勝手に更新される毎日

六本木で働くサラリーマンのブログです。やめてくれ、待ってくれと言っているのに、1日1日が勝手に過ぎていきます。

天気予報の「後出し」ならぬ「直前出し」システムが画期的すぎる

今の科学技術の進歩はすさまじい。

というのはあまりにも使い回された、手垢にまみれきった表現ではある。

しかしなお用いられるのは、それほどまでに、技術の進歩がすごいなあって感じる機会が非常に多い、つまり、あらゆる方面で技術が大きく進歩していることの証拠であろう。

 

少し前に、私にもそういう機会があった。

それは天気予報を見たときのことである。

私が子供だった30年くらい前の天気予報といえば、「兵庫県東部は、今日の前半は晴れだが後半からは雨で、明日は曇り」といった程度の簡単なもので、いまとなって思い返すととても大雑把な情報だった。

そして情報を入手する手段は、テレビか新聞か、もしくは電話の177番しかなかった。

余談だが、177は来年の3月に提供終了の予定らしい。

個人的には、「なつかしい。またひとつ慣れ親しんだものが失われていく」といったノスタルジーなど皆無で、「よくいままで継続していたな。もはや使ってる人なんていないだろ」という、いまだにFAXや印鑑が現役で利用されていることにも感じる呆れのほうが強い。

 

私も今では、天気予報はスマートフォン以外で見ることはほぼなくなった。

ニュースアプリを開けば、自動的に現在地を検知し、「この場所では15分後に雨が降り始めます」と表示が出る。

地図上でピンの位置を100メートルほど動かすと、すぐさま表示がその地点での予報に切り替わり、雨の降り始めの時間が少し変わったりする。

このアプリでは、数十メートル単位、分単位で天気を予報しているのだ。

30年前は「都道府県単位、半日単位」だったことを顧みると、隔世の感がある。

これでは嫌でも「昨今の科学技術の進歩はすさまじい」ってつぶやいてしまうのも無理はない。

 

さらに驚くべきことに、このような素晴らしい技術が、無料で提供されているのだ。

バンバン利用しない手はない。

私はすぐこのアプリのヘビーユーザーとなり、毎日、家や会社で雨が降る時間をチェックする習慣が身についた。

たまにテレビを見ていて天気予報が始まり、予報士が「明日は曇のち雨でしょう」なんて言っているのを見ると、「いつまでそんな古いことをやっているのだ。アプリを見てみろ。恥ずかしくないのか」などと、旧時代の天気予報を発信するメディアとそれを見る人を見下していた。

そして、「だいたいそんな大まかすぎる天気予報を見たところで、あなたは1日の行動プランを立てられるのかね」と、最新鋭の予報を活用して分単位で行動プランを立てている自分は、優れた人間なのだと悦に浸っていた。

 

「情報」と「知識」を分ける分岐点は、行動に選択肢を与えるかどうか、である、と私は考える。

突然偉そうに何を言っているのかこの馬鹿が。

そう感じる読者の方もいらっしゃるかもしれないが、少し待っていただきたい。

いったいどういうことか。

 

例えば、「次に来る電車が30分遅れます」というアナウンスが流れてきたとする。

交通手段が1時間に1本来る電車しかないのド田舎であれば、これは「情報」とは言い難い。

なぜなら、何分遅れようが待つしかないからである。

しかしこれが都心であれば、「30分も遅れるなら山手線はやめて地下鉄を乗り継いだほうが早く目的地に到着できる」といった風に、別の選択肢がある。

これこそが「情報」なのだ、と、私は思考する。

 

天気予報に話を戻そう。

旧来型の天気予報ユーザーなら、朝に予報を見て「今日は曇ときどき雨って言ってるから、一応傘を持っていっておくか」といって、いつ降るか分からない雨のために1日じゅう持ち歩く羽目になる。

これでは、情報として精度が低いと言わざるを得ない。

新時代の天気予報ユーザーは、「いつどこで雨が降るか、分単位・メートル単位で知ることができる私は、『ときどき雨』などといった戯言には惑わされない。今は雨が降っておらず、退社予定の19時にも会社と自宅周辺では雨は降らない。昼から夕方はいつ降っていても社屋内にいる私には無関係」といったように、精度の高い情報を得れば、雨の降る時間と降らない時間の隙間を縫って行動予定を立てて傘を持たずに外出することができるのだ。

 

ある日、新時代の天気予報ユーザーである私は、仕事もだいたい片付いたしそろそろ家に帰ろうかな、というタイミングで、会社に置いてある傘を持って出るべきかどうかを判断するにあたり、新時代の天気予報を活用するチャンスが訪れた。

その日は昼から雨が続いていて、ちょうど雨は止んでいたが、いつまた降りだしてもおかしくない空模様ではあった。

帰宅時に傘が必要かどうかを判断するにあたって要となるのは、「会社がある現在地と家の近辺の2地点で雨が降るか、降るならばそれは何分後か」である。

間の区間は地下鉄に乗って移動するため、雨が降ろうが槍が降ろうが関係ない。

私はさっそくアプリをひらき、2地点の天気を調べた。

現在地点は、「20分後に雨が降り始めます」と表示され、そして家の近辺では、「1時間後に雨が降ります」という。

会社から最寄り駅まで歩いて7分ほど、そして自宅までは35分くらいかかる。

つまり、今すぐ会社を出れば、傘を持たずとも雨に濡れることなく帰宅できる、最新鋭の天気予報はそう弾き出しているのだ。

 

もちろん私は、傘を持たずに会社を飛び出した。

その決心には、最新鋭の天気予報、科学技術に全幅の信頼があった。

 

しかしその信頼は、たった3分で裏切られる。

会社を出て歩き始めるといきなり大雨が降り始め、私は駅まで猛ダッシュで走ったがそれでもずぶ濡れになってしまった。

なんということであろうか。

降雨まで20分の猶予があるとついさっきまで言っていたではないか。

私は私を裏切ったアプリをチェックする。

すると「いま雨が降っていますが、1時間後に止みます」とある。

なんと、私が見ていなかったたった5分のうちにしれっと予報を変えていたのだ。

それはいくらなんでも狡いのではないか。

 

しかし最近は「ゲリラ豪雨」なんてものもある。

さすがに最新技術といえど予測できない、だからこそ「ゲリラ」なのであろう。

どんな凄い人だって失敗はする。

そう私は自分を納得させて、ずぶ濡れのまま地下鉄に乗車する。

 

20分ほど地下鉄で移動して自宅の最寄り駅に到着。

今回は失敗するなよ、その期待と共に地上に出たが、どしゃ降りだった。

一体どうしたというのだ、最新技術搭載のアプリよ。

そう思ってアプリを開くと、「いま雨が降っていますが、1時間後に止みます」と表示された。

あたかも、「あれ?ぼく、雨降るのは30分後なんて言ってましたっけ?見間違いじゃないですか?」とでも言わんばかりに。

こちらがずっと見ていないことをいいことに、しれっと予報を変えていたのだ。

 

しかも、予報を変更するのはギリギリだっていい。

極端な話、雨が降り始める1分前にだって変えることはできるのだ。

そんなもの、予報を外すわけがない。

私はブチギレて、その場でスマートフォンを真っ二つに割ってしまった。

 

「最新技術を活用した天気予報」は、確かに予報の精度を向上させたのかもしれない。

しかし、最も画期的だったのは、「雨が降るギリギリ直前まで予報を変更できるようになったシステム」の方ではないだろうか。

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天気予報に限らず、私たち人類は、科学技術の進歩によって、様々なものを手に入れた。

めちゃめちゃ寒い季節でも凍えずに暮らせるし、公共交通は1分の狂いもなく動いているし、日本のどこにいてもだいたい翌日には何でも届くし、どこにいる相手にもすぐさま連絡することができるし、図書館なぞに行かなくてもだいたいの情報はすぐに手に入る。

どれも今では当たり前のことだが、一昔前では考えられなかったことばかりだ。

 

しかし、たまに発生する事故によって、この状況が一時的に遅延したり停止したりする。

そんな時、我々は非常に苛つく。

携帯電話のパケット通信なんて、その仕組みを詳しく知っている人などほぼいないのに、ちょっとパケづまりが起こっただけで、SNSではみんなブチギレている。

それは技術革新が、いつどこでも通信可能な状態を当たり前のものにしてしまったからだ。

 

当たり前でなかったものが当たり前になると、人は苛々する。

科学技術の進歩を止めよう、引き返そうなんて運動は起こらない、起こっても無視できるほどの影響力だろうから、これからも人はどんどん苛々していくしかない。