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筆不精者の雑彙

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『日本会議の研究』を読んで、ミソジニーとオタクについて考える

 最近はようやく心身の沈滞から脱しつつあるのか、少しは本を読めるようになってきました。そこでもっぱら、積読の本を崩していたのですが、その中で珍しく、最近出た話題の本を読んでみました。それが菅野完『日本会議の研究』(扶桑社文庫)です。
 日本会議といえば、安倍政権を支える保守系市民団体として、最近メディアでも注目されるようになってきました。以前からも、例えば歴史教科書問題などで、小生の見解からすれば反動きわまりない攻撃をしかけてくる連中として、何となく存在は知っていましたが、その正体はよく分からないものでした。同書はその成り立ちと主要人物の活動について、詳細に調査した書物であり、一気に読んでしまいました。



 前評判どおりたいへん面白い本で、「生長の家」系の右派学生運動関係者が、その運動を継続・組織化して「日本会議」へ至り、そんな狭いインナーサークルが現政権を左右してしまっている、そんな危なっかしい状況がつぶさに述べられています。
 しかし『日本会議の研究』は、日本会議が「いかにして How」活動を行っているかは実に詳細ですが、「いかなる What」主張をしているのか、「なぜ Why」そんな活動しているのかはあまり触れていない印象です。なのでなんで彼らがそんな主張をしているのかがピンと来ないのが残念ですが、それは類書や続篇に譲るということなのでしょうか。
 実際つい最近も、俵義文『日本会議の全貌―知られざる巨大組織の実態』(花伝社)という本が出ているそうで、これも機会があれば手にとってみたいと思っています。日本近現代史の研究と教育に携わる者として、これらの保守系市民活動への対処は、考えておかなければならないことですから。
 このように、あくまでも『日本会議の研究』は、運動の手法や組織を中心に据えた本ですが、そもそも日本会議の運動の本質が空虚であり、運動を続けること自体が自己目的化しているということなのかとも小生は思いました。左翼活動家を「学生運動崩れ」とバカにする言い方がありますが、その点では日本会議こそ右派系学生運動気分のまま、「青年」の看板のままおっさんになった連中といえそうです。何せ同書によれば、日本会議の実務を仕切っているのは「日本青年協議会」という団体だそうですが、およそその中枢は「青年」とは呼べそうもない年齢の人々であることは、同書に詳らかです。
 実際、同書の内容についてあらましを述べたインタビューで菅野氏は、日本会議の「中身は空っぽ」と語っておられます。

 ・「日本会議は中身空っぽ」 異色の著述家・菅野完氏が解明(日刊ゲンダイDIGITAL)

 小生はこのような、菅野氏のネット上での発言を全部チェックしているわけでは全然ないのですが、その中でいくつか目に留まったものを読みますと、そこでは日本会議の活動の動機、その思想の根本について語っておられました。

 安倍政権を支える右翼組織「日本会議」の行動原理(上)/(下)(ダイヤモンドOnline)
 日本会議はこれまでずっと「女子供は黙ってろ」運動をしてきた by 菅野完(togetter)

 端的にいってしまえば、それはミソジニー(女性嫌悪)、つまり「女子供は黙ってろ」ということだというのです。
 日本会議の本質はミソジニー、これは大いに腑に落ちました。『日本会議の研究』は、日本会議の本質が「一群の人々」の策動に過ぎないとし、菅野氏は先のインタビューでも「日本会議の小ささ、弱さが目についたのが正直な感想」と語っています。そんなごく一部の偏った意見が政権を左右することを、同書は問題視しています。
 しかし小生には、そんな日本会議をバックに持ち、日本会議と共通する考え方や価値観をかなりはっきり示している安倍政権が、消極的にせよかなりの支持をされている理由が、はなはだ疑問でありました。経済政策の「成果」ですべてが説明できるとは思えませんし、そもそもそんな経済的な成果が上がっているのかどうか自体が疑問です。すると大変憂鬱なことですが、日本会議に表出されるようなものの捉え方、価値観というものは、現代の日本社会で相当に広く支持されているものなのではないか、そう考えざるを得ないのです。

 そこでミソジニーがキーワードとして浮かび上がってきます。というのも、複雑化・高度化する社会で、安楽を求めた男どもがミソジニーに走り、さまざまな(擬似)科学を総動員してそれを正当化しようと躍起になっていた、という歴史的な先例が存在しているのです。であれば、ミソジニーを軸とした運動が何となく社会に受け入れられ、そこではおよそ学問的には誤った「歴史修正主義」が横行しているというのも、同様の事例であると考えられます。
 その先例とは何か――といえば、当ブログを長年読んでいただいている方でしたらまたかと苦笑されそうですが、それは第一次グローバリゼーションとも呼ばれる、19世紀での西洋でのことでした。19世紀西欧のミソジニーについては、ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』という本が、主として絵画に描かれた女性像を題材として、詳細に論じています。小生はこれまで、ブログやサイトで何度かこの本を紹介してきました。

 ・今週の一冊 第99回 今週の妄想
  ブラム・ダイクストラ(富士川義之・藤巻明・松村伸一・北沢格・鵜飼信光共訳)
『倒錯の偶像 世紀末幻想としての女性悪』パピルス
 
・わたしのリコネクションズ~メイド・非モテ・倒錯の偶像・高山宏など

 その繰り返しで恐縮なのですが、すなわち資本主義社会の圧力に押された男による、ミソジニー的な文化状況が19世紀後半から20世紀始めに展開していたこと、そしてダイクストラの議論では、ミソジニーが実際には不可能なガイニサイド(女性皆殺し)の妄想の代わりに、第一次世界大戦に至ってジェノサイド(民族皆殺し)への道を切り開いた――としています。
 このようなミソジニーによる憎悪の文化が、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として起こっているのであって、その喜劇が現状の我が国ではないかと、小生は思うのです。

 そして小生が指摘せずにはおられないのは、ダイクストラが『倒錯の偶像』であまた紹介した、19世紀のミソジニーを表象した絵画のような文化風潮に相当する存在として、現在の日本で比定されるべきは、まさしく「オタク」文化とされる、「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。
 この点は、先に挙げた小生の旧稿で述べておりますので繰り返しは避けますが、十年余り前の記事では「あと百年経って新たな『倒錯の偶像』が編まれ、女性を描いた絵画に代わって萌えキャラの画像が大量に張り込まれ、フランシス・クックやオットー・ヴァイニンガーに代わって斉藤環や東浩紀が取りあげられるような本ができるかも知れない、と考えると、たまらなくわくわくします」なんて書いていたことが、もはや洒落では済まなくなってきているのが、現在の状況のように思われるのです。

 今世紀に入って、「萌え」的な美少女の表象は猖獗を極め、公的機関や企業のキャンペーンに登場することも大変に多くなっています。
 かつてはオタクはバッシングされ蔑視されていたマイノリティだったとされていましたが(もっともこれについて、斯界に詳しいライターの昼間たかし氏――以前氏の著書『コミックばかり読まないで』を当ブログで紹介しました――は、そんな「迫害」は神話であって実際にはなかったのではないか?と疑問を呈されていますが)、時代は大きく変わって、もはや「オタク」的とされた美少女を中心とした表象は、日本社会の表現の中でマジョリティとなったのではないでしょうか。
 むしろ公的機関との結合や「クールジャパン」とやらの喧伝などによって、本来サブカルチャーであったこれらの表現が、ほとんど「権威」となっているのではないかとすら、小生は思うのです。

 近年のネット上の言説では、「萌え」表象について苦言を呈すると、自称「表現を守る」と称する「オタク」が徒党を組んで袋叩きにするのです。先日も『ハイスクール・フリート』なるアニメを自衛隊が募集ポスターに使ったことを批判した社会学者の女性のツイートがまとめられ、袋叩きになっていました。
 小生はこの一方的な展開を詰まらないと感じ、さてこそミリオタの端くれとして、女性の表象と軍隊の関係の類例を挙げて議論の相対化を試みたのですが、楽しく皆でサンドバッグを叩いている興を削いだらしく、碌な反応はありませんでした。

 自分たちが受容している表現を批判された際、それについて類証や先例を挙げて議論を深めていくのではなく、皆で同じようなコメントばかり並べて、互いに自分の「正しさ」を褒め合う――こんなこんな光景を小生は以前も見ました。それは西尾幹二氏の議論を当ブログで批判し、それに対し西尾氏がご自身のブログで「反論」(それはもっとも重要と小生が考える論点を華麗にスルーされていましたが)を述べられた時でした。もっとも西尾氏の名誉のために付け加えておきますと、西尾氏は「保守論壇」にあっても、日本会議とは袂を分かたれたそうであります。
 ちなみに先のまとめで、小生のコメントに対し「フェミは行政にばかり文句をつける」という反論(これは反論としておかしいです。女性差別的な表現への異議申し立ては公的機関に限らず、企業に対しても広く行われています)をした人物は、『ぼくたちの女災社会』なる、まことミソジニーを具現化した著作を物していたことには、オタクとミソジニーの縁の深さを感じさせられ、うんざりしました。

 とまあ、「萌え」表現への異議申し立ては、少なくともネット空間では袋叩きになるのが昨今の風潮でして、中国の「愛国無罪」になぞらえれば「萌えもえ無罪」という状況のように思われます。同様の事例については、先に挙げた昼間氏がアニメ『のうりん』ポスター騒動一件で書かれたことも参考になりますが、「オタク」と称する人々は自分たちの愛好する表現に苦情が来ると、自省することも分析して議論することもなく、相手を「フェミニスト」と決め付けて袋叩きにするのです。これもまた、ミソジニーの表れではないでしょうか。
 まとめて言えば、「萌え」好きな「オタク」の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、というのが、幾つかの書物を読んで小生が考えていることなのであります。

 話がだんだん日本会議から離れていきますが、「オタク」の一般化・大衆化は、本来マイノリティであったオタクが自己の趣味嗜好を正統化するために行っていた理論武装を、放擲させるようになっていったと考えられます。本来子供のおもちゃで「下らない」存在だったはずのマンガやアニメ、ゲームにあえて耽溺するのは、それがこんなにも面白いからだ――と主張する必要があり、さてこそそこでテクストを面白く読みこなす技能が求められたのです。オタクは読み巧者であり、だから面白かったのですね。
 然るにこれがマジョリティとなってしまいますと、「オタク」であることは、ただそうあるだけで正統と認められるようになっていきます。そして批判に対し、読み巧者としての技能で対応するのではなく、衆を頼んで袋叩きにすることで正統性を主張するようになるわけです。これは堕落といわずばなりますまい。
 先日ネット上で多少話題になっていた、「同人やめました」というブログ記事で論じられていることも、同じ方向性を示すものといえましょう。読み巧者であることよりも、流行に乗っかり、その場のウケを取ることが重視されるわけです。そんな身内のノリでどこでも押し通すのは、知的怠惰に他ならないでしょう。

 ここで話を日本会議に引き付けておけば、「身内のノリでどこでも押し通す」ことや、また自己の正しさを理論武装と活動実績で示すのではなく、ただそうあるだけで(日本人である、成年男子であるなど)で得ようとする堕落は、日本会議の特徴ともあい通じると指摘できます。

 もっとも、いささか話は余談にわたりますが、「オタク」が本来読み巧者だったのもどこまで当てにできるのかなあ? という面はあります。というのも、小生が最初にネット上で『倒錯の偶像』を紹介した10年以上前のことですが、当時ネットのオタク方面でそこそこ知名だったらしい人がこの本をやはり紹介していたのですが、それがはっきり言って無茶苦茶な内容だったのです。それが以下のです。

 ・書評「倒錯の偶像」 -「電波男」と反復する歴史-(kagaminblogのブログ)

 この方が思想関係の書物を手広く読んでおられたようなのですが、それでいてミソジニーのもたらした惨劇を告発する『倒錯の偶像』を読んでおきながら、どう考えたってミソジニーの延長線上にある本田透『電波男』を礼賛している、これは矛盾でなくてなんでしょう。両者を止揚しようとしているわけでもなさそうですし、ダイクストラの指摘するミソジニーの流れを電波男が食い止める、などというのは全く逆だろうと読んでいて頭が痛くなってきます。
 で、そんなこの記事を真に受けたのが次の記事。

 ・萌えブームの先にあるもの(Operation:Mindcrime)

 このブログを書かれたWATA氏は、自他共に認める「ネット右翼」的なオタクの「喪男」であったかと思いますが、そんな人が『倒錯の偶像』を倒錯して受け取ってしまっているのでした。
 そしてこの伝言ゲームは続きます。

 ・萌えに隠されたシグナル(喪男道)

 「喪男道」の「覚悟」氏といえば、十年ばかり前にネットの一部界隈で流行っていた「非モテ論壇」最右翼の、ネット上のミソジニーの権化のような方として、その筋では名を轟かせておりました。しかしその女性嫌悪は氏自身の心をも蝕んでしまったのか、やがて氏はネット上の活動を休止され、その消息は分からないままです。
 そんなミソジニーの極北のような人が、知らずミソジニー批判の書である『倒錯の偶像』を自己の価値観に沿ったものとして受け入れている、これは何とまあ皮肉というか馬鹿げた光景であることよ、と小生は愕然というか憮然となったのでありました。

 発端の『倒錯の偶像』書評を書かれたkagami氏は、実に広く諸書を読まれているようではありますが、それがオタク(ひいては自己の性的嗜好)の擁護に過剰に動員されると、このような悲喜劇が起こってしまうのであるなあと、痛感させられました。贔屓の引き倒しではいけないと、小生もわが身を省みて思った次第であります。
 よく読んでいることが、理論武装を怠らないオタクの美点だとは、一般論としては思うのですけれど、時として暴走することもあるという例でした。以前の当ブログの記事で、「倒錯の偶像が倒錯してネット上に漂っている」と書いたのはこのことです。当時はあまり露骨に書くのは何となく遠慮したのですが、今となってははっきりさせた方がよいと考えを改めました。
 なお、オタクと「読み」というかコンテンツ受容と、政治的嗜好との関係については、「非実在青少年」問題が喧しかった6年前に、当ブログで既に論じておりました。本記事と併読していただければ幸いです。

 ・それでも、オタク達は「自民党」を選んだ

 政治的な方向性としては、オタクの人権を擁護して表現の自由という大義名分に乗っかってくれそうなのは、どちらかといえばいわゆる左派です。表現既成を道徳的な観点からしそうなのはいわゆる右派です。
 にもかかわらず、表現既成反対を「オタク」として掲げる人の多くは、左派を嫌っています。そこで敢えて、表現を守るために大同団結するか、政治的信条を重視して表現への嗜好を断ち切るのかでもなく、迷走して今次の参院選でも泡沫候補に過大な夢を見たりしてしまっているという、一見奇妙な現象があります。 それを6年前の小生はどう捉えるのか悩んでいたのですが、今回の菅野氏の示唆によって、ミソジニーの観点を導入することでその整合的な理解の可能性が拓かれたと考えています。

 さてさて、話がだいぶ拡散してきましたので、そろそろまとめに入りましょう。
 ここまで、ミソジニーをキーワードで考えれば、日本会議が大きな影響力を政界に持っていることと、「萌え」美少女的な表象が社会に瀰漫していることとは、同じ社会情勢がそれぞれの面で表れたことではないか、と指摘してきました。だからひとこと注意しておくと、日本会議=オタク、ではないですよ。それぞれが同じ社会情勢を、別個の局面で反映しているということです。
 で、となりますと、じゃあ根本の社会情勢って何よ、という話に当然なります。なんですがこれは現在のところ、小生の手には余る問題です。19世紀欧州の抱える、資本主義とグローバリズムに圧迫された社会の不安、という要素は確かに今の日本でもあるでしょうが、それがなぜ今の日本ではミソジニーを通じて、日本会議や「萌え」表象につながったのかは、今後の研究に委ねるよりありません。

 ですので、ここでは参考になるかもしれないことを若干述べて、まとめに代えることとします。
 といっても、これまた以前に、「艦これ」で歴史を云々する徒輩について評したまとめ及びその続きのまとめで述べたことの繰り返しになりますし、また今年の初めに教養について思ったことを当ブログで述べた記事も同じことを語っているつもりです。

 すなわち、同じ淵源に端を発している可能性のある、日本会議的な反動と、「萌え」表象の浸透拡散については、ミソジニーの他に、体系化を軽んじて、目前の自分にとって好ましい衝動の断片をかき集めて、オカルト的に世界を構築する傾向にあるのではないか、そう小生は考えています。その背景には、冷戦後の「大きな物語」の喪失という毎度ながらの話はやはり無視できないですし、教養という一身を超えた普遍的な存在への敬意が失われていることもあるのでしょう。
 なお、日本会議的なウルトラナショナリズムは、普遍的な国家と人民の像を描くよりも、「日本古来の独得の精神」という、分かったような分からんようなものから成り立っていますので、一身を超えたように見えても、普遍的な存在への敬意には当たりません。
 そこで普遍をもたらしてくれるものは、これは小生は真剣に、信仰なのではと考えています。いやいや、あんた日本会議の批判的検証本を賞賛しておいて、信仰が足りないとはどういうことかと思われる方もおられるでしょうが、ここでの信仰とは、一身を超えた普遍的な存在への敬意ということであって、現世利益だの居場所サークル探しだの互助会だのではありません。普遍的な存在への敬意を抱くことで、そこから世界を貫く体系を見出し、もって自身を律することができるのではないかと思うのです。小生とてまだまだ修行中の身ではありますが。

 以上、話が途方もなく各方面に広がり、それでもまだ思ったことの一部しか語れていないのですが、ひとまず終わりにします。そして何より、これだけ考えるきっかけを与えてくれた、『日本会議の研究』の著者の菅野氏に敬意を表する次第です。

※追記:本記事への補足、批判への反論等をまとめました。
 「ミソジニーとオタクに関する補遺(『日本会議の研究』感想おまけ)」
Commented by qqqq at 2016-07-12 08:05 x
対象をどう研究し、どう評論しようがそれは全て御自由ですが、日本会議の対岸にいるであろう極左キリスト教ネットワークについて右派が研究し論評するキャンペーンを始めても、宗教弾圧ガー、などとダブルスタンダードを発動しないで下さいね。シールズメンバー、シールズ奥田氏の父、その父が秋葉原デマバッシング団体の顧問をしている、北朝鮮・韓国の情報工作員が実際に出入りしている教会etc ・・・。
このあたりはいずれ書籍化されるでしょう。あなた方が気楽に宗教叩きパンドラの箱を開けたんです。菅野氏、フェミ山口氏あたりは選挙戦略くらいの気持ちで日本会議叩きをやったのでしょうが、はっきり言って宗教対立がこれから起こりますよ。

自分は日本会議も極左キリスト教ネットワークも、どちらも存在して構わない、たいした存在ではない、と考えているので、宗教対立を煽ったのは許せませんがね。ただまあ、言論の自由があるので誰かが対立煽り始めるのは仕方がない。時間の問題だったのかもしれない。
Commented by ponnkotsupon at 2016-07-12 10:07 x
おっしゃられているような、少なくないオタクが有している醜悪さについては否定しないのですが
・それがオタク文化であるかどうかに限らず、自分が耽溺している趣味嗜好を批判された際、感情的になって反発“しない”人間など、元々ごく少数ではないか。
・これもオタクに限った話ではないですが、ある思想集団が反論として「類証」や「先例」を挙げた所で、それは結論が最初から自己擁護に決定されているという意味で、結局は自家撞着的なものにならざるを得ないのが常ではないか
(無論「その反論すらしないのが悪いのだ!」とは言い得るでしょうが、「コミックスコードによるかつてのアメコミの委縮」とか、「基本的人権としての表現の自由」といった「類証」や「先例」を、我田引水的であれ持ち出してきている「萌えオタ」は少なからずいるわけで……
敵が全員アホウだと決めつけてかかるのは、それこそ内輪向けの「正しさ」の発露では?)
・似たような事の繰り返しになりますが、そもそもオタクが大衆文化であるならば、普及した大衆文化の消費者・製作者が全体として情動に流されやすくなっていくのは、その倫理的是非は別として、むしろ現代社会にごくありふれた現象なのではないか。
・それを殊更オタク特有、現代日本特有の問題として捉えてしまうのは、俗流日本特殊論、あるいは単なる懐古趣味の弊に陥っているのではないか
かなり散漫になりましたが、以上の様な疑問が浮かびました
Commented by 左翼のオタク at 2016-07-12 10:10 x
>「オタク」と称する人々は自分たちの愛好する表現に苦情が来ると、自省することも分析して議論することもなく、相手を「フェミニスト」と決め付けて袋叩きにするのです。

とおっしゃっていますが、これこそ「オタク」に対する一方的な決め付けではないでしょうか? もちろん「オタク」による決め付けは不当なことでしょうが、だからと言ってあなたが「オタク」に対する決め付けを行ってよいということになりますか? 「オタク」もあなた自身も(もちろん私自身も)、限定された情報に基づく十把一絡げの偏見で他人を語っていることに、もう少し自覚的であるべきだと思います。

少なくとも、私自身も私の周囲のオタクも、男女問わず(そういえば、あなたの分析では、女性のオタクはどう位置付けられるのですか?)、あなたの分析とは程遠いところにいると思います。
Commented by suzu at 2016-07-12 11:23 x
「ただあるだけで正統」とされるものへの批判が行われたとき、それに対して知的誠実さを欠く反論が行われるのは普遍的なことでは。
もう雑なオタク語りはやめませんか。
趣味を媒介にしただけの組織されたわけではない集団に、それが特有なものであるかのようにレッテルを貼るのは暴力でしかないと思うのですが。
Commented by ポポイ at 2016-07-12 12:08 x
反表現規制のダメヲタで、左巻きの共産党支持者が通りますよ。

石原慎太郎とか橋下徹とか、或いは自民党に居る表現規制論者達とかは、フェミじゃないざんしょ。
其れらを混同する程のマヌケも、そうは居ないのではと。
Commented by ラパ返し at 2016-07-12 19:56 x
ごく基本的なところを指摘しますと、日本会議の集票マシーンとなっている神道系列がいってみればミソジニ―の根本なのですよ。いうまでもなくオタクも神道大好きです。菅野氏らも神道には触れたくないようですが…
Commented by 意識高い系() at 2016-07-13 09:31 x
「日本会議がミソジニーの表れである」というけれども、もともとの日本の文化は男女の役割を基本的に分離するところから始まっています。たとえば神職、力士、修験道。仏教もそうですし、その他の祭事でもほとんどそうなっています。
もちろんのことですが逆の「台所は女の聖域、男が入るもんじゃない」などという言説も、現代においては通用しなくなっていますけれども。

究極的には、出産を女が独占している現状こそが打破されるべき問題点です。
男のほうから言うならば、DNA検査で親子関係を証明するしかわが子がわが子であるという証明はできないのです。
Commented by 醤油 at 2016-07-15 13:47 x
管野氏とミソジニ―の関係についても考察したほうがいいのでは。
>菅野完 @noiehoie の性暴力
Commented by aaa at 2016-07-17 11:20 x
オタクって括るから駄目なんでしょ
味噌やってるのは主層はツイッターで二次画像延々とRTしてる萌豚じゃないの?
だいたいアニメアイコンじゃん?あれ
Commented by bokukoui at 2016-07-19 13:19
数多くのコメントを戴きありがとうございます。本記事は完成が12日夜と遅れてしまいましたが、それまでに数多くの方に閲覧いただいたようで、コメント欄のほか少なからずネット上でのご意見も戴きました。近日中に補足の記事をアップしたいと考えておりますので、宜しくお願い申し上げます。

以下、個別のコメントに返信申上げます。

>qqqqさま
なぜ突然「極左キリスト教ネットワーク」の話になるのか、いささか見当がつきかねます。小生も、日本のキリスト教関係には韓国の影響が大きいことや、同国とのパイプとして重要な役割を担っていること、中には脱北者支援を行っている教会もあることなどは聞き及んでおりますが、それが本記事といかなる関係があるのでしょうか。

『日本会議の研究』においても、中心人物に「生長の家」の影響があることは指摘されているにせよ、現在の教団とは関係ないことが明記されております。また日本会議の特徴は、特定の宗教団体との密接な関係というより、数多くの宗教団体が曖昧に何となく共存していることにある、と指摘されております。
Commented by bokukoui at 2016-07-19 13:31
>ponnkotsuponさま
ご指摘ありがとうございます。

>自分が耽溺している趣味嗜好を批判された際、感情的になって反発“しない”人間など、元々ごく少数ではないか。
については、それはそうかもしれませんが、感情的反発をそのまま是認してよいことにはなりません。むしろ小生としては、ああこの楽しさが分からないのか、と、(多少の優越感を含んだ)憐みのような感情もまた、よくある事例のように思います。

>結局は自家撞着的なものにならざるを得ないのが常ではないか
それは常とは考えられません。やはりそれは、個別の論証の良し悪しによって決められることであり、我田引水的な破綻を露呈するか、議論を積み重ねることでより説得的になっていくか、そこには明瞭に差異があると考えます。そもそも「思想集団」として一枚岩の思想で固まっている、という想定を崩すことが大事ではないでしょうか。それが内輪向けで固まることを防ぐことにもなります。

>その倫理的是非は別として、むしろ現代社会にごくありふれた現象なのではないか。それを殊更オタク特有、現代日本特有の問題として捉えてしまう…
現代社会にありふれたこと、というのは概ね仰る通りと思いますが、特に目立って起きて時代を画する現象と、マイナーな出来事とはやはり別個と考えます。特に目立つことを分析の対象とすることには意義があるでしょう。

こちらも逐条的ですみませんが、このように考えております。
Commented by bokukoui at 2016-07-19 15:00
>左翼のオタク様
もちろん、小生とて実に様々な「オタク」を見聞していますので、すべての「オタク」が袋叩きに加担しているとは思いません。ネットの「炎上」も、少数の参加者が炎上させている場合が大半と聞きますし(https://www.eltes-orm.com/feature/id1658/)。
ただ、ここで取り上げた事例では、まぎれもなく「相手を「フェミニスト」と決めつけて袋叩きにする」現象が起こっており、類例も多数あります。つまり、「オタク」の一部とはいえどネグリジブルな存在ではない以上、そういった存在を包含している文化的な傾向として、「オタク」を捉えることにも意味はあろうかと思います。「オタク」といちいちカギカッコを付して書いているのは、その辺を考えてのことです。
この点は、近日中に別記事で補足する予定です。

なお、女性の「オタク」についても、そちらで補足する予定ですが、簡単に言えば女性であってもミソジニーへ傾斜する文化の流れに巻き込まれている人は少なくないし、それは珍しいことでもなんでもない、と考えています。

左翼のオタクさんの周囲の方が、ここで小生が論難するような事大主義にとらわれることなく、趣味を楽しんでおられるのでしたら、それはとても素晴らしいことであると存じます。
Commented by bokukoui at 2016-07-19 17:32
>suzuさま
>「ただあるだけで正統」とされるものへの批判が行われたとき、それに対して知的誠実さを欠く反論が行われるのは普遍的なことでは。
というご指摘に関しては、おそらくそのようなことは多いであろうと想像できますが、かといってその知的誠実さが欠けていることをスルーしてよいことにはならないでしょう。
この記事は、近年(ここ十年くらい)の日本における、「日本会議の影響力拡大」を支えた要因としてミソジニーに着目し、同時に起こっていた「『萌え』表象の社会への瀰漫」もまた、その別な表れと見ることが19世紀の先例に徴し可能ではないか、ということですから、「オタク」的とされる表象の「瀰漫」あるいは「浸透・普及」というダイナミズムの背景にミソジニーを見ているのであって、個別の表現の受容者をしてミソジニーのレッテルを張っているのではありません。「オタク」とカギカッコ付きで論じているのは、この間に「オタク」の意味合いとその内実も変化していることを意識しているためですが、ただその辺が「雑」で説明の行き届かないところはあったかと思いますので、追加記事で補足する所存であります。
Commented by bokukoui at 2016-07-19 17:42
>ポポイさま
ところが残念ながら、その辺を混同しているというか、嫌いなものはみんないっしょくた、のような例は以前からあるのです。本記事でも触れましたが、小生が見た例ではこのようなのがありました。ご参照いただければ幸いです。
http://bokukoui.exblog.jp/13687981/
Commented by bokukoui at 2016-07-19 17:48
>ラパ返しさま
ご指摘ありがとうございます。ただ菅野氏は『日本会議の研究』では、神道団体は日本会議に名を連ねているものの、それほど重要視はしていないようです。
Commented by bokukoui at 2016-07-19 17:54
>意識高い系()さま
伝統的な慣習や祭事としての男女の役割分担というのはもちろんあると思いますが、日本会議の人々が多く準拠しているであろうミソジニーの原点は、近代の産物と小生は考えています。フェミニズムの観点を取り入れた歴史研究でも、その多くは、現代想定される男女の役割分担は近代に入って強化再編された、という議論が中心かと思います。

後段のお話については…そのような不信感が根底にあるのであれば、家族制度はそもそも成立しないようにも思われますが…
Commented by bokukoui at 2016-07-19 17:58
>醤油さま
その件に就いては、執筆予定の補足記事で触れるつもりです。基本的には、著者の人格と著作の内容は切り離して論ずるべきとは思いますが、著作の内容次第では省略しがたい場合もあるかもしれません。
Commented by bokukoui at 2016-07-19 18:03
>aaaさま
「オタク」はもちろん色々いますし、「萌豚」と呼ばれるような人もその中に含まれるかと思いますが、それがミソジニーと直結するかはケースバイケースでしょう。上でも書きましたが、「オタク」御用達だったはずの表現がなぜここまで社会に広まったのか、という観点が本論の要です。

アニメアイコンで決めつけるのは一面的かと思いますが、ただわざわざ何でそんな表象を自分の代わりにするのか、というのは追求してみると面白そうですね。
小生は「艦これ」の「榛名」のアイコンについては偏見を拭えませんが、同様の人は少なくないようで、正直ホッとしてしまいました…
Commented by 芳乃(ニックネーム) at 2016-09-06 16:11 x
右は「人間個人は自分の事しか考えてないというのが社会の意見だ」という所から来てる所が有る用に思っています。自民党の草案にもそのような認識を感じます
左が、「ステータスのない人間が誰かに酷い事を言っている」と言うのは、問題に良い働きをせず、社会の冷たさを訴えてる者へ、そんな社会は存在しないと言っている事になる所があると思います。それは無視すべきでないと思います。

あと自分は、社会から見た場合、理想主義者で、この世でない、アニメの絵のゲーム等の本当の二次元が本当に好きな者ですが、いわゆるネトウヨとは真逆の価値観を感じますし、若者の左側への反発の主原因に左側の二次元キャラクター差別が有るとの認識があります。
Commented by 個人と統計は違うが at 2017-09-29 00:37 x
 オタクが自民党を選ぶわけではなく、権威主義家族(直系家族)が多い地域は政権交代が少ない。また生涯未婚率も多い。後述する絶対核家族ほど女性の地位は高くない。この家族構造が多い地域が民族主義に行けば日本会議のような自民族中心主義に、社会主義に行けば社会民主主義になる。これは権威主義家族が多いドイツも同じ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%89

 またアングロサクソンに多い絶対核家族(相続は遺言によって決められるから、くれるかどうか分からない父の権威が弱い。男女一対によって構成されので女性の地位が高い)ですが、あれは古いから端っこに残っており、人類の総数からしたら少数派。

 この少数派が齎した新自由主義とグローバリズムが冷戦後に猛威を奮ってるので、違う家族構造の地域と経済や社会のあり方を巡って敵対してます。また女性の地位が高い絶対核家族はフェミニズムと相性が良く、米国内で新たな階級の再生産に繋がっています。高収入の男性と高収入の女性が結婚しだし、その政治的資源と経済によって政治を牛耳りだし、政治的正しさで相手の言論を封殺してきた。米国でトランプが選ばれたのは、これが行き過ぎて白人男性の中間層の下部から自殺率が上がったからです。

 中東は女性の地位が低い内婚制共同体家族構造がまだまだ多いので米国の価値観と敵対してます。当然、権威主義家族が多い国はでもそれをやると・・・以下長くなるので、疑問があるなら下記を検索して質問して下さい。

【シャルリとは誰か】E・トッド【家族システムの起源】
Commented by bokukoui at 2017-12-31 23:41
>個人と統計は違うが様
どうも、返信が年の瀬になってすみません。
トッドは読んでみたいと思ってはいるのですが、なかなかそこまで手が届きません。日本近代史としては、アメリカ型の家族像を日本はあこがれてきた、と認められており、それはまず揺るぎないことです。ですが、それが家族の人間関係の在り方というよりは、それを含んだ生活のシステム(インフラ技術など)を包含したものなので、ややこしいことになっているのだろうと考えられます。
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by bokukoui | 2016-07-09 12:18 | 書物 | Comments(21)