2024年7月〜12月に読んだ本

2422 弦間昭彦『肺癌診療Q&A』(中外医学社、2023)

 期待していた痒いところに手が届くというほどではないが、虎の巻とかに書かれていることよりはアドバンストな内容があり、高価なぶんボリュームも十分にあり。通読してみたが、今後も辞書的にある程度は使えそう。

2423 清水泰生 監修『気管支鏡画像診断50症例』(日本医事新報社、2023)

 気管支鏡がある程度触れるようになってきて、TBBやTBLCなどひととおりできるようになった頃に、「そもそも肉眼的な気管支鏡の所見からわかることって何なんだろう」と浮かんできた疑問に答えてくれる本。それなりにメジャーな疾患から希少疾患まで球種が豊富で勉強になる。

2424 冨田康弘『よくわかる睡眠時無呼吸の診かた、考えかた』(中外医学社、2023)

 新版が出たばかりなので買ってみた。期待通りのよい本。

2425 『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義』(大和書房、2023)

 前半と後半の内容の重複は、緊急出版されたという背景を差し引いてもどうにかならなかったとは思う。とはいえ、コンパクトにコアな情報だけがまとまっている様子だった。まず手にとるべき本としてはよさそう。

2426 冨岡洋海ほか編『症例から学ぶ「過敏性肺炎診療指針」の使い方』(南山堂、2024)

 これは良書。ガイドラインに基づきつつ、豊富な放射線・病理画像もよいし、各疾患概念の解説も丁寧。過敏性肺炎の基本を知ったうえでの次のステップアップとしては右に出るものはないと思う。

2427 菅波孝祥ほか編『もっとよくわかる!線維化と疾患〜炎症・慢性疾患の初期からはじまるダイナミックな過程をたどる』(羊土社、2023)

 日常診療で線維化とか炎症とかって言うけどその実何が起きてるんや〜と思って手にとったが、基礎医学に自分って興味持てなかったよなということをよく思い出した。日々の診療に直結するわけでもないので、辞書的に使えるときがあればいいかなくらい。

2428 藤沼康樹『卓越したジェネラリスト診療入門』(医学書院、2024)

 「人文系に造詣の深い家庭医」の書く最高峰のひとつであることは間違いないと思う。多岐にわたるジャンルの概念を、実践に必要な形でその都度取り出すというやり方は、多分に臨床家的なそれであり、自分の目指す形とは違うが、勉強になった。クリニカルパール的なもの、あてはめる枠組み的なもの、経験からくるアドバイス的なもの、読者に省察を促すもの、のバランスが絶妙であると思う。

2429 田野大輔ほか編『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店、2023)

 「悪の凡庸さ」という概念について、通俗的な理解の誤謬を正していくだけと思いきや、その解釈をめぐって歴史学者と思想史学者のガチンコ議論をそのまま体感できる一冊。自分も『エルサレムのアイヒマン』やミルグラムの本を読んだところで理解が止まっていたので、非常に勉強になった。

 実はこの「忖度」は、近年のナチズム研究の到達点と近いところがある。それが、歴史家イアン・カーショーの提示する「総統の意を体して働く Working towards the Führer」という議論である。ヒトラーがナチ・ドイツのすべてを統べる全能の独裁者だったという議論は否定されてすでに久しい。一方で、ナチ体制はエリートたちがさまざまに関与することで成り立っていた多頭制的な支配だったという議論も、それ自体としては正しいとしても、それではなぜナチ体制は最後までバラバラに空中分解することなく支配を続けることができたのか、反ユダヤ主義や東部「生存圏」の征服など、ナチ体制にとって本質的なところでヒトラーの意志がおおむね貫徹したのはなぜなのかを理解することが難しくなる。ヒトラーの影響力がきわめて強かったというポイントと、エリートたちがかなり自分の思惑によって自律的に行動していというポイントは、どうやったら整合的に説明することができるのか。それを可能にしたのが、この「総統の意を体して働く」論なのである。

 歴史学者からは下記のように疑問が投げかけられる。

 アイヒマンが一般に考えられるような「冷酷非情な怪物」でも、大量殺戮に快楽を覚える「倒錯したサディスト」でもないという意味でなら、彼を「凡庸」と呼ぶことに異議を唱える者はいないだろう。アーレントの指摘はその点では広く受け入れられており、これに示唆を受けて行われたミルグラム実験によっ心理学的にも裏づけられている。だがこのユダヤ人移送局長官が上から与えられた任務を粛々と遂行す〈凡庸な役人〉にすぎなかったかのような印象を与える彼女の説明に対しては、ホロコースト研究者の評価は一様に厳しい。「最終解決」の立案・遂行におけるアイヒマンの主導的役割は多くの研究によって裏づけられており、彼が法規や命令を遵守するだけの杓子定規な官僚ではなかったことも明らかになっているからである。この男はウィーンのユダヤ人移住本部に勤務していた時期から、前例を打破してめざましい成果を上げるクリエイティブな組織者として名を馳せていた。彼は戦時中もベルリンの国家保安本部でデスクワークだけをしていたわけではなく、東欧各地の殺戮現場へと頻繁に出張し、特別行動部隊によ銃殺や絶滅収容所でのガス殺までも実見していたのだった。

 最大の争点は下記である。

 この点について、アーレントは「自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかった」と述べているが、仕事で実績を上げて名声を得たいという出世欲や功名心が彼を突き動かしていたという見方は、多くの研究者に共有されている。見解が分かれるのは、そうした動機に「凡庸さ」を認めるかどうかという点である。アイヒマンが絶滅政策を推進したのは、誰もが抱くような出世欲に駆られたからだったのか。それとも反ユダヤ主義イデオロギーを信奉し、確信的かつ情熱的に職務を実行したのか。

 シュタングネトの研究は、アルゼンチン逃亡時代、アイヒマンはナチ・イデオロギーに染まり切った反ユダヤ主義的な発言を堂々と行っていたことを明らかにするが、アーレント研究者側(百木)は、「むしろあの「演説/独り語り」もまた、典型的な「決まり文句」のつなぎ合わせであり、周囲から期待された役割を過剰に取り込みながら、〈昂揚感〉を追求したふるまいであった」、という反論がくる。

 第II部において、田野からはさらに「百木さんの説明を聞いていて、考え方がそう違うわけではないと思う一方で、イデオロギーはいろいろな手段のなかの一つといった位置づけに関しては、ナチズム研究者はおそらくそうは見ないだろう、と思いました。自分の出世のために使える手段はいろいろあるわけですが、イデオロギーというのは包括的な次元で人びとの行動を方向づけるものであって、それをいろいろ使える道具のなかの一つにすぎないと見るのは、いまのナチズム研究からすると行き過ぎだと言えます」という重要な発言がされる。

 もう一つの論点は、「主体性」があったのかどうか、という点だ。

実際にアーレントも『エルサレムのアイヒマン』第八章で、アイヒマンはカントの定言命法を曲解して総統の意志を自らの意志と一致させるように行動していた、という分析をしていますね。しかし、そういう忖度に沿った行動を主体性と呼ぶことができるんでしょうか。ナチズム研究では、それを主体性と呼んでいるのですか。

小野寺 いえ、主体性と呼ぶべきかどうかは検討すべきところで、主体性とは明確な自律した意志や動機にもとづくものであるべきだという規範的な定義があるのだとすると、主体性とは呼べないのかもしれ ません。けれども、少なくともエージェンシー(行為主体性)ではあると思うんですよね。官僚たちは組織のなかで、権限などの制約を受けつつも、自分の使えるリソースを使って力を発揮して出世していくのですから、エージェンシーとは言えるだろうと思うんです。

 そこで必然的に、百木から中動態の議論が引き合いに出される。

 『中動態の世界― 意志と責任の考古学』医学書院、二〇一七年)とも関わりますが、本人が意図してやった、自分の主体性をもって意識的にそれをやったのだから、それによって責任を負うのは当然だという論法でこの問題を切っていいのかという点は、いま哲学や思想の分野で大きな議論になっています。責任問題が重要なのはアーレントにとっても間違いないのですが、主体性という言葉で問題を立てていいのかについては議論の余地があるところではないですかね。

 それに対する小野寺のコメント。

 私も中動態の議論がちゃんとわかっているわけではないのですが、それをホロコーストの議論に接合するのはちょっと難しいような気がしています。ホロコーストでは具体的な被害者がいるわけです。そこで加害者に責任がないということを言うためには、行動可能性が限りなくゼロに近かったということを明らかにしなければならない。行動の選択が一〇〇パーセント自由だった人などほとんどいないので、限られた選択肢のなかでどういう行動をとったのかということが責任の問題につながってくるわけです。責任を問うときに、主体性という表現が適切でないならば、「行動可能性」という言葉に置き換えてもいいと思いますが、アイヒマンのような幹部に行動可能性がなかったということにはならないはずです。多くのナチズム研究者は、基本的な認識としてこの点を共有しているからこそ、こうした研究をしているんだろうと思います。

 このような、通俗的な「悪の凡庸さ」理解の誤りや、昇進に熱心であった「有能」なアイヒマン、という人物像など根本的見解はもちろん共有しつつも、互いに相容れないようにみえる歴史学と思想史の立場について、下記のセリフが総評となるだろう。

 この「エルサレムのアイヒマン』は、歴史と思想が不用意に近づいてしまった例なのかなという気がしています。普段は歴史と思想は互いに敬して遠ざかっているわけですが、具体的なアイヒマンという人間を分析することを、裁判という場で、彼にどういう責任があるのかという、思想にとっても歴史学にとっても切実な問題を扱ってしまったために、そこで〈悪の凡庸さ〉などと言われてしまうと、歴史研究者としてはいろいろと言わざるをえないところがある。とはいえ、アーレントのおかげでわれわれはこうして対話することができたとも言えるので、必ずしも不幸なことではないのですが、やはりどうしても考え の違いが明らかになる。『エルサレムのアイヒマン』は、歴史学寄りと言うかジャーナリズム寄りと言うか、ともかく思想研究を超える射程をもっているので、やや特殊な性格の本なのかもしれませんね。

2430 浜田明範『感染症の医療人類学』(青土社、2024)

 著者の「パラ医療批判」に感銘を受けて、医療者で人類学に関心のある側の立場としては、こういうことを考えている人が人文学者でいるということにencourageされた。

 私はこの批判のあり方を、ガイスラーの「パラ国家」という発想から着想を得て、「パラ医療批判」と呼びたい。「パラ」という接頭辞を、分析の対象である国家と市民から、医療批判という人文学の特徴へと移し換えることによって、新しい視野が拓けるように思えるからである。「パラ医療批判」は、生物医療の無謬性を認めないという批判性を従来の医療批判から引き継ぎながらも、生物医療の有効性も正当に評価する営みである。ここでは、人文的な批判の実践と生物医療の実践は、排他的な実践としてアプリオリには区別されない。批判は人文学の占有物ではない。(55ページ)

 第3章「化学的環境」は特に素晴らしかった。抗結核薬がいかに空間的・時間的に配置されるのか、それぞれのアクターを丁寧に追い、明快な論旨で短い論文ながらも切れ味がすごい。医療者として読んだときに、前提として結核治療における多剤耐性菌の問題や、内服コンプライアンスを改善することの難しさ、結核というものの「生物医学的な」知識がまずもって揃っていないと書けない文章と感じて、その意味で、「パラ医療」的な態度を体現した論文であると感じた。そのうえで「体重測定」が母親にとってどんな意味を持つのか、それを地域保険看護師がどううまく利用するのか、各々の活動の様が活写されているのが目を見張る。「化学的環境chemical milleu」というタームも、一見すると文字通りchemicalな印象を持つ硬い言葉だが、この論考を読むとその重要性がよくわかってよい。これは初学者としての要望にはなるが、この「環境millleu」がフーコー的な「統治」概念を下敷きにしつつどのような重要性を持つのか、ということは第3章も踏まえると何となく理解した気になれたのだが、それがではよく聞く英語あるいは日本語での「環境environment」とどのような「文脈」の違いがあり、どういう使い分けがなされるのか、ということを論じてくれるとありがたかった。environmentのほうが、ラトゥールが言うところの「近代」的な、人と対置される自然、人以外の周辺、みたいなニュアンスを含んでいるのだろうか。さらには、ラトゥールのテレストリアルとの関係性についても勉強したいと思った。

 神戸の高校に通い、一時期その美術館にも通っていた身としては、横尾忠則が出てきたのは熱かった。パッチワーク的なポップアートや、絵画と文字、表象、指し示すものと指し示されるものの関係、にコンシャスな画家であるというのが私の認識なのだが、そのうえでこれまでの作品にマスクを付していく、というのはいかにも横尾忠則らしい発想であると感じた。また、「横尾が、若い作家たちがパンデミックという未知の事態に興奮していることに批判的に言及したうえで」、「コロナは形而上の問題ではなく、直截的な肉体の問題だ」と言っているのは、著者が紹介しているモルのペイシャンティズムにまさに通じる問題意識であると感じた。本書では、以下の3つがキーとして挙げられていた。すなわち、(1)身体のもつ被傷性(モル 2020;Robbins 2013)、(2)特定の時空間を占める身体的な存在であること(e.g. ホール 1970; 松嶋2014:306-18)、(3)そのような身体の運動の痕跡を例えば絵画として残せること(インゴルド2017)。

 人類学的な記述の厚みを言われることの多い印象であるポール・ファーマーについて、「構造的暴力」や「『文化』で隠蔽されてしまう差別」の重要性はもちろん、著者が一定の評価をしていたのは意外だった。しかし、「それぞれの現場で医療実践に従事してきたファーマーの議論には、人文知によって医学を全面的に批判するという大雑把な批判性ではなある医療実践に対して別の医療実践を並置することによって批判するという、異なるタイプの批判性が備わっている。私たちが生物医療を完全に排除することに同意しないのであれば、この種の代替的な批判性は、いかに迎合的に見えようとも、より誠実なものであることは否定し難い」の一文を読んで、そういう読み方があるのかと納得した。

 あとは単純に面白かった記述のメモ。

 私はかねてより、授業のなかで、患者に責任を帰しうる病気とそうでない病気についてのアンケートを様々な大学で実施してきた。従来は、遺伝病については患者の過失が問われない傾向が強いのに対し、生活習慣病については患者の過失が強く問われるという回答が多くあった。しかし、二〇二〇年以降、それまでほとんど見ることのなかった呼吸器感染症を、患者に責任を帰しうる病気として挙げる回答が、明らかに目立つようになっている。

2431 日本呼吸器学会 編『難治性びまん性肺疾患治診療の手引き』(南江堂、2017)

 Hermansky-Pudlak 症候群合併間質性肺炎を疑う患者がいたため、ついでに肺胞微石症、閉塞性細気管支炎も併せて勉強。

2432 日本結核・非抗酸菌症結核菌症学会 編『結核診療ガイドライン2024』

 普段結核の診療をする機会がないので、ガイドラインくらいは読んでおこうと思い勉強。

2433 荻野昇『ロジックで進める リウマチ・膠原病診療』(医学書院、2018)

 免疫膠原病疾患に伴う間質性肺疾患の勉強をする機会は多いが、免疫膠原病内科からの視点をわかっとかないと困るよな〜と思って手に取った本。自分の知識量的には、ちょうど読むのが難しくてしんどい部分が随所にある感じがとてもちょうどよく、こういう雰囲気なのか〜と把握するのによかった。総合内科外来にも活かせそう。

2434 東浩紀『観光客の哲学 増補版』(ゲンロン、2023)

 本書の一文「だから、ぼくは、もういちど基礎の基礎に戻り、近代思想の人間観と政治観を、過去のテクストの小手先の解釈変更などに頼るのではなく、根本から問いなおすべきだと考えるのだ」とあるのは、アカデミアから敢えて離れることを選択した彼のこれまで、現状を思うと味わい深い一文である。しかし読者にとってreadabiltyの高い文章を目指された本書は流石にわかりやすく、カントの第三確定条項、シュミットの友敵理論、ヘーゲルの国家意志、ネグリらのマルチチュード、自身の「郵便」論、ネットワーク理論、それらの帰結として描き出される「観光客の哲学」の全体像はクリアである。

 二一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への富と権力の集中にはいかなる数学的な根拠もなく、 それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。ぼくには、そのような再誤配の戦略こそが、この国民国家=帝国の二層化の時代において、現実的で持続可能なあらゆる抵抗の基礎に置かれるべき、必要不可欠な条件のように思われる。二一世紀の秩序においては、誤配なきリゾーム状の動員は、結局は帝国の生権力の似姿にしかならない。ぼくたちは、あらゆる抵抗を、誤配の再上演から始めなければならない。ぼくはここでそれを観光客の原理と名づけよう。二一世紀の新たな連帯はそこから始まる。

 ただ、そもそもの「観光客」の概念を持ち出してくる際の「フクシマ」についての議論は、彼の理屈はわかるが、いやわかるがゆえになおさら、同意しかねるもので、それがこの「観光客の原理」の受け入れ難さ、あるいは「実際にどうなるのか」のみえなさに寄与していると感じた。シンプルに、下記の文章を読んで「フクシマ」もとい福島の人々がどう思うか、という話で、それは仮に「理屈」が正しくとも、フィールドに分け入っていくうえでの真摯さを求められ、反省させられてきた人類学に関心を持つ身としては、受容できない。

 原作を大切にしてもらうためには、いちど二次創作を通らなければならない。これはいっけんわかりにくいかもしれない。論理だけ追えば、言葉遊びのようにも見えるだろう。けれども具体的にはとてもわかりやすい話である。たとえば、ぼくがいまチェルノブイリに人々を案内することができるのは、彼らが二次創作のチェルノブイリ(放射能汚染の不毛の土地)をいちど信じたからである。原発事故がなければ、そしてチェルノブイリが「ふつうではない」と思わなければ、だれがわざわざウクライナの辺境の田園地帯まで赴くだろうか。
 同じように開沼が「はじめての福島学」を出版することができたのも、そもそもあの事故があったからのはずである。原発事故がなければ、そしモンスター化したフクシマが流通しなければ、なぜわざわざ福島学など構想する必要があるだろ二次創作がなければ原作への回路もない、そういうことはありうるのだ。

 お前はフィールドの外から来た失礼な「観光客」だろう、という「現地の」人の怒りに、正面からこの理屈をぶつけられるだろうか。 

2435 つやちゃん『スピード・バイブス・パンチライン: ラップと漫才、勝つためのしゃべり論』(アルテスパブリッシング、2024)

 2017年12月3日、私はM-1グランプリ決勝で披露されたジャルジャルの漫才「ピンポンパンゲーム」を視聴しながら、価値観を激しく揺さぶられていた。それは、文字どおり衝撃的な出来事であった。漫才について「ボケとツッコミの二人がエピソードをしゃべるなかで、緊張と緩和によって笑いを生成し膨らませていくもの」といった程度のごくごく表層的な理解しかなかった自分にとって、 ジャルジャルの表現はその定義を根底から覆し書き換えてしまうものだったのだ。そこで披露されているのは「エピソード」ですらなく、表情や身振り手振りも加えながら、ほとんど「意味」の存在しない 「音」を発することによって、ぎりぎり漫才を成立させていた(16ページ)

 という冒頭は、同じくピンポンパンゲームに衝撃を受けた自分にとって、非常に期待させるものだったが、読み進めるうちに絶望に変わった。HIP HOPは有名どころを知っている程度の知識だが、お笑いはそれなりのディープなファンである自分にとって、その逆である著者の論考におけるお笑いの取り扱い方には不満が残るばかりだった。
 賞レース漫才を追う際に、時系列に歴史を追っていくというのはしばしば意味をなさない。どのコンビがどの年に優勝するというのは、経時的なお笑いのトレンドや進化を反映していることももちろんあるにはあるが、偶発的あるいは関係のない要素も多いためだ。著者がしばしばそのような書き方をしてしまうのは、ひとえに「お笑い」全体ではなく賞レース漫才くらいしか徹底してみていないからだと思う。
 その肝心の論考も、核心部に迫るといつも、情動を煽るような、レトリックの効いた表現で誤魔化すばかりで、ロジカルな積み立てが欠けていると感じる。手前味噌でも、「お笑い分析」するイタいファンでも何とでも思ってもらって構わないが、それならば自分のお笑いと構造に関する一連の論考のほうが優れていると思ってしまう。 

satzdachs.hatenablog.com

 この本の最も大きな問題点は、漫才とラップに「スピード・バイブス・パンチライン」の重要性を見出しているが、それらを語るにおいてこのふたつを並置することが必ずしもベストではなくて、より広い(漫才とラップに特異的でない)表現一般に重要なこととしてのそれらがある、ということだと思う。たしかにそれらを並べて論じることは楽しいが、必ずしもその必然性がないことがあり、漫才のこの部分とラップのこの部分が通じるところがあっておもしろいねという域の話をついぞ出ないまま終わっている。

2436 総合診療・家庭医療のエッセンス 第2版

 編者も書いているが、第1版とはまったく違う本である。読者の対象が明確となり、よくある導入から始めて、最終的には「深み」まで連れて行けるような素晴らしい内容・構成になっている。入門書であり概説書であるが、こんなにも読んでいておもしろいそれは他にないのではないだろうか。大胆にも「プライマリケアの5つのA」からの導入という定番から離れ、第一章でクラインマンに触れたあと、第二章で「コンテクスト」が登場し、その種明かし的に患者中心の医療の3つのコンポーネントが紹介される。この順番で「概念」を扱うというのが、本書の末尾に書いてあるスタンスの表れなのだと思う。

 総合診療・家庭医療研修中の専攻医の方は、家庭医療にまつわる概念を書籍で学んでも、当たり前すぎて当然のように、あるいは抽象的すぎてピンとこないと感じているかもしれない。その理由の1つは、そうした概念は、事実として暗記する意味が薄く、それを用いて具体的な個別の患者・家族・チームの事例について考えてはじめて意味をなすものが多いからである.この後の加藤医師が述べているように「いつ」知識を得ているかが、異なるのである。

 対話篇という形式も効果的である。読書が自己投影しやすいのはもちろんだが、地の文章だとtoo assetiveだったりエビデンスに乏しかったりすることも、ぽろっと漏らすように書くことができる。
 話を各論に戻す。「コンテクスト」みたいなものが何か実在としてあってそれを聞き出すのではなくて、目の前に「何かよくわからないこと」が起こっていてそれを理解するために「意味付け/位置付け」としてのコンテクストを探る、という順番が、「臨床的」であり、また、「人類学的」と思い、素晴らしいと思う。
 これは私の学問的立場のせいかもしれないがコンテクスト、BPS、SDHなる概念がそれぞれあるとして、その重なり合っているのをどう体系だって理解したらいいのか、は教えてくれないと感じる。注意深く読めばそんなことはないのだが、「遠位コンテクスト」は「社会的なこと」で、それはSDHのあの表を埋めれば達成できる、と勘違いする読者はいると思う。それは、いろんな領域から雑食的にとりこんでできた学問分野としての家庭医療の特性で、ある程度仕方がないのだろうが。
 Cue to Context で列挙されている状況、医療者が「不可解さ」、ドナルド・ショーンにおける「違和感」は、自分がフィールドノートに何を書いているのか、という議論に使えそうなので覚えておこうと思った。

 今回佐藤医師が平山さんを介して出会ったような、個別の臨床経験から生じる違和感は,その契機の1つとなりうる.そこから遡行するようにして,自分の個人的背景に立ち返り、自分が形作ってきた 「当たり前」 はもしかしたらこうなっているのかもしれない,と仮説を持ち, それをいったん保留して違和感を持った経験を見直すことは、自分の「基準」に気がつき, 患者の多様な社会的背景を捉え直すうえで重要なステップになる。このような流れは、身体診察で正常をまずは覚え込み、そこからずれるものを異常として認識できるように訓練するのとは対照的である。

 oodやMattinglyにも言及してナラティヴを論じているのは、踏まえるべき文献を踏まえている感じがしてよかった。また、表象の危機を踏まえた、「そういった医師と患者の相互影響に目を伏せたまま、あたかも影響を与えていないふりをして、客観的な第三者として関わりをするべきだという机上の空論を述べるのではなく,どんなに客観的になろうと尽くしたとしても、自らが相手に影響を与え,相手から影響を受け続ける存在であることを引き受けることが現実に即した医師の立ち位置だと言える」という接続もよかった。

2437 高橋佑磨・片山なつ『伝わるデザインの基本』(技術評論社、2021)

 スライドをつくった経験はそれなりにあるつもりだったので舐めていたが、目から鱗、あるいは痒いところに手が届く部分が多くて読んでよかった。

2438 橋爪大作『大地と星々のあいだで』(イースト・プレス、2024)

 読書会で読んでいて、結局、「人間」と「自然」という構図で書いている部分が多いのではないか、という指摘に納得してしまった。

2439 桑平一郎/小林弘祐ほか編『呼吸のトリビア - レスピ・サピエンス』(中外医学社、2009)

 タイトル通り,トリビア的な面白さもありつつ,呼吸機能検査の勉強にもなる.おすすめ.

2440 千原幸司ほか編『呼吸のトリビア (2)- レスピ・サピエンス』(中外医学社、2013)

 1に引き続きざーっと読んだ。

2441 大田ステファニー歓人『みどりいせき』(集英社、2024)

 素晴らしかった。百瀬は孤独で、どこまでも甘えた人間で勝手だが、それゆえに一度暴力を振るわれて売人から手を引こうとするところとかの人間臭さ、リアリティがある。そこに春の成熟していて、淡白で、斜に構えたところが対照的なのだが、その春が愛について語るシーンは、デタッチメントに転化したあとの村上春樹作品において、『ねじまき鳥クロニクル』のラストで失踪した妻をみつけた主人公がかける言葉のような、一周まわったうえでの率直さで胸を打つものがあった。愛である。結局。

2442 舞城 王太郎『短篇七芒星』(講談社文庫、2024)

 出だしが話題になっていた『代替』は、あそこから単に自意識過剰ネガティヴ系の主人公の私小説を想像した人が多い(だからこそバズった)だろうが、まったくそんなものではないのが舞城らしくて笑った。不合理な暴力性にどう対峙するか。『狙撃』の、善とか悪とかではなくて狙撃という仕事がただある、という倫理観は彼の作品に通底している。『縁起』はおそらくいちばん一般ウケしそうだし、実際いい。引用されるモチーフは毎度のことながらどこから思いついたんだというくらい妙ちくりんだが、メッセージは明確だしラストのカタルシスもある。

2443 『肺炎マイコプラズマ肺炎に対する治療指針』(2016)

 最近流行しているので勉強。

2444 キム・テウ『複数の世界を生きる身体』(柏書房、2024)

 あくまでノンフィクション作品であって学術書ではなく、韓医学的な意味での病気は、西洋医学的な実体なのではなく、患者と医師の「あいだ」にある、ということ以上に議論が進んでいない印象だった。

2445 則末泰博 編『人工呼吸管理レジェンドマニュアル』(医学書院、2021)

 田中竜馬の人工呼吸器本に加えると病態の説明は必要十分なだけであるが、その分ぎゅっと凝縮されていて読みやすい。モニターの例とその対処も具体的で実用的。買ってよかった。

2446 千原幸司ほか編『呼吸のトリビア (3)- レスピ・サピエンス』(中外医学社、2013)

 ざっと目を通した。

2447 倉田宝保ほか編『一筋縄ではいかない症例の肺がん治療』(メジカルビュー社、2023)

 痒いところに手が届く、というほどではないが、専攻医2年目にしてたしかにこれまで出会って悩んできたケースが並んでいる印象。もう少し早い段階で読んでもよいかもと思った。

2448 沼崎一郎 監修『多軸的な自己を生きる』(東北大学出版会、2024)

 複数のポジショナリティを抱えて人類学するというのは私にとって関心事であったため読んだ。ただあまり自分の研究に資するところがあったかというとそうではなかった。複数のポジショナリティがあり、人類学的な自己がreflectitionにつながること、そのほかの自己と衝突することによる葛藤があること、は描けているが、だから何なのかとか、どうしたらいいとか、実践はどのようなものになるのかとか、もう一歩先の話がなかったように思う。ナイーヴな自分語りの域をどこまで脱していられたかどうか。
 そもそも、(これは監修の沼崎の意見で本書の著者たちの総意ではないかもしれないが)人類学的な自己に特権的な位置を与えているがそれはほんとうにそうか、という疑問も浮かぶ。人類学をすることと医師をすることがはじめから一体であった私としては特に。そういう特権性の与え方は、生き方としての人類学ではなくて、インスタントな研究手段としてのそれ(複数のポジショナリティが衝突する内的葛藤を研究に落とし込む便利なツール)に成り下げているのではないか。

2449 藤田次郎ほか編『臨床・画像・病理を通して理解できる!~呼吸器疾患:Clinical-Radiological-Pathologicalアプローチ』(南江堂、2017)

 臨床・画像・病理の三者の関係から呼吸器疾患を理解する本で、びまん性肺疾患の理解を深めたく購入したが、むしろ感染症やアレルギー疾患などでこれまで所与のものとして覚えているだけだった臨床的・画像的特徴が、病理からより深い次元での理解をすることができ、良書であった。IPの記述は物足りなく、むしろほかの専門書に譲ったほうがよい。レジデントの最初に持っておいて、知らない疾患に出会うたびにこれを引いて病理まで理解する、というやり方もよいかもしれない。

2450 川村孝『臨床研究の教科書』(医学書院、2016)

 今の職場で臨床研究をする必要性が生じ、読んだ。概要を掴むにはよかったが、個々の解析方法の説明は簡素過ぎてついていけなかった。また別の本で勉強しなければならない。

2451『臨床画像 2023年vol39 no5 絶対苦手分野にしない間質性肺炎・びまん性肺炎の画像診断』

 久保先生が編集してる『臨床画像』の特集。びまん性肺疾患の画像がぎゅっと豊富にまとまっていて、深掘りには向かないが、ざっと眺めるにはよいと思う。ローテしてる研修医に渡すとか。

2452 酒井文和 編『画像から学ぶびまん性肺疾患』(克誠堂出版、2018)

 これは良書。びまん性肺疾患の画像について、端的に、詳しく、病理と関連づけられて説明されている。新たに知ったことも多かった。通読したが、辞書的にも使える。

2453 姫路大輔 編『気管支鏡ベストテクニック 改訂3版』(中外医学社、2024)

 気管支鏡検査の手技はその施設のローカルなものになりがちなので、標準的なそれを学べてよかった。充実していてこれ一冊で十分。

2454 酒井 隆史 編『グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明」を読む―人類史と文明の新たなヴィジョン』(河出書房、2024)

 これを読んで、原著も読むと、おもしろすぎたので、こんな記事を書いた。残りも読み進めていきたい。 

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2455 多和田葉子『雪の練習生』(新潮文庫、2013)

 まず文章が非常に高級で、惚れ惚れするようである。動物視点での物語という、一歩間違えれば陳腐になりかねない形式を、リアリティとファンタジーにあふれた世界をつくりあげることに成功している。さらにふりかけるだけではない、通底し、織り込まれている社会批判のエッセンスが鋭く光る。 視点が入れ替わったり、あるいは種が明かされたりするのも、単に物語上で読者を驚かすレトリックなのではなくて、リクール的な意味での「物語る」という想像的なプロセスの力を証明するためだと思う。

2456 シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』(明石書店、2018)

 これを読んで下記の記事を書いた。

satzdachs.hatenablog.com