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過去にはてなダイヤリーで連載してた連載コラムのアーカイヴです。

エヴァンゲリオンについて知っている2、3の事柄

NEON GENESIS EVANGELION DVD-BOX (ä»®)

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 86年の初春、『ニュータイプ』の編集者となった私に最初に振られた仕事は、その発売月に毎週オンエアされるテレビアニメ作品のあらすじ紹介ページであった。たぶんその時期というのは、OVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)というリリース形態が人気を博し始めたころで、スポンサーの意向を気にせず、作家性の強いアニメーターらが、毎月濃ゆいファン向けのタイトルを発表していたころ。だから、当然『ニュータイプ』誌面もOVA作品が花形だった。そちらに人材が奪われた結果なのか、私が担当していたテレビアニメのほうはやる気があるんだかないんだかわらない謎のラインナップばかりで、時代的には最悪の時期だったんだと思う。『どてらまん』とか『bugってハニー』とか、これ考えたヤツ逝ってヨシ! と思わせてしまうようなスキだらけの作品が毎週オンエアされていた。
 担当していたあらすじページの主たる業務は、毎日朝来てすぐに、当日オンエアされる全番組のタイマー録画をすることと、制作会社各社に来月オンエア分のシナリオを受け取りに行くというもの。だから、そのケータリングでほとんど一日が終わっていた。シナリオは学生のアルバイトやプータローの人に渡してレジュメを書いてもらって入稿するのだが、会社が早稲田にあったので、主に早稲田大学の学生にお願いしていたと思う。最初は「あらすじ担当なんだからビデオも全部見ろ」と言われていたが、タイトルにちょっと惹かれて見てみたものの、『どてらまん』や『bugってハニー』が私の想像を絶するツマラなさだったので、呆れてしまい、以降はズルして見ずに仕事するようになった。
 当時、唯一気に入って見ていたのは『アタッカーYOU!』というバレーのスポ根アニメだった。これはなぜかいたく気に入り、当時サントラ盤まで購入していて、未だにそれは手放さずに持っている(私は『さすらいの太陽』とか、そういう根性物語が好きなようだ)。だが『アタッカーYOU!』は、シロートの私から見ても悲しいくらい絵が下手だなあと思った。その下手さがペーソスすら醸し出していた。現存するのかは知らないが、これを作っていたのはナックという小さな会社だった。誰もが同じことを思いつくだろうが、最初に聞いた時はヒット曲の「マイ・シャローナ」を連想した。その後、ナックには何度も足を運んだが、結局、社名の由来を聞きそびれてしまった。とても洋楽を聴いてる人たちには見えなかったが、「実はリチャード・レスターの……」とか言われたら、それはそれで違うだろって言ってたかもだ。まあ、それぐらい作品がイナタ〜い感じだったのだ。
 務めていたプロダクションの社長の奥さんが、売れっ子の女流マンガ家だったのだが、よく会社にも顔を出していた。その奥さんの友達だったマンガ家で渡辺多恵子という人の『ファミリー!』というマンガがあって、それがアニメ化されることになったことを聞いていた。ところが、オンエア当日に本人が泣きながら電話をしてきた。なんでもアニメの出来が酷すぎて我慢ならないという話だった。聞いてみたら、制作会社はナックだった。その時、奥さんも「ナックだから仕方がない」と言って慰めていて、まわりもそれに同調していたので、少しだけ私はナックを不憫に思ったのを覚えている。
 なぜか、私の『ニュータイプ』時代の記憶で、思い出すのはナックにまつわるものばかりだ。最近でも、フランツ・フェルディナンドの曲を聴くと、ナック「マイ・シャローナ」を思い出しながら、『アタッカーYOU!』のことも思い出す。
 ところで、私がその会社に入った時、同時に4人ぐらいが同期入社したのだが、他の3人は生粋のファンあがりだった。だから、最初は結構バカにされていた。ある時、「新マンがさあ〜」「あれって新マンだよねえ〜」という会話があったので、「新マンって何ですか?」って聞いたら、『帰ってきたウルトラマン』のことだろ、ボケ!と怒られた。なんで『帰ってきたウルトラマン』が略すると「新マン」なのか。しかしそれは、他スタッフも周知のことであった……。でも最近は「帰マン」と言うようになったらしいから、それを知った時はちょっと安堵したな。そういう「この荷物ワラって」と言われてADがゲラゲラ笑うみたいな、コントみたいな言葉の取り違いはもっとたくさんあったと思う。
 ある時、席が隣だったY先輩の前職が話題になっていた時のこと。本人がなかなかそれを言いたがらないんで、上司がバラして「板野サーカスにいた」というので、こんな運動神経のない鈍い人が本当にサーカスにいたのかと驚いたことがあった。それは実は勘違いで、「板野サーカス」というのは、当時人気のあった板野一郎氏というアニメーターの人の弟子の集団(?)を指す言葉で、まるでサーカスのような華麗な動きのアニメが描けるということから付いた名前だった。
 このY先輩には、私は多大な影響を受けた。元々アニメーターだったらしいのだが、絵はすごく上手かったのに、いろいろ挫折あって編集者になったという話だった。当時、双葉社から出ていた『ルパン三世』のキャラクターを使ったライトノベルのはしりみたいなオリジナル小説があって、Y先輩が書いたのが何冊かあったのだが、すごく面白かったのを覚えている。そういえば週刊誌時代に担当していた、『交響詩篇エウレカセブン』の佐藤大氏もたしか、元アニメーターだったはずで、辞めアニ系の人には優秀な人が多かったのだろうか。
 Y先輩は我が故郷の隣県だった鳥取県出身だったが、その高校時代の先輩に前田真宏氏というアニメーターの人がいて、彼らが当時やっていたのが、ガイナックスという制作会社だった。ちなみに「ガイナックス」という社名は鳥取弁の「がいな(大きい)」から付けたもので、最初に社名を聞いた時に理由はそうなのと聞いたら当たっていた。『おたく学入門』で有名な岡田斗司夫氏が社長を務めていたのだが、実はまったく実績がない会社で、なのに当時、メーカーのバンダイから数億円を融資してもらって、劇場大作を制作中ということで、『フライデー』などの一般誌でも話題になるほどの異能集団だった。フィリップ・カウフマンの映画『ライト・スタッフ』の翻案みたいなアニメを作っていたのだが、それは後に『王立宇宙軍〜オネアミスの翼〜』というタイトルで公開されている。Y先輩がよくガイナックスに出入りしていたので、坂本龍一氏の作ったサントラは、完パケる前から聴かせてもらっていた。実績もないのに、坂本龍一氏に依頼するなんてスゲエなあ、と思った。その後、同スタッフが荒俣宏原作の『帝都大戦』を作った時も、ゲルニカの上野耕路に音楽を依頼しているんで、けっこうそのへんは趣味に暴走していたようだ。
 ガイナックスは社名こそ鳥取弁から取ってはいたが、母体となっていたのは大阪のSFイベント「DAICON」の主宰者集団で、岡田氏やアニメーターの庵野秀明氏ら、大阪芸大OB周辺の人たちがメイン・スタッフだったんだと思う。当時、「DAICON」というのは、素人とはいえプロはだしの技術力を持っていて、そのフィルムを見た宮崎駿が素人だった庵野氏をスカウトして、スタジオ・ジブリで『風の谷のナウシカ』に参加させたっていうから、いかにススンでいたかがわかる。なんでも、音楽評論家の佐々木敦氏も、もともと「DAICON」のスタッフだったらしい。
 私はガイナックス周辺の人とはほとんど交流を持たなかった。『宇宙戦艦ヤマト』あたりから始まる、第一次アニメブーム世代が中心を構成していたので、Y先輩を含む全員が歳上だった。だが、その中で唯一の同学年だったのが、今は映画監督として有名になった樋口真嗣氏であった。Y先輩とは専門学校時代の同級生というつながりだった。彼は東京育ちで、実は中学生のころから特撮好きで砧の東宝撮影所などに出入りしており、グリコのプッチンプリンのCMに出ていたゴジラのぬいぐるみの中に入っていたのが、高校時代の樋口氏だったらしい。いわばサラブレッドで、たぶんガイナックスの中でも年少組でありながら、リーダーシップを発揮していたんだと思う。これは有名な話だと思うが、その後同社が制作して大ヒットした『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公の碇シンジという役名は、彼の名前から取られたものだ(ついでに言うと、同社の別作品『トップをねらえ!』の主人公の少女は、樋口氏の奥さんの旧姓から取られたものだった)。私は同い年ということもって、よくウチに泊めてもらったりした。彼はアニメや特撮も詳しかったが、普通の実写映画にもかなり精通していた。実は彼も大のYMOフリークで、自分で音楽もやっていて、お互いのデモテープを聞かせ合いっこしたこともあった。『オネアミスの翼』で音楽を坂本龍一に依頼したのも、彼の発言力のなせる技だったのだろうか? あまりに昔過ぎて、実は樋口氏と何を話したのはか記憶がない。ただ、自宅にあったテレビモニターがえらくデカいサイズで、そこで『スーパーマリオブラザーズ』をやった時に、10センチぐらいの巨大なマリオが右往左往するのが、やたら可笑しかったというのを唯一覚えている。
 かれこれ10年ぐらい後だったか、週刊誌の編集者時代に、大映映画『ガメラ』がリメイクされ、その特撮監督として樋口氏が脚光を浴びることがあった。『ニュータイプ』以来、アニメのことはすっかり縁遠くなっていたので、私が彼の名を見たのは久しぶりだったが、『ガメラ』を劇場に観にいって、ガメラが飛ぶ時にクルクル回転したのには爆笑した。「これこそセンス・オブ・ワンダーじゃん!」って。大映スタジオのホリゾントが低くて、撮影場面も苦労して撮られたそうだが、カメラを小津安二郎ばりに低位置に置いて、手前に植物のオブジェを置いて、その狭間から巨大な怪獣を見せるというカメラワークが見事だと思った。俯瞰ばかりで撮っていた『ゴジラ』は、サウンドステージがいかにもプロレスのマットみたいで、どうせこのビルセットがない空き地みたいな部分で格闘するんだろうとか、いちいち手の内が見えてしまったのだが、『ガメラ』の場合は、人間の目線で巨大な怪獣を捉えるという画面設定が新しかったと思う。この手前の植物を動かしたりする、人形劇みたいな空間演出は、きっとアニメを作っていた人ならではの発想だろう。その後、私は『踊る大捜査線』『ケイゾク』といった作品に魅了されることになるのだが、それらはどれも、アニメ的な手法を導入して新しいタイプの実写ドラマを作っていた。『踊る』のSWATが出てくるあたりは、普通のドラマ作家には思いつかないだろう。深津絵里のやっていた恩田すみれのキャラ設定も、多分にアニメっぽいと思う。だから、樋口氏がアニメではなく、実写の特撮監督として最初に有名になったことには、当時、えらく納得していた。あの時期、手法的にマンネリになっていたテレビドラマや実写映画は、アニメ世代の作家が参入し、アニメ的な手法を導入することで息を吹き返した部分がずいぶんあるではないかと思う。そういえば、後に『エヴァンゲリオン』でテロップに市川崑みたいな巨大な明朝書体を使っていたが、そもそも市川崑だって映画監督になる前はアニメーターだったんだしな。
 『新世紀エヴァンゲリオン』は『スタジオ・ボイス』で特集が組まれるほど、サブカルチャー周辺を巻き込んだブームになったので、当然私も夢中になった。最初に存在を教えてもらったのは、SF評論家の大森望氏からだった。週刊誌の特集でやった「次はこれが来るマイブーム」というテーマで、大森氏が選んでいたのが、テレビ東京でオンエア開始直後だった『エヴァ』だったのだ。「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」をエンディングテーマに使っていたので、もろ『ライト・スタッフ』じゃんと思った。私にとってさらに嬉しかったのは、樋口氏に加えて、『ニュータイプ』の先輩だったY氏が脚本家として参加していたことだ。内容も、スゲエ作品だなあと溜息をついた。いろいろサブリミナルな符号に世間は関心を示していたみたいだが、私がエキサイトしたのは活劇の部分だ。こちらでは、岡本喜八の『独立愚連隊』あたりをモチーフにしていた。ここでは『ガメラ』と逆に、アニメに実写のエッセンスを導入して新鮮な視覚演出を作っていた。私が関わっていた時期のアニメ業界は、アニメに憧れてアニメーターになったというプロパーの人ばかり多かったから、アニメと実写と音楽と(モー娘。もかな?)複合的に愛していた樋口氏を含むあのメンバーが、アニメ、実写映画双方を風通しよくして面白くした功績は大きいんじゃないかと思う。
 『エヴァ』については、ひとつだけ個人的な思い出がある。音楽を鷺巣詩郎氏がやっていたことだ。日本の70年代末のフュージョンに詳しかった私は、彼の率いるサムシング・スペシャルのアルバムは2枚とも持っていた。エアプレイ『ロマンティック』を教科書と崇めていた鷺巣氏は、我々音楽ファンの間では「日本のデヴィッド・フォスター」と呼ばれていた。私が『ニュータイプ』に入って、初めてもらったサンプル盤が、小幡洋子というアイドルが歌う「もしも空を飛べたら」という、宮崎駿の劇場アニメ『天空の城ラピュタ』の主題歌だった。これも鷺巣氏がアレンジを務めており、デヴィッド・フォスターがプロデュースした尾崎亜美『Air Kiss』の世界を完全に換骨奪胎したような、松田聖子風のアイドル・ポップとプログレッシヴ・ロックのハイブリッドみたいな超絶曲であった。
 鷺巣氏の父親が、うしおそうじという元々マンガ家で、その後、ピー・プロダクションという円谷プロのライバルみたいな会社を率いて『電人ザボーガー』『怪傑ライオン丸』などの特撮番組を作っていたという話は、我々音楽ファンの間では有名な話である。たぶん鷺巣氏がアニメの音楽をやったのは『エヴァ』が初めてではなかったかと思うのだが、これが大ヒットして鷺巣詩郎氏の名前が知れ渡ったのは、昔からのファンには嬉しかった。なんでも、鷺巣氏はこれが売れたおかげで、父上が長く抱えていた借金を返してあげられたんだそうで、なかなか泣ける話である。


100万年ぶりぐらいに『アタッカーYOU!』のサントラ盤を引っぱり出してきたら、なんと音楽が鷺巣詩郎氏だった。なんという偶然。『エヴァンゲリオン』ファンは必聴!(なんちて)