じゃあ、おうちで学べる

本能を呼び覚ますこのコードに、君は抗えるか

2025年版 私がAIエージェントと協働しながら集中する方法

集中できなくなった

何かがおかしい。

AIエージェントを使い始めてから、自分が壊れていくのを感じていた。以前は4〜5時間ぶっ通しで集中できた。コードを書き始めたら、気づいたら夕方になっていた。あの没入感。あの充実感。それが、完全に消えた。

30分も持たない。いや、10分だろうか。1つの作業に没頭しようとしても、すぐに別の作業に引き戻される。戻ってきたら、さっき何をしていたか忘れている。頭の中が常にざわついている。自分の脳が、自分のものではなくなっていく感覚があった。

最初は自分を責めた。集中力が落ちたのは、体力のせいか。年齢のせいか。怠けているのか。スマホの見すぎか。でも違った。同じように苦しんでいる人が、周りにもいた。

きっと、最初からうまく馴染める人もいるのだろう。複数のエージェントを同時に回しながら、涼しい顔で成果を出せる人。元々、全体を俯瞰しながら動くのが得意な司令官タイプ。私は違った。

複数のエージェントが並行して動いている。1つのエージェントに指示を出して、出力を待っている間に別のエージェントの出力を確認する。確認が終わったら修正指示を出して、また別の作業に移る。案件も複数が同時に走っている。

厄介だったのは、見せかけ上の効率は上がっていたことだ。タスクは消化されている。アウトプットも出ている。だから最初は原因に気づけなかった。でも、何かがおかしい。同じ時間、同じ環境で働いているのに、以前のように深く没入できない。達成感がない。自分は変わっていないはずなのに、なぜ?

数字に現れない損失があった。タスクの消化数は増えた。しかし、1つ1つの仕事に対する理解の深さが落ちていた。コードをAIと共に書いているのに、なぜそう書いたのか説明できない。レビューを通しているのに、本当に良いコードなのか判断できていない。量は出ている。でも、自分の中に何も残らない。学習効率が落ちていた。成長している実感がなかった。

品質の問題もあった。アウトプットは出ている。しかし、それは本当に良いアウトプットなのか。深く考える時間がないまま、次々とタスクを流していく。表面的には回っている。後から振り返ると「なぜこんな設計にしたんだ」と感じることが増えていた。速く走っているつもりが、同じ場所をぐるぐる回っていただけだった。

そして何より、このペースや仕事のやり方が続くのかという不安があった。毎日、頭の中が騒がしい。仕事が終わっても、脳が休まらない。週末になっても回復しきれない。短期的には回っている。でも、1年後、3年後も同じように働けるのか。効率が上がったように見えて、実は遠回りしている道を走っていたり自分を前借りしているだけではないのか。

ポモドーロ・テクニックを再稼働させた。25分の作業と5分の休憩を繰り返す方法だ。効果はあった。でもAIエージェントとの協働が始まってからは、25分の中での集中すら維持できなくなっていたというた25分のタスクというのを見積もれなくなった。

通知を切った。効果なし。まとまった時間を確保した。効果なし。瞑想アプリを入れた。効果なし。何をやっても、うまくいかなかった。

追い詰められていた。このままでは仕事にならない。でも、AIエージェントなしで働くという選択肢はもうなかった。環境を変えるのではなく、自分を変えるしかなかった。


観察するという発見

あるとき、ふと気づいた。作業中に自分の状態を観察していると、不思議と集中が続く。

試しに意識的にやってみた。作業をしながら、自分の認知や感覚の微細な変化を、揺らぐ火を見るように観察し続ける。退屈になりかけている自分、焦り始めている自分、注意が逸れそうになっている自分。それをただ見ている。

すると、集中が途切れにくくなった。途切れても、すぐに戻れるようになった。集中は「維持するもの」ではなく「戻るもの」だと気づいた。

今では複数の案件を並行して回しながら、開発タスクを5本同時に進め、ブログも2〜3本並列で書けるようになった。ポモドーロの25分間、集中が途切れることはほとんどない。

私はこの方法を「微観法」と呼ぶことにした。正しい名前がある時は教えてほしいです。「微」は微細なもの、「観」は観察すること。


以前の集中と何が違うのか

以前の私にとって、最良の集中状態とは湖の底に沈んでいくような感覚だった。

体の感覚はどこか希薄になる。なぜ自分がキーボードを打っているのかわからなくなる。意識と作業の境界が溶けて、ただコードが生まれ、ただ文章が流れていく。水面の光が遠ざかり、静かな深みに降りていく。その状態に入れたとき、驚くほどの量と質の仕事ができた。あの深さを、私は愛していた。

この「深く沈む」集中は、1つの大きなタスクに長時間取り組むときには最適だった。中断がなく、自分のペースで進められるソフトウェア開発や執筆の環境では、これ以上の方法はなかった。

しかしAIエージェントと協働する環境では、この方法が通用しなくなった。深く沈もうとしても、エージェントの出力確認で水面に引き戻される。複数の案件を抱えていれば、1つに没入できない。深く沈むには、水面が静かでなければならない。でも今の水面は常に波立っている。

そこで発想を変えることにした。深く沈むのではなく、水面近くに留まる。没入するのではなく、観察する。集中の「深さ」ではなく、「復帰の速さ」を重視する。

ここで1つ、重要なことに気づいた。集中は、環境次第で形を変える。静かな水面なら深く沈む集中が最適だし、波立つ水面なら水面近くを泳ぐ集中が最適だ。どちらが優れているわけではない。環境に合った集中の持ち方がある。

つまり、集中とは「自分の能力」ではなく「環境との関係」なのだ。同じ人間でも、環境が変われば最適な集中の形は変わる。集中できないのは能力の問題ではない。環境と方法のミスマッチだ。私は長い間、自分の集中力が落ちたと思っていた。でも違った。環境が変わったのに、方法を変えていなかっただけだった。


なぜ観察すると集中できるのか

ここで疑問が生じる。作業に100%集中したほうが効率的なはずではないか。なぜ10〜20%を「自分の観察」に割くと、かえって集中できるのか。

理由はおそらく「注意の逸脱」の仕組みにある。

人間の注意は、放っておくと必ず逸れる。これは避けられない。問題は、逸れること自体ではなく、逸れたことに気づくまでの時間だ。

普通は、気が逸れてから5分、10分経って「あ、逸れてた」と気づく。スマホを開いて、気づいたら15分経っていた。そういう経験は誰にでもある。この5分、10分、15分が積み重なって、1日の生産性を静かに破壊していく。

微観法では、意識の一部を「自分を観察する視点」として常に確保しておく。すると、注意が逸れ始める瞬間を捉えられるようになる。「スマホを見ようかな」と思った瞬間。「積んである本を読みたいな」と思った瞬間。「コーヒーを淹れに行こうかな」と思った瞬間。「このタスク面倒だな」と感じた瞬間。逸れてから3秒で気づき、すぐ戻れる。

5分後に気づくのと、3秒後に気づくのでは、累積の損失がまったく違う。100%集中しようとして5分ごとに逸れるより、90%の集中を安定して維持するほうが、結果的に多くの仕事ができる。

もう1つ理由があると思っている。「退屈の無効化」だ。

脳は刺激が足りないと退屈を感じ、新しい刺激を求める。SNSを見たくなるのはこのためだ。作業が単調になると、脳が「もっと刺激をくれ」と要求してくる。

しかし自分の内面を観察対象にすると、そこには常に微細な変化がある。呼吸の深さ、肩の緊張、思考の流れ、感情の揺らぎ。これは揺らぐ炎のように、予測不能だが安定していて、見続けることができる。外部刺激に頼らなくても、脳が求める新規性は内側から供給できる。


具体的なやり方

方法は単純だ。

ある日、疲れ果てて帰ってきた夜のことだった。だるい。本当にだるい。でも仕事が残っている。そのだるさを抱えたまま、仕方なくキーボードに向かった。

そのとき、ふと気づいた。「だるいな」と感じている自分を、どこかで観察している。だるさはある。でも、だるさを見ている自分もいる。その「見ている自分」は、意外と冷静だった。

不思議なことに、観察を続けていると作業が進んだ。だるさは消えない。でも、だるさに飲み込まれない。その感覚を忘れたくなくて、言語化しておくことにした。それが微観法の始まりだった。

ポイントは、観察の「解像度」を下げることだ。「今、自分は何を考えているか」「なぜそう感じているか」と分析しようとすると、認知資源を食う。作業と同時にはできない。

分析せず、ただ「ある」と気づくだけでいい。「退屈だな」と感じたら、なぜ退屈かは考えない。「退屈がある」とだけ認識する。それだけで十分だ。

例えば、作業を始める前に5秒だけ自分の状態を確認する。呼吸は浅いか、深いか。肩に力が入っているか。頭の中は静かか、騒がしいか。答えを出す必要はない。ただ気づくだけでいい。これで観察モードが起動する。

作業に入ったら、意識の10〜20%を「自分を観察する視点」に割り当てる。残りの80〜90%で作業しながら、バックグラウンドで自分の変化を捉え続ける。「今、少し退屈になってきた」「焦りが出てきた」「集中が浅くなっている」。

この観察は論理的に行う必要はない。分析しなくていい。揺らぐ炎を眺めるように、ただ見ていればいい。

観察を続けていると、注意が逸れ始める瞬間を捉えられるようになる。「スマホを見ようかな」という考えが浮かんだ瞬間に気づく。気づいたら、その考えを追いかけずに作業へ戻る。「このタスク面倒だな」と感じたら、その感覚を認めて、それでも続ける。別のことを考え始めたら、気づいた時点で戻る。

それだけだ。シンプルだが、これが全てだ。


作業の構造

微観法と組み合わせて効果が上がった作業の構造がある。

まず、案件は混ぜない。

案件Aで開発をしていて、案件Bのメールに返信して、また案件Aに戻る。以前はこれを普通にやっていた。普通に効率の悪いマルチタスク。でもこれはAIエージェントと働いていても同じだった。

案件を切り替えるとき、脳は多くのことを読み込み直している。関係者は誰か。この人にはどう接するべきか。過去にどんな経緯があったか。暗黙の制約は何か。自分はこの案件でどういう立ち位置か。これは単なる情報ではなく、人間関係のシミュレーションだ。技術的は話だけではない。だから重い。

案件の「重さ」には差がある。関係者が多い案件は重い。長期で複雑な経緯がある案件は重い。緊張感のある関係を含む案件はより重い。これらを頻繁に切り替えると、作業そのものより切り替えで消耗する。

だから案件単位で時間を区切っている。この2時間は案件A、次の2時間は案件B。案件の中で完結させる。

次に、同一案件内ではモードを切り替える。

開発モードではコーディングや設計、AIエージェントへの指示出しをする。執筆モードではドキュメントや企画書、翻訳に取り組む。準備モードでは開発や執筆を円滑に進めるための下調べ、環境構築、資料整理、Slackの確認などをする。

Slackの通知は基本的に無視している。見るのは準備モードのときだけだ。開発中や執筆中にSlackへ戻っていたら、何も進まない。通知は他人の優先順位だ。自分の優先順位を守れ。

ポモドーロの25分をモード単位で使っている。


同じ種類の作業は並列で回す

同じモード内であれば、複数の作業を並列で回せる。

ブログを書くとき、1本だけを最初から最後まで書くのではなく、2〜3本を並列で進める。1本目の導入を書いて、詰まったら2本目に移る。2本目の本論を書いて、また1本目に戻る。開発でも同様で、5本程度のタスクを並列で回している。

なぜこれができるのか。「書くモード」や「開発モード」を維持したまま、対象だけを切り替えているからだ。モードを起動するコストは高いが、一度起動してしまえば、対象を変えるコストは低い。

しかし並列できる数には限界がある。開発は5本程度いけるが、ブログは2〜3本が限界だ。

この差は「状態の外部化」で説明できる。開発はgit worktree(複数のブランチを同時に扱える開発ツール)やコード自体が「どこまでやったか」「何をしようとしていたか」を保持してくれる。見れば思い出せる。脳が状態を覚えておく必要がない。だから多くを並列にできる。

ブログは違う。「この記事で何を言いたかったか」「どういう構成にするつもりだったか」が頭の中にしかない。外部化されていないから、並列の限界が低い。


二重の飽き防止

ここまで来て、自分が二重の飽き防止システムを走らせていることに気づいた。飽きは敵だ。でも飽きは設計で無効化できる。

マクロレベルでは、同種作業の並列によって、外から新規性を供給している。ブログ1からブログ2へ、またブログ1へ。1つの記事を長時間書き続けると退屈になる。でも複数を回していれば、戻ってきたときに新鮮な目で見られる。

ミクロレベルでは、微観法によって、内から新規性を生成している。自分自身の微細な変化を「見るもの」として扱っている。外部刺激がなくても退屈しない。

この二重構造があるから、飽きによる集中力低下を防ぎながら、並列作業中に「自分がどこにいるか」を見失わずにいられる。

実際、微観法がなければ並列作業は成立しない。複数の作業を回していると、「あれ、今どこにいたっけ」「何をしようとしてたんだっけ」となりやすい。微観法で自分の認知状態を観察し続けているから、位置感覚を保てる。迷子にならないから、遠くまで行ける。


ようやく気づいたこと

ここまで来て、ようやく気づいた。開発という仕事の性質そのものが変わっていたように思える。

戦国無双と信長の野望というゲームがある。どちらも戦国時代を舞台にしているが、まったく別のゲームだ。戦国無双は自分が武将となって敵を斬りまくるアクションゲーム。信長の野望は君主となって複数の武将に指示を出し、国全体を動かすシミュレーションゲーム。自分で戦うか、全体を指揮するかの違いだ。

AIエージェントとの協働は、仕事を戦国無双から信長の野望に変えた。プレイヤーから司令官へ。自分で剣を振るうのではなく、複数の部下に指示を出して全体を動かす。求められる集中の質が、根本から違う。

私は最初、戦国無双の集中法で信長の野望をプレイしようとしていた。一人で深く没入しようとしていた。だからうまくいかなかった。

私にとって微観法は、信長の野望のための集中法だったのだ。自分の状態を観察し続けることで、複数の部下(エージェント)の動きを把握し、全体を俯瞰する。深く沈むのではなく、広く見渡す。集中の形が変わったのではない。仕事の形が変わったのだ。


深い集中が戻ってきた

微観法を続けて数ヶ月、予想していなかった変化があった。諦めたはずのものが、形を変えて戻ってきた。

以前の「湖に沈む」ような深い集中が、少しずつ戻ってきている。

最初は水面近くを泳ぐだけだった。浅いけれど安定した集中。それはそれで十分に機能していた。でも続けているうちに、観察しながらでも深く入れる瞬間が出てきた。

観察が自動化されてきたのだろう。最初は意識的に10〜20%を割り当てていた。それが習慣になり、無意識でも観察が走るようになった。すると、残りの意識をより深く作業へ向けられるようになった。意識して始めたことが、やがて無意識になる。それが習得だ。

今は、水面近くで泳ぎながら、ときどき深く潜れる。潜っている間も、どこかで自分を観察している感覚がある。以前の「なぜキーボードを打っているかわからなくなる」状態とは少し違う。意識はあるのに、深い。

完全に以前と同じではない。でも深さと柔軟さの両方を持てるようになりつつある。

そして気づいた。あの「見せかけの効率」が消えていた。タスクは消化されている。でも今は、なぜそう書いたか説明できる。自分の中に残るものがある。量だけでなく、質も戻ってきた。集中の持ち方を変えたことで、仕事との向き合い方そのものが変わっていた。

最近、もう1つ変化が起きている。案件Aの開発をしている待ち時間に、同じ案件の軽い調整作業ができるようになってきた。エージェントが処理している間の数十秒から数分の隙間で、ちょっとした修正や確認を挟める。自分がどこにいるかを常に把握できているから、短い寄り道をしても迷子にならない。進化は、まだ続いている。


これから

これが2025年現在、AIエージェントと協働しながら働いている一人のソフトウェアエンジニアの集中法だ。完璧ではない。でも機能している。

環境が変われば、集中の持ち方も変わる。以前の「深く沈む」集中法は、中断と再開が前提の環境には合わなくなった。代わりに見つけたのが、微観法だった。自分の微細な変化を観察し続けることで、注意の逸脱を早期に検知し、復帰を速くする。深さではなく、復帰の速さで勝負する。

エージェントはこれからも進化する。集中の持ち方も、また変わるだろう。今の方法が最終形ではない。でも、変化に適応する方法は見つけた。

微観法は才能ではなく方法だ。次の作業を始める前に、5秒だけ自分の呼吸を確認してみてほしい。5秒でいい。そこから全てが始まる。

かつて愛した湖の深みに、今は違う形で戻れるようになった。水面近くを泳ぎながら、好きなときに深く潜れる。そして、いつでも水面に戻れる。

参考書籍