2024年のアニメ映画 「がんばっていきまっしょい」 の冒頭、オープニングシークエンスであるボートのクラスマッチのあとに次のようなシーンがある。
朝、主人公である 村上悦子(悦ネエ)が自宅を出て、近所にある 辻井戸 で待ち合わせていた幼なじみの 佐伯 姫(ヒメ)と合流する。
最寄り駅から電車に乗って、松山市駅 で市内電車(路面電車)に乗り換える。
そして学校の最寄り駅で降りて登校する。
彼女たちにとっては何の変哲もない、毎日の登校風景である。
がんばっていきまっしょい(以下、「しょい」)は 愛媛県 松山市が舞台になっており、劇中でも実在の風景がほぼ忠実に再現されている。
上記の登校シーンには映像としては登場しないが、悦ネエとヒメの自宅の最寄り駅は伊予鉄道 郊外電車 高浜線の 三津駅 。学校の最寄り駅は同じく伊予鉄道 市内電車の 勝山町駅 である。
ところで、郊外電車 高浜線で市内電車と接続している駅は 3つ 存在する。
松山市駅、大手町駅 、古町駅 である。
(Wikipedia「伊予鉄道」の記事から引用・一部改変)
そして乗換案内サービスやアプリで「三津駅から勝山町駅」を検索すると、最も運賃が安いルートとして「三津駅 → 古町駅 → 勝山町駅」を案内される。その運賃は 530円(大人料金・現金払いの場合。以下同じ)。
これは「三津駅 → 松山市駅 → 勝山町駅」の 600円 よりも 70円 安い。


( 駅すぱあと より)
この値段の差は、市内電車と郊外電車の料金体系の違いに由来している。
市内電車がどこで乗って降りても 230円 の均一料金なのに対して、郊外電車は乗った距離(駅数)に応じて運賃が上がっていく一般的な料金体系である。
そのため、郊外電車から市内電車を乗り継いで目的地へ向かう場合、なるべく早く市内電車に乗り換えて、郊外電車の乗車距離を短くすれば運賃を安くすることができる。
そして上で挙げた 3つの駅のうち、三津駅から最も近い(=最も早く乗り換えられる)のが古町駅。
逆に 三津駅から最も遠い(=乗り換えるのが遅くなる)のが松山市駅である。
(Wikipedia「伊予鉄道」の記事から引用・一部改変)
運賃に差が出るのは通常の乗車だけではなく、定期券を発行する場合でも同じ。
6ヶ月の通学定期だと、「三津駅 → 古町駅 → 勝山町駅」は 76,250円。「三津駅 → 松山市駅 → 勝山町駅」は 87,110円( NAVITIME による)。
その差額は半年間で 約 1万1千円、1年間だと 約 2万2千円。
なかなか馬鹿にならない金額ではないだろうか。


( NAVITIME より)
なのに、なぜ悦ネエとヒメは松山市駅で乗り換えているのだろうか?
松山を代表する風景のひとつとして登場させたかった
「しょい」はボート部の映画である。当然、上映時間の多くはボート部の活動シーンが占める。
部の練習は、主に艇庫のある 梅津寺海岸 で行われている。
こういうシーンだけを見ると、松山というのはすごく田舎なのではないか……という印象を持つかもしれないが、実際はそうではない。
松山市の人口は 約 50万人、四国の自治体では最も多い。かつての城下町である市の中心部には繁華街もいくつもあり、かなりの都会である。
その玄関口とも言える 松山市駅周辺の風景を、物語の序盤にワンシーンだけでも登場させることで、松山という街に対する観客の印象はかなり違ってくるのではないかと思う。
……的なことを、 ブルーレイ の音声特典であるオーディオコメンタリーで櫻木優平監督も言ってました。
(筆者も「しょい」にハマって何回か松山を訪れたけど、これは大いに効果があったと思います)
オーディオコメンタリーでは他にも興味深いお話がいくつも語られているので、皆さんもぜひブルーレイを買って聴きましょう(ダイマ)。
後のシーンの伏線(?)として、序盤に出す必要があった
この登校シーン、悦ネエが松山市駅前の横断歩道を渡っているカットの直前に、松山市の中心部の風景が挿入される。
その左側手前には、屋上に観覧車のあるビルが映っている。
これは松山市駅の駅ビルと一体になっている いよてつ高島屋 と、その屋上にある 大観覧車「くるりん」である。
そして、映画の後半には悦ネエがこの観覧車に一人で乗るシーンがある。ここでは詳しくは書かないが、このシーンは物語の上でかなり大きな意味を持っている。
これは筆者の推測だが、この映画後半のシーンの、ある意味「伏線」として、映画の序盤にも観覧車を出したかった。そのために松山市駅で乗り換えさせる必要があったのではないだろうか。
もし映画の後半でいきなりこの観覧車が登場したら、どうしても唐突感は否めない。この観覧車を序盤の登校シーンにワンカットだけでも登場させることで、唐突感はかなり軽減できているのではないかと思う。
登場させるのがこのタイミングしかなかった
「松山を代表する風景として出したかった」
「後のシーンの伏線として出したかった」
でも、それなら登校シーンでなくてもよかったのでは?
登校の時は古町駅で乗り換えさせて、松山市駅は別のタイミングで登場させるとか。
……もし「しょい」が 全12話とか 13話の TVシリーズなら、あるいは映画の尺があと 30分 長ければ、そういうことも可能だったかもしれない。
が、「しょい」の本編上映時間は 95分。映画を観れば分かるが、無駄なシーンは全くない。
登校シーン自体はもう 1回 あるが、その時はもう学校に到着する直前のカットから始まっていて、電車も駅も登場しない。
……なので、自然な形で松山市駅周辺の風景を登場させるには、序盤のこのシーンしかなかったのではないだろうか。
原作小説のオマージュとしてこのルートを採用した
原作小説である「がんばっていきまっしょい」(敷村良子 著)では、主人公である悦ネエ(篠村悦子)が松山東高校の入学式に向かうシーンでこのように書かれている。
入学式の朝、悦子は母と一緒に郊外電車で松山市駅まで出て、ちんちん電車で城の下を走り、大街道という繁華街を過ぎた勝山町で降りた。
原作小説の序盤にある *1 このシーンを、同じく映画の序盤で踏襲することで、一種のオマージュとしても機能させたのかもしれない。
(ただし、原作小説では悦ネエの自宅の最寄り駅(=郊外電車にどの駅から乗ったのか)については書かれていない。また、このルートで学校まで行ったのはこの日だけで、翌日からは自転車で通学している)
……と、このように。
様々な理由が重なって、悦ネエとヒメの乗り換え駅が松山市駅に設定されたのではないかと考えられる。
おわりに(…………?)
いかがでしたか?
…………な、なんですか、その目は。
なにか言いたそうですね……。
いや、分かりますよ。
「作品の考察ってそうじゃねーだろ!」と。
「お前が挙げたのは『作品の外側の事情』、メタな理由ばっかじゃねーか!」と。
いや、考えなかったわけじゃないんですよ、『作品の内側の理由』を……。
敢えて古町駅ではなく松山市駅を選ぶということは、『松山市駅でなくてはならない理由』、あるいは『古町駅では乗り換えられない理由』のどちらかがあるのではないか、と。
『松山市駅でなくてはならない理由』……。
例えば「放課後、塾や習い事に通っていて、それが松山市駅の近くにある」とか。
これは一般的な理由としては普通にありえますよね。
劇中で悦ネエとヒメは「帰宅部」とは言ってたけど、部活以外のことについては言及してなかったし。
……いやいやいや、無理がある。
リー(高橋梨衣奈)からボート部に誘われた時に「なにか部活 入ってるんだっけ?」と聞かれて「入ってないけど…」「帰宅部だよ」と答えて、そして入部している。
それは塾や習い事に通ってたらちょっと無理でしょう。そういう描写もないし。
では、『古町駅では乗り換えられない理由』の方があるのだろうか?
例えば「もともとは古町駅で乗り換えていたが、悦ネエが他校の生徒とトラブルになり、駅を出禁になった」。
……駅を出禁って、よっぽどだぞ。どんだけやらかしたらそうなるんだよ……。
それに悦ネエがケンカっ早かったのは小学生の頃までだし(たぶん)。
じゃあ、「古町駅付近でヒメが痴漢に遭ってトラウマになってしまった」。
…………ネ、ネガティブすぎる……。
やだなあ、自分で書いといてなんだけど、ヒメがそんな目に遭ったなんて、仮定の話でも考えたくないなあ……(ヒメ推しなので)。
でも、もしそんなことがあったら、悦ネエが犯人を捕まえて駅員さんに突き出したんだろうな……。
…………というように、いろいろ考えてはみたものの。
結局、劇中の描写だけを材料に考察した場合、現実と整合性のある、十分に納得できる説を見つけることはできなかった。
……まあ、かなり反則気味な説なら なくはないんですけど。
それは……
「しょいの世界では現実の伊予鉄道とは運賃が違っていて、古町駅で乗り換えても松山市駅で乗り換えても値段が変わらない」
……え〜、なにそれ〜〜。
でも、いくら考えても有力な説がなさそうだったので、もう おおもとの前提条件をひっくり返すくらいしかなかったんですよね……。
もしもっとちゃんとした理由が見つかったら、ぜひ教えてください!
(おしまい)
*1:ちなみに、実写映画版にはこのシーンは登場していない。