サラとの日々

sarainochi の日記

サラとの日々〈6〉初めての旅は清里、一緒にいられることだけで満たされた

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[広大な牧草地の中に立つ清泉寮ファームショップ ※]

 仕事に出かけ、わが家に戻り、車を駐車場に前から進入させると、正面には6畳和室の窓があります。障子が開いていると、室内で黒い影が飛び跳ねているのが見えます。サラはうれしくなると、四肢で床をけりあげ、垂直に30センチメートル以上も飛び上がるのです。私の帰宅を待っていてくれたのです。

 共働きのため、朝夕の散歩以外、普段はあまりかまってやれません。サラは日中、無駄吠えも粗相もせず、じっと待っています。どれほど尿意や便意を催しても我慢しているのです。たとえば、夜中に腹具合がわるく緊迫した状態になったときには、玄関のたたきからヒヒ~ンと声をあげて知らせます。2階にいる私たちのどちらかが飛び起き、サラをすぐ連れ出します。外でそわそわしたところで故紙を差し出すという具合でした。

 神経質な私がそうさせてしまった、気の毒なことをしてしまった、室内にもトイレをしつらえておくべきだったと、今では深く反省していますが、当時はそれが当たり前のように感じていたのでした。サラは大変我慢強く、すべてにおいて時と所をわきまえていました。ですから、彼女をどこへでも連れて行けました。休日の朝、妻が「サラちゃん、さあ今日はどこへ行こうかね」と言いますと、彼女はぴょんぴょん飛び跳ねるのでした。

 初めての旅行は山梨の清里でした。

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 サラがわが家に来た翌年、季節は初夏、1歳の誕生を祝う2泊3日の行程です。車の後部座席を前に倒したところにフセをして、大きなくりくり目でわれわれ二人を、交互に見上げています。いざ出発。

 午後2時すぎ、美し森国定公園駐車場に着きました。かたわらに広がる野原で、人影がまばらなのを幸いに、サラをリードから放し思い切り走らせました(御法度ですが、時効ということで勘弁願います)。遙か遠くで動きを止めた彼女を呼びますと、一目散に戻ってきます。その笑顔から牛か馬の糞の匂いが漂いました。

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[吐竜の滝 ※]

 終日、一緒にいられることだけで、わたしたちの心はあふれんばかりに満たされていました。翌日は吐竜の滝、源七郎出口泉、清泉寮などを巡りました。皆で食べたソフトクリームのおいしかったことや、外国の青年からすれ違いざまに「Good boy!」と声を掛けられたことが忘れられません。

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[ペンションそばの牧場にこわごわ近寄るサラ]

 ペット連れも利用できるペンションに連泊しました。部屋のドアを開けますと、靴置き場から入ってすぐ、両脇の壁際に狭いベッドが一つずつ据えられています。その間の細い通路を進みますと、正面に小窓があり、窓辺に荷を置きます。3畳ほどの部屋はわたしたちでいっぱいになりました。夜、左右ベッドの二人にはさまれ、サラは細い通路に満ち足りた様子で横たわります。しばらくすると赤い舌をちょこっと出し深い眠りについたようでした。

 あっという間の旅の最終日、朝日に輝く小窓を開けますと、さっと冷気が流れ込み、眼下に名も知らぬ川が流れていました。

※1番目と3番目の写真は〈公益社団法人やまなし観光推進機構「富士の国やまなし観光ネット」Webマガジンhttps://www.yamanashi-kankou.jp/index.html 〉より

サラとの日々〈5〉サラにとって、わが家はようやく快適な犬小屋となった

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 当初、薔薇色の生活とはほど遠い現実にうろたえたのは、自分の脆弱な神経に無自覚だったことに尽きます。けれども、私たちもサラも徐々に落ち着きを取り戻し、信頼関係がめばえ、数ヶ月後には散歩の魅力に目覚めるのでした。ローレンツ博士の言葉通り、まさしく「美しく豊かな心」を持つうえに我慢強いサラと出会えたという仕合わせに、感謝しかありません。

 近所をくまなく歩き回るようになると、サラはある遊びをおぼえました。散歩中にオハジキくらいの小石を見つけては口に入れてしまうのです。私たちがそれを出させようと口の中を調べますが、どうしても見つかりません。すぐに吐き出したのだろうと思い、帰宅します。すると玄関先でポロリと吐き出すのでした。舌の奥わきにでもうまく隠していたようです。そして、いたずらっ子がほくそ笑むような表情を見せるのでした。

 快適な散歩のためにも、「マテ」と「スワレ」そして「ツイテ」だけはしっかりおぼえさせようと思いました。散歩の途中、小学校まえに広がる宅地造成中の空き地でよく訓練をしたものです。リードを短く持ち、サラを私の左側に寄せ、ツイテと声を掛けながら歩きます。コーナーごとにマテと歩みを止めさせ、スワレと声をかけます。それを二巡ほど行い、飽きないうちに「ヨシ、ヨシ」とほめ、おやつを与えて終えました。ある日のこと、いつの間にか、その様子を見ていた、昼休み中の子どもたち数人が教室の窓から一斉に拍手をしてくれたのでした。

 その年も暮れようとする頃には、7㎏だった体重は23㎏になっていました。トイレの失敗がまったくなくなり、安心してどこへでも連れて行けるようになりました。もちろん車に乗せるのも大丈夫でした。明くる年の正月、私の好きな海辺に近い神社へ初詣に行きました。波がひたひたと静かに打ち寄せる誰もいない海岸を歩かせました。

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 1月の終わりに大雪が降りました。翌朝、サラの黒い鼻に雪がひとひらとまっています。それを見た妻は、サラを家に入れるよう懇願します。もはやサラを室内に入れない理由はなにひとつないのでした。

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 まず廊下に居場所を作りました。しばらくすると居間の入り口にお茶目な顔をのぞかせてきます。そのうちにテーブルの下に入りこんできます。ついには居間の一角、当初から彼女の居場所に予定していた窓際にベッドが正当にも与えられます。

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 こうして、サラにとってわが家はようやく快適な犬小屋となったのでした。

サラとの日々〈4〉なぜ、妻は犬を飼うと宣言したのか

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 妻が犬を飼うと宣言するひと月ほど前、どうした気まぐれか彼女はメダカ20匹を買ってきました。古い火鉢に水を張り、そこで飼いはじめます。火鉢の洗浄と水道水のカルキ抜きが不充分だったのか、程なく全滅してしまいました。

 ☆

 ところで、私の父は学徒出陣し神奈川県の横須賀で敗戦を迎えました。戦後は外面(そとづら)の良い企業戦士として猛然と働きだします。けれども家では、しばしば気難しい酒乱の暴君に豹変します。

 戦争に行った兵たちは、本人が意識するしないにかかわらず、戦争によるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)に苦しんだということを、かなり後に知りました。
「戦地から帰った兵隊さんは、みんな家で暴力をふるっていたのよ」との証言もあります。(https://www.ritsumeihuman.com/hsrc/resource/19/open_research19_menu1.pdf )
 戦地に赴かず内地にとどまり続けた父が戦争PTSDだったのか、彼の残したわずかな手記からは判断はつきません。

 ともかく、父は酒に酔うと暴力的というか凶暴になるのでした。勤務中は生真面目かつ几帳面な仕事ぶりですが、退勤後の酒席では同僚と諍いを起こすこともしばしばでした。相手もほとんど軍隊帰りとなれば、互いの怪我も軽いものでは済まないこともありました。前歯を折られ入院したこともありました。

 家庭でも、その暴力は母に向かうだけではありません。私は小学校に上がる前からスパルタ教育と称して、父から厳しい体罰を受けました。九九を暗唱させられ、途中でつかえると、自転車後ろの荷台に正座されられます。昔の自転車の荷台は格子状の鉄製ですから、脛に鉄格子が食い込むのでした。

 小学生のころ、なにが原因であったか思い出せませんが、脛に煙草の火を押しつけられたこともありました。ずいぶん後になって、母は当時を「恐怖で動けなかったの」と述懐し、「わるかったね」と詫びました。いくつかの火傷の痕はいまも残っています。
 小学5、6年になっても、私は夜尿症が治りませんでした。そのころでしょうか、屈折した思いを抱えていたもの同士だったのか、夏休みのある日、社員寮の同級生と二人で丸一日、無自覚の「家出」のような遠出をしたことがあります。夕闇迫る頃、空腹を抱えて、とぼとぼ帰宅すると、寮中が大騒ぎになっていたのでした。

 中学生になってもなにかと難癖をつけられては折檻されました。目が据わった父は「眼鏡を外せ、足を開け、歯を食い縛れ」と軍隊式の号令をかけ、次いで往復ビンタを飛ばしました。私の内部から否応なしに滲み出た憎悪と反撥を垣間見た父は、さらに逆上することがあったかもしれません。
 その頃、隣家の主婦は、私のことを貰い子だと思っていたそうです。私が、無意識だったのですが、両親にたいして敬語を使っていたからということでした。

 なにはともあれ、父の怒りを買わないように、彼の意に沿うように、常に自らの言動を律しました。こうして青年期まで抑圧的な環境に甘んじてきました。私は面従腹背の処世術を身につけ、「面従」の仮面をかぶったつもりでいました。
 けれども、長くかぶり続けた仮面は素の顔と分かちがたくなるのは避けられません。「否」の意思表示をしようとすると、それを心理的にも肉体的にも抑えつけようとする異様な圧力が、己の内部から押し寄せてくるのでした。その圧力に屈してしまう自分に苛立ち、気が滅入るのでした。

 そうした状態から抜け出ることができるようになるのは、就職するまで待たねばなりませんでした。さらに結婚することで、やっと「父」から脱したのでした。

 ☆

 さて、話が長く脱線気味でした。

 そのようにして過ごしてきた私ですから、当然バイクなどとはまったく無縁でした。その反動でしょうか、私は30代半ばで中型二輪免許を取ります。1979年のことです。妻をうしろに乗せ、三浦半島や相模湖などを走ります。妻も小型二輪免許を取り、千葉、山梨、信州、岐阜と足をのばしました。北海道ツーリングも二度経験しました。下手の横好きがバイクに跨がり有頂天でした。そうして二人で走っているぶんには罪はありません。

 ところがあるとき、ひょんなことからアマチュアバイク乗りの団体に入ります。それからは、たびたび彼ら仲間とつるんで日帰りも泊まりもあるツーリングに出かけるようになります。脳天気はとどまるところを知りません。挙げ句には、下っ端の役員(と言っても体のいい小間使いですが)をするまでになります。

 結婚し、サラリーマンをやめ自営業となり、ある意味では自立の象徴のようなバイクに乗りながら、群れて、年長者に隷従し、組織の末端に自らを縛りつける、まことに情けない馬鹿げた振る舞いにのめり込んでゆきました。

 そんな無様で無残な私をどれほど苦々しく見ていたことでしょう、いつしか、妻は行動を共にすることを拒絶するようになり、バイクからもおりてしまいます。

 彼女はフルタイムで働き、勤め先でパワハラ、セクハラに耐え、稼ぎの悪い私を助け、家計を支えてくれていました。

 「いったい何のために、わたしはこんなに我慢して仕事を続けているの」。ときどき彼女がもらす呻吟を上の空で聞きながし、私はなおもバイクと組織にとらわれていきました。それは数年後にその組織と人と、絶縁するまで続くのです。

 「もしきみが孤独な人間で、…心のかよう接触をしたいと望むのなら、イヌを飼いたまえ」(K・ローレンツ『ソロモンの指輪』日高敏隆訳 早川書房)との声が、彼女の胸におりてきたのかもしれません。

 そうして、妻は犬を飼うと宣言したのでした。

 ☆

 父のための追記:多くの老人がそうなるように、晩年の父は別人のようにまるくなりました。退職後は、幼少時から得意だった書道に励み、酒の飲み方も穏やかになり、80歳頃には酒も絶ち、「晩年のおとうさんは聖人君子のようだった」と、母をして言わしめたほど変身したのでした。父は十数年前に90歳で、母はその数年後に95歳で亡くなりました。

サラとの日々〈3〉犬と共鳴しあう「薔薇色の生活」が、すぐ手に入ると無謀にも夢見ていた

[外に出されたサラ]

 エンゼルから戻った翌日、ホームセンターへ出かけ、組み立て用のサークル単品を10数枚とジョイントを購入してきました。

 居間の壁に沿ってサークルを張り巡らせます。電気製品のコードやプラグなどを噛みちぎったりしないようにしたのです。その一角に、子犬が寝るには充分な大きさで、高さが10センチほどのダンボール箱を置き、古いバスタオルを何枚か敷き寝床としました。玄関たたきにはトイレトレーを置き、これでひとまず安心と思ったのでした。

 無知ほど恐ろしいことはありません。

 生後3カ月の子犬が家中のどこへでも自由に歩きまわれるようにしたのです。つまり、充分にしつけられ犬たちがローレンツ家において、人と共鳴し合いながら共生している、喜びと活気に満ちた薔薇色の生活がいきなり手に入ると夢見ていたのでした。

 そして、ローレンツとスージがダニューブ川を遠泳横断した「イヌの日」の魅力的な情景をも思い描いていたのです。

https://blog.hatena.ne.jp/sarainochi/sarainochi.hatenablog.com/edit?entry=17179246901329751811

 それがどれほど無謀なことであるのかを思い知らされるのに、いくらも日にちはかかりませんでした。

 さて、こうして受け入れる準備をしたうえで、8月も終わりに近づいた頃、サラを迎えに再びエンゼルへ向かいます。これからの薔薇色の生活を胸にいだいて、私たちは上気した顔をしていたことでしょう。

 店員の屈託ない笑顔に送られ、帰路50分の道のりを、サラは後部座席で妻にぎゅっと抱きしめられ、とてもおとなしくしていました。

 たどり着いたわが家の玄関の上がりかまちにサラを降ろすやいなや、玄関ドアーをパタリと閉め、これから旧友と会うという妻を待ち合わせの場所まで、車で送り届けます。

 やれやれと家に戻りました。ドアーを開けますと、目の前の廊下の端に、申し訳なさそうな顔のサラがこちらを向いてちょこんと坐っています。彼女の前には、7キログラムの体からは想像もできないウンチの小山がありました。

 後で知るのですが、ほとんどの子犬は車で移動するあいだに、緊張したり振動を受けたりして車中で粗相をするそうです。ですから途中で必ずトイレ休憩を取ってやらなければなりません。そんな基本も知らず、一気に帰ってしまったのでした。

 しかしサラはじっと我慢し続けました。しかも、まったく新しい環境にいきなり抛りこまれ、その上おいてきぼりにされてしまい、どれだけ心細かったことでしょうか。非情な飼い主たちでした。

 さらなる無知が失敗を呼びます。

 子犬の「生活」は食べること、寝ること、遊ぶこと、そしてウンチとオシッコです(人も同じですね)。私たちはサラの様子をみて、生理現象の素振りを見せたらすぐトイレに運ぶつもりでいました。ところが、サラはいたる所で、ワン(one オシッコ)と、ツー(two ウンチ)におよびます。子犬にとってはあたりまえのこと、オムツのとれないあかちゃんと同じですからね。そのつど二人で始末です。

 これも後知恵ですが、子犬の飼いはじめは自由にさせるのは避けて、たとえばサークル内に寝床とトイレを隣り合わせにしつらえ、遊ばせる時以外はそこに入れておくのが良いとされています。そうすれば、目覚めたとき、うまくいけばすぐ隣のトイレで用を足すことができます。成功したときは目一杯ほめ、失敗は知らんふりをする。そうして少しずつ覚えさせていくのが王道なのでしょう。

 サラが来て数日後、夏期休業を終えた妻が出勤します。すると、自宅で仕事をしている私とサラだけになります。例によって、じっと見る私、そ知らぬ顔のサラ。私が目を離したとたん、あちこちで、ワン、ワン、ツー。

 『犬の飼い方』などで読んだことはすべて吹き飛んでいました。私はますます神経質に見張ります。こうして日がな一日、後始末に追われました。犬にとっては迷惑この上ない最悪の飼い主です。

 犬を飼って失敗だったなぁ、これでは仕事どころではないぞ――呟きながら気分転換の散歩に出ました。途中、動物病院の電柱看板に気づきます。近くにあるそこに、吸い込まれるように入りました。私の話をじっと聞いていた獣医はきっぱりと助言しました。

 「犬を室内で飼うには、よほどの覚悟がいります。家をめちゃくちゃにされても平然と構えていられるようでないと無理ですよ。即刻、犬を外に出したほうがいいですね」

 帰宅した妻にいきさつを話しますと、彼女はひどくあきれたものの、ノイローゼ気味の夫を哀れみ、サラを外に出すことに渋々同意したのです。

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 翌朝、強い陽光が照りつける東側にある駐車場のコンクリート上に、サークルで囲いを作り、そこにサラを入れました。その夜、サラは、か細く鳴きます。私は罪悪感を覚えながらも、ぐっすり眠ってしまうのでした。

 彼女は諦めたのでしょうか、数日後にはおとなしくなりました。

 さらに数日後、台風襲来の予報です。家のアルミサッシの雨戸を外し、駐車場のフェンスを利用して臨時の屋根を作ります。ホームセンターに駆け込み犬小屋を買ってきました。

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[後に「別荘」となった犬小屋にて、おやつを前にマテをしているサラ]

 当座はそれでしのいでもらうとして、業者に頼み、犬小屋を中に据えてもある程度自由に動ける余裕を持たせた屋根付き犬舎を駐車場の一画に造ったのでした。

 大ごとになってしまい、なにが始まったのかと、近所のご婦人方は鵜の目鷹の目だったことを思い出します。

 「自分の神経がどれほどの負担に耐えられるかを考慮しておくべきである」との、ローレンツの忠告を無視した結果、純真無垢なサラをひどく困惑させることになってしまったのでした。

 私の無知と弱さによる彼女への非情な仕打ちを思い出すにつけ、強い自責の念にさいなまれます。

サラとの日々〈2〉サラの青味がかった澄んだ瞳と長い脚が、子鹿のバンビを思わせた

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[わが家に来て1年後のサラ]

 さあ、犬種はどうしょう……。1993年当時、私に犬の知識はまったくありません。シェパードは初心者がたやすく手を出せるような犬ではありません。またミックスはおろか保護犬の存在にも考えはおよびませんでした。

 そこで雑誌『愛犬の友』を手にしますと、盲導犬や麻薬捜査犬として活躍する一方、その気立ての良さ、怜悧さ、忍耐強さで愛犬家に根強い人気があるという、ラブラドール・レトリーバーを絶賛する記事がありました。その最後に書かれていた内容は忘れられません。

 ――毛色はブラック、イエロー、チョコレートの三種ありますが、原種はブラックです。したがいブラックをすすめます。そして必ず家の中で飼いましょう。狭い家でも、ラブにとっては快適な犬小屋となるでしょう。

 その頃、バブル経済の名残をとどめるかのように、名実ともに華やかさをまとうゴールデン・レトリバーは人気絶頂で、新興住宅街の公園では、柔和な顔立ちのゴールデンが豊かなイエローヘアーをなびかせ、おしゃれな飼い主たちと優雅に颯爽と闊歩していました。

 短毛のラブラドール・レトリバーは、ゴールデン人気の陰に隠れていたように、私のような素人目には思われましたが、気持ちは定まりました。

 そうだ、飼うのは雌のブラック・ラブにしよう!

 近隣では、まだブラック・ラブを見かけることが少なかった頃です。他人(ひと)とは違う犬を飼うという虚栄心もくすぐられました。妻に話すと、「ブラック・ラブと快適な犬小屋」のイメージをいたく気に入ったようでした。

 そうして7月末から、いよいよペットショップ巡りを始めました。パソコンも普及していない頃ですから電話帳で所在地を調べ、休日ごとに数軒の店をたずねたのでした。

 3度目の休日に出向いた「エンゼル」という店に、生後3カ月の彼女がいました。陳列ケースから出された、きゃしゃな彼女は、見ている私たちにアピールするかのように、得意気に狭い店内をひょこひょこと歩きます。青味がかった澄んだ瞳と長い脚が、子鹿のバンビを思い起こさせます。一瞬で妻はとりこになりました。

 妻は店員と手続きを始めています。この期に及んでも、私はまだためらっていましたが、もう流れはとめられないと観念しました。

 店員が妻に説明しながら、必要なものを用意しています。フード、ステンレスの食器と水飲み器、トイレトレー、ブラシ、シャンプーとリンス等々。

 突然受け入れることになり、わが家には何ひとつ準備ができていません。彼女を3日後に引き取ることにして、ペット用品を先ず持ち帰ることにしました。

 帰路の車中で突然、妻は犬の名を「サラ」にすると言い、私はとても良い響きだと賛成しました。

サラとの日々〈1〉名著『人イヌにあう』に出あい、雌犬を飼うと心に決めた

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[在りし日のサラ]

 梅雨が明けたある日、突然、妻が犬を飼うと宣言します。私は不意打ちを食らいうろたえました。共働きですから、犬の世話などとてもできないと強く反対しましたが、彼女は頑として譲りません。心中奥深くで何かが堰を切ったかのようでした。こうなると、私は大した覚悟もなく、ではそうしようかと、気弱に折れるしかありません。30年あまり前のことでした。

 翌日、近所の古書店に行き、犬の本を数冊買いました。その中にコンラート・ローレンツ著『人イヌにあう』(小原秀雄訳 至誠堂)がありました。ひといきに読みました。ローレンツ博士が深い愛情と洞察力をもって語る犬たちとの交流に、強い憧憬を覚えました。

 「イヌの日」〔dog days 盛夏〕という章に魅力的な情景があります。

 ☆ ☆ ☆

 暑さに閉口し仕事を放り出したローレンツは、チャウチャウとシェパードの混血である雌犬スージと共に、ヨーロッパ第二の大河ダニューブ〔ドナウ〕川の遠泳横断をこころみます。

 互いを気遣いながら厳しく幅広い流れを征服し対岸に着くと、スージは喜びに酔いしれて、博士の脚のまわりを小さく円を描いて走りまわり、投げてもらおうと小枝をくわえてきます。

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『人イヌにあう』より

 枝投げゲームに飽きると、見つけたセキレイに向かって突進します。飛び去るセキレイをペースメーカーにしながら、たくさんの河畔居住者たちの足跡をたどります。マスクラット〔大型のネズミ〕やカエルを追いかけるのですが、狩りはたいがい不首尾におわります。

 彼女は狩りをあきらめ、水に浸り横たわっている博士のかたわらに戻ってきて一緒に寝そべるのでした。彼らのまわりではコウライウグイスがうたい、カエルがゲロゲロ鳴き、トンボが飛んでいます。博士はうっとりと呟くように述べるのでした。

 「私たちは、その一日の最高潮に達したと感じていた」。

 ☆ ☆ ☆

 ところで、ローレンツはイヌを選ぶにあたっての助言を次のようにしています。愛犬家によっては異論はあるかもしれませんね。

① まずなによりも心も体も健康なイヌを。シェパード以外は雑種をすすめる。

② イヌを手に入れる前に、自分の神経がどれほどの負担に耐えられるかを考慮しておくべきである。

③ イヌについてあまり知識をもたないイヌの愛好家がしばしばおかすあやまちは、はじめての出会いでもっとも親しげなそぶりを示すイヌを選んでしまうことである。それは結局のところ、とてつもない甘えん坊を手に入れてしまうことになる。

④ できれば雌イヌを手に入れたい。雌イヌは雄イヌより忠実だし、その心の仕組みはより美しく、豊かで、複雑であり、その知力は一般にすぐれている。私は非常に多くのイヌを知っており、そのうえで確信をもっていうことができる。あらゆる生き物のうち、ものごとをわきまえる点ですぐれていること、および真の友情を分かちあえる能力において人間にもっとも近いのは雌イヌである。

 最後の助言だけが、私の心をわしづかみにしました。それ以外の助言はすべて忘れて、なにをおいても雌犬を飼おうと心に決めてしまったのです。本の中の雌犬スージに、私は恋してしまったかのように。

「ぼくの好きな先生」

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 大分前のことです、あるテレビ番組で忌野清志郎さんの「ぼくの好きな先生」が流れました。

 素敵な気持ちの表し方だなと感心し、そのとき恩師N先生の記憶が鮮明によみがえったことを思い出します。

 N先生が昨年1月に90歳で亡くなられたことを、今年の初めに知りました。遅まきながら、先生を偲びたいと筆をとりました。

 私は1955年の春、神奈川県横須賀市の海に近い小学校3学年に転入、その時の担任がN先生でした。国立大学新卒で、切れ長の眼が涼しい細面、長い手足のすらりとした長身にまとう真っ白いシャツとトレーニングパンツがやけに恰好よく、3年1組53人全員がしびれたのも当然でした。

 先生はいつもユニークな発想で、私たち生徒をわくわくさせるのです。ある日の授業では突然「1キロメートルを体験しよう」と提案、私たちは驚き、そして喜び沸き立ちました。

 皆で教室を飛び出し、校庭の北西になだらかに広がる丘へ繰り出し、細い山道をわいわいがやがや歩きながら、1キロは思いのほか長いと実感したものです。帰路はさらに足取りも軽く、給食が待つ校舎へ。こんなピクニック気分の楽しい授業はほかに記憶がありません。

 理科の実験では、キットなどがない時代、自宅からあり合わせの材料を持ち寄り、巻き枠にエナメル線(これは支給だったと思います)を巻きつけてモーターを作り、私の完成品はクルクルよく回り、得意満面でした。

 授業中に茶々を入れ笑いを取り悦に入っている、おっちょこちょいの私に、先生は「軽率な態度を反省しなさい」と日記を付けるように命じました。たわいないことしか書いていない日記を毎週末に提出しますと、几帳面な文字で必ず感想を書いてくださいました。

 また先生は昼休みに鉄棒で大車輪を披露して、ボクらの度肝を抜きます。放課後も何人もの生徒が先生にねだり、跳び箱を引っ張りだし、何段も積み上げて飛び競いました。その影響で中学と高校では体操部に入りましたものの、運動音痴を自覚するだけというお粗末でしたが。

 授業や放課後だけではもの足りなくて、仲間と当直の先生を宿直室まで押しかけて話し込み、夏休みには下宿先に遊びに行ったことも。

 小学3学年の終わりに、1組の皆と母親たちまでが校長室へ押しかけ、担任の持ち上がりを懇願したのです。校長先生が太っ腹だったのでしょうか、4年、5年、そして6年まで組み替えなしという幸せに恵まれ、1組は永遠です、と誰かが言ったかな。

 N先生までが眼を赤くしていた卒業式の後、私は父の転勤に伴い市外へ転居しました。先生と大学生の頃までは文通していましたが、ある種厭世的な怠惰からいつしか無沙汰を決め込んでしまいました。

 そして、時は流れ――バブル経済崩壊も迫る1989年の春、偶然見た新聞記事で先生の着任先を知り文通が再開したのです。その頃頂いた手紙を取り出して読み直しました。記録として残したいと思い、全文を以下に掲げます。

 * * *

 新緑の候 御健勝のことお喜び申し上げます。

 この度は私の昇任にあたりご丁寧にお祝いのお手紙をいただき大変有り難く、またなつかしく何回も繰り返し読ませていただきました。

 お手紙を読んでいるうちに、あの当時の事がよみがえり、なつかしさで涙の出る思いでした。青春の情熱を注いだ日々、そして過ぎ去った年月の長さに時の流れをあらためて感じさせられました。

 御家族の皆様にはお元気ですか。家庭訪問の折に、お父さんと飲んで語った思い出、父母懇談で熱心にお話をされていたお母さん。そしていつも一緒について来た妹さんの姿が浮かんできます。

 1967年8月2日付けの暑中御見舞いの葉書があります。人物が長々と寝ころんでライトブルーの空を仰いでいる図・・・そして「怠け者 真」とのサインがあるお便りが最後になっていました。大切にしまってあります。

 私も小学校を去ってからは、市内の三つの中学校を27年、転々とし、この春校長としてこちらに着任しました。

 社会も父母も、子供もすっかり変わってしまいました。教師も変わりました。物質的に裕福になった日本人、それに反比例するように失われた心の豊かさ、荒廃する社会、それを反映しての学校での教育は並々ならぬ努力を必要とするようです。しかしいつの世でも子供は純真です。どこかで大人が、先生がおかしく染めてしまうのだと思います。

 今の私は、Aさんがかわいそうだ、B子さんをこうしてあげなければという立場ではありませんが、このまゝの大人集団、子供の状況では21世紀の日本はどうなるのでしょうか、裕福どころか滅亡の道に向かって一歩一歩進んでいる気がしています。

 今どうしなければならないのかを子供達より大人達にこそ必要と思い、成人教育等の場で訴えております。私も校長にはなりましたが、なかなか思うようにいかない教育現場です。それにあと4年しか残されておりませんので、その間できるだけの事を信念を持って精一杯がんばっていこうと思っています。

 お住まいも比較的近いようですから、お暇がありましたら是非学校の方へ来てください。時間的には余裕がありますので、いろいろお話を伺いたいと思います。お会いできる日の一日も早く訪れることを望んでいます。

 新しいお仕事につかれたようですので大いにがんばってください。

 御家族の皆様方にくれぐれもよろしくお伝えください。     敬具

(学校までの略図) 手書きの図面

 * * *

 あたたかみに満ちたお便りを読むやいなや、いさんで駆けつけたのはいうまでもありません。

 再び時は流れ、1993年3月中学校長を最後に退職された先生と元6年2組担任だったA先生のお二人を迎え、同年9月の敬老の日に同期会が、母校近くの海鮮料理屋で開催されました。小学校卒業後初めての同期会に、相変わらずスリムなN先生が颯爽と登場しますと、40名近い参加者から一斉にホーッという声が上がったのでした。

 退職されてからは、中国語の勉強に取り組まれたり、中国へご旅行されたりと、いつまでもお元気そうでしたが……。

 先生の教えを受けた4年間は、自然が豊かだった三浦半島の思い出とともに、脳裡に深く刻まれています。

 通学路わきの田んぼにオタマジャクシが泳ぎ、社宅裏の小川では夏に蛍が飛び交い、秋はウナギが獲れ、小学校正門前の洞穴に真冬は氷柱がたれていました。

 時間貸しの大人用自転車で走り回り、ピンクパール色の砂浜が広がる海で泳ぎ、灯台周辺での釣りに夢中になったことなどをまざまざと思い出します。