ミソジニーとオタクに関する補遺(『日本会議の研究』感想おまけ)
先の記事は、『日本会議の研究』著者の菅野完氏の目にも留まったようで、当ブログとしては大変多くの方にお読みいただきました。それだけに反響も該記事のコメント欄にとどまらず、ツイッターやはてなブックマークにも相当件数の声が見受けられました。まことにありがたいこととは思いますが、いささか前記事が説明不足であったかと思わせられるようなところもあり、本記事を補足として執筆する次第です。
前記事の曖昧なところはまず、「オタク」の定義でありました。文中である程度説明はしてあったつもりなのですが、分かりにくかったことは否めませんで、さてこそ「オタクをミソジニーと決めつけるな!」といった声が一定数見られた所以かと思います。これは時期によって「オタク」の定義が変化しているためであり(だから「オタク」とカギカッコを付けておきました)、その変化こそがもっとも重要と小生は考えております。
その「オタク」の定義といいますと、大雑把には前世紀末ごろから今世紀初頭までは、小生が前記事で「かつて」の「オタク」と書いたような、「下らない」ものに敢えて耽溺する、そのための理論武装や手間暇をかけた読み巧者、といえます。ところがこのころを変曲点として、「オタク」的な表象が日本の社会に広く浸透し、本来のコンテンツ以外でも様々な形で使われるようになってきます。小生の趣味の範囲で言えば、「メイド」喫茶が大きくクローズアップされた時期といえます。『電車男』のブーム(2005年ごろ)もこの時期、ゼロ年代中葉でした。
この時期を経ますと、「オタク」的な趣味嗜好は一部の限られた人のものから、日本社会により広く受容されたと考えられます。そのメルクマールの一つが、「オタク」趣味と直接関係ない商品のパッケージに「萌え」キャラクターをあしらうことですが、こういった現象が目立つようになるのもゼロ年代後半からのことでしょう(例えば西又葵のイラストをあしらった米が売られたのは、2008年からのことらしいです)。
で、これが前記事で小生が述べた「『萌え』好きな『オタク』の一般化・大衆化」という変化になります。これによって、美少女を軸とした「萌え」表現は社会に広く受け入れられ、「オタク」は一般化・大衆化し、単に「萌え」的表象を好んで受容する人々、程度に変化したと考えられます。このように「オタク」趣味が社会に浸透して、「クールジャパン」などと公認される存在になるのと引き換えに、「オタク」は読み巧者であることを放擲してしまった、と小生は考えております。
このようなことを指摘すると、だいたい「老害」だの何だのと指弾される今日この頃ですが、一般化がただちに問題だと言っているわけではありません。裾野が広くなったことに応じて、頂も高くなっていくのであれば、これは文化の発展という結構な状況です。然るに、前記事でも述べましたが、「オタク」の場合はむしろ、マジョリティとなったことによって自らが「権威」であるかのように振舞い、当局に「萌え」表象が取り上げられれば舞い上がり、それに疑問を呈せば袋叩きにする、という有様では、むしろ裾に引っ張られて頂が下がってしまったのではないかとも思いたくなります。「オタキング」こと岡田斗司夫氏のここ十年ばかりの行動など、この筋から見てみると興味深いのではないでしょうか。
以上をまとめますと、「オタク」は今世紀初頭に大きな変化を遂げ、その変化の風潮、すなわち「萌え」表象が社会に広く浸透してゆくという現象こそが、小生が日本会議の反動的風潮が日本社会に広まっていくこととパラレルと捉えていることであります。
つまり、単に「オタク」な人が反動だとかなんだとかではなく(前記事でも「日本会議=オタク、ではない」と述べました)、今世紀の日本社会でミソジニーの滲出する状況があり、それがある面では日本会議の影響力の巨大化を、またある面では「オタク」的表象の瀰漫をもたらしたのではないかと、ダイクストラ『倒錯の偶像』を補助線として考えたというわけです。言い換えれば、「オタク」文化の「萌え」美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもなく、本来マイナーであったそれが、社会に広く受け入れられている状況にミソジニーの反映が見られるのではないか、ということです。
マイナーだったものがメジャーになって、「公的」に認められるようになったって良いじゃないか、とは当然思われるでしょうが、ただそれも裾野が広がって頂が高くなればの話であって、先に述べたように必ずしもそうとはいえない状況であれば、話は違ってきます。サブカルチャーがサブである出自の誇りを忘れてメインカルチャーぶっても、それは結局自滅を招くだけではないかと思われます。
そんな先例としては、明治時代から戦前に庶民文化として大流行したものの、戦後急速に衰退した浪花節が挙げられます。浪花節はメインカルチャーからは低俗と見られていましたが、ラジオというメディアにも乗って大いに流行し、昭和初期の娯楽として映画に並ぶ存在でした。そして戦時色が濃くなるにしたがって、時局の軍国主義のバックアップを受け、浪花節はメインカルチャーに類する存在として認められ、国粋としてもてはやされるようになります。なのですが戦後、浪花節は急速に廃れました。庶民感情を託する娯楽は演歌などに取って代わられてしまいます。
さて、もうひとつ前記事への批判として目だったのが、「女性のオタクを無視している」「やおいを愛好する『腐女子』はどうなのか」といったことでした。例えばこんなのがありました。
オタク文化が男性だけのものという認識が間違ってると思う。発祥の頃から「やおい」今でいう「腐女子」文化も中核の一つだった。 / “『日本会議の研究』を読んで、ミソジニーとオタクについて考える : 筆不精者の雑彙” https://t.co/0T0PfSqXSH
— Baatarism/ちゃんぷるー (@baatarism) 2016年7月11日
ぜんぜん違う。この人は女性のオタクがいることを知らない。
— 近衛秀一 (@konoesyu) 2016年7月12日
[『日本会議の研究』を読んで、ミソジニーとオタクについて考える] https://t.co/F7n0LBG3tp
「ミソジニー(女性嫌悪)がオタクの萌え文化に繋がる」「コミケはミソジニーの巣窟」 この人いわくコミケは美少女(萌え)の同人誌しかないそうです。ソウデスカ。
— 近衛秀一 (@konoesyu) 2016年7月12日
[『日本会議の研究』を読んで、ミソジニーとオタクについて考える] https://t.co/F7n0LBG3tp
コミケの参加者の半数以上が女性なのにオタクはフェミ嫌いのミソジニーと言っている時点で参考になりません。 https://t.co/Svoe6Dem4y
— やん (@skd7) 2016年7月12日
女性とミソジニーについては、『日本会議の研究』著者の菅野完氏が、このように指摘しています。
「そこに多数の女性がいるから、当該事象は女性差別的でない」とは自動的にいえない。
— 菅野完 (@noiehoie) 2016年7月12日
「黒人は人種差別の被害者なんだから、黒人のレイシストはいない」というぐらい無理がある。 https://t.co/yLJuviW5kT
そしてもう一つ重要な論点がありますが、小生の議論ではもっぱら男性を中心とした「萌え」表象に話を限って構わないのです。なぜなら、既に述べましたように、小生が問題視しているのは、日本会議の反動的主張が政界における影響力を増すのと平行して、日本社会で「萌え」表象が浸透していたという状況です。具体的にどう浸透したかといえば、直接のコンテンツとは関係ない商品などに「萌え」表象が取り入れられたり、公的機関による広報や「地域おこし」に「萌え」キャラクターが使われたり、といった展開が特徴として挙げられます。
こうしてみると、浸透しているのはもっぱら「萌え」美少女ばかりであって、「やおい」の美男や「ショタ」美少年はちっとも浸透していない、ということは明らかです。「オタク」全体が公的に受け入れられたということはなく、あくまでも「萌え」美少女だけなのです。美少女のカップリングとして美男が登場する例はあったとしても、美男ばかりが相互の恋愛関係を匂わせて登場する、なんて「地域おこし」キャラクターがあったでしょうか? むしろ「腐女子」はいまなお、自分たちの趣味嗜好が社会に知られることに警戒的で、特に「ナマモノ」の場合その傾向は顕著であるように思われます。
なお、先に小生の前記事に対して女性の「オタク」や「やおい」を引き合いに出していたツイッターのアカウントについて、小生はいちいち見てみましたが、どうもご当人が女性であったり、腐女子(腐男子)であった例は確認できませんでした。都合のいいときだけ引用され、普段は無視されるのであれば、「腐女子」の警戒的な姿勢もまた致し方ありますまい。
というわけで、社会に「オタク」的な表象が広く浸透したとは、実は「萌え」美少女が浸透したのであって、「やおい」が浸透したわけではないのです。ですので、ここで「社会に浸透した」とするのは「萌え」美少女の表象に限定して構わないのです。
だから問題としては、もともと一部の「オタク」に限られた受容されていた「萌え」美少女が、なぜ広く社会に浸透するに至ったのか、ということになります。ミソジニーはここでキーワードとして考えられ、日本社会に元からあったミソジニーが、「萌え」の受容の背景になったのではないか、ということです。単に「オタク」がミソジニーかどうか、ということではないのです。
さて、「萌え」的な表象が社会に浸透したというのは、どんな状況を反映しているのでしょうか。
先日、北原みのり氏が、老舗デパート・高島屋のお中元広告に、「萌え」美少女表象が使われたことを批判され、例によってネットでは批判的な意見が目立ちます。
そこで考えたのですが、「萌え」には高級感はない、ということです。なじみやすさ、親しみやすさのようなものはあっても、仰ぎ見るものではなさそうです。「萌え」を導入することの意味として、親しみやすくするということはあるでしょうから、先にあげたような商品パッケージや地域おこしには導入されるわけです。ですが、万能とはいかないのでしょう。
ここで小生が考えているのは、何でもかんでも「萌え」美少女の表象のテンプレートに落とし込んでしまうことは、以前に「艦これ」について問題点を指摘した際にも述べたことにも通じますし、8年以上も前に当ブログで「『おしおき娘大全集』雑感~「萌え」はソースかケチャップか」と題して「萌え」+処刑本を厳しく批判したりもしましたが、対象を単純化しすぎてかえってその本質を見失うことになってしまうのではないかということです。目立とうとした「萌え」の導入が、かえってどこも似たような表象の乱立にしかなっていないのではないでしょうか。
もっと言ってしまえば、何でも「萌え」を持ち込んで、いわば「萌え」化してしまおうとするのは、複雑で高度なものを「分かったような気」にさせてしまっているのではないか、それで対象を克服したつもりになってしまっているのではないか、小生はそう思います。それはしかし、対象を馴化というか矮小化させて、「支配」したつもりになっているだけではないか、言い換えればいわば対象をバカにし、ネタにすることで、この複雑で高度化する世界に対応しようとしているのではないかと、と感じます。この疑問は先の記事やまとめに書いたことの繰り返しですが、複雑で高度な対象を「萌え」で塗りつぶして分かったつもりになるのは、ダチョウが砂に頭を突っ込むがごとき行為に過ぎないのではないでしょうか。
何でも美少女の表象の「萌え」で塗りつぶすことによって、対象を「支配」したつもりになる、というところには、ミソジニーとの関連性を伺えるように思います。ですがこのような対象へのアプローチは、とうてい読み巧者を養成するとは思えません。もともと両方の分野に通じている人が座興でするにはよくても、入門にはならないのではと小生がかねてから疑問を呈する所以です。ですので「萌え」の浸透と「オタク」の一般化・対象化が進むにつれて、「オタク」は読み巧者としての性格を失っていたのであろうと考えられます。
この結果として、小生が以前「それでも、オタク達は「自民党」を選んだ」の記事で書いたように、コンテンツを受容する趣味者でありながら、テクストを読む力がついていないという、奇妙な「オタク」が跳梁跋扈するようになったのではないか、と考えています。
斯様にテクストを読めないのが「オタク」の現状となってしまったのであれば、小生の前記事へネットから寄せられたコメントに少なからず見当違いなものがあったのも当然でありましょう。そしてテクストを読む力が衰えたと感じざるを得ないのは、前記事がまずは菅野完『日本会議の研究』の感想であるにもかかわらず、同書の内容を踏まえて小生の前記事が誤読であるといった指摘はほぼなく、ただ菅野氏が性犯罪の告発を受けていると、著者の人格を云々するものが見られただけだったことです。
菅野氏の性犯罪問題については、詳細は小生はまったく存じませんが、まず基本として著者の人格と著作の内容は別個であるということです。とはいえ、内容によっては性犯罪者の書いた書物は信用できない、という場合もあり得るかもしれません。そこで、菅野氏とミソジニーとの関係について見てみますと、氏がツイッターで以下のように述べています(前後のツイートとまとめて読まれる場合はこちらをご参照ください)。
まあこんな偉そうなことを言ってるけども、2年前の僕ならこの理屈に気づけなかった。自分がいかにクソか、自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり、自分を変えようと、持ち金全部はたいて、カウンセリングに通い、病院に通い、専門家に助けを求めたから、自分のミソジニーを理解できた
— 菅野完 (@noiehoie) 2016年7月1日
僕がミソジニーを克服できたのか、くだらないマチズモを陶冶できたのか、僕自身ではわからない。そういうものは常に他人が評価すべきものだ。だが「ニッポンのオッサン」とは少しは距離が置けたのではないかとは思う。もしあのまま行ってたら僕は、今頃日本会議のイベントで君が代歌ってるだろう。
— 菅野完 (@noiehoie) 2016年7月1日
話を戻しまして、小生は「オタク」=ミソジニーと断定しているわけではなかったにもかかわらず、先にもあげたように「コミケはミソジニーの巣窟」などと書いてもいないことをあげつらわれるという、テクストを読めていない前記事への批難には、いささか辟易しました。これもまた、読み巧者であった「オタク」の姿は今いずこと思わされるものでした。
豊富なコンテンツを巧みに読みこなすという元来の「オタク」であれば(そういう人がいなくなったわけではないと思うのですが、ネットでの声が大きくないのでしょう)、例えば小生の前記事に対し、「これこれの作品とその受容のされ方には、ミソジニーや事大主義はかくかくしかじかの理由でないと考えられる」といった、具体的なコンテンツの状況から反論が出るというのが筋かと小生は思うのですが、ほとんどそんな反応はありませんでした。参照となる事例を具体的に挙げてくれたのは、本オタク・・・もとい書誌学者の森氏や、ドイツオタク・・・もとい思想研究者の長谷川氏といった方々でした。
そんな中で、こんなブログがありました。
・腐女子とミソジニーについて
「やおい」は女性を排除しているから、「腐女子」もまたミソジニーではないか、これは興味深い指摘です。小生はまったく「やおい」を知りませんが、友人にいわゆる「腐男子」がいて、この点について訊いてみたことがあります。すると彼曰く、なるほど「やおい」にそういった面は否定できないが、単に「女を描きたくない、女が出てくると感情移入しづらい」という発想に寄りかかって書かれた作品はあまり面白くない、やはり優れた作品は「やおい」でないと描けない何かを持っている、というのです。
そこで、小生はここで裏返し?の例を考えてみました。それは「百合」です。すべて女の子のみで描かれた世界を愛好するというのは、ミソジニーの対極なのでしょうか、それとも中にミソジニーが潜んでいるのでしょうか? ここでも答えは作品によって違う、としか言いようがないでしょう。
以前に当ブログでは、「百合アンソロジー『dolce』雑感 附:百合における「革新派」論」という「百合」評論記事を書きましたが、そこでいう「革新(「百合」のテンプレートにこだわらない)かつ進歩(女性同士の関係性でなければ描写不可能)」という性格を持った作品であれば、ミソジニーではない可能性が高そうです。一方、「保守(「百合」のテンプレートにこだわる)かつ復古(「百合」というテンプレートにこだわる)」という作品であれば、男女の役割分担を女性同士にも押し付けずにはいられないところに、ミソジニーを読み取ることができるかもしれません。
もちろんこれは、ごく大ざっぱな見通しの仮説であって、具体的な検討にはもっと多くの手数をかける必要があります。そのような手数をかけることこそ、読み巧者たる「オタク」のなすべきことではなかったのか、と小生は思うのです。
「日本会議」研究本の話がずいぶん遠い「百合」の話まで来てしまいましたが、小生がこんな「百合」の分類を思いついたのは、先の「百合」評論記事に書いたように、日本近代史研究の泰斗である伊藤隆先生の『近衛新体制』を読んだからでした。そして今年になって同書は、『大政翼賛会への道』として復刊されました。めでたい限りです。
ところで、実を申しますと、小生が『日本会議の研究』を読んでいる途中で、もっとも「ぐええ」と声を上げたのは、以下の表を見た時でした。この表は、日本会議と密接な関係を持つ「日本政策研究センター」の機関誌『明日への選択』の、巻頭インタビューをまとめたものです。同センターは、元「生長の家」青年会幹部で、現在は安倍晋三首相のブレーン筆頭と目されている伊藤哲夫が設立し、トップを務めています。
『明日への選択』巻頭インタビューには、「保守論壇」ご愛顧のいつもの面々が並ぶ中で、何と伊藤隆先生がその名を連ねているのです。学閥上?は伊藤先生の孫弟子?になる小生として、「ぐええ」な気分にならざるを得ませんでした。伊藤先生が若かりし時代は、日本でマルクス主義がもっとも隆盛を誇っていた時代でしたから、伊藤先生はずいぶんと教条的な唯物史観には苦しめられたと聞いていますが、だからといってこれは・・・。当ブログの「『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」の記事などで触れたように、「保守論壇」は実証主義も否定してかかる勢いなのですが、いやはや・・・。
とまあ、かなり無理やりですが、話が日本会議に戻ってきたところで、本稿をひとまず締めくくることと致します。まだ思っていることはたくさんありますが、それはまたの機会に。トラックバックしていただいた記事に関しても、追って新記事を起したいと考えております。
名古屋の「武将隊」のパフォーマンスが、「かっこいい」として直接「歴史好き」と関係ない女性たちに大受けして全国からファンを集めたというのはゼロ年台後半のことだったかと。
時代の流れは速いもので、前記事への反発が大きいのは、今や「オタク」の主役は、「『萌え』好きな」男性ではなく、二次元キャラ好きな女性のほうになっているからではないかと思いました。
自治体の二次元キャラを使ったポスターに男性向け性的な匂いを感じるとクレームがついて撤去されるってことありましたね。
少なくともメディアや企業、自治体が商売の客として相手する「オタク」は、ここ数年で女性の割合のほうが今や大きくなったと。
コメントありがとうございます。
確かに、本記事で最初、女性「オタク」向けの美男子の表象が、「まったく浸透していない」というのはちょっと言い過ぎたかなあと反省しております。
しかし全体として見ればやはり、美少女表象の方が数が多いという傾向は現在でも変わっていないと考えます。美少女の表象を消費する女性も少なくないでしょうが、大勢として女性の方が大きくなったとまで言い切れるかは疑問です。
「前記事への反発」で一つ興味深いのは、本文でも触れましたように、「女性の『オタク』の存在」で反論したつもりになっている論者に、ほとんど女性(腐女子)が確認できなかったというところにあります。男性よりは、自己の嗜好を表面に出すことに慎重な傾向があるのかと思います。
そして、女性が「オタク」として美少女表象を消費しているからといって、彼女たちがミソジニーと無縁であるかどうかは、これまた別問題と思います。
コメントどうもです。
お言葉を返すようですが、昨日からローソンでは、「艦これ」コラボで「どん兵衛」が売り切れているそうです。
http://kai-you.net/article/32631
まあこれは些事でして、コラボは「萌え」もあればワンピースとかガンダムとかもあるので、流行りものなら節操はないというところかと。
もとより、「やおい」表象が「まったく浸透していない」というのは言い過ぎで、筆が滑ったと反省しております。その点はすみません。
ですが、小生が主眼としているのは、コラボより宣伝キャラクターに登用される存在であります。そちらの方が「公式的」という重みでは重要と思います。
そして全体的傾向としては、やはり「萌え」の方が優勢であることには変わりがないと考えられます。
窮極的には、それまで狭い趣味的な世界の表現であった「萌え」が、より公的な利用をされるようになったという事態こそが、肝要だと考えております。