絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

面白さのふしぎ・参照快感

ヱヴァ破をみた。

 プリシラ・ロバーツのボレロみたいでした*1。好きとか嫌いとか肯定するとかしないとか、そういう細けえことはどうでもいいんだよ。いや肯定するけどね。されたけどね。徹夜明けみたいに「100%わかった」気がしたもん、見終えてすぐは。まあ歌謡曲は最初劇伴じゃなくてBGだと勘違いしたけど。ダミープラグ起動すると流れ出すのあの曲が。超こわいなにそれ。

ヱヴァ破の、ていうかエヴァのきらいなとこ。

 そんな「100%面白い」ヱヴァ破だけど、劇場で観てて、二ヶ所だけ、すっごく違和感をおぼえたシーンがあります。いわゆるサービスシーンというやつだろうか、二ヶ所ともギャグとして、14才の少女をほぼ全裸の姿にしていたのね。物語上まったく必然性はなく、なおかつ少女の裸体に欲情できないぼくには、それはとても不要に思えたし、すっかり素に戻されて迷惑ですらあったんですよ。
 だってさあ、もういらないじゃんか、裸。テレビじゃないんだからそれで視聴率を稼ぐ必要はない。まさかあのシーンだけを目当てに何度も劇場に通うやつはいないだろう。もしかしたらいるのか、だとしたら申し訳ないが、きみたちのおかげでぼくは、ロリコンを憎むほど嫌いな友達に詰問されて、すごく困ったのでどうにかしてくれ。ぼくはヱヴァをシンジ君の物語として観ているから「綾波やアスカの裸を見て欲情しているのですか?」なんて問われても「そんなひともいるのかなァ」としか答えようがない。はっきり言えば女のキャラクターがどう入れ替わろうと男だらけになろうと問題ではない(もちろんヱヴァ破における「恋愛感情を肯定することによる成長描写」は素晴らしかったけど、おヌードはなくてもいいよねえ)。
 あと、別の友達が「一話だけ出てきた白髪のほもを何で皆好きなのかわからない」と書いていたけど、さんざん悲惨な目にあった主人公を助けに来てくれたかもしれなかった奴だぜ。そりゃ記憶に残る。もし関係性が希薄に見えるとしたら、彼がシンジをずっと前から知っていた事実を忘れてるだけだと思う。ずっと見守っていたキャラクターが一話だけ出てきて退場する。稀少だから価値が生まれるんだよ。けっして彼がほもっぽいから皆が好きなわけじゃないんだ。白髪もほもも、稀少価値の具体的描写に過ぎない(作中における)。
 といったわけで「どうせ児童ポルノなんでしょ」という批判や「キャラ萌えなんでしょ」って感想が出ること、出る原因が内包されてるところが、エヴァのきらいなところです。おれは痛くもない腹をさぐられるのは嫌なんだよ!

サマーウォーズをみた

 サマーウォーズ、初日に観てきましたよ!いやはや、食わず嫌いは良くないね、公開前は「大家族?ふぅん…」って感じだったのが、まんまと主人公視点で引き込まれてしまった!……って話以外は何を書いてもネタバレだからなあ。大変なのは、数年前に最大のネタバレをしていたにも関わらず、何の問題もないどころか参照快感も含めて面白かった、という点なのだが!

参照快感について。

 ひとは、知っていることの方が好きだし、気持ちいい。
 「待ってました」なお約束展開や、パロディや、現実の事件を題材にした作品など、過去の記憶や経験を参照すること。こうして得られる快感を、ぼくは「参照快感」と呼んでいる。
 拡大解釈をすれば、すべてのフィクションには参照快感が含まれている、とも言える。だって、見たことも聞いたこともない出来事は、いちから快感の仕組みを学ばなければ解らないからだ。はじめては誰だって怖いのである。
 ところが、ある程度の「あたりまえ」を超えると、参照対象には普遍性が減っていく、ひとはそれぞれ別の体験と記憶を持つからだ。

 だから、キャラクターに感情移入ができるとか、行動原理がわかるとか、目に見えて成長(変化)するとかが大切にされる。それらの「キャラクター要素」が、厳密に言えば物語の構造とは関係ないはずなのに、描かれないと一大事のように批判されるのは、このためだ。それらの要素が欠けていると、作品単体での参照快感が、まるで得られないのである。
 さらに話を進めれば「うまい作品」というのは、ひとつの作品内で参照快感の学習が可能なものを指すことがわかる。他の作品や経験を参照する必要がなければ、より多くの人間が楽しめる作品になるからだ。さらにさらに、ここに「うまい作品」と「好きな作品」のねじれがあらわれる。テレビドラマが原作の映画がヒットするのは、誰でも手軽に参照快感を得られるからだ。作品が「うまい」のではなくても、得られる快感は「うまい」場合と似たものとなる。
追記:参照快感の学習...簡単にいうと伏線とその回収ということ。作品外に参照元を求める作品、たとえば新撰組や赤穂浪士を題材にした作品は、史実を知っていると、より深い参照快感が得られる。テレビドラマを映画化すると、そのテレビドラマを見てた人は「史実」を知っている、ということになる。

細田監督作品の、きらいなところ。

 細田監督は、ひとつの作品内で観客に参照快感を学習させるのがとてもうまい。引用やオマージュはなく、あってもごく控えめに、詳細がわからなくても楽しめる作品を作る。だが、それ以外の脚本技術が壊滅的にひどい。基本的に物語の転がる原因がすべて「失敗」だ、と言えばわかってもらえるだろうか。もちろん彼の作品テーマがすべて「失敗からの回復」だとしても、シナリオのあらゆる分岐点が失敗で彩られていい理由にはならない。観客はご毎回都合主義で進む同じプロットを、毎回違う味付けで食べさせられるのだ。無邪気に参照項とたわむれられるひとはいい、まさに、ぼくがそうだからわかる。作品内だけではなく、過去の細田作品をたどり、細田演出の細部まで味わえる信者になってわかるうまさがある。
 だがそうでない者、作品内の参照項だけでは満足できない者、細田作品を知らない者にとってはどうだろう? 他の映画やシナリオの出来や「外の世界」が気になる者にとっては、感情移入できる「だけ」のキャラクターたちが、泣ける情報を小出しにしながら串団子プロットの中を進んでいく、そんな風に見えるのではないか?
 ぼくは細田監督の作品が好きだ。彼のテーマとするところが大好きだし、技術力にも感服する。だから、そんな解釈が成り立つ作品を作ってしまうことに、腹がたつのだ!

*1:プリシラ・ロバーツのボレロ:マンガ『昴』で主人公昴とボレロで対決した世界一のバレリーナ、プリシラ・ロバーツ。昴は観客を「天才の見る世界」へ連れていったが、プリシラは観客を完璧に支配した。ラスト数十分間、オーケストラは演奏を止めていたのだ。それでも観客はプリシラの踊りを見て、演奏を「聴いた」