ピダハン--「言語本能」を超える文化世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

(2013-04-30読了)

GWの休みを一日使って長い間積ん読だった課題図書 (笑) を読むことができた.


本書を知るきっかけになった発端は職場の先輩にチョムスキー派を慌てさせるようなピダハン論争があるんだけれど知っているかと聞かれた.ピダハン論争についてはWikipediaが詳しい.以前のブログ記事でも記述したように自分は学生の頃にコネクショニストのまねごとのようなことをしていたことから,言語学に関する話題は興味がある.そんなわけで本書を読むことにした.どうやら本書が日本語で書かれたピダハンに関する唯一の本らしい.


ピダハンはアマゾン北部に暮らす先住民族のひとつで,独特の言語を用いる.著者はキリスト教の宣教師としてピダハンの住む村を訪れ,以来30年間にわたってピダハンの村に滞在した経験に基づいてピダハン文化と言語に関して書かれている.

言葉がわからない先住民に宣教をするためにはまず現地の言語を理解することが必要である.著者が所属していた協会では聖書の翻訳を行うことがキリスト布教の最善の策と考え,先住民の住む地域に宣教師を派遣するらしい.はじめは宣教師がなんでピダハンの村に? と思ったのだけれど,どうやらそういう理由らしい.もちろん,言語学のバックグラウンドがない牧師がいきなり行ったところで言語解読に時間がかかるため,言語学のバックグラウンドを持った人間が派遣されるようだ.

第1部は著者がピダハンの村で暮らすまで,ピダハンの村で暮らしている際に起こった事件などを物語風に紹介している.第2部では,言語としてのピダハン語の解説と,著者の従来の言語理論に対する意見が記述されている.言語としてのピダハン語に興味があるのであれば第2部だけ読むのでもよい.特にメインディッシュは第15章の「再帰 (リカージョン) --言語の入れ子人形 (マトリョーシカ)」.ここでチョムスキー理論の問題点を指摘している.


ピダハン(言語)の特徴に関するメモは以下のとおり

  • 名前が変わる.昔の名前は使わない.
  • ありがとう.ごめんなさい.に相当する言葉がない.
    • 感謝と謝罪の概念はあり,行動で示す.
  • 実物主義.目に見えないものは存在しない.
  • ピダハン語には数,色,数量詞がない (p.167-171)
  • ピダハン語の音素は11しかない.英語はおよそ40 (p.251)
    • 音素が少ないとそれだけ発話量が増え,また判別性に劣る
    • コンテキストと声調によって改善が可能
    • 自由変異の例 (p.255)
  • ハミング語り,叫び語り,口笛語り (p.261-262)
  • エクソテリック (exoteric) とエソテリック (esoteric) (pp.285-287)
    • エクソテリックは普遍的なもの.エソテリックは外部からわかりにくい「内輪」なもの.
  • 文法構造として再帰が存在しない
    • 例) 背の高い男が家に入ってきた => 男が家に入ってきた.彼は背が高い.(p.316)
    • 関係節が存在しない.関係節の意味をなす表現をつくることはできる.
  • 左手,右手にあたる言葉が存在しない.方向を指示する場合には川を使う (p.301)
  • 修飾語はひとつまで.また,and/orに相当する構造を持たない.ふたつ以上修飾するためには文を分ける.
  • 所有格もひとつまで
    • 例) 犬のしっぽの先がちぎれている => 犬のしっぽが悪い.先が.(p.328)
  • "ピダハンは加工されていない写真は完璧に読み取ることができたが,加工された画像を解釈するのは,元の写真と並べてあっても困難だった" (p.347)

「ピダハン語に数がない」のくだりでは,著者がピダハンに算数を教えようとしたが失敗したという経験を紹介している.これは言語コミュニケーション上の問題であって,数を数える能力がない,という証明にはつながらない.たとえば獲物を取る際に,木の実を収集する際に,道を歩く際に数を数えているはずである.しかしこれは著者が再帰に関して述べているように,言語機能とは別の普遍的な脳機能を用いてるのではないかと思う.


関係節が存在しないが,関係節相当の表現が可能である.言語として再帰構造を持たないと気づいたのは「おい,バイター,針を持ってきてくれ.ダンがその針を買った.同じ針だ.」と独立した3文で発話したことがきっかけだったという(pp.316-317).この場合,3つの文における針が同一のものを指している.しかし,これは推論 (reasoning) であり,言語ではないと著者は述べている (p.320).


著者の主張によればチョムスキー派は再帰の定義を変更し,"推論" を包含するような理論にすることで問題点の解消を行った.それに対して著者は "物語と文章とは,それぞれ大きく異なる原則にしたがって生成されていると繰り返してきた (p.320)" というチョムスキーがかつて言ってきたことに矛盾すると指摘している.


自分の認識が正しければ著者の主張は言語として再帰構造を持たないということであり,脳機能としての再帰は当然のごとく存在する,というものであった.


自分が昔携わっていた研究を超ざっくり言うとContext-free文法の一種であるa_n b_n文法をニューラルネットを用いて学習しませう (それができればスタックを学習できたといえるでせう) .うーん,そのまんまじゃできないけれどカテゴリを与えてあげるとそこそこできまっせというものであった.その立場*1からすると,人間は言語機能よりも汎用的な機能としてスタックを持っており,それを用いて関係節相当の表現を行うための「推論」をしているという考え方に一票.


さて原題の "DON'T SLEEP, THERE ARE SNAKES" はピダハンにおける「おやすみ」の挨拶.寝ている間に蛇などに教われるおそれがあるアマゾンにおいては,人々は熟睡することは少ない.そこでは「ぐっすり寝るなよ」という言葉が「おやすみ」に相当するというものだ.これは非常に興味深い.著者が主張するエソテリックなコミュニケーションであるということをサポートするように思う.ピダハンがアマゾンを離れ,都市で暮らすようになれば,この言葉を「おやすみ」の意味で使われなくなるのではないか.形骸化して残るという可能性もあるが.

もう少し直感的な例を考えてみる.ある日本人の夫妻が家の中にとじこもって数十年過ごしたとする.その間,テレビやネットなど外界から隔絶されたとする.そのふたりが話す言葉はもはや我々の「日本語」とは異なるものになるのではないだろうか.自分たちが知り尽くした家において場所を指示する言葉は,他人の我々が理解できないものになっているのではないか.もはや,日本語が本来持っていた語彙の意味も,ふたりの間で変わってくるだろう.こんな例を挙げずとも,日本語のp「方言」という説明の仕方もあるのだけれど.

というわけで言語は文化と切り離して考えることができないという著者の主張は直感的に納得できる.


ピダハンには右手,左手にあたる言葉が存在しない,というところを読んで井上京子著の『もし「右」や「左」がなかったら―言語人類学への招待』を思い出した.

これを読んだのは学生の頃だから少なくとも5年以上前ということになる.訳者あとがきで気づいたのだけれど,本書の後半は井上京子氏にレビューを依頼していたらしい.なお,学生時代は言語学大好きっ子だったこともあり,大学院時代に井上先生の認知言語学の講義を履修していたのは今となっては良い思い出.


最後に本書で特に印象に残った部分を抜粋.エヴェレット自身は30年間ピダハン研究のフィールドワークを行っているわけで,文字通り一生を捧げる覚悟で研究をしている.30年という長期でなくてもその期間のすべてを捧げるワークをしてみたいものである.

チョムスキー言語学が広がったのは、彼のいたMITの学部が世界じゅうから優秀な学生を集めていたことにも預かっている。このあたらしい気風は、言語学の方法論にも新風を吹き込んだ。チョムスキー以前は、アメリカで言語学者になるということは、まず一年か二年少数言語の社会で暮らし、その言語の文法を記述することと同義だった。それがいわば北米言語学者の通過儀礼だったのである。だがチョムスキー自身はフィールドワークなどしていないのに、およそどんなフィールドワーク研究者よりも面白そうな論文を書いているとあって、チョムスキーの仮説に影響を受けた学生や新進の学者たちが、言語学の最適手法は帰納法より演繹法だ--村ではなく設備のととのった研究所でまずスキのない理論を書き、しかる後にどうすれば事実がうまく理論と符号するかを考えればいい、と信じ込んだとしても無理はない。

わたしの理解はこうだ。帰納的に進める言語学研究というのは、対象となるそれぞれの言語に「自ら語って」もらうことだ。フィールド調査によって集めた言語資料を吟味して分類し、次にその言語に見られる要素 (つまり単語や語句、文、文章などのことだが、それらにどういう名前をつけるかは、その言語を論じるのに都合がいいように当のフィールド研究者が考えればいい) を抜き出し、さらにはそれらの要素がどのようにして組み合わさるか (つまり、その言語の使い手が、文章なり節といったその言語の発話単位をどのように組み立てるのか、さらには会話や物語といった社会言語学的やり取りを構成するためにそれらの単位をどのように使うのか) を考えていくという手順である。
(p.353)


うーんなんにせよ面白かった! 後半部分は言語学に対する事前知識がない人にも理解できるよう記述されているので万人におすすめできる一冊であった.

*1:当時は(今も)チョムスキーもニューラルネットも全く理解していなかったけれど