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コモンの思想
九月に出た斉藤幸平『人新世の「資本論」』について私は年末に刊行された雑誌『労働者文学』No.88に1100字ほどの短い書評を書いた。全逓文学会を受け継ぐ【A・Z通信】をさらに引き継いだ本【いてんぜ通信】の読者には『労文』を読まれている方が多いと思うので、あの書評とは重複しないように気をつけよう。書評では「気候ケインズ主義」批判の紹介に字数をとられて<コモン>のことにほとんど触れなかった。しかし斉藤が唱える「脱成長コミュニズム」のコミュニズムがコモンに由来するように、コモンはあの本の重要なテーマである。 斉藤は書く。 「<コモン>はアメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する『第三の道』を切り拓く鍵だと言っていい。つまり、市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連型社会主義のようにあらゆるものの国有化を目指すのでもない。第三の道としての<コモン>は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。」(141ページ) 水や電力、住居、医療、教育を公共財として自分たちで民主主義的に管理する方向に異存はない。電力や医療が利潤追求で回されていることによってどんなに酷いことになっているかを私たちはこのコロナ禍で体験させられている最中だ。高額授業料で学生を借金漬けにする教育の現状だってそう。しかし、斉藤は「ソ連型国有化」を「アメリカ型新自由主義」と同列に並べて斬って捨てるけれど、実在した(している)社会主義にさまざまな欠陥があるにしても、医療や教育は資本主義の下でほどの暴力的利潤追求にさらされてはいない。キューバの医療を見ればよい。それよりも国有化が社会主義の終点であったならば、ロシア革命の指導者レーニンが「国家の死滅」を口にすることはなかったろう(『国家と革命』1917年)。ロシア革命の指導者たちにとっても国有化は目指すゴールでは決してなく、国有という概念さえ無くしていく途上でやむをえず通過しなければならない通り道と位置付けられていたはずだ。 なるほど現実はそうはならなかった。その事情は先ほど白井の本に即して述べたので繰り返さない。レーニンらはおそらく楽観的かつ理想主義的に過ぎたのだろう。他方、彼に続く指導者たちは、状況に強いられて重ねられた無理を、そうではなくそれが模範的な社会主義であるかのごとく粉飾した。ソ連倒壊でその粉飾の実態を見せつけられたのだから幻滅するのはわかる。だが、さきほど『独ソ戦』という本の名を挙げたが、大戦であれほどの破壊を受けた国において脱成長コミュニズムを構想する余力がありえたかということも斉藤には考えてほしい。まず生産力を再建しなければならなかったことは、あの時代あの場所に我が身を置いて考えてみればわかることだ。
ヴェラ・ザスーリチへのマルクスの手紙
『資本論』から<物質代謝>という概念をクローズアップさせて環境問題を論じ、資本主義というシステムを続けていては地球環境がもうもたないことを明らかにしたのは『人新世の「資本論」』の優れたところだ。物質代謝とは自然と人間の相互作用とでも言ったらいいのか、生産を通じての人間の自然への関与ということだろう。これについては、物質代謝という言葉は出さなかったが『労文』掲載書評で触れたつもり。書き漏らしたのはマルクスの『ヴェラ・ザスーリチへの手紙』(草稿)をめぐる議論(第四章)についてだ。 マルクスは亡くなる二年前の1881年、ロシアのヴェラ・ザスーリチから手紙を受け取る。ヴェラは当時ナロードニキからマルクス主義へと立場を移しつつあった女性革命家だ。 ナロードニキは、ロシアに残るミールと呼ばれる農耕共同体を拡げていくことによって資本主義を通らずともツアーリを倒して社会主義へ進めると考えていた。いっぽうマルクス主義は封建制→資本主義→社会主義という方向を展望する。どちらが正しいかをザスーリチはマルクスに問うたのである。 これに対するマルクスの返書の内容はよく知られている。近代化を推し進めることでロシアに残っている共同体をわざわざ破壊してしまうことはない、ロシアでは資本主義を通らずとも社会主義に進める展望はあり、『資本論』における歴史分析は西ヨーロッパに限定される、というものだった。 ここから斉藤は、最晩年のマルクスは唯物史観から離れたと推測する。これは斉藤の若書きによる勇み足であるように私には思われる。ザスーリチへの返書の内容と『資本論』における分析の間にはなるほど違いがある。けれども、だから唯物史観から離れたということではなく、その違いそのものがマルクスの思想を深めているのではなかろうか。葛藤することが思索を進める動因となるのであって、AからBへと考えをすぐ移行させてしまっては、その動因が働かない。 第四章全体を通して、若きマルクスは近代化(資本主義化)を推し進めようと旗を振っていたかに斉藤は思い描いている。脱成長へと転換した晩年のマルクスをそれに対置するのである。しかし、若き日のマルクスにしても、資本主義が世界を覆うのは必然的方向だと見通したからといって、自分をその推進者と任じたわけではなかろう。 あの有名な論文(岩波新書『日本の思想』所収)で丸山真男が含意したのとは違う用い方をいま私はするが、「である」ことと「する」こととの混同ないし混乱が斉藤にはないであろうか。脱成長コミュニズムに充分な魅力を感じるとともに私はそう思う。 (完)
by suiryutei
| 2021-02-25 16:02
| 文学・書評
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Comments(2)
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