『女こども』という言葉の裏に垣間見える『女性特権』

「人間」とは「責任を引き受ける主体」である


"「人間」というのが「責任を引き受ける主体になれる事」であり、「責任を引き受ける事」が「リスクを引き受ける事」である"

「女こども」という俗語は、これをまさしく端的に言い表した言葉だ。女性や子どもは男性から護られる対象であり責任を引き受ける主体ではない、すなわち「人間」ではないという差別。これに抗ってきたのが初期フェミニズムだったわけだけれど、ずっと「女こども」でいたいという女性もまた、この世の中には数多く存在する。


「女こども」が搾取され差別されるだけの損な役回りなのかと言えば、そんなことはない。男性への従属を強いられる代償として「女だから」「子供だから」ありとあらゆる責任を免除され許され護られる。

まことしやかに囁かれる司法における「女性割り」の存在などその最たるものだろう。これは要するに少年法が大人の刑法と「別枠」になっているのと同じ話だ。精神疾患の患者が犯罪を起こした際に罪を免責されるのと同じ話だ*1。子供は、精神病患者は、そして女性は。主体性をもった一人前の存在とみなされておらず、「人間」未満の未熟な存在、責任能力のない未熟な存在として扱われる慈悲的差別とパターナリズムがこの背景にある。要するに女性たちは「舐められている」のである。

そこにあるのはまさしく差別だが、視点を変えれば「特権」でもある。同じ犯罪を冒しても甘く見られ許されるなど、刑を受ける個人にとって、被害者にとって、同等の立場にある者にとって、「特権」でなくてなんなのか。子供/精神病患者/女性。彼彼女らは社会から男性と同格と思われておらず「舐められている」からこそ「許してもらえている」のである!「罪を許され護られるべき」特権的存在であることと「一人前として扱われない」被差別的存在であることは、表裏一体なのだ。


かつて女性はこの「特権」と引き換えに数多くの代償を強いられてきた。家父長制。「女は幼くして親に尽くし、嫁に行って夫に尽くし、母となったら子に尽くせ」。「さす九」。家庭で「旦那様」に逆らうなどあり得なかったし、社会では選挙権さえも与えられていなかった。

この代償に対し、フェミニズムは声を上げた。差別は緩和され、女性もまた主体性をもつ一人前の「人間」として扱われるようになった。しかし女性の「特権」は失われていない。女性だからと甘く見てしまう態度は、男性にも女性にも社会にも厳然として存在する。


近年、男性から「逆差別」の訴えが増えている。フェミニズムの浸透により女性差別は緩和されたが、その「特権」は失われていないからだ。かつての社会は確かに女性差別的であったが、同時に男性に「女こども」を護らせ責任とリスクを引き受けさせることでバランスを保っていた社会だった。

真に「人間」を目指していたのであれば、フェミニズムは女性たちを差別から解放するだけでなく、そこから得ていた「特権」を手放させることも同時に進めなければならなかった。男性と同等の責任とリスクを女性に背負わせることを、並行して行わなくてはならなかった*2。近年の「男性差別」の訴えは、その崩れたパワーバランスを是正しようとする動きであると、読み取ることができる。


男性の中にだって、本音ではずっと「女こども」でいたい者もいる。けれども男性にはそれが許されない社会的圧力が女性よりも強くかかっている。「女こども」でいたい男性からしてみれば、「女性はずるい!差別されているのは、ジェンダー規範の抑圧に晒されているのはむしろ俺たちだ!」という話になる。


「女こども」として生きたい者は男性にもいる*3。「人間」でありたい者は女性にもいる*4。男女関係なくそのどちらもが自分の意志で、後ろめたさもなく、屈託も抑圧も受けることなく生きることが可能な社会こそが、真にジェンダーの抑圧から解放された男女平等で主体的な社会なのだと私は思う。男女関係なく。

*1:「女性割り」はこれが明文化されておらず世間の空気で決まっている。そこがなおさら性質が悪い。

*2:もし男性に背負わされる責任とリスクがフェミニストから見えていなかったのだとすれば、「隣の芝は青かったですね」としかいいようがない。もし知りつつ見て見ぬふりをしていたのであれば、それは欺瞞であり悪であると私は糾弾する。

*3:たくさんいる。すごくたくさんいる。

*4:こちらもたくさんいる。すごくたくさんいる。