本記事を出す回数が年々減っていると、このタイトル出すと「何にも書いてないじゃない」と言われる可能性もあるのですが、まぁ一応振り返りはしようということで。なにかネタがないかなぁと思ったのでこういう時は大体プレイリストを参照して「今年はこういう楽曲を聴きました!!」っていう本来、当ブログも初期にやってた消費音楽報告記事みたいなことを書けばわりと字数は埋まったりするので、そういう感じで書きます。
まぁ最初はいい加減、このブログのメイン読者層は全然興味がない寄稿活動報告から
いい加減、「寄稿なんて向いてない」のではなかったのかよとか突っ込まれてもおかしくない程に書いているほどにはここ二年ずっと寄稿してしていて、数えたら今年で遂に総合で7本くらいなってしまっているのです。
・シャフト音楽論
・ボーカロイドとコンピュータ史の接合
・『アサルトリリィ』の話
・『電光超人グリッドマン』~『SSSS.』の話
・成田亨のデザインの源流
・真アサシンについて
・シャフトアニメの視覚表現の源流
これはなんというか「知りたい」欲求が音楽とは別のベクトルで働いている産物にすぎないんですよね。やれシャフトだの、成田亨だの、『SSSS』シリーズだの、どれも曰く付き、というよりも古典がまずあってそれをどのように咀嚼しているのかという意味では寄稿したコンテンツは全て共通していて(まぁ現代の創作ものなんて全てそうなんだけど、参照具合の濃度が通常のそれよりも高いという意味で)、シャフトについてはもう今年は6-10月はそれについてしか考えてないようなものだったし、だからこそ見えてきた知見を得た状態から書かせてもらうと本当に途方もないくらい、文脈としてどうかどいう読み方が多用に可能になっており、むしろをそれありきで作られている側面がかなり高いので、本来シャフト作品を見るって普通にアニメ映像を楽しむだけでも成立するが、それだけだとやっぱり「シャフトらしさ」って全然掴めなくって「一風変わった演出!!」みたいな一元的でつまらない感想しかでてこないんですよね。物語としての作品自体を楽しみたいのであればそれでも全くもって良いと思うのですが、表現物として解題するとそれ以上の読みをしたくなるの必須みたいな魅力があるのもまた事実で、しかも寄稿させていただいている「もにも〜ど」さんの編集部御一行が表現としてみたときにどうか みたいな事象にやたら詳しい方ばかり(というかアニメ全体に詳しい人ばかり)なので、そういった方々がいるなら、そういう方向性に舵を取った方が明らかに面白いものが書けるのは自明だったのでちょっとだけ背伸びして書いた結果が「シャフトアニメの視覚表現の源流」です。俯瞰的にみて書いたが故に変に文字数が嵩張りすぎて一回では掲載しきれない文量になってしまったため、分割式で各回それぞれトピックに分けて載る形をとっていただいたことには感謝です。順当にいけば、第二章は「もにも〜ど3」第三章は「もにも〜ど3.5」第四章は「もにも〜ど4」最終章が「もにも〜ど4.5」という形で全部揃います。ただ、同人誌というのは形式上そんなポンポン気軽に作れるものでもないため、実際にどうなるかは未定です。あくまでも予想というか上手くいけばこういう予定という感じです。
ま、そんなわけで寄稿は「もにも〜ど」さんを中心に「ブラインド」「試作派」そして型月伝さんの「Binder.」の四誌分かけたのでそこそこ書いた方なのではないかと思います。興味がある人はぜひ買って読んでください。
詳しくは下記記事を参照
ではブログ話にもっていくと今年は記事というと
3つしかないし、supercellは宣伝記事でしかないし、実質2つしか提供できてなくって、その記事も偏りが激しいのでなんとも総括的コメントしづらいのですが、『地面師たち』の記事は、まぁ昨今自分が熱中している「劇伴とは何か?」に呼応するような音楽であったということが言いたいだけです。中田ヤスタカ〜石野卓球に至るまで本質的なところが同じだからこそアプローチとして似てしまっただけ、という話をわざわざ遠回しに書いているだけなのですが、まぁ映像に呼応する音楽をどう考えるか、というのはそれこそこの前参加した「MONOGATARI TWILIGHT」で神前暁が「阿良々木月火は正義の味方、だから正義っぽいサウンドはトランペットで攻めよう」となったからこその「marshmallow justice」はああなったという話なんですよ。
この話を少しだけ延長させると、元気はつらつ系で明るいキャラとしては神原駿河も同じだからこそ、この「ambivalent world」はキャラとして同一的なモチーフがあるから楽曲的スタンスとしてもセットで作られているとも話されていました。
話を整理すると、当たり前だけど音楽ラインもしっかりと考えられた上で作られているのだからその点を自分は重点的に考えていきたくって、その時に石野卓球で『地面師たち』があったので、実写の方が歴史が映画からの引用だったりで、部がある分そういう重みってあるよなぁという次第です。昨年の『岸辺露伴は動かない』に続き、劇伴が熱いのは凄くいいことですね。
で、次は「Mygo!!!!!」「Ave Mujica」の音楽が面白いという記事についてですが自分でも思うくらいまさかまさかで最近知った人からすれば「こいつ急にどうしたの」と思われてもおかしくはないのですが、まぁ音楽が面白ければなんでもいいんですよ。コンテンツなんて。それこそバンドリはコンテンツ自体は知っていたもののあんまり面白くないからノってこなかったものがこの二つのバンドによって意識せざるを得なくなったというべきか。まぁ前者は羊宮 妃那をvo.に添えたことで生まれる表現とポエトリー、後者はバンド編成とそれに伴う音楽性の面白さ。これけです。詳しくは記事にも書いたのでそっちを読んでほしいです。アニメ本編は「まぁまぁ面白いね。」ぐらいの意識しかないのですが、肝である音楽がこんなにも一風変わっているとむしろ反応しない方が嘘だとか思ってしまったたちなわけです。
繰り返しにはなるが、まずは以下の曲を聴いてほしい。
たった五曲でわかるMygo!!!!!の魅力&羊宮 妃那の表現力。
むしろここに乗れない人は合わないと断言してもいい。
そして後者のAve mujicaですが、これはも散々言い尽くされているし前回の記事で書いたのでざっくりとまとめると、バンド編成がどう考えても通常のそれではない構成で7弦ギター*2とツーバスで五弦ベースというだけでも面白いのに、その上key&organもいるというとっても不思議なバンドで、しかもそれを声優の方がバンドユニットとして組むという「リアルバンド」としての側面を意識したバンドリの極地である。そして実際にそれに見合うだけの実力者でもある演者が担当しているのがまた驚きポイントである。メインボーカルの佐々木李子はミュージカルあがりだから滅茶苦茶発声が綺麗だから何を歌わせても隠しきれない声の伸びのトーンが素晴らしい。
これも開幕早々シンフォニックメタル調というイントロからしてもう圧巻なんですが、そっからの芯のある太い声で歌が始まる。この時点で、もうこのアニメ十分だろとか思うレベルで、実際三話まで先行で鑑賞した身としてはこの楽曲演奏シーンが一番楽しめた。そのくらい力があるんですよ。ボーカルの声には。その真骨頂ともいうべき場所がサビ前の
"completeness Ah 命の灯を掲げ”
ここの発声というか子音の伸ばし方が本当に綺麗で、しかも"掲げ”のeが上に上がりきってもそのままサビにいけるのにそうはならないところに作曲側の妙もあるのかなぁとかおもったり、何て考えてたら、54sくらいで明らかに凝縮させて歌詞を歌うシークエンスがあったりして、どんだけ聴きどころがあるんだこの曲はとか思うわけです。さすが、プロデューサーがDiggy-MO'だな、、とか思いつつ歌詞も結構聞き応えがある。
”弄ぐられて垂れ流す 音のない音遍く"
”can not,can not,not,not,not deny”
の語感はやっぱりヒップホップあがりだからこその巧緻さだと思うし、それを難なく楽曲に落とし込んでいる長谷川大介もすごいし、それこそ演奏前にMALICE MIZER的なコンセプト劇も相まってバンドとしての存在感が破格。何もかもが規格外なポテンシャルがあるのがAve mujicaなので、音楽バンドだけで延々やっててほしい。アニメとかそういう枠に収まっていいはずがないから。こんなにあらゆる要素と人選が成立するのも中々ないだろうし。まぁこんな感じで、あの記事で言いたかったことをまとめると、羊宮 妃那の圧倒的な表現力でリスナーを魅了する「Mygo!!!!!」と圧倒的な演奏と歌唱でバンドとしての厚みがすごい「Ave mujica」はバンドリの中でもかなりレベルの高いので、追った方がいいよっていうそれだけです。
既存曲が少ないですが、全部いいので聴いてください。損しますよ。
お勧めは以下二曲。ただし『Symbol』はミニアルバムで四曲一体なので、『ELEMENTS』を通して聴いた方がいいです。
そして、ガールズバンドといえば、今年は外せないバンドが2組あります。まずは花田十輝が頑張った『ガールズバンドクライ』の「トゲナシトゲアリ」ですね。これも最近見て「ほぇ〜」ってなったんですけど恐らく今の時代の描写や流行性など諸々が全部乗っかってるのは本作でしょう。まずオープニングの『雑草、僕らの街』があまりにも「ボカロ以後」すぎると思わしきフレーズがある。
”それでも この眼で確かに見えたんだ この手で確かに触れたんだ ねえ ほら ねえ
"夢じゃない どうせ終わってる街だって 諦めたって変わんないぜ ああ まだまだ
このフレーズの歌い方とかもうwowakaの遺伝子でしかないでしょ。ついこの間「にゅ〜かる派」でボカロ史観を堀江晶太が振り返る話を聞いていて、その中で一周回って今はまたボカロ主体の音楽性に戻っているという話が展開されていたのですが、これにかこつけるとすれば、つまり意識しているかどうかさておき今のリスナーだったら、というかこれほど「ボカロ」という音楽性が受け入れらたのなら今こそ「ボカロ以後」の完成でアニソンを作ったほうが時代に合うんじゃないかんとか思ったりするんですよね。このようにOPだけをとっても、他のガールズバンドとは違ってしっかりとボカロシーンを経た上でのアニソンだなぁとか思っていたら、『心象的フラクタル (beni-shouga)』ですよ。
どこからどう聴いてもYOASOBI的な何かを目指して作られたとしか思えない音源が出てきたりするわけです。一瞬どこかで混ぜてもあんまり違和感ないんじゃないかってくらい本楽曲はAyase的な作り方だなと。そしてこれはsynth-Vでつくられていると。先のOPの事例を踏まえてのこの楽曲の方向性を考えると本当、今の時代に的確した楽曲の集合体であるというのは間違いなくそれは先ほど紹介した二つのバンドもやっていない。アニメ本編の内容にしても「歌い手」という言葉が出てきたりとやっぱり完全に『ガルクラ』における本編の軸は他のガールズバンドものよりも現実に即している線の数が多いんですよね。単純に面白いからこそオリジナルでヒットというのはあるのは間違いないですが、やっぱり音楽だったり作劇で触れられる単語だったりが「今」となっては当たり前の「インターネット音楽」で成り上がる云々みたいなライン含めそういう感覚ではこのアニメは最先端であると思います。アニメの話はまたどこかで話すとして、改めて音楽の話に戻すると、現状アルバムは『棘ナシ』と『棘アリ』が配信・リリースされているわけですが、ここで思うのがメタ視点でみれば、という話にはなるのですが、劇中の挿入歌は見る人からすれば「アウトサイダーとしての叫びのバンドとしては結構受けてる方向性じゃないか」と思った人もかなりいるとなんとなく感じているんです。
実際アンセムとして考えたら
『声なき魚 (新川崎(仮))』『視界の隅 朽ちる音 (新川崎(仮))』『空白とカタルシス』
の三曲の破壊力ってすごいじゃないですか。アニメ本編で見てるとこれだけの持ち曲があるのであれば「ダイヤモンドダスト」なんて余裕に越えられるだろとか思っちゃうわけで、全く持って主人公たちのバンドは間違ってないとか思っちゃうんですけどあの世界ではなぜか、「ダイヤモンドダスト」の方が受けていて、正直あの世界の住人聴く耳を疑うレベルなのですが、それはそれとして、その上でこの2枚のアルバムの存在を踏まえると『棘ナシ』にアニメ本編で流れた楽曲が収録されているというのはかなり、意図的であると考えられる余地があると思う。トゲトゲしてますといいつつ、実制作ラインからすれば視聴者に受ける楽曲を作らないといけないというこの相反する感覚があるのではないかと思って『棘アリ』を聴くと、非常に癖が強い楽曲があって納得がいくアルバムなんですよ。もっといってしまえば作曲家の趣味が全開でているであろう傾向が多いと言える。では実際にどういう曲があるのか
『理想的パラドクスとは』『黎明を穿つ』
この二曲が顕著だが、どう考えても「凛として時雨」調が強い楽曲であったり
『極私的極彩色アンサー』といった2分の枠でいかに歌詞を混ぜ込ませて楽曲を成立させるかに徹し、楽器隊は控えめな楽曲だ。本曲は詰まるところ
”真実に問う answer”
で韻を踏んで決めることが最終的な楽曲の締めであることは明らかだ。このように楽曲性がメインではなくいかに構成で魅せるかという点に集中している楽曲がある。
また、恐らくOPと同じ構造でありながら対比的に添えられている『サヨナラサヨナラサヨナラ』
なども総じて『棘ナシ』に比較すると地味で控えめだが、楽器隊の攻め方や、歌詞や歌い方で攻めてくるといった点では明らかに『棘アリ』のほうが目立つような楽曲が多いように思える。つまるところ作家性、というよりも好き勝手に楽曲を構築させた楽曲群の収録楽曲である可能性が高いし、実際にノりにくいが好きな人は好きというったタイプの楽曲という感想を抱く人の方が多いのもこちらのはずだ。
以上のことから、『ガールズバンドクライ』が、商業作品上、挿入歌はしっかりと受けるタイプの楽曲を作りながらも、作中マインドを引き継いだ楽曲が現実世界には作品では流れない楽曲群として『棘ナシ』として現れていると言える。
バンドリが演者を奏者であることを前提にコントロールしている采配であるというのは『ガルクラ』の役者にも言えることであるが、細かい隙間で違いがあるとすれば各役者の来歴を見る限り、バンドリは比重として活動が「声優」であることをメインで置いている人であり、『ガルクラ』は楽器ができる人で演技に興味のある人を起用するという形をとっているという点だ。この違いによってバンドリは演技表現として新規気鋭の実力派の羊宮 妃那や、歌唱表現として素晴らしい来歴を持ち、歌手としてデビューしながらも声優活動を行なっていた佐々木李子を引き合いに出すことができ、他方『ガルクラ』はまず全てのメンバーを演奏/歌唱ラインから決めていることは各役者が選ばれた理由が、歌ってみた、演奏してみたの動画、文化祭の見学といった点からもわかるように重視されているのは音楽の表現であり、演技力は自動的についてくる的なスタンスで採っている。これは前者は「バンドリ」という複合型のコンテンツとして後者は「トゲナシトゲアリ」というバンドをリアルで活動を続けたいという表れであると解釈することもできる。似ているようで細かいところで差異はある。しかしなんによガールズバンドという枠組みで、Mygo!!!!!、Ave mujica、トゲナシトゲアリという振れ幅が大きいバンド三軸があることはオーディエンスからすればこれほど至高なこともないなと思うわけです。そういう意味では一番のヒットを飛ばした『ぼっち・ざ・ろっく』の結束バンドも加味することができ、こういう言い方は非常に雑だが、現在のガールズバンドアニメ作品に関心を持った人は老若男女問わず、どれか一つには惹かれる可能性が高いと言える。ゆえに、現在のアニメの市場で「ガールズバンド」という枠組みは非常に時価が高い枠組みと言える。
そうなると、今年もう一つ外れないバンドがあります。
それはいわずもがな山田尚子監督作『きみの色』の劇中に登場した「しろねこ堂」。
この巡り合わせは本当に不思議です。このブログを読む人であれば間違いなく察しているでしょうが、バンドアニメの元祖というか火付け役であり、リアルバンドの先駆け、立役者となったアニメ『けいおん!』の監督が、ぐるぐるぐる回り回ってこの時代にオリジナルで吉田玲子と組んで「バンドもの」で一本作品を作った。しかも音楽は牛尾という組み合わせによって、先の3バンドがどこもめざしていない、というよりも変な報告に歪曲した曲線を描いた楽曲、構成でなりたっている。先述したバンドはどれもしっかりとバンドにおける基本的な楽器構成の上でどう弄るか、という段階で微調整がされていたが、しろねこ堂は、キーボード、ギターに加えてテルミンという明らかに誰もが知らないような楽器使いを召喚していきてる。これはもちろん監督と音楽の趣味が一致したことから発生した楽器であることに違いなく流石に、テルミンを使ったバンドという圧倒的なまでの異常さは他のどのバンドよりも特出しており、アニメ内におけるバンドライブの演出だけに限ればやはり流石の山田尚子というべきか、作品自体が映像と音に異常なまでに寄った作品であったため、そこで描かれるライブのアニメーションとしての光景と音との混ざり合いは天下一品のクオリティであった。楽曲にしても現代性とかそういうラインではなく、趣味により過ぎた楽曲が展開されたため、楽曲単位でも「面白さ」でいえばやはりしろねこ堂の圧勝という気持ちが自分の中ではあったりします。
『水金地火木土天アーメン』『あるく』『反省文』いずれも聴けばまず笑いを堪えるのに必死というレベルで、青葉市子、相対性理論とかそういうのならまだしも、『反省文』なんてニュー・オーダーの『Blue Monday』のイントロ引用からはじまるという、劇中における高校生たちにしてはまずありえない作り方で、まぁくどいようですが、牛尾趣味だなぁとか思うわけです。
それいいだしたら「トゲトゲ」の部分部分はなんて藤川千愛っぽいから相打ちでそんな変わらないじゃんとか思われるかもしれませんが、、、まぁテルミン使いの少年がいることで余計に面白いバンドであることが強調されているということでなんとか、、実際あと半歩ずれたらレザーハープでも持ち出しかねないわけですよね、それってつまりは、、、ということです。実際にその領域に足を踏み出したら一層のこと全力で応援してしまいたいですが。
以上が今年聴いた音楽&作品を通しての「バンド」作品事情における所感と感想ですね。本当にこれだけ豊富に音源がほぼ同時に存在しているのはあらゆる事情によって偶発的に生まれた事象にしても、受け手からすれば同じタイミングでしかないので嬉しいし、聴きごたえがある作品群ばかりで大変嬉しいなぁという限りです。皆さんもぜひチェックしてみてください。個人的お勧めはMygo!!!!!です
・Gyosonがギリギリで出してきた謎音源について
2022年以来全く音沙汰がなかった彼が急に音源を出してきて、新鮮味こそ若干かけているが普通にいい曲を出してきて困惑。
さて、これをどう切るというか聴いて比較対象を設置して語るか、という話ですがこれはもう引き合いはボカロP時代の異才さを考えてもハチ(米津玄師)しか対抗馬というか対象がいないんですよね。そして今年アルバムを出した米津玄師ですが、Gyosonが『GONETOWN』という楽曲群を2020年に発表しているという事実を踏まえた上で
その上で部分だしの未完成品でこういうものを小出しにしていることを前提に
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— Gyoson (@gyoson_) 2021年5月20日
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— Gyoson (@gyoson_) 2021年3月4日
米津の『POST HUMAN』(2024年)を聴いてみると明らかに同じ楽曲テイストで攻めているであろうことが推察されるわけです。そしてこの現象はこれが初めてではないことをボカロファンならなんとなく察しがつくわけです。というのも「『幽霊屋敷の首吊り少女』におけるサビ入り『ピースサイン』同一現象」なるものを、一部のファンは参照したのではないか、という言説をもっていて、まぁ正しいかどうかはさておき効能としてトーマの方が先んじていたというのはまぁ大凡事実なわけで、それを踏まえると今をもってしてもGyosonは米津が2024年になって出した楽曲を、2021年にDEMO音源程度とはいえ作曲をしていたという事実は中々に見逃せないし、個人的な見解を書けば、これはもう二人の世界でいいんじゃないと思うほど、トーマ(Gyoson):ハチ(米津玄師)って本当に方向性やスタイル、そしてボカロの世界で天下を獲ったという点も含めて本当に似たもの同士といった印象を受けるし、なんならGyosonも先の映像は全部自前で作成するというスタイルは変わっていない。
文脈的にトーマが後発だとはいえどちらも後発への影響というのは凄まじいわけです。そしてこれは好みの問題と片付けられるかもしれないが、ボカロ時代における『骸骨楽団とリリア』から『ミーミルの花』『エンヴィキャットウォーク』『オレンジ』『マダラカルト』と意味のわからない手札数を誇ったトーマが音楽的は振れ幅でいえばトーマに分があることは明白なのではないかと。
何が言いたいのかと言えば「トーマ:ハチ」という図式はどっちが上か下かというよりももっと深い次元で共鳴するなにかがあって、それが今でも地続きなのではないかということが、『POST HUMAN』の存在によってより一層考えてしまうようになったというだけの話です。というのも、『LOST CORNER』は米津名義では、『Bootleg』以後のスタイルの完成形ということもありアルバムとしての完成度を語る際にいくつかのレイヤーが浮かび上がる。まずはMOONCHILDやTHE1975、そして今敏、平沢進、宮崎駿の上にSF文脈としての「羊」という本当に複雑すぎる要素を見事の一つにまとめあげたアルバムであるというのが、基本的にな評価軸ですが、そこに実はGyoson(トーマ)ラインも付け足しても間違いや嘘には基本的にはならないと思うんですよね。むしろそういうふうに考えた方があのアルバムに内在している多層的な魅力という見方にもなりえるわけで。
いつか『LOST CORNER』で一枚書こうとか思っている内に時間が経ってしまい、出すべきチャンスを逃したものの、こうした背景文脈を踏まえた上で、あのアルバムが存在しているという必然性について、しっかりと考えて掘っている人がいないので、この際まとめ総論的に書くのを諦めて素材として用意していた文章を、部分的に省略しつつ図式的に書いてしまうと先述を前提として考えたときに以下のような樹形図と補助線を引ける。
・『Bootleg』(2017年)から始まった米津サウンドにおける背景遍歴
『Bootleg』で提示していた世界観
『飛燕』(2017年)→『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)+『MOTHER』(平沢進)
『砂の惑星』(2017年)→『DUNE』(1968年)
『春雷』(2017年)→『She's american』(THE1975)(2016年)
『orion』(2017年)→『Closer』(The Chainsmokers) (2016年)
『Loser』(2016年)→『You Need Me, I Don't Need You』(エド・シーラン)(2011年)
『ピースサイン』(2017年)→『幽霊屋敷の首吊り少女』(トーマ)(2011年)
『STRAY SHEEP』という過程で展開した世界観
『カムパネルラ』→『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)-『恋と秒熱』ライン
『Lemon』→茨木のり子
『パプリカ』→筒井康隆原作 アニメ映画『パプリカ』(2007年)(今 敏)
『迷える羊』→『確率の丘』(2006年)(平沢進)
『海の幽霊』→五十嵐大介『海獣のこども』→BD(バンド・デシネ)の接合。
松本大洋→『ピンポン』→BD(バンド・デシネ)
五十嵐大介→BD(バンド・デシネ)の接点あり→「ルーヴルNo.9 ~漫画、9番目の芸術~」
そして経緯を振り返れば、このイベントに米津も参加していて邂逅したことから本作の主題歌という経緯であったはず。そして、ジャンジローの言及は『Bootleg』ですませていた。以上のことから全員BDからの影響があり、その玄孫くらいの立ち位置にいたからこそある意味勝ち取れた楽曲であるという絵描きとしてのミーム性。
『LOST CORNER』での収束
『LENS FLAME』→『PERFECT BLUE』の視覚ポスター(今 敏)
『地球儀』→ジブリ主題歌(という表面)と、『崖の上のポニョ』ドキュメンタリーで空白の球体に、児童文学を軸に絵を描いていた宮崎駿というアウトライン
『おはよう』→P-MODEL『LANDSALE』「オハヨウ」→『オハヨウ』(今 敏短編)
『POST HUMAN』→Gyosonが先駆けたトラップ音楽
このように考えていくと、『Bootleg』のころから実は方向性は決まっていた。そしてアルバムを重ねるごとに洗練されている音源として集約していることは言わずもがな。
3枚のアルバムで通底しているのは「宮崎駿・平沢進・今 敏」という三人のクリエイターの再解釈を、同じBDに影響を受けた絵描き的な側面も含め(それが『海獣の子供』につながっているという)考えていたのは音源や作品タイトルにも出ている。そしてある意味禁じ手を使ったと目されている『砂の惑星』というのはこの三人すらも包括できる二〇世紀に出版された小説の中で最も影響力のある作品であることを踏まえると、「ボカロ音楽」にある意味で私的な文脈も込んでいたということはないだろうか?『砂の惑星』というのは衰退したボカロ界隈がどうのこうのという意味合いはあったのかもしれないが、おそらく本質的なところはSF小説『砂の惑星』をテーマに自身が影響を受けたクリエイターをある種媒介して、どのように自身のアルバムに落とし込もうと考えていたのか、というサインであったのではないか?。そう考えれば『LOST CORNER』においてそういう要素が脱色されていることに得心がいくはずだ。『飛燕』で宮崎駿と平沢進を掛け合わせた楽曲を作り、『迷える羊』で平沢進的なアプローチで一曲作ったが、ではそれがどのように収束していったのかといえば『おはよう』というインストルメンタル楽曲にP-modelから遡ることえ、今 敏の要素も回収して自身の楽曲として落とし込んだと考えた方が合っているかどうかはさておき、納得できる。面倒臭いことに、ここには諸星大二郎の『夢見る機械』(1978年)→サイエンスの幽霊『夢見る機械』(1990年)→アニメ『夢見る機械』(2011年公開予定・今 敏の夭折により頓挫)という文脈も存在していて、絶対にこのラインも回収したかっただろうが、多分敢えてしなかったという腹案すらも考えられるわけだ。
この点については2年前に書いた記事を参照されたし。
この辺の話はXで簡易にポストしているのでそちらも参照すると結構見えてくる景色があると思います。あのとき中間部分と書いた文章を圧縮したのが上の解体図。
P-modelの『LANDSALE』-「オハヨウ」→『オハヨウ』(今 敏短編)という流れなんだろうか例の『おはよう』は。インストゥルメンタルだし。
— rino (@Articlecrafter_) 2024年8月21日
つまり『LOST CORNER』は当初の見立て通り、ジブリと今敏の要素が入っているアルバムであるということが確定したわけです。もっともディックラインはもっと昔から取り扱っているであろう『ワンダーランドと羊の歌』から通底するテーマだし前作の『STRAY SHEEP』「迷える羊」もその文脈。
— rino (@Articlecrafter_) 2024年10月22日
2017年の『Bootleg』で「飛燕」のバックボーンである「ナウシカ」と「mother」を掛け合わせた楽曲を作った段階で明らかに原初的な影響が色濃かった方向性というのはあった。「砂の惑星」というタイトルもミク曲というよりもそういう見立てで考えれば納得がいく。
— rino (@Articlecrafter_) 2024年10月22日
中間部分省いて結論だけ書けば『Bootleg』-『LOST CORNER』の3本はかなり意識的に原点モチーフに回帰した3本だと言える。
— rino (@Articlecrafter_) 2024年10月22日
以上が、Gyosonが音源を出したことによって生まれた『LOST CORNER』から振り返る三部作としての収束と、(もしかしたあるかもしれないというか合って欲しいという願望込みでの)ハチ:トーマラインが今でも米津:Gyosonラインとして明確にあるのではないかという検討文でした。
これ以上長くなると収まりがつかなくなるのでこの辺で。ここで書いたことはいずれ、深掘りすることだらけなので、いつか掘り下げますので待っていただければと思います。
それでは、今年も当ブログを閲覧していただき誠にありがとうございました。
来年も「Music Synopsis」および「まふまふ速報」をよろしくお願いいたします。