新人事制度 大阪での報告①~③
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【いてんぜ通信】の第2号を戴いた。ありがとうございます。 この[いてんぜ]とは旧全逓労組の全逓を平仮名にして後ろから読んだもの。すなわち、かつての[全逓文学会]の伝統を引き継ぐ。 寄稿した文章を転写します。 本通信の前号(創刊号)に、白井聡と斉藤幸平という二人の若い学者が去年出版した『資本論』本(白井『武器としての「資本論」』と斉藤『人新世の「資本論」』)について感想のようなことを述べた(『<包摂>と<物質代謝>と~「資本論」にまつわる二冊を論ず』)。 不満もずいぶん並べたけれども、『資本論』が脚光を浴びているということは私としても嬉しいのである。マルクスなんて足蹴にされて顧みられない時期が、もうずいぶん長く続いて来たのだから。 すると、春の彼岸の頃、内田樹の書いた<『若者よマルクスを読もう2』中国語版序文>というのがあるよ、と友人が教えてくれた。 なんでも『若者よマルクスを読もう』とは、『共産党宣言』から『資本論』までマルクスの代表的な著作を選んで、内田樹と経済学者の石川康弘が解説するものだという。元々は日本の高校生を読者に想定して2010年に刊行されたのが今度、中国でも翻訳出版されることになった。その全四巻のうちの二巻目に内田が書いた序文が彼のサイト[内田樹の研究室]の3月15日更新記事に公開されている。 「ぜひもう一度若者たちにマルクスを手に取って欲しい」という内田の思いに私は共感する。いや若者にだけ言うのではない。私はもう還暦をとっくに過ぎたけれど、白井や斉藤そして内田にも励まされて、これから改めてマルクスを読もうと本気で思っているのだ。 そう前置きした上で、ここでは内田<序文>に対する違和感というか不満をもっぱら述べる。
労働者の場合は?
まず第一の不満は、「日本におけるマルクス受容」と書きながら、事実は日本人インテリゲンチャ(のうちの一定部分)のそれについてしか語っていないじゃないかということだ。 こんな記述がある。 「欧米では、労働者であれ、知識人であれ、マルクスを<知的義務>として読むという人はまず存在しないと思います。労働者がマルクスを手に取るとき、それは何よりもまず自分自身の現実を記述し、説明してくれるものとして、です。そこに自分がなすべき行動の指針を求めて読む。そういうすぐれて実践的な読み方をする。そこに<自分のこと>が書いてあると思う労働者がマルクスを読む。」 欧米では労働者はマルクスをそのように読むというのは、おそらくそうなのであろう。しかし、これと比較するならば、日本の労働者はどう読んだのかが語られなければならないのではないか。ところが、日本の状況についてはすこし後にこう書かれる。 「日本におけるマルクス受容はそこが違います。日本では、マルクスを手に取るに先立って、自分は先駆的にマルクス主義者であるのか、先駆的に反マルクス主義者であるのか、立場を決する必要がありません。それは階級闘争が、日本ではとりあえず<他人ごと>だったからです。」 階級闘争を「とりあえず<他人ごと>」ととらえるのは、戦前、比較的初期のマルクス受容期においては、たとえば東大新人会の学生たちの多くはおそらくそうであったろう。中野重治の自伝的長編『むらぎも』に、東大新人会の新入生歓迎会での情景が出てくる。中野が東大に通っていたのは1924年から27年だから、その頃の或る年のことだ。誰かが「今やわれわれは無産者階級の感情を感情する・・」という演説をぶったのに主人公の片口安吉は「けったくその悪い」思いをするのである。 本心では無産者階級など「他人ごと」でしかない人間が心にもないことを言うから片口(=中野重治)は不快感を持ったのだろう。そのあと立った朝鮮人の新入学生が 「朝鮮プロレタリアートの解放なしには日本プロレタリアートの完全な解放はない。日本プロレタリアートの自己解放なしには朝鮮プロレタリアートの解放はない・・・」 という「単純な演説」をしたことによって彼は「けったくその悪さから心持よく解放されていく思いがした」のだが。 前者の演説(「今やわれわれは無産者階級の・・」)をしたような人たちに限って述べるのならば内田の説明は間違っていないと思う。でも、彼の視野に労働者は入っていない。日本だって、労働者にとっては階級闘争は「他人ごと」ではなかったろうし、だから彼らは行動の指針を求めてマルクスを読んだはずだ。
<転向>をめぐって
内田<序文>には、こんなことも書かれている。 「1925年から45年までの間施行された治安維持法下で、多くのマルクス主義者が逮捕され、獄中で<転向>をしました。<転向>というのは拷問の苦痛に耐えかねて政治的信念を棄てるというパセティックな決断のことではありません。そうではなくて、マルクス主義の理論的な正否はさておき、この政治理論は日本社会にはうまく適用できないと認める静観的で知的な態度のことです。<転向>者に求められたのは、マルクス主義は所詮<他人ごと>であるとカミングアウトすることでした。ですから、政治的に誠実な活動家にとっても、転向は決してそれほど心理的には困難な事業ではなかった。」 「転向したマルクス主義者たちは、そのあと深刻な葛藤を経ずに、あるいは天皇主義者になり、あるいは仏教に帰依し、あるいは日本古典や古代史の研究に沈潜し、そして、その多くは日本のアジア諸国への帝国主義的侵略の(控えめな、あるいは積極的な)支持者になりました。」 日本の左翼インテリは拷問をされなかったというようなことを内田は言っているのではないだろう。事実として拷問は行なわれた。内田が言いたいのは、弾圧によって力づくでねじ伏せられたのではなく、もっと納得づくで、いわば憑き物が落ちるように転向したということだ。 そういうケースもなるほどあったろう。が、そればかりであったか。 先ほど中野重治の名前を出した。彼も1930年代なかばに転向する。そのときの彼の苦悩と葛藤は、無視してよいものであろうか。中野はせっかくそれを『村の家』その他に書き残してくれたのに。 転向が国家権力からの圧迫もさして無いなかで納得づくでなされたというのは事実に反する。日本人インテリにあっても、検挙されて獄死したケースは少なくないからだ。東大ではなく京大の話になるが、野間宏の小説『暗い絵』に登場する京大ケルンの3人の中心的活動家は、いずれも獄死するのである。事実は、3人のモデルと言われる人たちのうち、小野義彦は非転向で生き残って戦後はマルクス経済学者として一時代を画したが、残る2人(永島孝雄、布施杜生)は本当に獄死している。インテリゲンチャ出身の左翼だって、内田が述べているようにすんなり転向を果たした人ばかりではないのである。転向せず獄死した人は少なくないし、国家権力に圧しつぶされるようにして転向を余儀なくされた人となればどれほどの数になるか。 そうして、たとえば転向後の中野重治の作品を読めば、自らの転向を凝視し続ける一方で、「日本のアジア諸国への帝国主義的侵略」を支持するようなことは書いていない。これは稀有なケースかもしれないけれど。 転向とは違うが、哲学者の三木清は敗戦間際、逃走中の共産党幹部タカクラ・テルに服と金を与えたことを理由に検挙され、敗戦直後の9月、豊多摩刑務所で獄死した。疥癬の病気を持つ囚人が使用していた毛布をわざとあてがわれた疑いがある。そのことを私は日高六郎の文章で知った(日高『戦後史を考えるー三木清の死からロッキード事件まで』1976年)。 疥癬は全身がひどい痒みに襲われる皮膚病だ。三木は栄養失調の身体で痒さにもがき苦しみ、そういうふうに死んだ(殺された)。小林多喜二がやられたような殴る蹴るの暴行だけでなく、こんな形でも権力はまつろわぬ者を殺すことができる。 しかるに、内田<序文>の書き方では、そうした事実が見えなくなってしまわないか。 内田の軽妙な筆致に誘われて、これまで食わず嫌いであったマルクスを覗いてみようと思い立った人が少なくないことは知っている。<序文>のことを私に教えてくれた友人もそうだ。それはいいことだと思う。それだけに、もっと事実に即した説法を内田樹には望みたい。
布施杜生のこと
ここまで書いてきたようなことを、私は彼岸過ぎに自分のブログに書きつけた。野間宏『暗い絵』に出てくる京大の左翼学生たちのモデルとなった一人、布施杜生(1914-1944)のことは、去年秋に野間宏の文学について論じる読書会に参加する機会があったので、そのとき知った。彼は、その名字から察せられるとおり、治安維持法被疑者の弁護などで著名な布施辰治弁護士の三男だ。杜生(もりお)というちょっと変わった名は、父がトルストイに心服しており、トルストイは日本では<杜翁>(もりおう)と呼ばれることもあるので、そこからとった。 ところが、何という偶然だろうか、そのブログ記事を更新したすぐあと手に取った[通信・労働者文学]No.291(3月25日発行)の誌面に布施杜生の名前を発見するのである。一ページ目、労働者文学会賛助会員の小林孝吉さんが寄稿された『この暗い時代にー詩を書くこと』という文章の中だ。 小林さんは、労働者文学会の大先輩である詩人ゆき・ゆきえさんに『布施杜生』という作品があるのを紹介している。『国鉄詩人』2015年秋号に発表された詩である。 その詩によれば、布施杜生は京都帝国大学文学部哲学科で田辺元教授に師事したが、周囲の反対を押し切って学生結婚に進んだことで京大を中退する。それより先、大学二年生のとき日本共産主義者団に参加して逮捕され、京都山科未決監で10ヶ月収容され執行猶予で出所。共産主義者団というのは共産党の再建を目指して関西で活動した非合法グループである。そのご1942年9月に治安維持法違反で二度目の検挙、1944年2月に京都拘置所内の独房において衰弱死した。 彼の連れ合い(学生結婚した相手)だった松本歳枝によれば、生前、彼には将来なすべき四つの方向への労作プランがあった。 ①詩歌集 ②長編小説 ③論理学序説 ④民族史の概念および方法 である。 そのプランが実現することはなかった。検挙された日は、前日は風雨が強かった。朝早く暗いうちに6~7人の特高刑事たちが踏み込んできた。 「いやだよ! 俺はいま行けないんだ!」 手錠がかけられるとき杜生は地団駄を踏んで大声を張り上げたという。自分がやろうとしていたことを国家権力に理不尽に中断させられることへの無念の叫びだろう。 こういう行き方も日本におけるマルクス受容の一つの場合としてあったことを、くどいようだが、日本だけでなく中国にも読者を持つ内田樹は心に留めておいてほしいと思う。布施杜生の無念さに思いをいたしてほしいと思う。
追記として。 中野重治『むらぎも』中の、主人公・片口安吉が東大新人会の新入生歓迎会で会員の安っぽいアジテーションに不快を覚えた場面を先ほど紹介した。中野重治本人が体験したことだろう。 その中野に『雨の降る品川駅』という有名な詩があるのは、もちろんご存じのことと思う。1928年に行なわれた昭和天皇即位式(「御大典」)のとき治安上の理由で朝鮮に「送還」される朝鮮人同志を品川駅で見送るという詩だ。その最後の連は、こうである。
行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ ながく堰(せ)かれていた水をしてほとばらしめよ 日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾 さようなら 報復の歓喜に泣きわらう日まで
朝鮮プロレタリアートを <日本プロレアリアートのうしろ盾まえ盾> と呼んだ一行は、のちに色々な議論になったらしい。「朝鮮プロレタリアートを日本のそれの弾除けにするのか」といった批判もあるそうだ。 しかし、あの一行は、新人会の新入生歓迎会のとき朝鮮人新入生が述べた 「朝鮮プロレタリアートの解放なしには日本プロレタリアートの完全な解放はない。日本プロレタリアートの自己解放なしには朝鮮プロレタリアートの解放はない」 という言葉に対して片口安吉=中野重治が抱いた素直な感動に裏打ちされたものであったように私には思われる。インターナショナルな感情の自然な発露ではなかろうか。 ※内田樹の当該文章はこちらです。 『若者よマルクスを読もう2』中国語版への序文 - 内田樹の研究室 (tatsuru.com) ※【いてんぜ通信】前号への酔流亭の寄稿はこちら。 <包摂>と<物質代謝>と ~【いてんぜ通信】寄稿① : 酔流亭日乗 (exblog.jp) 等価交換の廃棄とは ~【いてんぜ通信】寄稿② : 酔流亭日乗 (exblog.jp) 「ヴェラ・ザスーリチへのマルクスの手紙」考 ~【いてんぜ通信】寄稿③ : 酔流亭日乗 (exblog.jp)
by suiryutei
| 2021-05-23 08:30
| 文学・書評
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