとしても、齋藤孝と梅田望夫のスタンスは異なる。180度正反対といえるかもしれない。
- 斉藤(p.73)
音読などでは、学力と関係なく、みんなが伸びます。「音読」や「四股踏み」に僕がこだわるのはそのためです。「四股」というのは踏んだら踏んだだけのことはある。それでみんなが相撲取りになれるほどはうまくならないのだけれど、現在の状態よりはずっと、足をしっかり踏める力がつく。音読の場合、勉強が苦手な子でも、勉強がものすごく出来る子でも、差が比較的出にくいんですね。たとえば、ある難しい算数の問題を出して、自由に考えてごらんと言ったら、95%の子はギブアップしてしまうんだけど、四股を踏んだり、音読したりというのは、誰でも参考にできるタイプの「型」です。そういった型をのこしたいという願いがあります。
- 梅田(p.75)
「打てば響く子」、「目を輝かせている子」を世界レベルにまで、というのが僕の一番の関心事です。これからの後半生で何を中心にやっていくかはまだ決めていないのですが、そのときに、教育という言葉がいいのかわかりませんが、自分が今まで得てきたことを伝えていくことが、自分にとってもとても大事なことだろうと予感しています。打てば響く、目を輝かせている上の層を対象とした私塾をやるというイメージでしょうか。
全ての年齢層、全ての人たちをターゲットとして捉えている斉藤に対して、梅田は自分のターゲットはあくまでも「上」もしくは「上に向かっている」範囲としている。考えてみると、どちらも必要であり、どちらも大切だ。個人的には梅田のスタンスに共鳴しており、必要性を感じているのだが、それはあくまでも斉藤のベースがあってこそといえるかもしれない。
そんな2人の著者がシナジーを一つにしている大切なキーが以下の梅田の発言部分にあるのではいだろうか。
- 梅田(p.129)
人間が人間を理解するとか、ある人が何かをしたいと思ったときに、相手がきちんと受け止めてくれるということのほうが、めったにおこることではない。そういう事実を、ベースにおかなきゃいけないと僕は思います。優等生たちだと、試験は合格するのが当たり前、これだけ勉強したら必ずこうなりますと、そういう教育を受け続けていることもあるのかな。断られることに対しての免疫が弱すぎる。傷つきやすすぎる。つまらないことで傷ついておわり。たとえば、社内で転籍したいと思っても、誰か一人に相談して、「いや、それはやめたほうがいいんじゃない」と言われて「終わり」。それだったら、どこもいけません。
きっと、ベースとなる教育だけのレベルで傷つきやすさへの耐性は身につかない。基本的にそうした部分は、"教育"で身につけるものではないとも思う。しかし、"教育"なくしてそうした耐性を身につけることもまたきっと難しい。成長意欲や対応力を身につけるためには何かの"きっかけ"が必要であり、その"きっかけ"と巡り会うためには、教育こそが必要だ。
著者たちの想いは、だからこそ私塾にある。状況を打破できない現在の教育を突破する鍵は、やはり教育の中にある。きっと著者たちはこの本で意見を交わしただけでは満足しないはずだ。具体的に、どういう一歩を次に踏み出すのか、注目していきたいと思う。