香港の友人へ・新年のご挨拶

新年のご挨拶を申し上げます。
ふつう、日本の正月の挨拶は「あけましておめでとうございます」とか「謹賀新年」とか、祝意を表す言葉を交えるものですが、どうも素直に新年を祝う気分になれません。
もっともこれは私一人のことではないようです。
元旦にある方からいただいた年賀状には次のようにありました。

年末の選挙を経てこの国の将来を思うと、とても「おめでとう」とは言えなくなってしまいました。ほんとうに「おめでとう」と言える日が来ることを願って。

私もまったく同感です。
他にも、例えば社会学者の上野千鶴子氏が京都新聞に寄せたコラムは次のように書き出されています。

暗い時代が始まる。脱原発派と護憲派、ジェンダー平等派にとって。教育現場にとってもだ。インフレ、借金、東アジアの緊張、貧困と格差、弱者切り捨て…亡国政権の始まりだ。

私どもも暗い時代をどう生き延びるか、いずれにせよ今年が正念場になるだろうと暗澹たる思いで新年を迎えました。
暗い時代の始まりというのは、別の材料からも言えることです。
例えば、朝日新聞は元日の朝刊に「日の丸を掲げたい街」と題した写真入りの大きな記事を掲載しました。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/national/intro/TKY201212310552.html
記事は、泗水康信と山本亮介という二人の記者の記名記事で、次のように書き出されています。

日の丸。官民を挙げて掲揚に乗り出した市や町がある。かつての繁栄への郷愁、どうにもならない行き詰まり感。旗への素朴な思いが、街を染めていく。

ここで「旗への素朴な思い」という言葉が選ばれているのにご注目ください。
理由や起源は明確ではありませんが、日本のマス・メディアでは「素朴な思い」という言葉に、たいてい肯定的なconnotationを持たせます。
さらにこの記事には大きな活字で次のような見出しが掲げられています。

「人がつながっていたあのころ感じる」
「地元の財産。子らに誇りを持たせたい」
「教育基本法にある目標に従うべきだ」

「人がつながっていたあのころ感じる」というのは、日の丸掲揚率日本一を目標に掲げる石川県中能登町で、「日の丸購入者に千円の商品券を配る制度」の提案者である町議会議員の言葉からとられています。
「地元の財産。子らに誇りを持たせたい」というのは、日の丸発祥地であることを「国旗日の丸のふるさと」として観光資源としている鹿児島県垂水市の市議会議員の言葉からです。
「教育基本法にある目標に従うべきだ」というのは、「国旗を毎日掲げる『常時掲揚』を市内の全小中学校12校に指導した」大分県津久見市の教育長(副市長)の言葉からです。
以上の三つの地域での国旗掲揚運動について、推進派の意見や活動を主として紹介しているのがこの記事です。
もちろん、こうした動きに違和感を覚えている市民の声も記事の中でふれられていますが、それもほんの申し訳程度のもので、しかも、「日の丸を掲げていない家の主婦」が自分の意見を言うときに「周囲に目をやって声を潜めた」と描写されています。
また、「『国家主義・軍国主義の復活につながる』と学校への日の丸持ち込みに反対してきた県教職員組合」が今回「大きな反対運動は起こさなかった」理由として、「地域に運動を展開する力が残っていなかった。このままだと異論を言いにくい世の中になってしまう」と大分県教組書記長が「苦渋の表情を浮かべた」と書かれています。
いずれも、違和感を覚える市民や、異論を持つ教職員組合の意見を報じるというよりは、そうした違和感は周囲の反応を心配しながら小さな声で語られる話題であること、従来反対してきた教職員組合にはもはや反対運動を展開する力の無いことを確認するために書かれたような文章です。
なぜか、この記事全体が、事態に対して中立よりもやや肯定のconnotationで文章化されているからです。
例えば、津久見市の副市長の次のような発言を記者は坦々と紹介します。

教育基本法は『国と郷土を愛する』を目標に掲げている。公教育は法律に従ってなされるべきだ。イデオロギーの問題ではない。

この副市長が依拠する教育基本法とは〇六年に第一次安倍政権によって改正された法律です。その頃、Lさんは日本におられたので記憶されていると思いますが、改正派の動機はイデオロギー的なものでした。そのことをこの記事は全く無視しているのです。
そして、この記事の最後は次のような文で締めくくられています。

散歩で通りかかった60代の男性が1人、日の丸の前で足を止め、ぐっと頭を下げて去っていった。

「日の丸の前で足を止め、ぐっと頭を下げて」旗に敬意を表した男性とは、「旗への素朴な思い」に「ぐっと頭を下げて」記事を書いた記者の分身ではないでしょうか。
これが2013年1月1日の朝日新聞の記事でした。
朝日新聞というメディアは一般には左派的論調だと思われていますが、かねてより私は、朝日新聞が左派的だというのは錯覚だという意見を持っていました。今回、それが証明されたようです。
新聞は社会の木鐸に非ず、社会の反映にすぎないというのが、正しい新聞の読み方だろうと思う次第です。
これは同時に、今のジャーナリズムが、自らの置かれた時代の潮流から一歩距離を置いて、自分自身を批評的に反省する余裕のない状態であることも意味しています。
朝日新聞や彼等の追随者たちが自らの軽薄さを自覚するのはいつになるだろうかと考えると、おそらく、自分たちの子ども世代から批判されるまで気付かないのではないだろうかと思います。
Lさんは帰国に先立って、日本の自由な出版文化の象徴として神田神保町の古書店街を、平和の象徴として現行の日本国憲法第九条を挙げてくださいましたね。
私どもとしても、その二つは大切にしたいと願っていますが、その成否は今夏の参議院選挙の結果に左右されます。
今年の夏の参議院選挙で自民党がまたもや大勝した場合、数年後に憲法改悪となる可能性が非常に高くなります。
杞憂であればよいのですが。

今、私は友人たちと日本の現代思想を再点検する作業をしています。平和で自由だった時代の日本の思想の成果も、今や忘れられかけています。どうか、Lさんが記憶に留めておいてくださいますようお願いいたします。
末筆となりましたが、Lさんのご健康と、ますますのご活躍をお祈りしております。