日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

蘇る五感

友人の所属する地元の吹奏楽団の定期演奏会だった。第14回演奏会だという。昨年より指揮者が変わった。傍目に聞いても若い気鋭の指揮者の下で音楽に一段と輝きを増したように聞こえた。

異なるアマチュア吹奏楽団には会社員時代の先輩が所属している。クラシック音楽の演奏会とは異なりいずれの楽団とも演奏会には司会者が入るのだった。曲の解説、団長挨拶、新入団員の紹介、そして今回は新任指揮者の挨拶の時間が設けられていた。司会者さんは彼にこう尋ねた。「東京からこの地に移住されてご自分の中で何かが変わられましたか?」と。彼の返事には大いに自分も頷くのだった。

「都会にいると五感が鈍っていたようです。こうして山梨に来て自然に触れることでそれに気づきました。本来の五感を取り戻しましたのです。美味しい空気、清冽な水、新鮮な野菜・・・。すべてがプラスに働き自分と自分の音楽を変えてくれました。」

その通りだ、と僕は思った。自分はガン病棟に何故いたのだろう。入社して三十五年、ガス抜きはしていたがただ働いた。それは楽しくもあったが毎日の通勤電車、それに休日となれば行楽地を求めるひたすら長い車列に疲れ切っていた。街はいつも人に溢れ気ぜわしい。動脈硬化している日常。メンタルも病み精神科のお世話にもなった。そんな中で過ごしてきた。いつしか体の中に何かが溜まりガンと言う分かりやすい形で噴出した、僕はそう思っている。病床でこの地に引っ越そうという夢を得たのは天啓といえたが当然の帰結でもあったのだろう。山の風景を毎日見ている。雲の中で暮らしている。鳥が朝を告げ風が天気を示してくれる。太陽は一日の進み具合を教えてくれる。人間としての生活において不便さはない。その気になれば渋滞も信号も一切ない道路を使い数十キロを移動することもできる。これ以上何を求めるのか。

そう思うのは自分だけではなかった。家内は都会生活を離れ生き生きとしている。毎日の畑仕事が目に見えぬ力を与えているのだろう。嘘みたいね、そう言う。自分と言えば指揮者氏と同様にやはり感性が変わったと思う。彼との違いは自分はその結果として何も生み出していない事だった。指揮者氏はこんなに素晴らしい音楽を紡いでいるのに。

結果などいつか出るし、それを評価する者もいない。自分と身の回りの世界がただ楽しく満たされればよいのだ。そんな世界に自分は居るのだから。五感は自分も蘇った。ありがとう、天と地、風と水。そう口にする。

毎日南アルプスを見ている。目の前の甲斐駒が岳は日々の動きと季節の移ろいを教えてくれる。この山の花崗岩からは美味しい水が湧き出る。海抜900メートルの空気には夾雑物が無い。あと何を書こうか。

美人とは罪なもの

「あの建物は?」「レストランですよ。」

そんな会話だった。森の中の職場。幾つもの建物があるがそこはガラス張りだった。外から見てもレストランと分かるのだが、何故そんな質問が出たのだろう。ほら、レストランだって。行こうか…。成程、彼は自分達を勇気づけたかったのか。だから自明の事柄を他者を通じて仲間の間で共有し、共通認識としたうえで次の行動を決めたかったのだろう。なかなか策士ではないか。すると四人組の残り三人はガラス窓の向こうを覗き見て唱和するかのように言うのだった。

「ああ、美人ばかりで入れないよ。」「だよな、敷居が高い」

そうかなあ。自分から見れば彼らは今風の若者だ。ダボっとしたジーンズをはいているし足だって短くはない。ニット帽も被っているではないか。そもそも太っていない。しかし少しだけ野暮ったいようにも思えるがそれはもしかしたら内面からにじみ出ているようにも思えた。しかし自分がもしあの年齢だったら間違えなくもっと冴えない格好だっただろう。肥満体には着用できる服も限られた。

学生時代に行われたイベントの中で一番苦手だったのはコンパだった。合コンというやつだ。通っていた大学は渋谷駅と表参道駅の中間地点にあった。冴えない自分が通うには余りにも敷居の高い学校だった。敷居の高さは女性の可愛さや美しさから来ていた。多くは看板の文学部・英文科の学生だっただろう。経済・経営・法学、そんな学部には女子学生もほとんどいなかったから。アイビー、ハマトラそしてサーファー。表紙だけしか見たことのない雑誌、アンアン・ノンノンのページがそこに在った。自分は町田駅の裏通りで買ったジーンズとシャツだった。それさえも何本も何着も試着して痩せて見えるようなものを探したのだった。

仲間内にはやはり横のつながりを広く持つ奴もいる。テニスのサークルを通じて話を持ってくる。「今度うちの短大の子たちと合コンあるよ」と。何対何?あと何人? 淀んだ池に撒かれた餌に群がる鯉のように、恋に縁のない男たちは群がるのだった。こんな自分でも人並みに恋愛をしたいのだから勇気を振り絞って自らを省みずに参加する。

三対三は厳しい。五対五はすこし呼吸が出来る。見栄を切って大きな自慢話をする男。え、こいつこんなに気配りできたっけ?と思うほどマメな男、ニヒルに横を向いてタバコを吸う男、冗談を言って場を笑わせれば俺のもの、そう言わんばかりに妙に明るく振舞う男。話すこともなくただ頷くだけの、強いて言えば優しさが取柄です、と演じている男。いつもの仲間はそれぞれの普段とは違う顔になる。演ずると書いたがそれは無意識の所作だった。人間の持つ幾つものベクトルの中で異性に対して一番有効と思えるものを前面に押し出すのか、仕方なくそうするのだろうか。何を話題にして、どう話してよいのか?分からない。

壁の花という言葉がある。立席パーティなどで目立たぬように壁際に立つ女性。声をかけられるのを待っている、そんな会話の輪から外れている目立たない女性。同様に存在を隠しひっそりといや恥ずかしそうにしている男性に向けたそんな言葉はあるのだろうか?きっとないだろう。自分はそうだったがあまりに少数派すぎて単語が生まれなかったのに違いない。青年期の男とはそんな機会の為に生きていたから。…自分は何がきっかけでそんな垣根を取り払ったのだろう。実際の女性と意を決して話をしたら思いのほかに気安く話が出来た。何だ、これだけの事か。

彼らはレストランの前で立ち止まって話している。一人がこう言う。「じゃ自称イケメンの俺がまず行ってみるよ」と。お、やはりテニスサークル員がここにもいたか。結局残りの三人も続いていた。我も負けじ、だろう。

ガンバレガンバレ。僕は微笑んだ。彼女たちは確かに罪なほど美しいのだね。だけど最近僕もわかった。人間の価値は容姿ではないよ。また美しく見える彼女達も心に何らかの影を持っているただの人間だよ。ガラス越しに見ていたらなんと背の高いモデルの様な女性がメニューをもって彼らの机に向かっている。おお彼らはどうするだろう。しばらくは高みの見物か。

煙吐く家

アルプスの少女ハイジだったか。ハイジがおじいちゃんと住んでいた家からは煙が出ていたように思う。小学校六年生だった。そんな年齢の男の子にでも憧れる女の子がいるものだ。明子ちゃんと言う名前だった。彼女とその親友の友子ちゃんと三人で何故か交換日記をやっていた。快活な明子ちゃんがハイジでおとなしい友子ちゃんはクララ。そして僕はペーターだった。それを決めたのは明子ちゃんだったが、僕はハイジを追って高原を走りまわるペーターのようにドキドキした。少しだけ大人びた体つきの明子ちゃんといるとなぜか息が苦しくなり胸がキュッとしたのだった。三人でハイジを模した日記か。当然ストーリーを知る必要がある。テレビアニメを見始めた。画面の中、黙々と煙を吐く赤い屋根の家が印象的だった。正確には暖炉からの煙突だろう。

煙突から出る煙は、そこにハイジとおじいちゃんの様な温かい家庭がある、そんな印象を幼心に持った。煙突と煙に、僕は憧れた。

高原の家に引っ越す際に暖房器具を考えた。海抜九百メートルなのだ。海抜百メートルあたり0.6度気温が下がる。横浜からどの季節も5から6度は温度が低いことになる。冬の日に実のところ朝はマイナス10度を切る日もあるという。選択肢は色々ある。この地に住む友人は夜間電力を利用した蓄熱器を使っている。驚くほどに暖かい。家の外に巨大な灯油タンクを備えた家もある。やはり石油が一番と言う。自分はどうしよう?ハイジの家。そう、やや夢を見たかったのかもしれない。薪ストーブを選んだ。しかしその実力は分からないのだから大型のエアコンも備えた。二つあれば何とかなるだろう。

薪の焚きつけは初めは苦労したが今は手慣れて来た。薪ストーブはその鋳物の表面温度が200度辺りまで上昇する。300度近くなると燃やしすぎだった。時にガラス扉を半開きにして空気をたくさん入れるとこれぞと燃える。ハイジはこの位の温度の小屋にいたのだろうか。

明け方はエアコンに頼るのも良いが早起きしたので薪を燃やした。重ね着をして戸外に出ると煙突から煙が出ていた。それは北西の風を受け南東の富士山の方向に流れていった。ああ、我が家もハイジの家になったな。そう思うのだった。自分の好きな絵画の一つに十六世紀のオランダの画家、ピーター・ブリューゲルの「狩人の帰還」という絵がある。雪の山村に狩人の一行が獲物を片手に帰ってくる、そんな絵だった。その山村の風景描写が素敵に思う。はて、描かれた民家の煙突から煙はでていただろうか?僕は自分の部屋に飾っているコピーのポスターをじっくり見た。帰還した狩人の真横で焚火をしている村の婦人たち。谷間にある民家は絵にすると小さいが、なんとなく煙突から煙を吐いているように思えた。我が家と同じだ。いやもしかしたら吐いていなくてはいけない、そういう想いかもしれなかったが。僕はこの絵の中の住人になりたかったのだ。いつかそれが叶っていた。

ハイジの家、ブリューゲルの絵の世界。同じような風景の中に煙を吐く我が家があるという事がひどく自分を嬉しくさせた。まだ高原の冬は、自分達の冬の生活は始まったばかりだった。♪口笛はなぜ 遠くまで聞こえるの あの雲はなぜ わたしを待ってるの ...。明子ちゃんと友子ちゃんと、ともに歌った世界だった。

素敵な冬よ、もっと寒く、雪も沢山ふっておくれ。いや我が家は還暦越えなのだからお手柔らかによろしく楽しませておくれ。そんな事を思うのだった。犬の散歩で外に出たら相変わらずの寒風だった。煙突の煙は確かに揺れるが僕は毛糸の帽子をかぶり直した。煙吐く家は楽しいけどやはり早く春が来てほしいな、と軟弱に思った。

朝は零度迄冷え込んだ。しかり冴えわたる好天だった。煙突の煙は南東に吹くのだった。ああ、ハイジとおじいちゃんの家だ。ブリューゲルの世界だ。

僕はこの絵に世界に住みたいと思ったのだった。そして今、住んでいる。

冬の森

もうそろそろすっかり冬模様だ。ちらちらと細かい白いものが舞っている。背景の山、さすがに3000m級の峰々は冠雪した。前衛の山は数日前の朝は真っ白だった。しかし翌朝は雪は消えていた。しかし今日はまた小雪が舞った。こんな風に少しづつ変わっていくのだろう。

職場は深い森の中に在る。ブナの混じるアカマツの森だった。そんな中を舞う白く小さな花びらを見ているとあながち冬も悪くないな、そう思うのだった。

職場の森に佇んでいるとこんな季節なのになんだか音が弾んでいる。小さな鳥が木々の間を飛んでいるようだ。おや、橙色がかった茶色い小鳥だ。ジョウビタキだね。ロシアは住みずらいのか、越冬してきたか。彼は小さく羽ばたいてまた木を移る。彼が飛び去ると枝が揺れる。尤もそのはるか上でアカマツが八ケ岳から吹いてくる冷たく乾いた風で悠然と揺れている。

忙しそうな彼は行ったり来たりしている。その様を見ていると頭の中に旋律が浮かんで来た。やはりその音も行きつ戻りつだった。楽天的な活発さがあった。この季節だからインフルエンザやコロナの罹患防止で戸外でもマスクをしている。それが幸いした。頭の中で浮かんだメロディを小さく口ずさんでいたが誰にも聞こえない。ジョウビタキの動きを見ながらだんだん自分の中で、口ずさむ旋律が展開してくのだった。

家に帰ったら聞いてみよう。半年近く聞いていなかったかもしれないから新たな発見もあるだろう。

PCを立ち上げた。えーと、ビゼーだ。小澤征爾指揮で水戸室内管弦楽団のCDがある。友から借りたものだ。ビゼーが交響曲を書いていたことも知らなかったがフランス風な色彩感は抑えめで、しかし明朗な溌溂さがあり楽しい曲だった。指揮もオーケストラも冴えわたっている。流石だ。渡り鳥が森を楽しむ様に似ているように思った。

ここしばらくは毎日聴くだろうな。高原に引っ越してきた自分。明らかに以前とは違うことを自覚している。風景を見て天候を感じ、風の匂を嗅ぐ。その中に感じることは十はあるだろう。そして頭の中の音楽が容易にかろやかに再現されるようになった。たいしたことが起きるわけでもない毎日はメロディに溢れ色ずいているではないか。

冬至まであと一週間か。そして年を越す。冬の森で遊ぶジョウビタキは北に還るかもしれないが、僕たちも行きつ戻りつ少しづつ進んでいく。冬から春へ。森も又喜びにあふれる事だろう。

我が家から見る標高2966m。碧芙蓉・甲斐駒が岳にも雪がついた。白く色づく季節だった。

https://www.youtube.com/watch?v=mOPzzhOpSKc レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨークフィルの演奏にて。実に溌溂としている。

愛の挨拶

「おはようございます」、失礼にならぬ程度に大きな声を出していた。すると「愛の挨拶」が頭の中で流れて来た。エルガーが作曲した誰もが知るであろうあの曲だった。たしか日本語で歌詞が付いていた。あーさのあいさつこんにちは?だったか。いや、あーいのあいさつこんにちはだったかもしれぬ。

七年近くヨーロッパで暮らしていたら帰国して違和感を感じた。店先で、駅で、病院で、誰も挨拶を交わさないのだった。コロナだから?違う。それが流行るより前の話だった。例えばコンビニで買い物をする。品物をレジに渡す。会計をする。店を出る。果たしてお店の人と会話をするだろうか。ここでいう会話とは挨拶だ。同じグループなり顔見知りには妙に相手に気を遣うのだが属性が異なってしまうといきなり互いにスルーをする。まるで視界に入らないかのようだ。日本人は単一民族だから表情を見て相手が何を考えているのかを察する文化なのだろう。わざわざ話をするのは野暮なのだろうか。しかし今日本に住む外国人は増えている。人口比率は全国で3%という。この地ですら2%と役所が教えてくれた。それでいいのだろうか。

帰国してからしばらく、コンビニのレジやスーパーのレジで朝の挨拶、昼の挨拶、夜の挨拶をしていた。わざとではなく日常の延長だった。相手は驚くか普通に返事をするか、色々だった。自分はそんな挨拶の習慣が抜けなかったのだった。しかし中学生と高校生という多感な時期の娘達から言われた。「恥ずかしいからやめて」と。

職場には毎日数百名は超えるだろう来場者が来る。挨拶は自分にとってはかつては普通の行為だったのだが、ガンを罹患してからは再び日常の行いになっていた。挨拶のあと世間話に花が咲いたなら嬉しい。だからこれまで以上に気軽に話しかける。知らんぷり、仏頂面はつまらない。人と話すことで人生のヒントや生きるエネルギーが貰えるから。それゆえ見ず知らずのお客様に対して挨拶をしないわけにはいかない。新しく始めた仕事では、だから大きな声で自分を元気づけるように挨拶をしている。おはようございますに加えて、寒い中ありがとうございますなどと。そこから世間話に発展すれば嬉しいし黙殺されたらああ仕方ないな、やはり日本だ、と思うだけだった。

数を数えたわけではないが体感的にこうだった。対応はまず五つに分類できそうだ。①全くスルーする人 ②目線を合わさずにうなずく人 ③会釈をする人 ④口は動かすが声は出さぬ人 ⑤そして声に出して挨拶をしてくれる人。比率としては①②で50%、③④で30%。⑤で20%、そんなところだった。思ったより⑤の比率が高かったのはこの場所が観光施設であり日常の風景とは少し違うからかもしれない。

なんにせよ、知らない人同士で挨拶が飛び交いそこから会話の輪が広がれば楽しいのに。そう思う。外国人も多く来る。彼らにもこう思われたい。「日本人てフレンドリーではないか!」と。仲間内では笑顔と親切、知らない世界では無関心。それではつまらない。

挨拶する人・しない人。色々いるが挨拶をして笑顔で暮らせれば、生きる力とヒントを貰えれば、そしてあの「愛の挨拶」のようにふわりと幸せが盛り上がるのなら尚楽しいだろう。

君とも毎朝交わしているね。愛の挨拶を。すると何かいいことが起きそうに思うよ。

https://www.youtube.com/watch?v=ecM7_3rs5gU

あれは富士山ではない

皆さん、前に見えるのは富士山ですよ。そうバスガイドさんは言うのだった。

高校の修学旅行だった。広島市の高校が皆そうなのかは分からぬがそれは初日に京都で乗り換えて富山へ。立山黒部アルペンルートを経て二日目には箱根、そんな中部山岳地帯から関東の観光地を回るルートだった。今思うとどこに泊まったのかは思い出せない。箱根は小涌園だったが富山はどこだっただろうか。憧れの女子とは違う班だったのであまり気合が入らなかったのかもしれない。

立山黒部アルペンルートでガイドさんは教えてくれた。右手に見えるあの山が薬師岳ですと。そして何故だろうか続いて「いい日旅立ちを」を歌ってくれた。ウグイスのようなとても綺麗な声で。それが初めて見る北アルプスの山に似合っていた。ガイドさんは富山の人かも知れなかった。故郷の山は誰しも好きなものだから。黒部ダムには驚いた。こんな山奥にすごいダムを造ったものだと。

バスは楽しく走り、たぶん塩尻峠を越えたのだろう。まだ長野自動車道は開通していなかったのかもしれない。峠からバスガイドさんは前を指してこう言うのだった。「皆さん正面の山、あれは富士山ですよ」と。確かに小さな円錐形が見えた。広島の高校生だ。富士山を初めて見たのだろうか、ワーッと歓声がわいた。

僕は言った。「あれは富士山ではないよ」と。形も違うしこんなところから見えるはずがないと思ったのだった。

広島に住む前に自分は横浜に住んでいた。小学校の校歌にも富士山は登場した。毎朝富士を見ながら通学していた。そこで見る形とは違うのだ。また、長野の塩尻から富士山が見えてたまるか、とも思った。距離が遠すぎる、と。

横浜から見る富士山は左手に宝永山の爆裂火口跡の顕著な盛り上がりがある。不等辺な円錐だった。まずその前景に丹沢の山並みが屏風のように連なるのだ。後年自分は富士をさまざまな方向で見ることになった。真西の富士宮あたりから見ると見事なガレがキズ跡のようにある。大沢崩れだ。南から仰ぐとあの宝永山の爆裂火口が痛々しく見えてその後に見事な円錐が立っている。毎春に僕はスキー板をはいて宝永山の下まで登っていた。富士は近くで見るとまた違う形だった。ものの見え方も一つではないのだった。静岡県三島市では合計五年間は働いたのか。会社のトイレから見る富士は宝永山を前景にして圧巻だった。富士のベストショットに思える。

還暦を過ぎて残った時間をゆっくり過ごそうと山梨に引っ越した。そこは長野のあの塩尻峠の近くだった。地図を見れば一直線に伸びる釜無川の谷の向こうに富士があった。絶好の展望地だと知った。こうして再び富士は日常の山となった。それが富士と気づくには時間が必要だったのは五十年近く見ていた横浜からの富士山とは違う形だったからた。北西から見るとは北側の斜面がやや緩いスロープだと知った。あの宝永山の爆裂火口は見えないのだった。

あの素敵な声のバスガイドさんのアナウンスを即座に否定した自分は間違っていた。自分のガイドを否定された時のあの表情。僕は彼女を間違った思い込みから傷つけたのかもしれなかった。自分には柔軟さがなかったのだ。

山口百恵のいくつかの歌は今もスマホで聴いている。「いい日旅立ち」を聞くとガイドさんが教えてくれた薬師岳の姿があの声とともに浮かぶ。まだ自分はその山頂を踏んではいない。

薬師岳から富士山は見えるだろうか。見えたならこう言うだろう。「ガイドさん薬師岳に来たよ。ああ、あんなところに富士だ」と。

 

形が違う。南に宝永山が無いではないか。ここから見えるはずもない。そんな思い込みがあった。確かに富士は四周ぐるりと同じ形ではない。自分は西からそして南から見る姿にあまりにも見慣れていたのだった。これからは毎日東から見るようになる。いずれそれが正しい姿になるのだろう。

富士山も懐に入り登り始めると表情が違う。山スキーで登る富士二ツ塚、二月。

五つのひらがな

ピンポン。玄関のチャイムが鳴った。この時間に?ははぁまた何か買ったのだな。自分とて本人以外には意味をなさない趣味のものなどを良く買うのだから、ネット通販で人の事は何も言えない。

毎年この日が来るとそのひと月もふた月も前からどうしようかと考えあぐねていた。なにか身に着けるものをあげるべきだった。指輪は意味深で罪深い。腕時計は時を刻む。自分達も時を刻みたい。しかしそれは昨年あげてしまった。スカーフが良いだろうか?いろいろ迷った。しかし渋谷のファッションビルは自分には余りに敷居が高かった。男一人で、ましてや冴えない男が行く場所ではなかった。駅の近くには「〇1〇1」があった。109は入りずらかったがマルイならば男性モノも売っているから辛うじて入店できた。しかしスマートでお洒落な店員が寄ってくると、怖かった。

「どんなものが良いですかね?」

そう話しかけるのにも緊張の汗が出るのだった。勇気を絞って交際を申し込んだ相手に贈り物をするために、また違う勇気が必要だとは思わなかった。

彼女が妻となり母となる。呼び方は愛称から名前にちゃん付け、ママ、そして、あなた、更にねぇ、に変わる。いつしかあの勇気を友達にして過ごすことも、甘酸っぱい日々も無くなってしまった。

「どうせあなたの買い物だろ?早く開ければ」

妻は箱を開けて「まぁ」と声を上げた。「お母さんありがとう」と書かれた紙が挟まったそれは暖かそうなパジャマだった。僕はそのフランネルの生地を見て何故か涙が出てしまった。何という事だろう、日常と言う一枚の紙が幾重にも重なっていく、そのさなかに感謝と言う言葉が埋まってしまったのだ。僕は一体何をしていたのだろう。確か一年前の今日もそう思った。心を新たにしたのに、三百六十五枚の紙が重なるうちに再びそれは埋まっていた。しかし娘は憶えている。そして実行する。

洋菓子店でケーキを買った。もう二人だけ。だからラウンドは食べられない。ショートケーキとした。これでは小さすぎて「お誕生日おめでとう」というチョコプレートは乗るまいしサプライズにもならぬだろう。しかし一応嬉しそうだった。これを見て妻は戸棚から古い時計を出してきた。「これよ、昔くれたでしょ。電池切れだと思い時計やに持って行ったのだけどもう動かないんだって」というのだった。覚えている。ともに時を刻もうと彼女に送ったアニエス・ベーの腕時計だった。カラフルな文字盤と緑の革バンドが似合うと思った。まだあったのか。壊れてしまっても。

僕はその時計に又動いてほしくなった。ムーブメントを変えれば動くまいか?いや時計は全てが形が違うから無理だろう。分解されるとさらに寂しくなるではないか。

ありがとう。その言葉はひらがな五文字にすぎぬがとても重い。素直に言うのも気恥しい。今日は下手な腕を振るってご馳走を作ろう。ワインは赤を取り出した。乾杯の前に大きく息を吸ってから、言おう。