「羊」をめぐる冒険


⇒negative_dialektik はてな村出張所

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 最近、千数百年の長きにわたって、日本史の記述の中で、悪者扱い逆臣扱いされてきた、蘇我氏の名誉回復につながる様な研究が進んでいます。
 進歩的な外交をしようとした蘇我入鹿らに反対する、中大兄皇子と中臣鎌足らが共謀して、クーデターによって入鹿らを殺害して、それを正当化するために、『日本書紀』の記述を改竄し、名前までも蝦夷のような印象の悪い名に変えて、蘇我氏は逆臣だった、という「正史」を残した、という学説が出てきています。
 私はこれを大変興味深い学問的研究だと思いますが、これをしも、「おぞましい歴史修正主義」と人は呼ぶのでしょうか。
 この事例からも想像できるように、「正史」というものは、強者・権力者が書き残すものです。しばしば自分の都合のいいように歪曲しながら。そこに書き記されている歪みを取り除き、実際にあった歴史的事実を明らかにしようというのが、「歴史的修正主義」の立場です。「修正主義」という言葉にはあまりに否定的なニュアンスが押し付けられていますので、これを、歴史的誤謬訂正主義、または、歴史的真実回復主義と言い換えてもまったくかまわないでしょう。

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「これをしも、「おぞましい歴史修正主義」と人は呼ぶのでしょうか。」呼びません。既に指摘がある通り、歴史修正主義批判とは史学的問題ではないからです。偽科学に等しい偽歴史学です――あれは。


科学を装うから偽科学であり、歴史学を装うから偽歴史学です。なぜ装うか。科学に歴史学に、すなわち学問に社会的な権威が存在するからです。その「権威」だけを借りて持論を主張する、その主張が差別的と指摘されて「学問の自由」を主張し、学問の自由なき学問は単なる権威でしかないと権威主義批判を展開する。挙句自身をガリレオになぞらえる。私は無学な人間なので最悪とまでは言いませんが、まぁ、ろくでもないですね。


科学にせよ歴史学にせよ、学問に社会的な権威が存在するのは国家や権力や体制や教会がその権威を認定し布告しているからではありません。市民社会がそう合意して信頼しているからです。市民合意に基づく信頼が問われるから、学問は象牙の塔ではいられず、社会的なコミットメントを問われます。市民的コミットメントとして、本来の仕事ではないにも関わらず、偽科学や偽歴史学を批判する学徒の存在は、尊い。だから「正史としてのホロコースト」という認識に基づく以下の立論は、成立しません。

 「ホロコースト」に関しても、問題は同じです。たしかにナチスドイツはユダヤ人を迫害しました。しかし、その被害者数や、「虐殺」の様態などについては、ドイツの極悪非道さをいやがうえにも印象的なものにしようとする連合国側の思惑による嵩上げがなされてはいないでしょうか。
 ニュルンベルク裁判や東京裁判の内容についても、このような観点から歴史的に再検討する余地が十分にあるでしょう。(と言っただけで「修正主義者」のレッテルを貼られるのでしょうか)
 また、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下による一般市民の虐殺は、アメリカ兵の生命を守るために必要不可欠であったというアメリカ側の論理=「正史」に対して、わたしたちは、それこそ「歴史的修正主義者」として立ち向かう必要があるのではないでしょうか、鳥居民先生のように。
 いずれにしても、歴史、特に近現代史の記述には、政治的なバイアスが掛かっていることを、我々は常に警戒する必要があります。
 ある種の「史観」を盲目的に信仰することの危険を、常に意識すべきなのです。

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正史とは権力者が決める歴史です。学的な歴史記述を史記の部類と考えておられるなら誤りです。武田泰淳が『司馬遷』で示したような問題意識を持っておられるのかも知れませんが、筋が違います。いわゆるカルチュラル・スタディーズや、あるいはナショナル・ヒストリー批判という歴史学の問題設定については御存知ですよね。国民の歴史とは近代の正史です。なお。

 私はむしろ、「この手の歴史修正主義に乗せられる輩」と「ホロコースト正史を無批判に妄信する輩」に共通するものがあるように思えるのですが。私は、出来れば、何にも惑わされることなく、自分の頭で考えたいと思っているだけです。それが漱石が言った「自己本位」ですし。

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漱石が言った「自己本位」とは「国民」が「国家」に動員されることに対する原理的な抵抗軸のことであり、それは明治日本において近代市民が誕生した瞬間でした。しかし漱石ら明治の知識人が開いた扉は大逆事件を転回点として国家主義によって閉ざされる。国家主義的な動員に抵抗することは、市民の義務です。


たぶん――negative_dialektikさんにはホロコーストが「イスラエル国民の歴史」であることに対する問題意識がある。「ホロコースト正史」という表現から演繹するに。そのこと自体は無下に棄却してよい問題意識とも思わない。しかし、と私は続けます。


※追記:やはりはっきり書いておきます。「「正史」というものは、強者・権力者が書き残すものです。しばしば自分の都合のいいように歪曲しながら。そこに書き記されている歪みを取り除き、実際にあった歴史的事実を明らかにしようというのが、「歴史的修正主義」の立場です。」――この記述に続けて史学的なホロコースト研究に言及することは論外。どう見ても「おぞましい歴史修正主義」です。本当にありがとうございました。

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国家を脱構築しない歴史学は歴史学に値しない。その命題を抑圧と主張して自由主義史観は台頭しました。自由とは「イデオロギーからの自由」ということです。国家の脱構築は彼らにおいてイデオロギーの問題でした。自由主義史観が主張した「階級闘争史観という正史」の話をしておられるなら、それはホロコースト研究とは関係がないことです。


にもかかわらず自由主義史観は南京事件否定論に接近し、あるいはコミットしました。なぜか。パトリオティズムを装ったナショナリズムを主張していたからです。それは、歴史学とは別問題です。国家の脱構築をイデオロギーの問題と考える歴史学においては、そうではなかったようですが。


パトリオティズムを装うナショナリズムとは、共同体の集合的記憶を国家に捧げ返す運動です。戦後日本において共同体の集合的記憶を国家に捧げることの困難を、左派批判と共に彼らは主張していました。後述しますが――加藤典洋は戦後日本における共同体の集合的記憶の困難を『敗戦後論』において主張し、その捧げ返す先を靖国神社と借定したために批判されました。


村上春樹も述べたように、共同体の集合的記憶は、時にトラウマとして規定され、喚起されます。たとえばヒロシマ・ナガサキとして。たとえばホロコーストとして。村上春樹は、そのことをやむをえないことと見なしました。だから、トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶を、いかに供養するか。そのことに対する作家の回答として最初に書かれたのは『羊をめぐる冒険』でした。四半世紀前のことです。私たちは、虚無へと供物を捧げる。それが私たちが生きるということで、しかし供物が人柱であったなら? そのことが繰り返されるなら。


羊をめぐる冒険

羊をめぐる冒険


批判されるべきは何か。村上春樹も批判するだろう、イスラエル国家の問題とは、トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶を、捧げ返す依り代としてあることです。その国家は、パレスチナに対して圧倒的な暴力を行使している。


「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」の依り代として、イスラエルという国家は機能しています。そしてその圧倒的な暴力は、パレスチナの人々を殺し続けている。だから、私たちはイスラエル国家を批判しなければならないし、村上春樹もそれを「The System」として批判しました。「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を暴力装置としての国家へと捧げ返さないために。そうさせないために。


そのためには「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を、暴力装置としての国家へと捧げさせないよう供養する必要があります――絶対に。鎮魂のために存在する国家は、必ず捧げるための血を欲します。そして血を流す。「鎮魂のために存在する国家」というのがそもそも矛盾だからです。今ではさして議論にもならないしそれで構わないと思いますが、私は国立追悼施設の建設に賛成です。


id:finalventさんは「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」の依り代ではない、あるべき国家としてのイスラエルの可能性について『極東ブログ』で幾度も指摘しています。私もそのことを願う。


近代国家は「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を、捧げ返させるための依り代ではない。しかしトラウマを負った共同体は集合的記憶の依り代として暴力装置を求める。そして、トラウマとして規定された集合的記憶を共同体において喚起させ、捧げさせるために国家が存在し、機能する。ホロコーストが「イスラエル国民の歴史」であるとは、そういうことです。トラウマを忘れるな――と。私たちはイスラエル国家に典型的なその構造を見ますが、他人事ではまったくない。


沖縄の、アイヌの、そして「在日」の人たちの「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」は、捧げ返される先としての国家を持ちません。捧げ返す国家を持たない共同体の集合的記憶は、ナショナリズムという動員の構造を端的に撃つ。だから私たちは「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を、それを持ち合わせるとして、国家へと捧げ返しはしない。それが地獄への道と知るから。そしてそのことは「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を蔑ろにすることではない。


かつて山本夏彦は、中国人は恨みを忘れない、ユダヤ人も恨みを忘れない、世界で日本人だけが、恨みを忘れる、と皮肉として言いました。問題は、トラウマとして規定された集合的記憶を共同体において喚起させ捧げ返させるために国家が存在し機能することで、その動員の構造としてナショナリズムはある。私は左派ではないので、左派なら「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」の脱構築を究極に目指します。集合的記憶としてのホロコーストというトラウマに対しても。

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敗戦後論 (ちくま文庫)

敗戦後論 (ちくま文庫)


10年前、自由主義史観の台頭と期を同じくして、加藤典洋が『敗戦後論』を著して起った議論がありました。加藤典洋は「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を論じました。私たちは、あまりにそれを蔑ろにしていたのではないか、と。そして、その供養の必要を説いた。


自由主義史観とは明確に一線を画していた加藤は、供養に国家が必要とは決して説かなかった。しかし加藤典洋は、その集合的記憶の依り代を暫定的にせよ靖国神社に求めた。それは、動員の構造としてのナショナリズムへの加担であって、知的不誠実である――と批判されました。靖国神社へと捧げ返させるために「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を言挙げることが悲劇の反復としての茶番である、と。


加藤典洋の問題提起の趣旨は、私たちが「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を公的に抑圧し、蔑ろにしてきたことで、それを靖国神社へと捧げ返させることではありませんでした。その公とは市民社会の公でしたが、それはあまりに文芸評論家の発想だった。


イスラエルという国家を依り代とする「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」は、蔑ろにされるべきではありません。その脱構築を究極に目指そうとも、私たちはそのトラウマに対して責任を負う。沖縄の「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」に、私たちが責任を負うように。最初に批判されるべきは、国家を依り代とするナショナリズムです。


「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」が、国家という暴力装置を依り代とすることを批判するためには――そして国家という依り代を求める共同体の集合的記憶の脱構築を企図するなら――トラウマの依り代としての国家とその暴力を批判することと同時に、人類の責務としてトラウマを鎮魂しなければなりません。恨みを忘れないがゆえの殺し合いを繰り返させないために、私たちは反ユダヤ主義という呪いを人類社会から祓う使命を負う。サイモン・ウィーゼンタール・センターを煩わせるまでもなく。また国家という暴力装置に担保される刑法の手を借りるまでもなく。


その使命を御免被ることはまったく構いませんが、ならイスラエルを非難するべきでもない。論理的整合性の問題です。「気が済むまで殺し合っていればよい」ではなく殺戮を抑止したいのなら。反ユダヤ主義は言論ではありません。ホロコースト否定論は学問を偽装し「学問の自由」において公的に主張されることの正当を担保しようとする反ユダヤ主義というゲロ以下の何かです。そんなもんは「学問の自由」の横領でしかない。――が、日本ではそうではないらしいことは西岡昌紀以来よく知っていることですが。

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反ユダヤ主義が公的に主張され続ける限り「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」は静まりはしないし、それは暴力装置としての国家という依り代を求める。そして、その暴力がパレスチナの人々に向けられる。そのことをそびえ立つクソと思うなら、負の連鎖と思うなら、反ユダヤ主義という人類社会の呪いを祓う必要があります。人類社会の構成員として私たちはそのことに責務を負っている。


私たちが「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」に責任を負うとは、つまりホロコーストを反省するとは、そういうことです。なお、御祓いと禁忌は違う。祓っているところを指して禁忌を叫ぶのはジョークですか。レトリックなら悪質です。


虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

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人類社会の構成員として私たちがホロコーストを反省することと、イスラエル国家を批判することは、同じことです。つまり国家という動員のシステムに対する――虐殺器官に対する――脱構築として、その批判はある。だから、人類社会の構成員として私たちがホロコーストを反省することとは、断じてイスラエルを軽々にナチス呼ばわりすることでも、「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を蔑ろにすることでもない。村上春樹が「正論原理主義」と指したのは、そうした無思慮なイスラエル批判のことだったと私は思います。


「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」の依り代として国家が機能することを、つまり靖国神社を、ろくでもないと思うなら、私たちが私たち自身で「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」に、つまり恨みを忘れない人たちに、責任を負い、恨みを供養し、鎮魂しなければならない。――人類社会の構成員の責務として。加藤典洋が提起した問題を2009年において補足するなら、そうなります。


⇒[書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット): 極東ブログ

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 ・あらゆる歴史研究、あらゆる「正史」批判は、開かれたものであるべきであり、特定の主題のみが聖別され、その研究自体が禁圧されるようなことがあってはならない。ホロコースト研究も例外ではない。「研究すること自体が、あるいは疑問を持つこと自体が、ホロコーストの被害者を傷つけるセカンドレイプだ」という類の主張には同意できかねます。それは、ほとんど倫理的恫喝と言うべきでしょう。
 (ホロコースト正史派のみなさん、この考え方はオカシイですか?)


 ・私は、まっとうな研究や正史批判の結論として、「やはりホロコーストはあった」「あったが、規模は言われているほどではない」「ホロコーストと呼ぶのは誇張である」「虐殺はほとんどなかった」といういずれの結論が出てもかまいません。というか、研究に先立って、ある種の結論のみが選好されていたり、忌避されること自体が、学問的態度とは言えないでしょう。
 (ホロコースト正史派のみなさん、この考え方はオカシイですか?)


 ・たしかに「ホロコースト否認派」の主張の中には、トンデモも混じっているかも知れませんし、愚かな事実誤認もあるかもしれません。ですが、逆に、「正史派」の主張には、露ほどの誇張がない、と言い切ることが出来るのでしょうか。それは、現時点で、私には分からないので、自分の出来る範囲で勉強したい。
 (ホロコースト正史派のみなさん、この考え方はオカシイですか?)


 ・私としては、「修正主義」がトンデモであるならば、それは批判されねばならないと考えるし、同時に、「ホロコースト正史」が「神話」であるならば(「神話」を含んでいるならば)、その「神話」は脱神話化されねばならないと思います。


 ・これは、素朴な疑問ですが、刑法という国家権力の暴力装置を使ってまで、疑念を呈すること自体を禁圧するような「歴史的真実」って何なんでしょうかね。これはあくまでも素朴な疑問、違和感に過ぎませんが。真実なら真実らしく堂々と、鷹揚に構えていればいいのに。という訳にも行かないんでしょうかね?

negative_dialektik はてな村出張所


真実が存在しない、という命題と、私たちが真実を目指して対話することは両立するのですが、真実が存在しないという命題を対話を拒否する口実として持ち出す人には事欠きません。東浩紀のことを思わないでもない。


学問とは、私たちが真実を目指して対話してきた歴史の成果です。「私たち」はraceとその集合的記憶を横断します。真実を目指して対話するとき、私たちは私たちが人類であることを信じうる。それが普遍ということです。だから学問は素晴らしいのです。学問の理念とは、異なる「トラウマとして規定され喚起される共同体の集合的記憶」を持つ私たちが、真実を目指して対話するとき人類でありうる、ということです。


アドルノの否定弁証法が、その理念に対する異議申立として示されたことはその通りです。真実を目指して対話することが人類の進歩と調和への道とか、ない、と。しかし、アドルノ的な真理とは、対話では目指されない真実のことです。アドルノは対話を懐疑しました。真理を自明の前提としないことが批評であることと、真理を盾に対話を拒否することは違います。単純に「無知の知」はダイアローグを喚起するためにあるということです。


アドルノは真理を目指しました。negative_dialektikさんにおいては、真理は前提でなく目指すものですか、それとも対話を否定するための概念ですか。真理を目指して対話を懐疑することと、真理が存在しないことを真理として述べることは、違います。その部分がレトリックでないなら――知的な誠実とはどういうことか。