昨年読んでいたのですが、感想をあげていませんでした。
言われてみればなるほど納得なのですが、北極周辺地域の冬は日が短い、というのを極点に向かって推し進めると何ヶ月も太陽が上らず夜が続く場所があるそうです。著者は、何ヶ月も極夜で過ごした後に見る太陽の輝き、浴びる太陽光と熱から強烈な体験が得られるのではないかと考え、探検を企画します。
人工の光といえば自分の頭に装着したライトだけ、後は月明かりだけが頼りの行程ですが、月が上るまで、また新月の時期、彼の世界は暗闇に閉ざされてしまいます。それもただ暗いだけではない。極夜の時期は冬だから、暗くて寒くて雪と氷だけがあるという世界。そこでじっとキャンプをして日の出を待つならいざ知らず、著者は北極海走破を行います。
世界中のどこにいても人工衛星が正確な位置や様子を教えてくれ、過酷な環境でもあらかじめ天気予報で情報を得て準備ができる現在、本当の意味での探検はもはやほとんど無理になってしまったと著者は言います。しかしながら、衛星の位置情報サービスに頼ることなく、天体から位置を割り出しながら暗黒の世界を旅することは「システムの外」に出ることであり、まだわずかに残された「探検」がそこにはあるのです。これも著者が極夜行を企てた大きな理由です。
極夜行スタートに向けた準備は数年間かけて行われました。まずは、明るいうちにルートを何度も走り、地形を頭と体に叩き込むこと。それと並行して、ソリに積めない分の食料を途中のデポに備蓄すること。ところが、このデポがシロクマに破壊されて食糧の大半を失ったりします。著者と相棒のイヌは食料を切り詰めながら旅を続けなければならず、ひどい飢えの中で著者は「最後はコイツ(イヌ)を食って生還しなくてはならない」と考えたりします。その中で、太古の昔に出来たニンゲンとイヌとの関係性の本質は案外こんなところにあるのではないかと思いを馳せたりします。
作中に記載はありませんでしたが、平時は互いに助け合うパートナーでありながら非常時には食料にもなる、というのは何もニンゲン側からの話に限ったことではなく、多分イヌも同じことを思っている(する)でしょう。飢えに苦しむ著者が「出来ることならコイツを食べたくないが、肉にすれば一週間は生き延びられる」と考えているように、相棒のイヌも先に著者が弱ってしまったら食べて村に戻ったのではないかと思います。これを残酷なことと思うのは文明ですっかり精神が鈍っているからで、私も著者と同じく、これぞ限りなく対等な異種間の友情だと感じました。
出発地点の村への帰路も終盤に差し掛かった頃、予想外の激しいブリザードに苦しめられる著者ですが、静かになった外に明るさと暖かさを感じ、急いでテントから出るとそこには地平線から顔を出す太陽が!極夜明けの太陽との遭遇について、事前にあれこれ想像していたことなど全てが吹き飛ぶほど、それは巨大で赤く燃えてエネルギーに満ちていて圧倒されたそうです。
例えば、単なる極地探検であれば、自分がそこに参加するのを想像することは不可能ではありません。野生動物の調査とかありますからね。でも、極夜を旅するというのは今自分がいる地点からは遥かに遠い、遠い世界の話でした。その世界に足を踏み入れられる著者に尊敬とほんの少しのジェラシーを感じるワタクシです。