我が身を削る「ネタ」は「芸」ではない
ミステリ漫画「Q.E.D.証明終了」のとある一編で落語の師匠が次のような事を語っている。
人は2つのスイッチを持っているんだ
幸せになる2つのスイッチだ1つ目は美味い飯を食ったり趣味に興じたり・・・自分だけで押せて幸せになれるスイッチ
2つ目は他人にほめられたり認められたりして他人に押してもらわない限り幸せと感じられねェスイッチだ
自分で押せるスイッチの喜びはささやかで わずかだが自分の好きなとき押せる
だが他人の押す幸せスイッチの喜びは強烈だ
とめどなく押してほしいと思うしやみつきになる
押してもらえないと不満や不安が湧き出てくるし自信もなくなってくる
次第にスイッチを押してもらうためならなんでもしたいと思うようになる舞台ってのは他人にスイッチを押してもらう場所だ
そこでウケるためならなんでもやりたいと思うようになる
自分の全てを売り払ってでも とにかくスイッチを押してほしい!!気が付くと大事なモノを失っているかもしんねェ
上記は芸に悩んだ弟子に語った言葉ですが、それを聞いた弟子は師匠にこう問いかけます。
どうすればそうならないで済むんです?
その問いに師匠はこう答えます。
分けるんだよ お客さんに出すものと出さないものを
出すものが”芸”だ
舞台に上がり続けたきゃちゃんと”芸”を磨くこった
この師匠の言葉を目にした時、私が真っ先に思いついたのは近年のネット上に蔓延する「我が身を省みぬ”ネタ”」の数々でした。
若気の至りやネットリテラシー不足も手伝って、度を越した「イタズラ」を実行した証拠写真をTwitterなどに投稿して全世界に発信してしまう若者達。ブログのアクセス数を増やしたくて、過激なネタや言動を繰り返し「炎上」する人々。奇抜なコスプレ姿で街を闊歩し、その様子をネットにUPしていた結果、不審者として警察のご厄介になる人……。
一昔前の本邦におけるインターネットでは匿名*1での活動が主であったと思います。確かに昔から過激なネタや自虐ネタを披露する人達はいましたが、あくまでもそれは「そういったキャラクターを演じている」のであって直接我が身を危険に晒すようなものは少数だった*2。テキストサイトにおける罵倒系しかり自虐系しかり。
ですが今の状況はどうでしょう? 本名も丸出し、学校や住所までオープンな状態で不用意な言動をネットという公の場で開陳してしまうことはざら。ニコニコ生放送などでも普通に個人が顔出しして好き勝手やる始末。最近じゃ若い人じゃなくて「いい大人」が危険行為を「ネタ」として投稿してしまった例がありました↓
自らをさらけ出して「ネタ」とする行為の危険性を、果たして分かっているのか分かっていないのか。仲間内の感覚でTwitterなどにイタズラ画像を投稿してしまう若者たちは、恐らくそんなことも分からずにやってしまっているのでしょう。対して、上記リンク先で取り上げられている某氏の場合は、明らかに分かっていてやっている。
しかし、両者の間には、それが及ぼす結果という意味において、本質的な違いはありません。どちらも等しく「我が身を削ったネタ」の提供という目的を伴っています。意図した対象が違ったとしても、根源的には同じ行為な訳です。
「我が身を削る”ネタ”」と「自分の”芸”を磨く」こと。自分自身を磨り減らすという意味では同じ行為ですが、前者が削れば削るほど自分という存在を傷つけ曝け出すのに対し、後者は磨けば磨くほど光り輝きますし、その耀きに包まれて「自分自身」は晒される事なく安息の時を過ごす事が出来る。
これからネットの大海に漕ぎ出そうという方が、両者を履き違えて行動してしまわぬことを、切に願う次第。
作業BGM:Kalafina「sprinter」
- 作者: 加藤元浩
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/10/17
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